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ホワイトルーム・オープン・ザ・ドア ⑰


 
「私も行くわね。ダンス部の発表あるから」

 おそらくこの中で唯一知っていたであろう名木さんはバッグを肩に掛けた。ちょっと待って、と富里が呼び止めた。

「名木さん、今日白井が来るって知ってた?こっちでゼリー切りながら何度も外見てたよね。連絡もらってたの?」

 えっ?と石黒は固まった表情で振り向いた。

「どうしても文化祭見てほしくて。今朝周防君と一緒に白井君の家に寄ってきたの。ごめんなさい。勝手なことして」

「なんで?おれリーダーだよ。リーダーが管理人と同行するのがルールじゃないの?なんで相談してくれないの?」

「二人で話す時間がほしかったの。今更ルールなんて。私が何度誘ってもちっとも動いてくれなかったじゃない。だったら今朝電話したら来てくれた?無理かなって思ったから周防君に頼んだのよ。勝手だったのは認めるけど、そうするしかなかったのよ」

 互いの思いが交錯していた。どちらも悪くないのに、いがみ合ってほしくなかった。

「今は止めようよ。白井に続いて文ちゃんまで学校に来なくなったら困る。そっちを第一に考えようよ」

 石黒は黙ったままだった。そうね、と名木さんは僕に頷き、「それにこそ全力を尽くすわ」と、いつもの香りを残して教室を出ていった。

 せっかく白井が来たのになにも話せなかったなと思った。もっと喜びたかったし歓迎したかった。プロジェクトが成功したのにみんなの心はばらばら。今日のための今までだったのに書き消されてしまった。こんなはずじゃなかった。また白井を学校から遠ざけた。せっかく来たのに。あいつも勇気を出したのに。文ちゃんは大丈夫かと、僕もそれしか思えなくなっていた。

 二十分ほどして先生が戻ってきた。文ちゃんはまだ家に到着していないが、やはり石廊さんから先に連絡があったらしく、帰宅したら先生の所に電話が来ることになっていた。残っていた面々を見て先生は少し笑った。

「なんや。えらいもんでチームリーダーは全員おるの。赤城、石黒、緑川、百瀬、山吹。予想通りのメンツやな」

 確かにそうだった。リーダーは残れとも言われてもないのに自分たちで判断していた。誰も帰ろうとしなかった。

「さっき電話で周防さんにいきさつを話した。文吾のことは心配ないから知りたい生徒さんには先生から話していいと仰って下さった。そやけどほんまは話したない。そやからお前らも約束せえ。いたずらに広めたり、文吾や文吾のご両親を誹謗するようなことは絶対すな。あの人達は立派な人や。後ろ暗いことはない。きちんと敬意を持って聞ける者だけ椅子持ってこい。携帯の電源切っておけよ。窓もドアも閉めておけ」

 僕らは言われた通りにし、残った十人で先生を前に半円を描いて座った。赤城、村上、石黒、緑川、百瀬、佐々木、宮野、富里、清水、僕。呼吸を整えて手を膝に置いた。けれどもその内容は、まだ正午を回ったばかりの教室で聞くにはあまりに辛い話だった。

 文ちゃんのお父さんは三十二年前、本当に殺人を犯して刑に服した。やむにやまれぬ衝動による犯行だった。周防家には以前もうひとり息子がいた。自閉症の子で意志疎通が難しかったが、両親は大事に育てていた。だが小学四年生の時、下校中に殺害された。町では知らぬ者のいない三人組の不良グループにさらわれ、無残な姿で用水路に捨てられていたのを、探していた父親が発見した。彼らが紐を付けた麻袋を引きずっていたのを人から聞いた父親は町中を車で走り回り、飲食店から出てきた少年らを見つけた途端、怒りに任せて突進した。ひとりは亡くなり、ひとりは半身不随になり、ひとりは骨折で済んだ。五十キロのスピードが出ていたという。

「周防さんのしたことはれっきとした犯罪や。そやけど自分の息子がな、人間の形を失うほどの暴行受けて死んで、誰がまともでいられるよ?たったの九歳やぞ。自分で助けも呼べん弱くて小さい子をよってたかっていたぶって、顔の判別も付かんかったらしい。口の中から石の詰まった靴下が出てきたそうや。人間のすることやないやろ。ランドセルの中にな、切り絵で作った朝顔の絵が入っててな、それがまあ見事でなあ。花びらいっぱい広げて、
画用紙からはみ出そうなぐらい生き生きとして元気なんや。額に入ってお仏壇の前に飾ってあったわ。ほんまに無念やったろうな。怖かったろうなと思うと、可哀想で可哀想で泣けてくるわ。たまらんわ。誰が責められるよ。それでも周防さんは罪になる。それで自首して裁判になったんやけど、相手も殺人犯や。余罪も前科もある不良で、そいつらから人生狂わされた被害者や家族がわんさかおった。減刑を求める弁護団が発足して、署名活動で集めた嘆願書を提出したりと周りが味方になったおかげで、十六年の求刑が七年になった。七年でもわしは長いと感じるが、ご本人は充分過ぎる恩赦やったと申しとる。無罪放免やったら今の自分はなかった。罪と向き合える時間があったからこそ前に歩き出せたとな。出所してから周防さんは家具職人しながら仏師になる修行をされて、今ではそちらでも名を馳せる人になった。阿修羅像なぞ国宝級の出来やぞ。石黒も見たんやろ。綺麗やったやろ。迫力あるのに静謐でな。心を鍛えた人でなければ彫れん姿や。ええか。わしは正義とか善悪とかの話をしとるのとちゃうぞ。誰しもの中に住む鬼の話をしとるんじゃ。お前らの中にもおるやろ。一遍は会うたことあるやろ。ちゃんと閉じ込めておけよ。自分を恐れて戒める強さを持てよ。鬼に食われるな。ただそれだけで人でいられるんじゃ。忘れんなよ。鬼っ子ども。忘れんなよ」


 月曜日は創立記念日。火曜日は文化祭の振り替えで休みだった。明けた二日後の教室は机が三つ空いていた。白井。文ちゃん。高岡。

 高岡は三日間連続で学校に来ず、文ちゃんは休学届が出されたという。一学期は遅刻が多かったから、危うい科目がいくつかあり、このままなら白井に次いで留年になるかもしれなかった。

「返事来た?」

 いつしか僕と宮野の挨拶になっていた。何度も送っても文ちゃんからは返信がなかった。しばらくそっとしておけと先生にも言われ、家を訪ねることも憚られた。文ちゃんのお父さんの噂はまことしやかに囁かれたが、すぐに収束した。おのおのが自然と自粛したのだ。みんなに好かれてる文ちゃんだからこそ、暗黙で生まれた一体感だった。

「中間も来なかったら、マジでヤバいよな」

 授業が終わるごとに携帯を見てしまう。まさか今度は文ちゃんを呼び戻す方法を考えるようになるとは思わなかった。白井と違って原因は分かっているけれど、触れられないからもっと難しかった。

「けど今学校に来たら、高岡がいないことに胸を痛めるんだろうな。おれらとは違う頭の構造をしてるから」

「自業自得とか因果応報の概念がないからな。高岡は洗脳が解けない限り、復活の見通しは立たねえからな」

 宮野は携帯をいじりながら答えた。いつものように冷静に。そういえばと、僕は文化祭の日のことを思い出して尋ねてみた。

「あのさ、ツカさんから話聞いた時って、全チームのリーダーが自然と残ってたじゃん。あれって偶然かな。タイプ違うんだけど、なんか共通点てあると思う?」

 「あるとすれば人を信用してないってことだな。だから全部自分で確かめようとする。赤城は自分に自信があるから他人を信じる必要がない。石黒は人間関係が希薄過ぎて信じることを知らない。緑川は裏切られた経験があるから信じなくなった。百瀬はハナから人を信じるなんてバカらしいと思ってる。キッペイは自分のことも信じてない。だからリーダーに任命したんだろ。自己判断じゃなく仲間と話し合わなければ進められないプロジェクトだからな。自分の言葉を聞いてもらって、相手の意見を掬い上げる。コミュニケーションの基本だ。お前のとこは女子ばっかだから逆にうまくいったのかもな。男より女子の方が社交性があるから。このひと月半で変わったもんな。やってて案外楽しかったんじゃねえの?」

 どんな顔をすればいいのか分からなかったのは図星だったからだ。その通りで、少し冷たくされただけで諦め、別にいいやで離れてしまう。でもプロジェクトをやって自分から一歩を踏み出せるようになった。信じるがまだよく分からないが、文ちゃんが戻ってくるならなんでもやろうと思っていた。

 三日目に僕と宮野と緑川で思いきって文ちゃんの家を訪ねた。すると先客が五人いた。富里と小坂と清水と亀山と名木さん。広い居間にずらりと座り、文ちゃんの母親と一緒にお好み焼きを焼いて食べていた。おたふくソースとかつおぶしと青のりの匂いが玄関を踏み入れた瞬間からしていた。わいわいと騒がしく「どうぞどうぞ」と招かれて上がったが、肝心の文ちゃんの姿はなかった。

「パリに行ってるんだって」

 富里が粉を混ぜながら言った。好きな人といるのなら安心だが、もう帰って来ない恐れもあった。

「ピアノ留学とかするんですか?もしかして」

「ううん。もうピアノはやらないって。昔はピアニスト目指してたけど、人前で弾くのが好きじゃないからって辞めちゃったのよ。音楽は趣味でいいって。今は美術品が好きで、オルセーとかルーブルとか美術館ばかり行ってるみたい。色々写真送られてくるわ」

 白鷺みたいな文ちゃんのお母さんはおっとりと儚げだ。傷つけたくないと思わせるから、このままだと単位が足りなくなると誰も言い出せなかった。

 八人で三時間も居座った。お好み焼きだけでなくうどんやおいなりさんやアイスクリームやリンゴなど次々出してくれるので長居してしまったのだ。

「いいお母さんだけど危機感なくて心配になるな。ダブっていいのかな。パリなんてさ、今じゃなくてもいいじゃん」

 近頃緑川は僕らと一緒にいる。というより今まで行動を共にしていたサッカー部の連中とつるまなくなっていた。部活内で何かあったのか、よく窓辺の席でひとりぽつんとしてる。

「緑川は裏切られたことがあるから人を信じなくなった」

 その通りなら傷が深いのだろう。司令塔のミッドフィルダーだったのに、統率する自信を失って高岡たちに乗っかった。本当はもっと積極的にプロジェクトに参加して誰かと力を合わせたかったんだろう。今それを取り戻そうとしていた。

 横浜まで戻ってきても別れがたく、駅前のカラオケに行った。大人数だったのでえらい広い部屋に案内された。ダークブラウンのソファーが隅に沿って並び、奥には段差十センチほどの扇形のステージも併設されていた。

「最初誰から?」のお決まりの探りあいが始まる前に「じゃあおれからいく」と宮野が先陣を切った。肺活量もある宮野は結構歌がうまい。難しい高音もよれずに出せて盛り上げるの忘れない。一曲目に選んだのはBUMP OF CHICKENの「天体観測」だった。

 曲は途切れなかった。デンモクには十二曲も予約が並び、日頃の鬱憤が溜まっているのか激しめの曲が多かった。まだマイクを握ってないのは僕と亀山と名木さん。僕は下手だからためらっていて、亀山は明日ライブだから喉使えないと言って歌わず、名木さんは遠慮して譲っていたが、つまらなそうにはしてなかった。僕はさりげなく隣を陣取り、運ばれてきたジュースを渡して「ありがとう」と言われることに快感を得たりしていた。

「楽しいのね。みんなでカラオケに来るのって」

 名木さんはオレンジジュースをストローでかき混ぜた。溶け始めた氷が
グラスでカラカラと鳴った。

「今まで来たことないの?ダンス部の打ち上げとかで」

「あんまり。こういう場にいるとどうしていいか分からなくなっちゃうのよね。部長らしく仕切った方がいいのか、でしゃばらないでいる方がいいのか考えちゃって。落ち着かないから参加しなかったの。山吹君は歌わないの?」

「おれは迷惑掛ける音痴だから恥ずかしいだけ。けど今日は思いきって克服しようかな。名木さんも気使うことないよ。ここでは自由にやろうよ」

 名木さんが微笑むと全部嘘じゃなくなる。人を信じてない僕が大丈夫と言ってるなんてあべこべだけど、まず僕を信じてほしかった。
 そうね。名木さんは持っていたグラスをテーブルに戻すと「高岡さんの言ってたこと、本当なの」と言った。引きこもりの兄がいて、そのせいで家庭が壊れかけていること。父親が文ちゃんのお父さんから仏像作りを教わっていること。石黒から聞いてたより詳細に打ち明けた。いつしか曲が止まっていた。人工的な明るさの部屋に名木さんの声だけが弱くエコーしていた。

「春休みにたまらなくなって家を出たの。けど行く宛もなくて、東急ハンズをうろうろしてたの。アウトドアのコーナーで、万能ナイフとかの入ったサバイバルグッズを手に取った時、全然必要じゃないのにどうしても欲しくなったの。周りを見たら通路にお客さんも店員さんもいなかった。今なら盗めるって思ったわ。今まで自分は真面目にやってきたんだから、このぐらいやったっていいじゃないって。もう一度確かめてからコートのポケットに入れようとした時、さっと腕を掴まれたの。顔を上げたら白井君がいた。周防君とキャンプに行くからってお店に来てて、向こうは私に気付いて声を掛けようと思ってたみたいだから顔がこわばってた。どっちも驚いて言葉が出なかったんだけど、白井君なんにも言わずにそのサバイバルグッズをレジに持っていって、お金払ってから私にくれたの。じゃあねってそれだけ。色んな気持ちがぐじゃぐじゃになって涙が止まらなくなった。自分が情けなかったし、嬉しかった。その頃は白井君まだ学校に来ていたから、次の日にお金を返そうとしたんだけど、いらないから今度一緒にキャンプ行こうよって、白井君と周防君のご家族と一緒に山中湖に連れていってもらったの。富士山が綺麗で、バーベキューもバス釣りも全部楽しくて、気持ちがすごくスッキリした。それから白井君と電話したり時々出掛けたりしてたんだけど、私がお風呂に入ってる時に母が携帯を見てね、お兄ちゃんがあんなに苦しんでるのにどうしてあなたは男と遊んでるんだ、なんて身勝手なんだって携帯壊しちゃったのよ。それで白井君にもう連絡しないでって言ったら、二週間後に学校に来なくなっちゃった。でも私なにもしてあげられなかった。助けてもらったのに、なんにも。だからプロジェクトを提案された時は嬉しかった。けどチームのみんなは後ずさりしてやりたがらないし、リーダー不在だと会いに行けないから、自分のチームは諦めて他の人達に頑張ってもらおうと思ったの。今どんな感じ?って小坂ちゃんにもよく聞いてたものね。山吹君のチームに一番期待していたから」

「でも最終的に連れてきたのは名木さんだよ。白井になんて言ったの?」

「何も。お天気がいいわよって。そしたら、そうだな、散髪してから行くからって」

「それだけ?」

「うん。けどそれでなんか吹っ切れちゃった。兄のためになにかしてあげなきゃってずっと思ってたけど、もう止めたわ。出たければ出ればいいのよ。未来を変えたいと思うなら選択するのは自分なんだもの。外に出るってこんなに簡単なんだって白井君が見せてくれた。私の人生は母のものでも兄のものでもない。薄情と言われても兄と一緒に閉じ込められるなんて私は嫌。誰の前にもドアがあるなら開けてもいいはずよね。サバイバルグッズもらったんだからひとりでも生き抜かないと。ごめんね。こんな話。がっかりしたでしょ。私全然優等生なんかじゃないのよ」 

 どこかさっぱりしたように名木さんは笑った。富里がやってきて名木さんにマイクを渡した。

「ここでならいくらでも大きい声出せるよ。溜まってるもの吐き出しちゃいなよ。名木さんがはっちゃけてるとこ、みんなもたまには見たいよねー」

 いいぞ。ひゅう。僕らが拍手すると、名木さんはマイクを受け取った。

「じゃあ一発かましちゃおうかな」

 立ち上がってステージに移動すると、椎名林檎の「罪と罰」を熱唱した。
イメージとのギャップもさることながら、巻き舌、掠れ声で歌いこなすクオリティに悲鳴に近い歓声が湧いた。めっちゃカッコよくて、清水と亀山は感動して泣いていた。歌い終えたあとは隣の部屋からも「サイコー!」と聞こえたほどだった。

 カラオケを出て駅に着いてしまう前に、前に来たメールについて尋ねてみると「本当は間違いじゃないの」名木さんは肩を竦めた。

「山吹君のチームに続けてほしくてお願いしようかなと思ったの。でも送ったあとにたいして仲良くもないのに悪いかなって嘘ついたの。強制するのはよくないなって反省してね」

 たいして仲良くないが少々ショックだったが、それでもよかった。仲良くないけど僕は好きだから。万引きしたくなった名木さんも、椎名林檎を熱唱する名木さんも、全部好き。だから全部受け止められる。

「またこのメンバーで来ようよ。おれじゃ相談相手になれないかも知れないけど、歌だったらいくらでも聞くからさ」

「ありがと。じゃあたっぷり」

 名木さんは三日月の目で髪を耳に掛けた。話せば普通の女の子だと分かる。特別だけど特別じゃない。だから素敵。お祭りのように人が行き交う横浜駅。光と影の逢魔の刻にいても、名木さんの笑顔は格別に輝いていた。