チャレがや企画/where is my name ?
7月の第4月曜日。
小島遼太郎がその「異変」に気づいたのは、勤務先のオフィスビルの認証端末の前だった。 いつものように無意識の動作で社員証をかざすと、電子音は軽快な「ピッ」ではなく「ピコーン」という拒絶の音を響かせた。
「あれ?」
もう一度かざすが、反応は同じ。ゲートは閉ざされたまま、甲高いアラームを鳴らしている。後ろに並んでいた別のオフィスの社員が怪訝そうな顔をしたため、慌てて列を外れた。磁気不良だろうか。そう思ってカードの表面を確認した瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。
顔写真は確かに自分。少し猫背の、つまらない髪型をした、三十歳とは思えない生気のない表情の。だが問題はそれではない。すぐ下にあるはずの「企画部二課 小島遼太郎」という文字が、跡形もなく消えていた。まるでそこだけ消しゴムで消されたように、白い余白が広がっている。
「どういうこと?」
指先で擦ったカードには、印字の跡形もない。焦燥感に突き動かされ、財布をひっくり返した。免許証、クレジットカード、歯科医や整骨院の診察券。そのすべての氏名欄だけが、きれいに、徹底的に空白だった。信じられない現象に、脳内も真っ白に染まった。
何が起きているんだ。
震える手でスマホを取り出し、連絡先の一番上にあった同僚の佐藤に電話をかけた。
「あ、もしもし、佐藤? おれだけど…」
『はい?どちら様ですか?』
返ってきたのは、聞き慣れたはずの友人の、ひどく余所余所しい声だった。
「何言ってるんだ、おれだよ。…………!」
なぜか名前が言えない。小島遼太郎の文字は頭に浮かんでいるのに、言葉として発声できなくなっていた。舌がその形を作れない。
『すみません、番号は登録されてるみたいなんですけど、名前が表示されないんですよ。間違い電話じゃないですかね』
「待ってくれ、佐藤!」
無情なビープ音が響く。その後、誰に電話をかけても結果は同じだった。彼らは一様に「名前が表示されない」「誰だか分からない」と突き放し、最後には気味悪がって電話を切った。最後に縋る思いで実家に電話をかけたが、母親の声は警戒に満ちていた。
「はあ?おれだよおれって、 だったら名前を言ってごらんなさいよ。ほら言えないじゃない。警察に電話するわよ」
オレオレ詐欺に間違われた末に、ガチャリと音を立てて通話が切れた。 世界から、自分の名前のラベルがすべて剥がれ落ちてしまっている。自分を自分だと証明する手段が、この地上から消滅した。
絶望の中、スマホで「名前 消えた」「名前 落とした」と打ち込んだ。
半ば自暴自棄な検索だったが、ひとつだけヒットがあった。
『遺失物センター分室・名前拾得所』
公式な公的機関のようにも見えるが、聞いたこともない名称だ。しかし、他に頼れる場所はない。藁をも掴む思いで、記載された住所へと向かった。
都心から少し外れた、古びた雑居ビルの地下。黒ずんだ湿った階段を降りると、赤茶けた鉄の扉があった。意を決して開けると、中は図書館の書庫のような、古い薬局のような、ナフタリンに似た臭気が漂っていた。 カウンターの奥には、度の強い眼鏡をかけた、偏屈そうな初老の男が座っていた。
あのう…と遼太郎はおそるおそるわけを話した。
「ああ、じゃあその紙に必要事項を書いてね」
さして珍しくもなさそうな口ぶりで、男はハガキ大の紙とボールペンをカウンターに置いた。名前、生年月日、出身地、家族構成、勤務先。
何度試してもだめだったのに、なぜかここに来たら「小島遼太郎」と名前が書ける。久しぶりに見た自分の姓名。遼太郎は感動に打ち震えながら、懐かしいその文字をしばらく見つめていた。
「コジマリョウタロウ、さんね。読みだけなら現在、224個の届け出がある。漢字の『小島遼太郎』に絞っても36人だ」
男は奥の棚から、透明な小瓶が整然と並んだトレイを持ってきた。瓶の中には、淡く光る文字のような、あるいは煙のようなものがゆらゆら揺らめいている。
「名前っていうのは、その人の人生が詰まっている。姓名ってのは生命だからね。自分のものなら、掴んだ瞬間にしっくりくるはずだ。さあ、どうぞ。ただしチャンスは一度きりだよ」
遼太郎は唾を飲み込み、36個の小瓶を見つめた。どれも同じ「小島遼太郎」に見える。彼はその中から、直感で、自分のものだと思える瓶を選び、その中身を手に取った。
瞬間、脳内に濁流のような記憶が流れ込んできた。 見知らぬ女との激しい抱擁、見知らぬ子供の泣き声、夜の公園で誰かを殴りつけた時の拳の痛み。
「うわあああ!」
遼太郎は悲鳴を上げてその「小島遼太郎」を放り出した。
「…違う、これじゃない。これはおれのじゃない!」
「おっと、お手つきだ」
男はすいと、床に転がった瓶に戻した。
「他人の名前を悪用する犯罪を防ぐため、一度間違えたら終わり。次のチャンスは二週間後。今日はもう名前は取り返せないよ」
絶望に打ちひしがれた遼太郎がカウンターを離れようとした時、背後の扉が開いた。
「あの、すみません…名前を落としてしまったのですが…」
入ってきたのは、いかにも気弱そうな、今にも消えてしまいそうなほど影の薄い初老の男性だった。
「お名前は?」
「スズキコージです」
センターの男は薄笑いを浮かべ、これ見よがしの深い溜息をついた。
「ースズキコージさんね。現在167328人ほどいて、棚が5つ分埋まってる。まあ、気長に選んでくださいよ」
遼太郎は、自分よりも遥かに絶望的な状況にある「スズキコージ」に、言葉にならない同情を覚えながら、地下室を後にした。
それからの二週間は、まさに生きた心地がしなかった。 名前のない彼は、会社に行くこともできず、一ヶ月後に迫ったアパートの契約更新すら怪しい。通知の書類に書くそばから、文字がみるみる消えていってしまうのだから。
家の中を必死に探したが、卒業アルバムにも、全ての郵便物にも、最初から白紙だったかのように名前が消えていた。 自分という存在の輪郭が溶けていくような感覚に陥った。次第に確信も揺らいでいった。
おれは本当に、小島遼太郎だったか?
児島亮太郎じゃなかったか?
いや涼太郎?それとも古島?
もしかしたら 小嶋良太郎?
鏡を見るたび、自分の顔さえ他人のもののように思えてくる。誰であるかという確信が、砂のようにこぼれていく。自分を証明することが、こんなにも難しいとは。
2週間後。再び拾得所を訪れた遼太郎は、頬がこけ、幽霊のような足取りになっていた。
「ずいぶんお疲れのようで」
センターの男は目尻を下げながら言った。遼太郎は震える声で、ずっと胸に溜まっていた疑問をぶつけた。
「どうして…、どうしておれは、名前を落としてしまったんでしょうか。一体何をしたというのですか」
センターの男は眼鏡を外し、濁った瞳で遼太郎を真っ直ぐに見つめた。
「君は、自分が蔑まれたり、不当な扱いを受けたりした時、一度でも名誉を回復しようとしたか?」
遼太郎は言葉に詰まった。
「理不尽に怒鳴られても、手柄を横取りされても、まあいいか、波風を立てたくないと、笑って済ませてきただろう。君は、自分で自分の名を落とし、泥を塗られても洗おうとしなかった。大事にされない名誉は、重力を失って、持ち主から去ってゆく。君だって、君を大事にしない相手とは離れたくなるだろう。それと同じさ」
遼太郎の脳裏に、これまでの人生が走馬灯のように浮かんだ。 会議で自分の意見が無視されても、愛想笑いで誤魔化した。恋人に理不尽な理由で振られた時も、反論せずに身を引いた。誰かにとっての「都合の良い誰か」であり続け、自分という個を主張することを避けてきた。 ことなかれ主義。それは平和主義ではなく、自分への無関心だったのだ。 言葉の通り、名を落としているのに、回収しようとしなかった…。
「ー今度こそ、今度こそおれは、取り戻します」
遼太郎は潤む目で、再び並べられた36個の「小島遼太郎」を凝視した。
その中に、ひとつ、煤けて、傷だらけの光があった。 それは、これまで無視し続けてきた、傷ついた自尊心そのものに見えた。
彼は手を広げて、その光を、力強く掴んだ。
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こちらの企画に参加させていただきました。
「おとしもの」は面白そうなお題で、皆様の作品を読むのが楽しみです。
おとしものといえば、昔我が家では亀を飼っていたのですが
その子は何度も水槽を乗り越えては脱走するアスリート亀でした。
そこで父親が甲羅に白マジックで、亀の名前と住所を書いたのです。
そしてある日、再び亀がいなくなる。
すると夕方ぐらいにピンポーンとチャイムが鳴り、
三人組の小学生が「亀落ちてましたよ」と届けに来ました。
彼らはにやにやが止まらず、こっちも恥ずかしさが止まらない。
団地の三階から落ちたのに亀はいたって元気でした。(芝生に落ちたらしい)
甲羅って丈夫なんですねー🐢
コッシーさん。みくまゆたんさん。宜しくお願いいたします。
お読み下さりありがとうございました😊🐧
