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ホワイトルーム・オープン・ザ・ドア ⑱


 翌日のことだった。予鈴が鳴る五分前に「おす」と白井が登校してきた。 ノートと教科書が入ったリュックを背負っている姿にクラス中が驚いた。

 わらわら人が集まると「まあまあまあ」といなすように席に着いた。なんの心境の変化かと矢継ぎ早に質問すると、白井は左横の机を親指で指した。今日もいない文ちゃんの席だった。

「おれも文吾にいつもノート移させててもらってたんで、こいつが休んでる間は代わりにやってやろうと思ってさ。来週中間なんだろ?文吾までダブらせるわけにいかないからさ」

 散々心配掛けてきた奴が人の心配してる。僕らが総ツッコミを入れると「おれ自分自身のためにはあんまり努力できないんだよね。行動に付加価値がないとやる気が起きねえんだよ。だから今日もここに来る前にコンビニ寄って、盲導犬の募金箱にも百円入れてきたわ」と、まるで昨日までいたかのように、けらけらと明るく言い放った。

「おかしいな。座敷童子が視えるようになったぞ」

 HRで鎧塚先生が目を擦ると「いや、違います違います。そんなに人を幸せにする力ありませんから」とボケまでかました。本当に文ちゃんのためだからか、白井は至極真面目に授業を受けていた。担当の先生に出席を飛ばされても「実は来てます」のやりとりでのひと笑いもお約束になった。

 お重に詰められた豪華な二段重ねの白井の弁当に「おせちかよ」とみな笑ったが、お祝いだから豪勢なのだろう。この日を待っていた母親の気合いがおかずの品数に表れていた。肝心の不登校の原因はなんだったのかと、この際オブラートに包まずに尋ねると「おれも分かんね」と首を捻った。

「ネジが止まる瞬間ってのがあるんだよ。そうなると、もうどうやっても動けなくなる。言い訳でも仮病でもない。ケーニヒスベルクの橋問題みたいにできそうでできない。おんなじ所を行ったり来たりしてるんだよ。決定的なものがひとつあって、これが嫌っていうんじゃなくて、どれにも価値を見出せなくなる。藤崎にはずっとムカついてるし、一生許さねえけど、復讐に燃えてたら逆に毎日来てた。けどそのムカつきも長続きしねえんだよ。例えばここにコップがあるだろ。水を飲むために使えば存在意義がある。けど手ですくっても飲めるって考えると、コップはこの世にいらなくなる。そういう感じなんだよ。どんなものにも代用品はある。そう捉えると、なにが必要か分からなくなってきてさ」

 何言ってるのか全然分からなかった。まさにケーニヒスベルクの橋問題。同じ場所を二度通らずして答えに行き着けない。頭の中で反芻しても理解できなかった。

「お前わざと哲学してない?はっきり分からねえならそれでいいんだぜ」

 百瀬が半笑いで言うと「そうかもな」と弁当を食べた。不登校の間は出られない理由が不可欠になるが、一度出てしまうと原因の確認が邪魔くさいらしい。すげえ勝手だけど。

 しかしこれでめでたしめでたしではない。けれど高岡のしたことはやり過ぎで人権侵害。学校もこれを重く見て、女子バスに二ヶ月の活動停止を命じ、永田先生は顧問を退任した。まだ洗脳されていなかったようで、退任してからは伸び伸びとしていたらしいが、個人情報を漏らしたはずの藤崎にはなんのお咎めもなかった。

「生徒の中に殺人をした親がいる。そいつは親の罪で口が利けなくなった。追い出さないとお前が不幸になる」

 そんなように言ったのかもしれない。教えたのではなく感じただけとか。
学校がそれを鵜呑みにしたのかは定かでないが、ある日藤崎の車のボンネットに「聖人だもの」と黒のスプレーで落書きされる事件が起きた。神に通じてるならこんなことで怒らないよね?的なすごい角度からの嫌味だが「犯人も霊視できますか」の教頭が聞いたというので、ナイスだなと思った。


 文ちゃんが来ないままの中間試験の前日、宮野が学校を休んだ。昨晩母親が亡くなったのだ。癌だった。先生以外、誰も母親の闘病を知らなかった。六年前に乳癌が見つかって手術し、寛解に向かっていたが、今年の九月に再発した。そこからの進行は早く、わずか一ヶ月半で亡くなった。

 ネガティブを口にしないのが宮野なのだが、僕はひどくショックを受けた。一番近くにいたのに気付かなかった。二学期から弁当じゃなく学食での昼飯が増えたなと思っていたが、そんな事情が隠れてると慮る(おもんぱかる)想像力すらなかった。富里や藤崎へのらしくない糾弾。文ちゃんの家への弟子入りを考えるようになったのも、母親を救えないもどかしさに、自分の手でなにができるのかと確かめたくなったからかもしれない。

 葬儀が午後からだからと、宮野は翌日のテストに来た。父親に行ってこいと言われたらしい。こんな状態で受けられるのか心配だったが、いつもとあまり変わらずに様子は落ち着いていた。

「悪かったなびっくりさせて」

 僕は首を振った。「こっちこそ気が付かなくてごめん」

「いいんだ。気を使われたくなかったから。母親にもさ、病院に来るより学校に行って高校生らしいことしてこい、その話を聞く方がいいって言われてたんだよ。勉強だけじゃなくて友達ともいっぱい遊んで、今しかできないこと全部やってこいって。病室にずっといられたら鬱陶しいってな。そういう人なんだよ。弱ってる姿見せたくないし、大丈夫かって聞かれるより、キッペイが柔道で鼻血出して大変だったんだよとかの方が喜ぶわけ。だからおれ結構遊んでただろ。文化祭の写真見せたらみんなカッコいいねって笑ってたしな。病気は仕方ないことだし、後悔もないよ。白井のプロジェクトで気も紛れたしな。おかげでネタが尽きなかったから母親を安心させられた。支えてもらって感謝してるよ。ありがとな。ほんとに」

 本物の戦士だった。勝つためじゃなく、守るために戦っている人は、強さをひけらかしたりはしないから。

 テストは四日間で二教科ずつ。十一時には下校になるので、三時からの葬儀に行くことにした。テスト中だから無理しないでいいよと宮野は言ったが、先生の引率でほぼ全員が出席した。宮野は僕らのヒーローだから。

 遺影で初対面した母親は、にっかりした笑顔と印象的な黒目が宮野にそっくりだった。沖縄出身だからか小麦色の肌もおんなじ。母親がいなくなるってどんな気持ちなんだろう。しゃんと背筋を伸ばして前の椅子に座っている宮野の背中を見ながら、やがて必ず訪れるその時を想像していた。

 葬儀が終わると「いつもありがとうね」と宮野の父親は斎場を出る生徒ひとりひとりに言った。これキッペイ、と宮野が僕を指差すと「これからもよろしくね。学校すごい楽しいって言ってるから」と目尻に皺を寄せて僕の肩を叩いた。彼は最後まで笑顔しか見せなかった。
 後悔してないと言えるのは宮野や父親が努めを果たしたから。最後まで母親を大事にしてきたからだ。いるうちじゃないとできないこと。いるのが当たり前じゃないってこと。僕も今日は帰ったら皿洗いでも手伝おうと思った。

 葬儀の帰り道、一番後ろでぽつんと歩く亀山がいた。男同士でわいわいする気分になれなかったので、僕は少し待って一緒に歩いた。

「お母さん、元気そうな人なのにね」

 ちゃんと聞こえる声。うん、と頷いてからの会話が続かなかった。さらさらの髪が揺れてるのを見てそういえばと思った。

「最近教室でヘッドホンしてないね。壊れたの?」

 トレードマークのメカニカルなゴツいヘッドホン。装着してるか首に下げてるかのどっちかだったのに、この頃見掛けなくなっていた。「重いから止めた」と亀山は蹴りあげるように左足をぽんと上げた。

「あれってさ、音楽流してた?外すときいつも音聞こえなかったんだけど」

「流してなかったよ。悪口聞こえないようにガードしてただけだから。そういうの聞くとすごい凹むから遮音してたの。自分のじゃなくてもやだから」

 思いがけない繊細な理由だった。どうせ聞こえないと不用意な言葉を言ってなかっただろうかと僕は思い巡らせた。「でも一応バックには入ってる」亀山はショルダーバッグを揺らした。

「前は家でもずっとしてたの。あたし元々双子だったんだ。二卵性だからあんまり似てないお兄ちゃんがいて、ものすごくデキがよかったの。頭も良くてスポーツも得意で、顔もカッコよくてさ。でも六年生の時に川で溺れて死んじゃった。渓流釣りで足滑らせて流されちゃったの。お兄ちゃんの名前シュウっていうんだけど、お母さんが「なんでシュウなのよ、なんでシュウなのよ」ってずっと泣いてるんだよね。それがなんかさ、李子だったらよかったのにって聞こえるんだよね。どうしてデキのいい方が死んじゃって、みそっかすが残ってるのって。あたしも申し訳なくてさ、代わってあげたいってずっと思ってた。その言葉を聞くのが怖くてヘッドホン着けるようになったんだ。前はほんとに大音量流してたんだけど、一回難聴になっちゃって、このままだと本当に聴こえなくなるよって注意されたからさ。アイドルもどうしてもやりたいってわけじゃないけど、家と学校以外の居場所ほしくて始めたの。20人ぐらいコアなファンいてさ、ライブの時にフロアでめっちゃ踊ってんだ。笑いそうになるんだけど、チェキ撮るためにCD いっぱい買ってくれて「今日もキレキレだったね」って話すとすごく喜ぶの。それで次のライブにもいると安心するんだよね。全然愛想ないけど、それがいいんだよとか言ってくれるし。でも学校だと変な奴許してくれないじゃん。ガードが欠かせなくてさ。今もたまにやなこと入ってくるけど、あんまり気にならなくなった。白井君のことやってくうちに、ヘッドホンて精神的引きこもりの威嚇アイテムだなって思ったの。楽しんだり迷惑掛けない用のグッズなのに、遠慮しろよって威張ってる。なんかダサってなって、今は電車でしか使わない。家でももうお母さんよりあたしの方が強くなったから、いつまでもメソメソしてんじゃねーよって無視してるから」

 不謹慎と承知しているが、つい吹き出していた。亀山も笑っていた。

「小坂ちゃんが最初にしてないねって気付いて、山吹君が三番目だったよ」

「二番目誰?」

「白井君。学校来た初日に李子って呼ぶんだよ。図々しいんだけどすごいんだ。あいつ侮れない」

 もっとセンチになってもいいのに全然同情とか欲しがらない。自分の気持ちは自分で決める。人のために可哀想をやるマニュアルなんかないからだ。

「みんなしっかりしてんだな。見直すよ。ほんと」

「そんな話したっけ?ヘッドホンのことだけだよ」

「それも含めてだよ。おれも明日から李子さんて呼ぼうかな。師匠って」

「うえーやめれくれー」

 一緒に笑う頬に西日が差していた。秋の真ん中。格別に赤い太陽。首元をすり抜ける風が何もかもを惜しんでいた。卒業まで四ヶ月。こうやってどんどん別れに慣れてゆくのかなと思った。人がいなくなるのに慣れてゆくのが大人になることだとしたら、未来はなんて寂しいものなんだろう。

 駅でみんなと別れたあと僕は駅前広場の植木の麓で文ちゃんに電話した。会話ができないからメールをいつも送っていたが言葉で伝えたかった。このまま文ちゃんを「悲しみと苦しみが詰まった袋」にしたくなかった。六回目のコールでぷつりと音がした。「文ちゃん?おれ。山吹」つい声が大きくなった。するとカッカッと舌を打つのが聞こえた。自分だよの合図だった。

「このまま聞いててくれる?おととい宮野のお母さんが亡くなったんだ。今日お葬式に行ってきた。宮野一回も泣かなかったよ。泣いていいのにさ、悲しいに決まってんのにさ、ずっと口唇噛んでんだよ。おれの方が涙出てきた。けどさおれさ、全然気が付かなかったんだよね。宮野がそんな辛いこと抱えて学校来てたなんてちっとも知らなかった。それでもさ、おれ宮野と友達だって言いたいんだよね。だって友達って一緒にいて楽しいことが一番大事だろ。ねえ文ちゃん、おれ今文ちゃんのためになにができる?おれほんと鈍感だけどさ、一緒にいたいんだよ。残り少ない時間みんなでバカやって、みんなで卒業したいんだよ。白井の奴さ、ダブり決定してから毎日学校に来てるんだぜ。文ちゃんに世話になったから代わりにノート取るって言ってさ、意外にいい奴で笑えるよ。でもその気持ち分かるんだ。文ちゃんの机は教室にあるよ。おれの横に。だって三年四組の生徒なんだからさ」

 知らぬうちに泣いていた。けど僕は文ちゃんの友達と言い切れるから、まだ間に合うなら、間に合わせたいから、伝えたかった。いなくならないでほしい。ぐすぐすと息を飲み込んでいると、同じようにぐすぐすと聞こえてきた。「待ってるからね」と電話を切った直後にメールがきた。

『今帰る。すぐに』

 中間試験の最終日に文ちゃんは登校してきた。両手に大きい紙袋を持参し『ドゥボーヴ・エ・ガレ』のフレーバーの違うチョコレートの詰め合わせを全員に配った。哀悼の意を込めて宮野を抱きしめ、すました顔で座る白井にわざとちょっかいを出して、迎え方に惑うみんなに「今まで通り」を余計な演出なしで示してくれた。本当はもう今まで通りではないのだけど、悲しい過去を知ったからといって、僕らの方が萎縮する必要なんてない。そんなことに気を取られるより、今からをまた作ってゆけばいい。お土産を配っていた文ちゃんは高岡の机で立ち止まった。

「来てないよ。文化祭からずっと休んでる」

 緑川は早速もらったチョコレートを開けて食べていた。文ちゃんは耳に手を当てて『電話した?』と尋ねた。

「誰もしてないよ。ああいうのはやっぱ、よくないことだから」

 『家知ってる?』と続けて聞いた。

「菊名だったと思うけど、詳しくは知らないなあ。けどもう来ないんじゃねえの?本人も来づらいだろうしな」

 緑川が答えた直後だった。前の席に座っていた石黒がガタンと立ち上がり、憮然とした目でにこちらを向いた。

「おかしいよ文ちゃん。なんでそんな簡単に許すんだよ。これじゃあおれたちが高岡さんを追い込んだみたいじゃないか。あっちが謝るべきだから放っておいたんだ。なのにもう済んだことみたいにうやむやにしたら道理が立たないよ。少なくとも文ちゃんから訪ねるのはおかしい。許すとなかったことにするは違う。少なくとも高岡さんから詫びなければいけないはずだよ」

 仁王立ちする石黒は天狗みたいに紅潮していた。どうしたよ、なに熱くなってんの?周りの男子が取り成そうとしたが、うっせ、と石黒は野次に怒鳴った。

「卒業式をみんなでが最終目的のはずだろ。白井が来て、文ちゃんが来たら終わりかよ。まだクラスにいるじゃないか。不登校が。どうすれば自発的に来るのかを考えるのがプロジェクトの目的で、不登校がいるうちは続行じゃないのか?文ちゃんが許すなら解決でいいのかよ」

 空気はシラケていた。正直みんなの中でプロジェクトはもう終了していた。高岡の欠席は自業自得。いじめはいじめる方が悪いが、嫌われるのは嫌われる方に原因がある。以前高岡とつるんでいた女子でさえ石黒を奇異な目で見ていた。僕もこっそりそこに加わっていて、チームメイトもその話をするつもりはなさそうだった。

「ーじゃあおれやろうか」

 とんでもない空気を裂いたのは白井だった。出っ歯を剥き出しておどけるようににへにへしていた。

「こう見えても元不登校だからちょっとはなんかできるかも。みんなもそれでおれのとこ来てたんだ。プロジェクトとかあったわけね。ハゲヅカが考えそうなこった。はは。もういいけどさ。けど来ない奴の気持ちは少しは分かるからさ。学校に行かないって決断して実行するのもなかなかのエネルギーがいるんだぜ。いやマジで。そのメソッドはおれ持ってるから」

 プロジェクト発端の当人がプロジェクトを引き継ぐおかしなループ。ホワイトルームに閉じこもっていた住人が別の不登校の部屋の扉を開けられるのか大いに興味があった。新たな章の始まりであった。

 テストは無事終わったが三日間欠席した文ちゃんは追試を受ける事になった。白井が取ったノートが役立ったのか、十一日も休んだのに全科目で九十点以上をキープした。テストで上位を取れば単位をチャラにしてくれる交換条件があったらしく、そのために必死で勉強して留年を免れたのだった。

「そもそも何しにパリに行ってたの?」

 帰り道に宮野が聞いた。忌引きは一週間休めるのに、土日挟んだ月曜から学校に来ていた。そっちのが気が紛れるらしいので、下手に気遣うのを止めた。みんなでファミチキを齧りながら歩く日常。前と違うのはそこに白井がいることだけだった。

『ピアノをもう一回やらないかって誘われてた。色々連れ回されて疲れたよ。早く帰りたいなって思ってた』

 あれ?あの人と楽しくやってたんじゃないの?目配せで探ると『美術館は見ごたえあったけど、思い出はそれだけだよ』と返事が来た。横浜駅で別れると「あいつ、あの女の人にいつも振り回されてんだよ」と白井が呟いた。

「高岡にビンタした人のこと。文吾ずーっと好きなのに、向こうは全然相手してやらないんだ。文吾をピアニストにさせたがってんだけど、あいつはもうそっちの道に進む気がないから成就しないんだよね。ピアノ弾かなくたって文吾は文吾なんだからひとりの男として見てやればいいのに、先に才能に惚れたからピアノありきになってたんだよな。今回のゴタゴタ見て、学校辞めさせてピアノに戻すチャンスと思ったのかもね。ま、帰って来たってことはやる気ないからだろうけど、あいつの思いも叶わなかったってことだな。あの二人がうまくいくのはなかなか難しいよな」

 けど文ちゃんを庇ったからビンタしたわけで、思いは通じ合ってるように思える。しかもパリに十日間一緒にいてなにも起こらないなんて。恋愛ってそんなに歩みの重いものなのか。

 名木さんと時々メールでやりとりするようになり、1度だけだが図書室で二人だけで勉強もした。けれど一度も時間に勝ったことがない。道のりはシルクロードより長そうで、オアシスまだ蜃気楼の遥か彼方だった。