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ホワイトルーム・オープン・ザ・ドア ⑲


 二人だけのプロジェクトが始動して一週間。「昨日高岡と会ったぜ」と、教室に入ってくるなり白井が僕に言った。「まだ完全回復はしてないけどな。藤崎と会うのがネックになってるっぽい」

 「じゃあ学校には来たいんだ。藤崎がいなくなれば」

「罪の意識はある。文吾のお土産のチョコレートを渡したら泣いてたから。何であんなことしちゃったんだろうって。石黒がノートのコピーをくれたら助かるって大事そうに受け取ってたもんな」

 僕と文ちゃんの間の席で闊達に喋る白井と対照的に石黒はどんよりし、自ら続行宣言した時の勢いはすっかり失せていた。

「無理すんなよ。もうすぐ受験なんだから、自分の勉強優先にしろよ」

 石黒はうなだれて「違うんだよ」と息を吐いた。

「おれなにも言えなかったんだ。白井の横で突っ立ってるだけでさ。白井の時と同じだよ。クラスメイトの情報ゼロ。これでよく学級委員なんて名乗れたもんだよな」

 根が真面目な分落ち込みも激しかった。負い目がある石黒は罪滅ぼしをしたいのだ。失敗してもいいから挑戦したがってた名木さんの真意を読み違えてたことが大きく影響してるのだろう。けれどもこれまで自分のためだけに生きてきた石黒が率先して他人に関わろうとするなぞ、僕からすればすごい進化で、これで第二章が頓挫してしまっても自分を責めてほしくなかった。

 HRで「卒業式配布用卒業者名簿」と書かれた紙が配られた。僕らの学校では卒業式に渡される卒業者名簿に「あなたにとって人生とは」に一言添える欄がある。18文字以内なら歌詞やことわざや格言でも構わず、毎年1/3は既成の文言というが、鎧塚先生は短くても自分の言葉を残せと言った。

「明後日までやからな。全員書けよー。ちゃんとカッコつけろよー」

 人生とは。そんなの考えたこともない。カッコ付ける文句すら浮かばない。期限の三日目に苦し紛れに書いて提出したが、自分でもピンとこない文言だった。けど振り絞ってもそれしか思い浮かばなかった。

 十二月になると一気に寒くなった。三年生は受験一色。授業は過去問と復習が重点となり、自習室は席の取り合いだった。
 一度は文ちゃんの家に弟子入りを検討した宮野だったが、大学の工学部に進学先を変えた。文ちゃんは芸術系の学校に進学するかもと言っており、とにかく遅刻をしないようにと不眠症対策を徹底させていた。
 僕も受験生だから勉強する。第一志望はKでもWでもMARCHでもない、駅伝常連のCランクの私立大学。めちゃくちゃ勉強しないと入れないわけでもなく、僕みたいなのがいっぱいいそうだから選んだ。どうせつまらないと分かっているから、背伸びをするより保護色で安心していたかった。

 
 模擬試験の前日だった。部屋で勉強していると焦げ臭い匂いが漂ってきた。目や喉がしぱしぱする。だが部屋にはエアコンがあるからストーブはない。火なんか使ってない。下階からかとドアを開くと、一階で寝ていた両親も起きてきて「なんか臭わない?」と僕を見上げた。

「リビングのストーブとか消えてるよね?」

 僕も降りて行くと、母親はレモン色のカーディガンの前を閉じながらリビングに入り「コンセントも抜いてあるわよ」と寒そうに足を上下させた。じゃあなんだろうと話していた矢先、表が騒がしくなった。

「火事だ火事!」と、外から隣家のおじさんの声がした。

「もうここから火見えてるよ!」

 門へ出て行くと、深夜なのに通りには人だかりができていた。東の方角からもうもうと黒煙が上がっており、向かいの家の屋根越しに赤い炎がちらちら揺れていた。焦げ臭さと煙が一帯へ充満し、本能で恐怖を感じるのか、普段は鳴かないロンが何度も遠吠えをしていた。飛び出したら危ないので家に閉じ込めたが、ずっと興奮して鳴き続けていた。けたたましいサイレンを響かせてた消防車が駆けつけ、小学一年生ぐらいの男の子が「あれ本物の火?ほんとに燃えてるの?」とポケモンのパジャマでジャンプしていた

「ねえ、石黒君の家の方じゃない?」

 母親が言った。煙で火元がよく見えないが確かにそうだった。僕は急いでダウンジャケットを羽織り「ちょっと見てくる」と火事の方向に急いだ。パジャマの袖で口を覆ったが、煙は容赦なく押し入ってくる。咳き込みながら見物人の間を通り抜けてゆくと、出火元がはっきり分かった。規制線の張られた先にある家。オレンジ色の炎が窓から吹き出し、夜空より暗い黒煙に包まれていたのは石黒の家だった。茫然とした。石黒や家族は無事なのか?思わず身を乗り出すと警備の警官に止められた。

「家の人はどうなりましたか?みんな無事ですか?」

 火の熱気で顔が焼けそうだった。「分かりません」と警官はぶっきらぼうな答え「もっと下がって、ほら!」と両手を広げて見物人を後退させた。
 消防車が一斉に放水を始めた。鳴り響くサイレン。どんどん増える野次馬。夜はもう夜でなくなっていた。一階から二階へと背を伸ばす火は、まるで楽しげに踊る生き物だった。五分以上の放水でも火の勢いは収まらず、ばりんとガラスが割れると、きゃあっと周りから悲鳴が上がった。

「家の人は無事だそうです。向こう側に避難してるみたいです」

 さっきの警官が反対側の規制線を指した。直進できないのでぐるりと遠回りして行くと、後部を開いた救急車が待機しており、すぐ側で地べたに座り込んでる石黒がいた。グレーのチェックのパジャマで、裸足だった。背中を丸め、両膝に額を押し付けていた。

「ー大丈夫か?怪我ないか?」

 こんな時になんて言ったらいいか分からない。けど無事かどうかを確かめなければ。石黒は俯いたままわずかに首を動かして洟を啜った。小刻みに振動する背中に、着ていたダウンジャケットを掛けた。冷えたアスファルトにむき出しの足が寒そうだった。後で靴を持ってきてやろうと思った。

「なんて言ったらいいか…。でも無事でよかったよ。ほんと。ほんとにさ…」

 隣に座ると、石黒は立てた膝の下からなにかを出した。暗がりに見えたのは数学の過去問題集と、水色の表紙のルーズリーフノートだった。

「…なんでこんなの持ってきたんだろ。こんなの持って逃げるなんておかしいよな。もっと大事なものがたくさんあったはずなのに、なんでだよ…」

 声を震わせて問題集とノートを地面に叩きつけると、うう…と声を押し殺して顔を覆った。皺の寄った問題集は角がよれて少しめくれていた。

 手に取って開いてみると、どのページにも赤ペンで書き込みがしてあった。波線が引かれていたり、ここはよく出る!といったポイントの押さえ。間違った問題の下には応用の式も書かれており、白いままのものは1ページもなかった。どの問題も解かれ、使い込まれていた。すごいな。こいつ本当に偉いよと、涙が込み上げた。

「そんなことねーよ。これにはお前の時間が詰まってる。ずっと努力してきた証じゃんか。大切にしたいと思って当然だよ。頑張ってきたんだから、みんな知ってるから、全然おかしくなんかねーよ」

 一枚ずつ外せるルーズリーフなのは、コピーが取りやすいようにだ。高岡のためなのか、問題文の横には控えめなアドバイスが添えてあった。
 ちゃんと人助けしてるじゃん。こんなことは普通と思っているなら、僕よりずっといい奴だ。伏せたままの肩をごしごしなぞった。直後にバキバキバキ…と木の裂ける音がした。
 
 振り向くと、衰えぬ業火に包まれ、柱だけで支えていた石黒家が斜めに傾きだしていた。倒れるぞ…!誰かが叫んだのとほぼ同時に、真っ赤な火柱に飲み込まれた二階部分が、力尽きたようにゆっくりと崩れ落ちていった。

 普段使わない部屋のコンセントに埃が溜まって発火したトラッキングが火災の原因だった。発火場所の近くに捨てようと積んでおいた本に燃え移り、一気に燃え広がったらしい。家族も全員無事だったが、全焼した焼け跡からは焦げた自転車と溶けたスニーカーが出てきただけで、生活に役立ちそうなものはなにも見つからなかった。

 父親が大手製薬会社に勤めてる石黒家は住まいも立派だった。六歳上の兄は独立して福岡に暮らしているので、現在は三人家族。母親が財布と預金通帳だけは持ち出し、火災保険も下りると言っていたが、生活を立て直すのは大変に違いなかった。市内の賃貸マンションに移って必要最低限の品は揃えたが、着の身着のまま逃げ出した一家は足りないものだらけだった。

 とりあえずの新居に先生はすぐに駆けつけ、米10キロに醤油と塩と味噌、
段ボールに入ったみかんと大根とニンジンを一箱ずつ置いていったという。僕らもクラスに呼び掛けて、使えそうなものを集めた。文房具に靴下。洗剤に食器に充電器。もちろん未使用品だけ。「石黒家救済物資」と書かれた段ボールはすぐにいっぱいになった。制服も手に入った。昨年卒業した佐々木の兄貴のお下がりで、サイズはやや大きめだったが、上背のある石黒なら許容範囲だった。皺やボタンのほつれもなく、新品みたいに綺麗だった。

 三箱になった品を届けると、母親はお礼を繰り返しながら涙を拭った。3LDKのわりと広い間取りで、家電製品も一式あり、切迫した困窮は見られなかった。休んでいた石黒も元気そうで、受験できるのか心配だったが、両親は進学を後押しした。

「制服ももらったし、明日から行くよ」

 翌日約束通りに登校してきた。みんなにカンパのお礼を述べると「もう大丈夫だから、大丈夫って聞かないで良いから」と袖の長い制服の腕を広げた。相変わらず不器用だったが、どこかこざっぱりとした笑みだった。

 その二日後。朝のHR 前に男子数人で乗りたい車の話をしていた。春休みになったら免許を取りに行こうと宮野や文ちゃんと話していて、めいめいの好きな車種で盛り上がっていた。『ロードスターかっこいいよねえ』と絵を描いていた文ちゃんの目線がドア先で止まった。体を反らして見ている。なんだろうと振り向くと、廊下の端に隠れるようにして身を潜めてる高岡がいた。襟足の短いショートカットは前と同じが、心なしか肌は白くなり、顎のラインなどの見える部分がかなり痩せていた。肩を縮めたまま、そっと視線を送っていた。

「来たな」

 宮野が小さく言った。同時にクラスメイトらも気付きだし、マジで?いるの?と振り向いた。それでも高岡はじっと佇んでいた。自分から来るのを待った方がいいのか。誰か迎えに行った方がいいのか。どうする?と目で探り合っていた時だった。

「あれ、来てんじゃん。いつ来たの? なあ石黒、高岡来てるよー」

 登校してきた白井が緊張感を無視して叫んだ。こっちが焦ったが、白井は飛び上がって手招きした。勉強をしていた石黒は、あっ、とした顔で目線を止めて立ち上がり、静かな足取りで後ろのドアへと歩いていった。

「おはよう」

 だが高岡は俯いたままだった。洟を啜り、手の甲で目を拭った。そして背負っていたリュックを肩から外した。以前も使っていた白い星が中央についた黒いリュック。涙を拭きつつジッパーを開くと、中からクリアファイルを取り出して石黒に差し出した。

「…これ、ノートのコピーしてもらったやつ。全部なくなっちゃったって聞いたから。自分で書いたものの方がいいかなと思って…」

 とぎれとぎれだが、ちゃんと聞こえていた。受け取ったファイルを石黒は両手で握った。

「ありがとう。助かるよ。すごく」

 まだ入るのをためらっている高岡に「おはよう」と亀山が言った。小坂や清水も続いた。おはよう。おはよう。あちこちから声がした。おはよ…。泣きながらも懸命に高岡は返し、教室に入ってくると、まっすぐ文ちゃんの前までやって来た。

「…ごめんなさい」

 ぎゅっと拳を握りしめていた。ずっと謝りたかったと目が言ってる。僕も変なとこだけ意地っ張りだから分かる。謝れないって辛い。許してもらえないよりも。けど文ちゃんはとっくに胃酸で溶かしていたから「おはよう」とにっこりした。それでもうチャラだった。文ちゃんにとっては、許さない方がずっとしんどかったのだろう。

「これお使いなさいよ」

 小坂がハンカチを渡した。アホみたいな顔した黒猫が鉄棒にぶら下がってる絵柄につい吹き出した。「どこに売ってんの、それ」宮野も笑うと、受け取った高岡も目に当てながらふふ…と声を漏らして、窓際の席に着いた。

「おかえり」

 ひとつ後ろの緑川が言った。自分の椅子に戻ってきた高岡は「ただいま」と答えた。クラスの席が全部埋まっていた。白井もいて。文ちゃんもいる。七ヶ月ぶりに、三年四組から不登校がいなくなった朝だった。


 だがこの感動も束の間。受験勉強に勤しむだけの日が始まった。大学の出願方法や期間を調べ、夜10時まで塾。クリスマスだけ宮野と白井と文ちゃんとで葛西臨海水族館に出掛けた。彼女のいない四人にはたまらん空間だったが、イルカショーを一番前で見て水を被って絶叫しては鬱憤を晴らした。観覧車に乗りたかったが二時間待ちの行列だったので諦め、結局クリスマスらしいことはなにもせず、四時発の電車で帰ってきた。
 
 せっかくの息抜きでもつい受験の話になる。「まあ大変だよなあ」と白井は頷きながら聞いてる。退学せず、もう一度三年生をやると決めていた。復学してからは毎日学校に来ていて、話術が巧みだから人気者だった。それでも文ちゃんとだけは別れがたいようで、僕らとバイバイしたあとも、いつもどちらの家で過ごしていた。
 
 冬休みに突入すると一日一日があっという間に過ぎた。もらったお年玉を
一円も使うことなく新学期が始まり、来週にはセンター試験。授業中は板書と筆記の音しかせず、私語も居眠りする生徒もいなかった。志望校を絞った僕もそこに向かうだけだった。

 唯一の励みだった名木さんとのやりとりもいつしか消滅していた。白井が学校に戻って相談相手が移ったらしく、どこの大学を目指しているかも知らなかった。英語を使う仕事をしたいと聞いたことがあるので、語学系に進むかなと推測しつつも、何となく聞きそびれてしまうのだった。

 一月の二週目に実施されたセンター試験の自己採点では目標レベルに達しており、三週間後の本試験もすらすら解けて、翌週に合格通知が届いた。やっと重荷は消えたが、素直に喜べない複雑な気持ちがない交ぜになっていた。

 進学先が決定してる生徒は自由登校になるが、僕は毎日学校に行っていた。この坂道を登るのもあと何回。この校門をくぐるのも何回と数えながら別れを惜しんだ。藤沢にある大学に合格した宮野も毎日来ていたが、文ちゃんはどうやら関東圏ではない所に進学するらしく、単位も確保できた二月はほとんど学校に来なかった。好奇心旺盛で意欲的な心はとっくに次の場所に行ってるようで、卒業したらあんまり会えなくなるのかなと思った。反対に白井は毎日いる。

 僕の席は二学期から変わってないが、見える景色は以前と違っていた。クラスメイトらの背中に物語が透ける。プロジェクトがなければ僕は亀山がヘッドホンを外してることに気付かなかったし、名木さんを苦労知らずのお嬢様と信じていた。緑川はさわやかなスポーツマンで、赤城はただのイキリ屋。百瀬はオタクだけど面白い奴。頭はいいけど冷淡な宮野より僕の方が優しいと思っていて、この学校は問題のないいい学校だと信じていた。
 不思議だった。たったひとりの人間を深く知ろうとしたら、周りにいる人達のことも知ることになった。不登校を家から出すプロジェクトで、誰もが内側から引っ張り出された。僕もみんなも暴かれた。秘めていた内面や家庭の事情。優しいと思っていた人が優しくなかったり、絶対気が合わないと思っていた人を好きになった。
 
 あの阿修羅像みたいに、誰でもいくつかの面を持っていて、正面が全てではないのだ。両側の隠したい部分を必死に見せないようにしている。今だってそう。僕がこんなに寂しがりなんて誰も知らない。こんなにこのクラスを好きだってことも。やたら天気のいい冬の終わりの日差しを浴びながら、間抜けた顔で無感情を装って、いつもの席に座っていた。


 迎えた三月一日の卒業式。少し風が冷たかったが天気は穏やかだった。昇降口の前に立てられた「第八回私立本牧北桜音高等学校 卒業証書授与式」
の看板の前で早速撮影している生徒もいた。

 一年間一度も洗わなかった上履きに履き替えて三階まで上った。肩の位置のままだった水平線。教室の前に置かれた机の箱に〈ご卒業おめでとうございます〉とリボンに書かれた赤い花が入っていた。

『一つずつ取って左胸に付けて下さい』と箱の内側に記してあり、安全ピンに気を付けながら教室に入ると、もうみんないた。
 
 文ちゃんも、宮野も、石黒も、亀山も、名木さんも、高岡も。赤い花を胸に翳して僕に手を振った。晴れやかに。ちょっと恥ずかしそうに。僕も手を上げる。とうとうこの日が来たんだなと実感しながら。