「アイヌ民族は先住民族ではなく13世紀に北海道にやってきた侵略者であり、それまでは和人である擦文文化人が住んでいたんだ」という主張は間違い。
ネット上には、「アイヌ民族は先住民族ではなく13世紀に北海道にやってきた侵略者であり、それまでは和人である擦文文化人が住んでいたんだ」という主張があります。 この主張は3つの点で間違いです。

第1に、アイヌ民族のDNAの多くは縄文人由来です。和人の遺伝子の多くは縄文人ではなく渡来人に由来しているので、和人との混血が原因で縄文人のDNAが多くなったわけでもありません。 また12世紀までの擦文文化と、13世紀以降のアイヌ文化には連続性が見られます。
擦文文化期の墓と、アイヌ文化期の墓は埋葬法も副葬品も同じです。 擦文人の遺跡からは、アイヌ文化期の鮭漁法で使われるテシやマレクとよく似た遺物が発見されてます。アイヌの儀礼に欠かせないイナウやイクパスイも出土してます。 アイヌ文化期の回転式銛頭には、擦文文化期と同じ物があります。
擦文文化期の土器には刻印記号を刻む文化があります。これはアイヌ民族のイトクパという土器等に刻印記号を刻む文化と共通します。

アイヌ文化においては、熊送りの際に熊の頭蓋骨に穿孔するウンメムケを行いますが、擦文時代終末期の羅臼町オタフク岩洞窟遺跡の調査により、擦文土器と共に出土した熊の頭蓋骨にも同様の穿孔が確認されたことから、この頃には擦文人もまた、アイヌ民族と同様に熊送りしていたことがわかっています。
またアイヌ文化の毒矢には、和弓には存在しない「中柄」という部品が存在します。この中柄は擦文文化期の遺跡からも出土しています。 擦文人と同様に、アイヌ民族はトイチセなどの竪穴住居も作っていました。また擦文文化期にも平地住居はあります。
擦文文化期には農耕があったので、狩猟採集生活であるアイヌ民族の文化とは違っているという反論がありますが、アイヌ民族もまた川沿いの肥沃な土地を耕作しており、焼畑農業もしていました。
アイヌが農耕していたなんて嘘だ。そもそもアイヌに農耕なんて文化はないという反論があります。 しかしアイヌの伝承にも、文化英雄オキクルミが、天からアイヌモシリに降りてきた時に、神々のところからこっそり「ピヤパ」の種を盗み出してきたという話が伝わっています。ピヤパとはヒエのことです。
ピヤパはオキクルミが持ってきた種から地上に広まったと言われます。 ただオキクルミの伝承には違いもあり「アワとヒエをアイヌモシリの便所の脇に撒いて大切に育てた」とか、「ヒエがアイヌモシリ全土に殖えたのでヒエ酒の作り方を教え、酒で神々を祀ることも教えた」とかに分かれます。
アイヌの農耕では畝を作りません。また川の貝の貝殻で作った鎌と、鍬と掘り棒の中間のような「シッタプ」と呼ばれる道具を使っていました。 ただし14世紀から18世紀初頭の遺跡から鋤・鍬といった鉄製農具が出土しており、18世紀初頭までは畝を持つ畠を造成していたとも考えられています。
農作業はアイヌ語でトイタと呼ばれます。 まず自身が属するイウォロ(村の共有地)の中で、草木が少なく耕しやすい土地を探し出し、枝を十文字に組んだ標識「クイタクぺ」を立て数日以内に開墾、整地すれば1年限りで所有権が認められます。
開墾作業は大木を切り倒して火を放つ焼畑農法ではなく、トイタイヨッペ(畑鎌)と呼ばれる、刃を湾曲させた鎌で草を根ごと刈り払う簡単なものでした。 畑の周りにはシカなど害獣よけにチャシ(柵)を設け、飛び込んでくるシカには逆茂木で備えていました。
畑で栽培する作物は、アワやヒエ、イナキビなどの雑穀類、そしてアタネと呼ばれるカブの一種でした。 江戸時代の後期以降は、豆類やカボチャ、繊維用のアサも加わりました。秋になって穀物が実ればカワシンジュガイの貝殻で作った貝包丁で、穂を一つ一つ穂首刈りにしていました。
穂は乾燥させた後、プ(高床式倉庫)に納めました。ニス(臼)でついて脱穀、精白し、日常食のサヨ(粥)や、儀式の際の供物であるシト(団子)やトノト(濁酒)に用いていました。 米はトノ・アマム(殿様の穀物)と呼ばれ大変に贅沢なものでした。アイヌ文化成立以前から交易品として北海道に入っていました。
収穫した雑穀類は日常の食事としてサヨ(薄い粥)にするのが一般的ですが、儀礼の折は精白した穀物をさらに臼で搗くか、口中で噛み砕いて粉末にした上、こねて茹であげてシト(団子)を作っていました。シトにはイクラを潰したものか、揚げ昆布を粉砕して練ったタレをつけて味わっていました。
キビ、アワ、ヒエの穂刈りに使われる貝包丁は、オキクルミの妹が乾きに苦しんでいた沼貝を助けたら大豊作となったという故事にあやかり、沼貝の殻を使うそうです。 噴火湾に面した洞爺湖町の高砂貝塚では、有珠山噴火(1663年)による火山灰に覆われたアイヌのものと思われる畑が見つかっています。
アイヌの農業は粗放で、樹木の少ない川べりの草地を大まかに耕起し、野焼きも施肥もせず、数年経てば新たな場所に移ったと言われてきました。 しかし近年は高砂貝塚の畑のように、台地上に位置し、整然と畝立てされ、野焼きもされていたアイヌのものとみられる畑の発見が相次いでいます。
1846年、松浦武四郎が石狩川下流のツイシカリで見た光景は「土は肥沃で石など少しも混じらず、大豆、隠元豆 、南瓜、茄子、大根、稗、ジャガイモを作る。皆よく出来ている。しかしアイヌらは家から離れた奥山に畑を作り、通行人に見えないようにしている。松前藩が畑作を禁じているためである」というものでした。
アイヌ民族の文化は、オホーツク文化を受け継ぐものなので農耕していたはずがないという反論があります。 確かにオホーツク文化の生産基盤は海獣狩猟あるいは漁労・海獣狩猟です。 しかしオンコロマナイ貝塚、香深井A遺跡、オンネモト遺跡からブタの骨がオホーツク土器に伴って出ています。
モヨロ貝塚、利尻島沼浦貝塚からもブタの骨が出土しています。ブタの飼養は社会の安定を示すもので農耕と密接な関係があるものです。 擦文文化からアイヌ文化になって竪穴住居から平地住居に変わるので、アイヌ民族は擦文文化と断絶しているという反論がありますが、オホーツク文化は竪穴住居です。
アイヌ民族の農耕は近世に和人に教えてもらっただけなので擦文人の農耕とは別だという反論があります。 しかし実際にはアイヌ民族と和人との交易が活発になるにつれて、交易用に漁労や狩猟が重視されていき、代わりに農耕は縮小していったと考えられています。
擦文社会は本州から高価な鉄鍋や漆塗椀を大量に移入し、擦文土器づくりの伝統は絶えることになりました。 考古学ではこれ以降をアイヌ文化と呼んでいますが、この擦文文化の終焉・アイヌ文化の成立とは、擦文人の交易活動の飛躍的な拡大に他ならないものでした。
骨角製狩猟・漁労具は、擦文文化期のものが確認されているが、量的に増えるのは14世紀以降であり、獲物を手繰り寄せるための紐を通す索孔が穿けられた銛頭は14世紀頃に出現します。 骨角製狩猟・漁労具の増加と改良は、アイヌ文化が擦文文化よりも狩猟・漁労に重きを置いていたことを示しています。

アイヌ墓の副葬品で目を引くのが、マキリ、太刀、腰刀、キセル、鉄鍋、山刀などの金属製品です。 北海道における鉄器の出土量は11世紀と14世紀に増加し、特に鉄鍋、刀剣が組成に加わる14世紀代が大きな画期とされます。アイヌ文化では擦文文化の10倍以上の鉄器が使用されたと見積もられています。
擦文時代の主な生業は、狩猟・漁労・採集と雑穀類の栽培でした。主要な栽培植物は当初はアワで、9世紀以降キビが多くなり、10世紀中葉以降はヒエが中心となります。 アイヌ社会ではヒエとアワが「ウムレクハルカムイ」(夫婦の食糧神)とされます。アイヌ文化の雑穀栽培もヒエを中心としていました。
擦文時代の狩猟・漁労活動は、10世紀を境に、それ以前の自給自足的なあり方から特定の品物の生産へと大転換したとされますが、その理由は本州との交易にあったと考えられています。 交易の対象となったのは、狩猟ではエゾシカやヒグマの皮とワシ羽、漁労ではサケとコンブでした。
ヤマト社会では武士が台頭し始める10、11世紀以降、軍事物資であるワシ羽やシカ皮の需要が急増しました。 一方、同時期に北海道では、日高地方内陸部で遺跡数が増加しており、この地で擦文人が本州向けのワシ羽を獲得していたようです。
擦文時代のサケ漁に関しては、道内有数のサケの産地である石狩川水系で、遺跡の立地から交易品となる干鮭生産のためのサケ漁が行われたと考えられています。
擦文時代のコンブに関しては、秋田県大仙市払田柵跡出土の「狄藻」(コンブ)と記された木簡や、渡島半島の初期擦文時代の集落分布がマコンブの生息する太平洋側に偏ることなどから、渡島半島と三陸地方を結ぶコンブ貿易が行われていたと想定されています。
アイヌ民族の対和人貿易で重要な移出品のうち、皮革、矢羽、サケ・コンブは擦文時代の後半には既に出揃っていた可能性が高いと言えるでしょう。 擦文文化とアイヌ文化は、和人との交易がだんだんと活発化していったという流れの中において連続しているのです。
農耕社会は進んだ文化なので、それが遅れた狩猟・漁労社会に変わるはずがないという反論がありますが、アイヌ民族が和人との交易用の品を確保するために、土器の生産をやめて狩猟や漁労に専念するようになっていったのは不思議なことではありません。 交易には比較優位というものがあるからです。
比較優位とは、たとえば本州では農業の生産性が高いが、北海道では農業の生産性が低い場合、本州は農業に専念して北海道は狩猟・漁労などに専念して後から交易した方が双方にとって得になるという概念です。 より生産性の高い産業に専念するのを放棄して自給自足するのは、双方にとって損なのです。
交易は、擦文文化からアイヌ文化へ変わっていったのは何故なのかを理解する上で重要な概念です。 擦文文化の長胴の甕は、竈の使用に適した土器であるのに対して、アイヌ文化の吊り手のある鉄鍋は囲炉裏にかけて使うのに向いています。土器から鉄鍋への食生活の変化は、家の設計も変えていきました。
北海道から竪穴住居や土器が姿を消した後も 、サハリンや千島でそれらが使われ続けたのは、竪穴住居が平地式住居に比べ寒冷地に適していたためであり、本州から遠く離れており鉄鍋を入手する機会が北海道に比べ少なかったからだと考えられています。
本州でも12世紀頃、煮沸具が土器から鉄鍋に置き換わるのに並行して、住居形態も壁際に竈を備えた竪穴住居から、中央部付近に囲炉裏を設けた平地式住居に変化します。 もちろん、この変化の理由は12世紀に日本列島の外から和人がやってきたからではありません。
アイヌ文化なんて存在しなくて、和人の文化の一部でしかないという反論がありますが、中世・近世の和人と違って、アイヌ民族は多くのアクセサリーを身につけていました。 それらのアクセサリーのうち、タマサイと呼ばれるガラスや金属製の玉を用いた首飾りの祖型は擦文時代には既に出現しています。
一般に本州の中近世墓では、銭貨が六道銭として納められるものの、副葬品と呼べるようなものはほとんど出土しません。 反対に、アイヌ墓では副葬品は豊富だが、銭貨はほぼ見つかりません。アイヌ墓に六道銭が全く見られないのは、和人と異なり彼らが仏教の感化を受けなかったことを物語っています。
擦文文化期には擦文人は擦文土器を使っていたが、アイヌ文化期にはアイヌ民族は擦文土器を使っていないので別の民族だという反論があります。 しかしアイヌ文化期には擦文人と和人との交易が盛んになったので、擦文人が鉄鍋・漆器などを使うようになり、擦文土器が不要になったというのが定説です。
擦文文化期には竈が使われているが、アイヌ文化期には囲炉裏が使われているので別の民族だという反論があります。 しかし擦文文化期には、地床炉という古いタイプの囲炉裏も使われていました。またアイヌ文化にも竈付きの住居は存在します。
また竈よりも囲炉裏の方が暖房としては優秀なので、江戸時代以降には寒い東日本では囲炉裏が使われて、温かい西日本では竈が使われていました。 なので擦文文化期の住居によくあった竈が、アイヌ文化期になって囲炉裏に変わっていくのは不自然ではありません。

擦文文化期の遺跡からは草履が出土しているが、アイヌ民族は裸足なので別の民族だという反論があります。 しかしアイヌ文化にも草履はありますし、靴を作って履くこともあります。また擦文文化期には既に北海道と本州地域の交易は行われているため、草履が見つかっても不自然ではありません。
826年に円仁が北海道の伊達市に有珠善光寺を開いたという伝承があります。函館市の船魂神社は1135年創建だとする文献もあります。 擦文文化時代に開かれた北海道の寺があるのだから、擦文人は和人であってアイヌ民族の先祖ではないという反論があります。しかし考古学的な裏付けのない主張です。
円仁が開いたとされる寺は、北海道から鹿児島まで全国に600を超えるとも言われてます。その大半が事実ではありません。 船魂神社の創建縁起を収録した『箱館夜話草』は幕末になってから書かれた文献だとされ、単なる伝承の域を出ません。
アイヌ民族の形質は、縄文人よりもオホーツク人に近いはずだという反論もありますが実際には違います。 歯の形には、集団ごとに出現頻度の異なる遺伝性の高い変異があります。その変異を比較すると、確かに樺太アイヌ人はオホーツク人に近いですが、北海道アイヌ人は縄文人に最も近いという結論でした。
アイヌ文化期に鉄鍋・漆器が使われるようになったとしても、擦文土器が消滅するのはおかしいので別の民族だという反論があります。 しかし東北地方でも、奥州藤原氏の時代に鉄鍋が普及していくにつれ土師器の甕が消滅していきます。鉄鍋の普及により土器が使われなくなったのは和人も同じなのです。
擦文人とアイヌ民族の生活は、統計的にはどれほど違っていたのでしょうか。 擦文文化期の遺跡と、中世アイヌ文化期の遺跡における木製品の出土量の分類別の比率を比べてみた結果、擦文文化期と中世アイヌ文化期は、生活の基本を成す木製道具の比率がほぼ同じだったことがわかっています。
上幌内モイ遺跡の擦文文化期の層からは、下顎骨を伴わない角のついた鹿のオスの頭蓋骨が集められている場所が発見されました。 アイヌ文化期の層からも、鹿の頭蓋骨を意図的に集めて「送り儀礼」が行われていたと考えられている獣骨の集中した場所が見つかっています。
アイヌ民族が土器を作らなかったのは、土器を作れないからなので擦文人とは別の民族だという反論がありますが、アイヌ文化期にも土器はあります。
また アイヌ文化には死んだ人間があの世でも家に住めるように、家を燃やす「家送り」という風習がありましたが、擦文時代の住居も焼失している例が多いです。
アイヌ文化だとされてるものは本当は捏造である。たとえば史実としてはアイヌの着物は無地なのに、柄物の服がアイヌ文化とされているという反論があります。 しかしアイヌの服には昔から柄物もあります。

また1620年に松前に1ヶ月滞在したディオゴ・カルワァーリュの記録では既に衣服に様々な刺繍があることが記録されています。 最初にアイヌ絵を手掛けた小玉貞良(1688頃-不明)の「アイヌ釣魚之図」は18世紀前半の作のようですが、文様入りの男女が描かれています。 yuagariart.com/uag/hokkaido03/
1859年出版の『蝦夷漫画』でも男女共に文様入りの服を着ています。 江戸時代のアイヌ絵を根拠に、アイヌの服には文様が無かったとする主張もありますが、そういう絵の中には下絵段階だったり文様を省略しているものが多いのです。
アイヌ民族の服にも無地はあります。しかし、アイヌでは江戸時代後期から昭和時代まで一貫して「文様入り樹皮衣」が礼服として最上のものだと考えられてきました。 実際、古い時代の写真を確かめてみても、文様入りの服を着たアイヌ民族の方々が写っています。
アイヌ民族には、擦文人と違ってオホーツク人の遺伝子が混ざってるから別の民族だという反論があります。 しかし北海道の縄文人・続縄文人のmtDNAを調べた結果、N9bとG1というシベリア先住民のみに見られる遺伝子と、D10というシベリアから移住したアメリカ先住民に多い遺伝子が見つかりました。
元々はシベリアに住んでいたと考えられているオホーツク人との混血が始まる前から、そもそも北海道の縄文人・続縄文人はシベリア先住民との混血だったのです。 またオホーツク人が北海道に渡来してきて擦文人との混血が進んだ後も、擦文土器を使う文化は続きました。鉄鍋、漆器が普及するまでは。
北海道の縄文人・続縄文人はシベリア先住民との混血だったという話には、考古学的な証拠もあります。 北海道で最古の遺跡は、十勝平野にある若葉の森遺跡です。ここでは1万点近い石器が、3万年前頃の地層から発掘されました。この年代値は本州・九州の3万8千〜3万5千年前と比べると新しいものです。
この北海道で、突如として細石刃文化と呼ばれている文化が2万5千年頃に出現しました。 細石刃とは文字通り石刃のミニチュア版で、幅が5ミリメートル、長さ数センチメートル程度の大きさだが、ガラス質の黒曜石のような割れ口の鋭い石から作られます。
その使い方は巧妙で、植刃器と呼ばれるヘラ状の角製品を用意し、その縁に彫り込んだ溝に細石刃をいくつも埋め込んで使います。 そうすると、軸が角なので折れにくく、刃は黒曜石なので切れ味が良いという2つの特性を備えた、狩猟用の槍先ができるのです。
同じ形の槍先は石で作ることもできます。 しかし細石刃を使った植刃器には、衝撃で折れにくく、刃こぼれしたら簡単に交換でき、貴重な石材を大量に使うことなく、移動する時は少量の石材を携帯するだけでどこでも槍先が作れる、といった様々な利点があります。
細石刃の技術は九州や本州にも出現しますが、それは2万年前以降のことなので本州から北海道へ伝わったものでないことは明らかです。 この細石刃の技術は、北東アジアが起源であるという説が有力です。バイカル湖周辺の遺跡では、この時期に石刃が小型化していく傾向があります。
次に当時の北海道は、サハリンから大陸北部に繋がる古SHK半島の南端となっており、シベリアから陸路で移動することができました。 更に、氷期の寒さは3万〜2万年前の間に次第に厳しくなっていったので、2万5千年前に人と文化がシベリアから南に移動する動機は十分にあります。
そしてこの2万5千年前頃から、北海道の石器文化は本州の文化との異質性を増し、逆にロシア極東地域との類似性を増していくことで知られています。 北海道の縄文人に、ロシア極東地域に暮らす少数民族の遺伝子であるN9bが出現した年代を推定した結果は、およそ2万2千年前となりました。
よって2万5千年前頃の北海道に現れた細石刃文化は、シベリア先住民の集団によって北海道に持ち込まれたと考えることができるのです。 遺伝子解析の結果も、考古学的な検証結果も、「縄文人は1つの均一な集団ではなかった」という結論を示しています。
擦文人の頭蓋骨は、アイヌと和人のどちらに近いのでしょうか 頭骨の形態小変異の出現型を基に、下田ノ沢頭骨という擦文人の頭骨が、北海道アイヌと和人のどちらに近いのかを判定するために尤度比法による分析が行われた結果、擦文人は、現代日本人よりも100倍以上もアイヌに近いという結論でした。
下田ノ沢頭骨には、関節面を持った典型的な第3後頭穎があります。この特徴はアイヌに多いですが、和人には極めて稀です。 上顎中切歯のシャベル状陥凹の程度が弱いこと、 環椎における Ponticulus posterior の出現、大腿骨の柱状形成、大腿骨の顆問窩の深さ、脛骨中央部の扁平性もアイヌ的です。
また千歳市ウサクマイ遺跡からは、合わせて9体分の擦文時代人骨が検出されています。 これらの人骨を調べた結果、頭骨には舌下神経管 の二分傾向、芳顆突起、外耳道骨腫、顎舌骨神経管などの形質が比較的高頻度に認められました。 これらの特徴は和人頭蓋よりもアイヌ頭蓋に高率に出現するものです
mtDNAの分析データを基に、アイヌ人は北海道縄文人の子孫ではないとする反論があります。 しかし現在では、mtDNAはあくまで核ゲノムの膨大なデータに対して補助的な役割をするに留まっています。核ゲノムを調べた結論は、アイヌ人は和人よりも縄文人に近いというものです。
北海道には江別古墳群があったので、擦文文化人は和人なんだという反論があります。 これは長安に倣った平城京・平安京の存在を理由に、当時の日本に住んでいたのは中国人だったんだと主張するようなものです。異なる文化同士が、お互いに影響し合うのは珍しいことではありません。
第2に、先住民族の国際的な定義は「一地域に、歴史的に国家の統治が及ぶ前から、国家を構成する多数民族と異なる文化とアイデンティティを持つ民族として居住し、その後、その意に関わらず多数民族の支配を受けながらも、なお独自の文化とアイデンティティを喪失せずに同地域に居住する民族」です。
1869年、明治政府は蝦夷地の開拓事業に着手し、島の名を北海道と改めます。 これは政府が異民族の居住地として特別扱いにしてきた蝦夷地を名実とともに日本国家の領土に編入し、島の住民であるアイヌの人々を国家の構成員として直接支配することを意味していました。
アイヌ民族は明治政府の支配を受ける以前から北海道に住んでいた民族です。国家を構成する多数派民族に支配されて、それでもなお独自の文化とアイデンティティを保持していることから、先住民族の定義に当てはまります。 そのため13世紀に何が起きたかは、そもそも先住民族かどうかには無関係です。
日本書紀には、北海道は7世紀に律令体制に入ったと書いてあるので、そもそも北海道は明治時代には既にアイヌの土地ではないという反論があります。 しかし日本書紀には「郡領を置く」という記述があるだけで実質的には支配していません。また「後方羊蹄」が北海道内を指すという証拠もありません。
松浦武四郎の後方羊蹄日誌には「齋明之朝置政所之趾、知別即後方羊蹄轉音也」と書いてあります。ただ単に地名の響きが近いからここだろうと言っているだけです。 北海道には後方羊蹄山と呼ばれていた山がありますが、それは明治時代に名付けられた名前で、元々はマチネシリと呼ばれていました。
明治政府が蝦夷地を日本の領土に組み込む前から、アイヌ民族は松前藩に支配されていたので、アイヌ民族は先住民族ではないという反論があります。 しかし幕府による黒印状では、松前藩はアイヌとの独占交易権しか認められていません。家康黒印状の「夷」は「清人」だという主張もありますが、アイヌです。
明治政府が北海道の土地をアイヌ民族から奪ったとされる時期より前に、既に北海道は全て和人の領土だったので先住民族ではないという反論があります。 しかし1898年の明治政府の内閣官報局の文書の中でも、北海道について植民地だと書かれています。https://dl.ndl.go.jp/pid/2947692/1/1
1912年や1923年の史料にも、北海道のことが植民地だと書かれています。このことからも、江戸時代以前から北海道は和人の土地だったとは認識されていなかったことがわかります。
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/0100096818/
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/0100203961/
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/0100145072/
「自分は先住民族である」という嘘をつく連中を見破る方法がないのだから、先住民族なんて日本のどこにも存在しないし、アイヌ民族も存在しないんだってことにしておくべきだという反論があります。 しかし実際には嘘をつくだけでは先住民族にはなれません。
多くの先住民族において、コミュニティのメンバーには相互扶助義務があります。 ですから仮に外部の無関係な人間をメンバーであると偽ったとしても、区別しておく必要が内部的にはあるのです。その区別を利用して外部から監査するのは容易です。
先住民族コミュニティは常に相互のメンバーを確認しているからメンバーシップは自明のものです。 先住民族の人口について研究者が「よくわからない」というのは、どこまでをカウントするか、というだけの話にすぎません。

第3に、13世紀にアイヌ民族が日本列島の外から侵略してきたという仮説は、比較言語学の観点からも辻褄が合いません。アイヌ語族北海道語派によると考えられる地名は、北海道だけではなく東北にも多く見られます。ここからアイヌ語族北海道語派を使う人達は東北にもいたことがわかります。
1189年には奥州藤原氏が鎌倉幕府によって滅ぼされて、鎌倉幕府の支配が東北にまで及んでいます。 もしも13世紀にアイヌ民族が日本列島の外から北海道に侵略したのであらば、鎌倉幕府の支配する東北地方が、13世紀以降にアイヌ民族により侵略されたということになります。そんな記録はないですし、考古学的な証拠も全くありません。 よって13世紀にアイヌ民族が日本列島の外から北海道に侵略してきたという仮説は成立しないのです。
東北の地名にアイヌ語由来のものが多いというのはこじつけだという反論があります。では地名が地形と一致するか確認していきましょう。 秋田県にサッピナイという土地があります。アイヌ語のサッ・ピ・ナイ(乾く・小石・川)が語源と考えられていますが、実際に乾いた小石の多い川が流れています。
岩手県遠野の佐比内(サビナイ)は上流にも下流にも一滴の水も流れないガラガラの砂利底ですが、北海道の札比内とまるで同じです。 岩手県紫波の佐比内では、夏になると付近の川は水が流れなくなり、川底は玉石です。アイヌ語のサッ・ピ・ナイ(乾いた小石の川)のとおりですね。
青森県には尻労(シツカリ)という土地があります。アイヌ語のシリ・ツカリ(山・の手前。アイヌ語の発音上はシツカリ)が語源だと考えられていますが、実際に山の手前です。北海道にも同じ地名がありますが、同じ地形です。
秋田県の惣内という地名に関する地図です。 川のある場所が惣内と呼ばれていることがわかります。そして惣内にはアイヌ語解釈ソー・ナイ(滝の川)の通り滝があります。 ちなみに秋田県にはセタ(犬)やサンべ(心臓)という方言がありますが、これらはアイヌ語由来だとも考えられています。
岩手県には似内という土地があります。アイヌ語のニタツ・ナイ(谷地の川)が語源だと考えられていますが、実際に谷地を流れる川がありました。 青森県三戸郡に獅子内という土地があります。アイヌ語のシュシュ・ナイ(柳・沢)が語源と考えられていますが、実際に柳がたくさん生えてた場所です。
山形県には紅内(クレナイ)という土地があります。アイヌ語のフレ・ナイ(赤い・川)が語源と考えられていますが、実際に川があって水底の岩や小石は濃い赤褐色に染っています。 青森県には斗内(トナイ)という土地がありますが、アイヌ語のト・ナイ(沼・沢)の通り、昔は沼があった川でした。
青森県にある猿辺(サルベ)川は、川岸はほとんど葭でした。アイヌ語でサルキ・ペッは「葭の川」という意味です。 米代川の支流である小猿部(オサルベ)川は、多くが葭谷地です。アイヌ語でオ・サル・ぺツとは「川尻の草原の川」という意味です。 岩手県の長流部(オサルベ)も川のある土地です。
岩手県には長内(オサナイ)という地名がありますが、そこには長内川が流れており、アイヌ語オ・サル・ナイ(川尻の湿原の川)の通りに川尻に湿原があります。 青森県には苫米地(トマベチ)という地名がありますが、トマム・ベツ(谷地の川)が語源とも考えられています。苫米地の付近には川があります。
青森県に奥内(オクナイ)川という地名があります。オ・ウコッ・ナイ(川尻・くっつく・川)が語源と言われていますが、実際に奥内川の川尻は、昔は他の川と合流していました。 宮城県に保呂内(ホロナイ)という地名があります。ポロ・ナイ(大きな・沢)が語源と考えられていますが、大きな沢があります。
津軽半島に、ワシリという地名が5つあります。広瀬部落の北、中師部落の北、塩越部落の北。綱不知部落の西。鮪山沢の近く。全て海岸沿いの断崖の地名です。 アイヌ語ウェン・シリ(悪い・山。水際の断崖のこと)という地名は北海道南部の方々にあります。
津軽海峡には赤ワシリと呼ばれる場所もありますが、海岸にある絶壁で、崖に赤い岩がある場所です。 津軽半島にはカパシラルという地名の海岸の岩礁がありますが、アイヌ語カバル・シラル(発音上はカパシシラル)は平たい・岩という意味です。北海道に多い地名です。
津軽半島に宇樽間(ウタルマ)、中宇田(ナカウダ)という砂浜がありますが、アイヌ語のオタは砂浜という意味です。 しらワシリという地名もあります。海岸沿いの断崖です。断崖は黒いですが、水際には岩礁がありシラル・ウェン・シリ(岩のある水際の断崖)なら意味が通ります。
津軽に折越内(オリコシナイ)という地名がありますが、アイヌ語のウル・クシ・ナイ(丘・を通る・川)の通りに、低い丘陵があって、小川がそれを廻って海に注いでいます。 青森の方言で、小泊を「ポン泊」、小鱈を「ポン鱈」、若船頭を「ポン船頭」と呼んでました。ポンはアイヌ語で「小さい」です。
青森県の白糠(シラヌカ)という地名は、アイヌ語のシラル(岩)だと考えられている通り、砂浜の間に見渡す限り平たい岩盤のある場所です。北海道の砂浜にも白糠という地名があります。 アイヌ語で解釈した東北の地名と実際の地形が一致している例が多いため、アイヌ語由来の地名だと考えるのが自然です
中世から近世にかけて、北海道は「蝦夷島」や「蝦夷地」と呼ばれていました。では蝦夷(エゾ)という言葉はいつ頃から使われ始めたのでしょうか。 古くから注目されているのは、エゾという用語が平安時代後期の和歌に目立って登場するということです。その初出は藤原顕輔の和歌だと考えられています。
あさましや ちしまのえぞが つくるなる とくきのやこそ ひまはもるなれ
「左京大夫顕輔集」「夫木和歌抄」(「青補」文学作品百五十九) 長承元年(1132)に詠まれた歌です。この和歌を初見として、以後、エゾという言葉は多くの和歌に詠み込まれていきます。
エゾは掛け詞で使われるケースがあるので、それらを除外して数えると近世初期の木下勝俊(1569〜1649)の作歌にいたるまで167例になります。 このように12世紀初めには文献史料に確かにエゾという語が頻繁に現れるようになりますが、初現時期自体はさらにそれより前に遡る可能性が高いです。
その初見史料と目されているのが、応徳三年(1086)の「前陸奥守源頼俊隷状案」(「御堂関白記裏文書」のうちの1つ)です。 いわゆる「延久蝦夷合戦」を記した史料ですが、後三条朝の北方平定戦の大将軍であった源頼俊が記したこの文書中に、「衣曾別嶋」という文字が見えます。
これについては「えそのわかれしま」とか「えそのわけしま」など色々な訓み方があり、「うそり」と訓むべきだとする説もありますが、「エゾ」と訓めるのも確かです。 どちらにせよアイヌ民族が13世紀に初めて日本列島の外からやってきたならば、12世紀の日本の文献史料にエゾは出てこないはずです。
アイヌ語には、日本語からの借用語ではないかと考えられている語彙が幾つかあります。 kamuy「神」 pasuy「箸」 muy「箕」 これらは飛鳥時代頃の古代日本語の語形に一致しています。もしも本当に13世紀に初めてアイヌ語族が日本列島に来たならば、こんな借用はできないはずです。
そもそもアイヌ語なんて存在しないという反論がありますが、アイヌ語と日本語はあまり似ているとは言えません。 また日本語だって和語よりも外来語の方が語彙が多い言葉です。和製漢語もありますが、それも由来を辿ると漢語です。アイヌ語由来の語彙もあります。「天皇」も中国からの借用語です。
参考文献
藤井誠二(2008)『木製品 : その分類基準と北海道における変遷の特徴
稲垣克彦『DNA解析と「アイヌ民族否定論」:―歴史修正主義者による先住民族史への干渉』
ずんだもんと学ぶDNA人類学の研究史-特に日本人とアイヌ人の起源について
https://note.com/toy_nupuri/n/ned4bba4c2f16
ずんだもんと学ぶ擦文時代-最新研究で明らかになった古代アイヌ文化期の実態
https://note.com/toy_nupuri/n/n5c62bc783104
いわゆる「アイヌ民族渡来説」について
https://note.com/toy_nupuri/n/n6d4b4b99f010
上幌内モイ遺跡(3)
北見市「ところ遺跡の館展示案内:アイヌ文化」
国連広報センター「先住民族」
先住民族1の権利に関する国際連合宣言(仮訳)
五関美里「アイヌ衣服およびその文様に関する地域的比較研究-近世以降の北海道における樹皮衣・木綿衣を中心に-」
津田命子「アイヌ衣文化の研究」
アイヌ絵の先駆者・小玉貞良 yuagariart.com/uag/hokkaido03/
産経新聞「世界最古級アイヌ民族服か 釧路市立博物館が所蔵」
松村博文「縄文人とオホーツク人:発掘された遺伝子」
伊達市噴火湾文化研究所「北海道の歴史」
海部陽介「日本人はどこから来たのか?」
斎藤成也「日本列島人の歴史」
斎藤成也「大論争 日本人の起源」
斎藤成也「DNAでわかった日本人のルーツ」
斎藤成也「最新DNA研究が解き明かす。日本人の誕生」
斎藤成也「日本人の源流 核DNA解析で辿る」
中橋孝博「日本人の起源 人類誕生から縄文・弥生へ」
篠田謙一「新版 日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造」
百々幸雄「北海道厚岸町下田ノ沢遺跡 出土の擦文時代人骨」
百々幸雄「頭蓋の形態小変異からみたアイヌとその隣人たち」
崎谷満「新日本人の起源 神話からDNA科学へ」
尾本恵市「アイヌの遺伝的起源」
ところ遺跡の館展示案内:旧石器時代
旧石器文化と縄文文化
篠田 謙一「アイヌ人骨を巡る最近の状況について」
平山裕人「アイヌ史の世界へ」
平山裕人「アイヌの歴史」
チューネル・ミハイロビッチ・タクサミ「アイヌ民族の歴史と文化」
宇田川洋「北海道の考古学」
田端宏「北海道の歴史」
北原モコットゥナシ「アイヌの真実」
桑原真人「北海道の歴史がわかる本」
中川裕「アイヌの物語世界」
山田孝子「アイヌの世界観」
本多勝一「アイヌ民族」
小坂洋右「アイヌの時空を旅する」
関口明「アイヌ民族の歴史」
角田陽一「図解アイヌ」
神戸大学附属図書館「官報 1898」 dl.ndl.go.jp/pid/2947692/1/1
神戸大学附属図書館「植民地の清酒需要 1912」
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/0100096818/
神戸大学附属図書館「拓植博覧会 : 植民の意義を体せよ : 社論 1912」
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/0100203961/
神戸大学附属図書館「植民地経済会議 当局設置を急ぐ 1923」
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/0100145072/
ネットに散見されるアイヌ民族「否定」論への反論(2021年秋) togetter.com/li/1804149
ネットに散見されるアイヌ民族「否定」論への反論(2)
https://posfie.com/@xiongmao53/p/NUtPwl0
縄文人とアイヌとの遺伝的連続性(篠田謙一抜
https://note.com/xiongmao53/n/n9a0c36960434
北海道の歴史年表と、13世紀以前にアイヌは存在しないのだ! というヘンテコな誤解と。
https://note.com/chigauyo/n/na400193314a4
アイヌ民族は本当に侵入異民族なのか?筑波大学名誉教授のトンデモ本への反論
https://note.com/toy_nupuri/n/n5e4066ac7a10
アイヌ民族は先住民族じゃないという方へhttps://note.com/chigauyo/n/n25419f41329e
リチャード・エドモンズ「和人地・蝦夷地の境界とその変遷」
横浜市歴史博物館「古代のレンジ台「カマド」」
https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/maibun/knowledge/detail.php?seq=33
鵜飼 秀徳「お寺は「日本を知る」最強のパワースポットだ!」 books.bunshun.jp/articles/-/6195
北海道文化局文化振興課「北の生活文化(アイヌ社会の崩壊と復権運動)」
平取町立二風谷アイヌ文化博物館
国立アイヌ博物館
後方羊蹄日誌
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_00267/index.html
斎藤成也「DNAではヤマト人と大陸人、アイヌ人とオキナワ人が近い。核DNAからさぐる日本のルーツ(4)二重構造モデル」
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2566
神澤秀明「縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く」
https://www.brh.co.jp/publication/journal/087/research/1
斎藤成也「縄文人と弥生人の混血は古墳時代から始まった。核DNAから探る日本のルーツ(7)縄文人と弥生人の混血」
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2576
NHK「FRONTIERS 日本人とは何者なのか」
https://www.nhk.jp/p/frontiers/ts/PM34JL2L14/episode/te/XRL92XPWX2/
釧路高専「トイチセの建設を通じた体験的環境教育に関する研究」
https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&opi=89978449&url=https://www.kushiro-ct.ac.jp/library/kiyo/kiyo51/19_%25E8%25A5%25BF%25E6%25BE%25A4.pdf&ved=2ahUKEwiP1N2JhOCNAxXYrlYBHQDIHrQQFnoECCoQAQ&usg=AOvVaw0YRv5SIq5GVgCfrvIjmCGa
伊達市、噴火湾文化研究所「擦文(さつもん)文化と中・近世のアイヌ文化」
https://www.city.date.hokkaido.jp/funkawan/detail_sp/00003174.html
北海道県立アイヌ民族文化研究センター「アイヌの民具(その2)~漆器(しっき)~」
https://ainu-center.hm.pref.hokkaido.lg.jp/13_01_013.htm
アイヌ語kamuyと日本語「神」の関係
https://youtu.be/0-xzN-pLYSI?si=PhQ6rxQugeGneJKM
「アイヌ語は中世に北から侵入した」デマを言語学的に論破する
https://youtu.be/qel2V09vybM?si=lOYuXej6OA1SmBGr
山田秀三「アイヌ語地名を歩く」
山田秀三「アイヌ語地名の研究1」
山田秀三「アイヌ語地名の研究3」
京都大学文学研究科「日本語の起源と古代日本語」
北海道大学アイヌ・先住民研究センター「アイヌ語調査資料のデータベース化に関する基礎的研究(12)」
長田俊樹「日本語起源論の歴史と展望」
榎森進「エミシ・エゾ・アイヌ」
チカップ美恵子「カムイの言霊」
小野有五「「新しいアイヌ学」のすすめ」
更科源蔵「アイヌ民話集」
平山裕人「アイヌ史の世界へ」
瀬川拓郎「アイヌ学入門」
瀬川拓郎「1時間でわかるアイヌの文化と歴史」
瀬川拓郎「アイヌの歴史」
瀬川拓郎「アイヌと縄文」
関根達人「モノから見たアイヌ文化史」
関根達人「つながるアイヌ考古学」
平山裕人「アイヌ史の世界へ」
平山裕人「アイヌの歴史」
チューネル・ミハイロビッチ・タクサミ「アイヌ民族の歴史と文化」
宇田川洋「北海道の考古学」
田端宏「北海道の歴史」
北原モコットゥナシ「アイヌの真実」
桑原真人「北海道の歴史がわかる本」
中川裕「アイヌの物語世界」
山田孝子「アイヌの世界観」
本多勝一「アイヌ民族」
小坂洋右「アイヌの時空を旅する」
関口明「アイヌ民族の歴史」
角田陽一「図解アイヌ」
公益財団法人、アイヌ民族文化財団「アイヌ民族:歴史と現在-未来をともに生きるために-中学生用」
https://www.ff-ainu.or.jp/web/potal_bunka/details/post.html
