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『古語に聞く』


 竹西寛子さんの『古語に聞く』を読む。

 私が『紫式部日記』や『源氏物語』を何度も手に取ってしまうのは、もちろん風景や人々の様子の典雅さもあるけれど、私の中では、圧倒的な言葉の美しさがそこにあるからだ。

 古語に触れたくて、古典全集の分厚い源氏物語を図書館で借りてくることもある。が、不思議なのは、その原文の、古い言葉で綴られた美しさが、現代語訳にも滲み出ているというところである。それは、訳者の力量によるのかも知れないが、古典の美しさは、現代語になっても健在している。

 私が持っている現代語訳は、円地文子さんが全十巻に渡って訳されたもので、紫を基調とした装丁本が十巻それぞれ箱に入れられてあるのが特別な感じを醸しており、そうして文章もまた、紫式部のイメージ、慎ましいながらも香り高く、その奥に素朴な強さが伝わってくるために、どの場面を読んでも「ほぅ...」とため息をつきたくなる。

 以前は、原文原文と、原典ばかりこだわっていたこともあるけれど、あらたまって読んでみると、この現代語訳の、なんと美しいことだろう。
 円地さんの訳した源氏の月報では、竹西さんが全巻解説を書かれていて、私はその研究の細かさにも驚いてばかりいる。

 『古語に聞く』はタイトルがとてもよくて、私が古語の一つ一つを感じるとき、それはまさに「香を聞く」ときのあの感じ、静けさの中で、奥からかすかに香りが聞こえてくるにあの感じにとても似ている。

 たしかに古語はお香と同じように、読むではなく、見るでもなく、また匂うでもなく、「聞く」という感覚がぴったりだと思う。

 …と、そのようなことを思っているうち、私の心 -このごろ、宇宙や哲学という果てしない世界に惹かれて漂っていた私の心- は、日本の土のうえに還ってきた。
 懐かしい湿気の匂いとぬくもり。やはりここが、私の住まいだ。私にとって、心と体を癒し、解いてくれる室は、古い音霊がしっとりと広がっているこの場所なのだと、古い言葉の中であらめて、たしかめる。

 古語を聞くと、静けさの深みに、心地よく、はらりはらりと落ちてゆくような気分になる。私の感じる古語は、当時の人々が感じていたそれと大きく違うことは当然だが、古い言葉に微細に心が揺れるとき、自分の「源泉」みたいなものが、そこにぼんやりと存在しているような気がする。

 竹西さん、円地さん以外にも、私は書家の篠田桃紅さんや、作家の白洲正子、幸田文、宇野千代…と、特に女流の随筆が好きで、よく彼女たちの本を開く。この頃は、池田晶子の哲学エッセイやさくらももこの随筆も好きで読むけれど、やはり私が惹かれるのは、一昔前の、和歌や古語の嗜みを、その時代の文化として携えていた女性たちの随筆である。
 エッセイというよりも、随筆。耳を澄ませて、聴き隨うことを「随聴する」と言うけれど、彼女たちの静謐な文章には、随筆、「筆に隨う」という感じがある。
 おしゃべり口調で書くうちに、うっかり筆が滑ってしまうことも多々あるが、私は一つ、「作品としての随筆」というものがあると思っていて、それは言葉の表現でありながら、大いに言葉を超えた感覚を読んだ人に与えるものなのだと思う。絵画的でもあり、音楽的でもあり、考えるより先に感じてしまうといったような。そういう随筆を書きたい、と思って「随筆家」。概念的なこと、哲学的なこと、社会的なことに向かって奔走しているうちに、危うく忘れそうになっていたそのことを、『古語に聞く』に集められた言葉と、竹西さんの随筆の数々に思い出さされる。


 先ほど読んだその本の「気遠し」という章に、

 ”私は明晰というのは、理性及びその支配領域だけで言い得ることではなく、感性の領域にも適応できると思うので、感覚的明晰さの強い言葉は重用したいと思っている”

 という一節があった。

 竹西さんは古典の研究者でもあるから、この本の中には、古語の分析や、分析的な、アカデミックな感じのする言葉の表現もたくさんある。

 論や説明のためにある細かい学術用語や専門用語などの言葉はたしかに「明晰」なのかも知れないが、それは主に理性を基盤にしているだけで、感性を基盤にすれば、わかりやすいところで言うと、たとえば「をかし」や「あやにく」や「はづかし」といった言葉ほど、明晰に感性を表しているものはないと思う。それらの感覚はわかるけれど、現代のどのような言葉に置き換えても不完全になってしまう、そこに古語が持つ音の響き、「感性の明晰さ」がある。

 身を浸していて心地が良いのは、古語の響き。けれど一方で、竹西さんが表現していることに共感できたり、気づきを与えてもらえるのは、西洋の言葉が輸入され、明治の学者たちによって上手な翻訳語が作られたからこそで、ここに書かれた「理性」や「感性」という言葉さえ、私は西洋的な、理性の領域での明晰さを感じる。


 美しい古語が、今もずっと使われていたならどんな感じだっただろう…とときどき私は想像する。

 使う言葉によって、感じ方や、思考もきっと違う。古語には、それこそ感性の明晰な言葉が多いような気がするから、身の回りのことも全然ちがった感覚で感じ、今よりも分別がなくなって柔和な世界が現れるかも知れない。

 そもそも私たちの中には、さまざまな感性が潜んでいるのだと思う。

 日本の言葉に出会って目覚めるものもあれば、西洋の言葉に出会って目覚めるものもある。けれど、今の私には、なんとなく西洋由来のもの、近代以降のものに出会って目を開いている感性が多く、その目が見る景色だから、必然、西洋的な考え方やものの見方の方が、自然に感じることが多い。そのかげで、日本の古いものに反応する感性は、静かにまなこを閉じていっているような気がする。

 しかし、今、ふたたび古語に思いを馳せたり、暦の儀礼を生活に取り入れたり、実際に自分が着物を身に纏ったりする中で、それらの目が開くとき、そこに映る景色や入ってくる光の柔らかさに、私はやはりうっとりする。
 西洋や東洋、日本、という括りにこだわる必要はないけれど、やはり、生まれた土地のその心地よい光や風の中で過ごしていたい、そこから、世界を感じていたいと思う。




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