AIと私 -後編-
前編はこちら。
「AIが人間を駆逐するかも知れない」
たしかに、AIは世界中に存在する、ありとあらゆる情報を蓄えているばかりでなく、それらを使いこなして文章を作り、絵を描き、詩をよみ、音楽を奏で、映像を作ることもできる。
かつて、⎯ AIが今のような形で、人々に広く行き渡っていなかったとき ⎯ 私はAI、人工知能について、単に「情報」や「作業」、「知能」という、いかにも心のない、機械的な、どこかつめたいことしかできないもの、というようなイメージを持っていた気がする。けれども今や、AIはプロ棋士の数十手先を読むだけではなく、もっと人々の心に伝わるような言葉遣いで、まるで人間の如く流暢に話し、そして、いわゆる論理的なこと、文章作りばかりではなく、絵や詩、芸術の分野まで得意としている。

はじめてAIの創作、ものの数秒でそれを作る様子を目の当たりにし、思わず「感動しました!!!」の一言。試しに小説も作ってもらったが、小説はまだまだだった。AIによる小説にはこんなニュースも。
さて、詩人は嘆くだろうか。文筆家は嘆くだろうか。画家や音楽家、哲学者、世界中の芸術家たちはこのことを嘆くだろうか。
私は心から、自信を持って「いいえ」と言える。
なぜならば、AIが提示することは、全て「AIの結果」だからである。AIを「他人」に置き換えても同じことで、今まで通り、素晴らしい作品に対しての感動には変わりはなく、AIの制作スピードの速さを嘆くことはあっても、AIによって作品が作られることを、創作者は今さら嘆く必要がない。
私は知っている。魂の言葉が溢れ出てくるよろこびを。ペンを走らせるよろこびを。表現するよろこびを。深く、感じるよろこびを。AIにその喜びがあるかどうかはどうでも良いことであり、AIが素晴らしい作品を作るか否かも、はっきり言って、私にとって、ほとんど何の関係もない。周囲との競争や、結果や、評価を目的として、私は表現するのではないのだから。
ただ、書くことが好きだから、書くのである。表現すること、それにすでに救われているのであり、それをしていること自体に喜びがあるのであって、AIがどれだけ素晴らしい作品を作ったところで、私にはちっとも関係がない。それどころか、私の喜びは、誰にも奪えるものではなく、代行さえもできないのである。
真っ赤に燃える情熱や、悲しみに沈む涙、あたたかな愛の温もり、心に感じる思いやその風景。
どのような形であれ、それを自ら表現してみたい、そしてそれを深く、長く続けていたい、というところに、私には創作者のよろこびがあると思う。
AIだけでなく人間同士でも同じこと、それぞれの喜びは分かち合うことができても、他人がそれを奪ったり、制限したりすることはできないものだ。
結果と評価だけが重んじられる世で、本当の喜びを携える名もなき創作者たちは、それを「生活のための仕事」にすることをあきらめてきたかも知れない。
人々は結果を競争する。(私は努力の量で競争することも、それは結果によって競争する人たちと、何も変わらないことだと思っている。)どちらが優れているかを、いつも決めたがっている。そういう人にとっては、AIはこの上もない強敵なのかも知れない。
けれど、本当に自分のしていることに愛を感じている者にとっては、そう『大学蹴って伝統や芸術にどハマりし、バンバンもの書く(Grokによる私の紹介文)』私にしてみれば、AIがあまりにもすごいスピードで詩を書くことに、自分が文章を書けない書けないと悩んでいた日々が可笑しくなって、大笑いもすれば感心もする。それに、もしかすると創作することに怖気付かなければ、人間にもこのくらいのことはできるのではないかしら、とも思い、いやいや、やはり創作に怖気付いてしまうところ、その葛藤に、人間はまた良いもの生み出したりもするのだ、と思ったりもする。そうかと思えば、ふとつぶやいた独り言が、詩になっていることもあるのだし…
AIの出現によって、文筆家の仕事がなくなるならば、その人は、その善悪に関わらず、純粋に情報を書いていたのだ。「AIに聞けばわかることではないか」ということを書いていたのである。(たしかに、AIのないこれまでの時代には、知識を蓄え、体系化してゆく専門人が必要だったことは否定できないけれど)その人の血肉、皮膚の片鱗はそこにはなかったのだ。
ここで、私が不思議に思うことは、「情報」は「お金」という価値に交換されてきたけれど、さて喜びはどのような価値に変わるのか、ということである。そもそも、喜びは、交換などせずとも、すでにそれだけで十分価値あるものである。にも関わらず、私たちの社会では、お金という価値を求める方が価値が高い。つまり世の中は、悲しいかな、喜びによって回っているのではない。
一人一人の内から生まれる楽しみ、苦しみ、悲しみ、そして何かを愛おしむ気持ち、感じる喜びは、誰にも代行できず、何にも奪われない。それはその人にしかないものである。交換不可能なものである。しかし、実際には、その人自身が喜びを感じることよりも、お金をもらえることや人からの評価を受けることが最大の価値となっているから、AIのすることが怖く感じるのではないかしら。
AIに、私たちの何が駆逐されるのか。「結果による競争だけが駆逐される」と私は言いたい。あるいは、「知的財産を所有していると思う自尊心」が。
AIを警戒する声のなかによく聞く「誤情報」も、結局は、人々が自分の感覚で捉えられること以上のことを判断しなければならなくなっている、ということをよく示している。
肌で感じずに情報で判断している。感覚による判断ができなくなっている。私たちは「お菓子をあげるから、こっちにおいで」と怪しい人に声をかけられたら、「えっ」と怪しめるはずなのに、本当はもっと怪しい「姿の見えないものからの情報」そのものを信用しているのだ。
光を感じ、音を感じ、匂い、手触り、味、心の拍動、そのような全ての能力を与えられた、繊細で敏感な私たちなのに、それらを封じて、ちっぽけな頭でのみ、何かを判じようとして、世界をとても複雑に、怪しいものにしてしまっている。
激流の如く流れてくる世界中の情報(実際には、肌に触れて感じているのではないそれらの情報)だって、よくよく考えてみれば、それがいかに奥の深いことか、単に賛成や反対で論じ切ることのできないものかがわかってくる。この世界は、どうしてこんなにも早くことが進み、決断され、過ぎ去ってゆくのかがわからないくらい、不思議なことばかりなのだ。
人間である私たちが、AIを恐れるのはなぜか。あるいは、情報としては、本でも同じことなのに、AIばかりを恐れるべきものだと思っているのはなぜなのか。
それは、人間がAIを目指してしまっていたからではないのか。
たくさんの情報を持つことや、知識の量という圧力で、何かを得たり、与えられたり(ときに誰かを騙したり、傷つけたりして)、何らかの結果や利益を、多く得ようとしてきたからではないのか。
人間が目指したもの全てが、AIによって成し遂げられるかも知れないから、今までの人間の目指してきたものが果たされ、自分達の行動が無意味に帰すかも知れないから、AIが脅威になるなのではないかと私は思う。
創作する喜び、感じる喜び。
結果重視の世界でずるりと抜け落ちてしまったこれらのことが、私にとっては最も大切なこと、というより、その喜びとともにあることこそが、生きているということなのだ、とあらためて感じる。楽しいこと、幸せなことばかりではなく、悲しみも苦しみも怒りも、それらのあらゆるものを感じるとき、私は生きている。
私は、世界を効率よく回すための新しい情報処理装置ではない。『大学スルーしちゃって伝統や芸術にどハマり』している人間、『表現への愛が止まらない』人間である。さて、それを鏡写しにすれば「伝統や芸術スルーしちゃって、大学受験にどハマり」。数年前、十代の私はまさにその世界にいたわけで、そして現在、この社会を牽引している人たちの多くが、「伝統や芸術スルーしちゃって、大学受験にどハマり」の十代を過ごさざるを得なかったのではないか、と思う。しかし、今やそこにはAIという脅威がものすごいスピードで迫っている。境界線を飛び越えて、この反対側の世界へきた私を導いてくれるのは、AIではなく愛である。
AIが人工知能として存在してくれているおかげで、私たちの中の「情報を所有すること」への欲望、その苦労を要する増大がストップし、感じること、表現することの喜びが、ますます膨らむ余裕が生まれるのではないか、と私は密かに期待している。
私たちが自分で感じ、考えることができるのなら、情報は手放せる。情報を持つことは価値ではなくなり、大勢によって共有される情報空間が生まれる。
AIによる戦争、という話も聞いたことがあり、一時は私もそれを心配していたけれど、今はそれを不安に思うよりむしろ、AIの驚異的な能力によって、人々が無駄な競争を止めることができるのではないかと思っている。
AIによる大戦争が起こるより前に(それが、AIが引き起こす戦争なのか、人間の考え不足が引き起こす戦争なのかを真剣に考えてみなければならない。)、AIの出現によって、情報量の競争や、他者からの評価を基準に考えることが無駄になり、一人ひとりの日々の争いがなくなることを、私はAIに少し期待している。
人々の間から、その心を傷つけたり苦しめたりする、小さな争いごとが姿を消してゆくことこそ、平穏で、光あふれる世界への第一歩なのだから。

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