「和也ならどう思うだろう」―『タッチ』と不在者の物語
あだち充の『タッチ』という作品について考えていると、私はいつも上杉和也と柏葉英二郎のことを思い出します。
多くの人にとって『タッチ』は、双子の兄弟と浅倉南をめぐる青春野球漫画でしょう。
もちろん、それは間違いではありません。
けれども私には、この作品は少し違って見えます。
何十年も前から、そこにいない人と、そこにいるのに見えなくなってしまった人の物語として読んできたように思うのです。
死んだ人は語らない
上杉和也は、甲子園出場を目前に交通事故で亡くなります。
それ以降、和也本人は何も語りません。
しかし作品の中では、誰もが和也について語ります。
浅倉南も、原田も、松平孝太郎も、そして柏葉英二郎も。
「和也ならこう言うだろう」
「和也ならこう考えるはずだ」
死んだ人は語りません。
だからこそ、生きている人が語り続けます。
そして不思議なことに、和也は作品の後半になればなるほど、その存在感を増していくのです。
和也は、いないのに存在している
興味深いのは、登場人物たちが語る和也が少しずつ違うことです。
松平にとっての和也は憧れのエースです。
南にとっては幼い頃からの特別な存在です。
原田にとっては達也と並ぶ親友です。
それぞれが、自分の中の和也を語っています。
だから和也は一人ではありません。
人の数だけ和也がいる。
そこにはいないのに、誰よりも強く存在している。
そんな人物として描かれているように思います。
柏葉英二郎という、もう一人の主人公
私は若い頃から、『タッチ』において柏葉英二郎は特別な存在だと感じていました。
終盤になって突然現れる鬼監督。
けれども、単なる悪役には見えませんでした。
彼の言葉には、どこかやり場のない悲しさがあったからです。
「華やかな舞台に立った兄を、暗闇で見つめる弟の気持ちが解るか?」
この言葉は今でも忘れられません。
兄の起こした事故の身代わりにされ、野球部から追い出され、自分の人生を奪われたと思っている男。
彼は復讐のために明青学園へ戻ってきます。
しかし、その怒りの奥には、自分の人生を誰にも見てもらえなかったという思いがあったように見えます。
存在しているのに、不在にされる人
和也と英二郎は対照的です。
和也は、いないのに存在している。
英二郎は、いるのに存在しないことにされている。
この対比は、昔から私の心に残っていました。
考えてみれば、現実の社会にも似たことがあります。
亡くなった後も語り継がれる人がいます。
その一方で、
そこにいるのに見てもらえない人がいます。
声を持っているのに聞いてもらえない人がいます。
同じ教室にいても仲間として扱われない人。
同じ組織にいても、最初からいないものとして扱われる人。
英二郎という人物は、そうした存在を象徴しているようにも見えます。
「そのセリフは高校時代に聞きたかったぜ」
物語の終盤、過去を知るOBたちが英二郎に向かって言います。
「でもあの子たちに罪はないだろう」
それに対して英二郎は答えます。
「そのセリフは高校時代に聞きたかったぜ」
私はこの場面が好きです。
それは単なる恨み言ではないからです。
本当に言いたかったのは、
「なぜあの時、誰も言ってくれなかったんだ」
ということだったのではないでしょうか。
誰も助けてくれなかった。
誰も止めてくれなかった。
誰も自分を見てくれなかった。
その時間の長さが、この一言に込められているように思います。
「あれは上杉達也だ」
一方、達也もまた長い間、和也の影の中で生きてきました。
和也の代わりとして。
和也の夢を託された兄として。
しかし達也は和也にはなれません。
そして、なる必要もありませんでした。
マウンドの上で達也は、自分自身を取り戻していきます。
荒れ球を投げる。
フォアボールを出す。
格好よく決めきれない。
それでも、それが上杉達也です。
その姿を見て原田は言います。
「あれは上杉達也じゃねえ」
そして、
「あれは上杉達也だ」
達也はようやく、誰かの代わりではなく、自分自身として立つことができたのです。
『タッチ』は不在者の物語だった
若い頃の私は、『タッチ』を達也と和也の物語として読んでいました。
しかし同時に、柏葉英二郎という人物に強く惹かれていました。
今振り返ると、その理由が少しわかる気がします。
和也は、いないのに存在し続ける人でした。
英二郎は、存在しているのに見えなくされていた人でした。
そして達也は、その二人の間で、自分自身を見つけていった人でした。
『タッチ』は野球漫画です。
青春漫画でもあります。
けれども同時に、
誰が語られ、
誰が忘れられ、
誰が見えていて、
誰が見えなくなっているのかを問い続ける物語でもあります。
だから私は、何十年たった今でも、この作品に惹かれ続けているのだと思います。
見出し画像は
見出し画像は、2021年8月11日のブレーメン中央駅です。
コロナ禍で行動が大きく制限されていたドイツ滞在も終盤に差しかかり、ようやく日帰りで出かけることができたブレーメンへの小旅行の際に撮影しました。
当日はドイツ鉄道のストライキ初日で、予約していたICEが運休となり、急遽予定を変更して地域快速で向かうことになりました。帰路の運行状況も気にしながらの慌ただしい移動でしたが、18年半ぶりに訪れたブレーメンの街並みや広場、公園を歩くことができたことを今でもよく覚えています。
この写真を見ると、まず駅舎の大きな空間が目に入ります。しかし私にとっては、長い制約の続いた日々の中で、ようやく別の場所へ足を運ぶことができたという記憶と結びついています。写真の中には写っているものと写っていないものがありますが、思い出というのもまた、そのようなものかもしれません。
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