エッセイ「あるこだわりについて」 周
「あるこだわりについて」 執筆者 周
私はずっと幸せに生きていました。
もちろん、悲しい事もイラつく事もあったけど、まあトータルで見れば幸せだと思うのです。
けれど、ある日気付いたんです。
ある程度不幸な過去があった方が、もっと同情されて、もっと評価されやすくなるんじゃないかと。ほら、漫画とかドラマでは悲しい過去があるキャラの方が多いし、過去が悲しければ悲しいほど今が頑張っている様に見えるってわけで。と、言うわけでその日から私は自分の「同情すべき過去」を作る事にしました。
まず悲しい過去、とは。
パッと思いつく不幸はやはり死、病気、いじめ、この辺りです。
しかし病気やらその辺はなかなかハードルが高いし、私が作りたいものはあくまで過去であって現在ではありません。 現在と未来は必ず幸せでなければなりません。いじめ。 これもまた難しいです。 今までと考えて相対的に不幸でも、必ずしもそれと断定する事はできませんから。
それなら、悲しい出来事を思い出しましょう。 なんでしょうか、悲しい事も当然多々あります。 一番初めに思いつくのは朝食のトーストを食べた時に、焦げたパンの欠片が飛び散って不快になった事でしょうか。 あまり不幸とは言えません、同情もできませんね、全く駄目です。
ほかはどうでしょうか、カフェのテーブルが壁に対して完全な直角では無かった、嫌いな色の組み合わせをしたポスターを見た、うっかり嫌いな奴を視界に入れた。
どれも直近で起きた不幸な出来事ですが、どれも悲しい過去とは言えません。 思い返してみると、その悲しい出来事はたくさんあるのですが、何一つ詳細に浮かんでは来ないのです。
全てが妄想や聞いた話と混じってしまって、ぼんやりとしているのです。
どれだけ不幸だとしても、過去は過去です。 昔のことは忘れます。 どうすれば同情すべき過去を作れば良いのか、私は分からなくなってきてしまいました。
次に考えたのは些細な悲しい出来事同士を関連づけて、一つの悲しい過去にする、と言うものです。 一見何の関係もない事に、無理やりこじつける事で、さも悲しい過去を背負っているように見せるのです。
実はトーストの焦げが気になるのは子供時代にテーブルが直角になっていなかったせいで……これも辞めましょう。 私は小説家に向いていないようです。
自分で悲しい過去を作って同情してもらいたい、なんて悲しい過去を背負っている人にとっては失礼極まりないでしょう。 ずっと幸せに生きている事はとても良い事です。 しかしどこからが悲しい事で、どこからが幸せな事なんでしょうか。 それは誰が決める事なんでしょうか。 私にとっては病気もテーブルの角度も、ポスターの色も嫌いな奴も違いはあれど全て同じ箱に入っているのです。
とはいえ客観的に見れば事故に遭った、とトーストの焦げ、なら同じくらいの不幸とは思えないでしょう。それは事故の当事者にとって失礼であり、配慮を欠いています。
一つ言っておくと、私は悲しい思いをしたいわけでは無いし、他の人の不幸を馬鹿にしているわけでもありません。ただ私が欲しいものは現在を相対的に素晴らしいものにする「同情すべき悲しい過去」で、私が(認めましょう)小馬鹿にしているのは悲しい不幸な事を全く関係のないところで持ち出して他人に押し付ける人です。
彼らはそれを話して一体どうして欲しいのでしょうか。 私はそれが分かるほど賢くありません。 何故悲しい過去があれば、周りが自分にとって都合良くしてくれると思うのでしょうか。 私が言うのはあれですが、創作物の見過ぎでは無いでしょうか。 彼らの語る悲しい過去によって周囲が現在も未来も「悲しい」に侵食されていく様子はまさにテーブルの角度やトーストの焦げと同じ不快感と不幸を覚えます。
見方を変えれば、彼らは非常にギャンブラー精神の持ち主とも言えるかも知れませんね。 その悲しい過去が、必ずしも配慮や優しさに結びつくとは限りません。 かえって利用されたりする可能性もあるわけです。
もう一度いっておくと、私は悲しい過去を否定するわけではありません。現に私はそれを求めています。 私が言っているのは悲しい過去があれば現在も未来もどこでも自分に配慮すべきと言う傲慢さが気に食わないのです。 テイカー気質も良いところです。
加えて、彼らは自分こそが一番不幸だとある種自惚れているのです。 確かに同情で美味しい思いをさせて貰おうと躊躇いなくできる事はこの上なく悲しい思考かも知れません。 いいえ、そんな事をしても何とも思わないのはもはや一周回って幸せかも知れませんね。 彼らは自分の不幸か幸せには執着する割に、他者の不幸に対しては非常に鈍感です。
私にとってあまり悲しい過去を他人と共有することが容易でないので、羨ましいのかも知れません。 それは何も周りが信頼出来ないとか、迷惑をかけてはいけないといった道徳心ではなく、単なるこだわりです。 私は、仲がいいからと言って何もかも公にする必要は無いと思っています。どれだけ仲が良くても結局他人なので見せたい物も、見せたく無い物も自分が決めなくてはならないのです。全部何から何まで見ないいと信頼出来ないと言う事は、とても不安定だと思います。
それに私は予想外というものがすごく嫌いです。なので他の人に自分の過去に対して思い通り以外の反応をして欲しく無いし、それを押し付けようとは思いません。
話が逸れてしまいました。これに関しては個人による物なので断定は出来ませんね。話を元に戻すと、私は悲しい過去で簡単に同情されて、自分に都合良くして貰いたいと思っています。けれどそれと同時に、それはとても恥ずかしいと言う思いがあります。
また、一人の主観によって語られた過去は、実際にあったことそっくりそのままではありませんから、少しくらい自分が新たに解釈を加えてもあまり変わりない、大して悪く無いだろうと卑怯な考えもあります。詰まるところ、これは私がどちらのこだわりにするかで迷っているだけです。
同情されたいし、ちやほやされたい。あるいは、現在を苦労せずして素晴らしい物に変えたい。けれど私自身のこだわりがそれを許さないのです。 つまらないこだわりでしょう。けれど、そういったこだわりの集合で私は居たいと思うのです。また矛盾していますが。
だからこだわりのない連中をずっと私は馬鹿にしているし、羨ましくも思っています。 悲しい思い出がこの寂しさを埋めてくれるような気がするのです。もしかしたら、これが私にとって一番悲しい過去なのかも知れません。
残念ながら、同情は得られそうにありませんが。
この作品は文芸誌『朗々』12号に掲載されている作品です。
