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説明しないこと 谷口ジロー、夢枕獏『餓狼伝』

谷口ジロー版『餓狼伝』は1989年から90年にかけて連載された全一巻の格闘漫画だ。原作は夢枕獏の同名小説。流浪の格闘家・丹波文七がプロレスラー梶原年男に敗北し、六年間の鍛錬を経てリベンジを果たすまでを描く。夢枕獏は後書きで「谷口ジロー以外の漫画家の線で描かれるくらいなら、餓狼伝の漫画化は永久になくていいと思っていた」と書いた。

格闘漫画はロマンを作るために説明する。大ゴマ、効果線、技の名前、観客の反応——これらが「この戦いは特別だ」「この男は強い」「この場面に感動しろ」という意味を読者に渡す。格闘漫画のロマンは、説明によって成立している。

谷口ジロー版『餓狼伝』にも一部それはあるが、説明が薄い。

背景は山下公園だ。技は地味だ。クライマックスの寝技の応酬は「あが」「うぐっ」という声だけで進む。決定的なのはカメラは引いて、風の中で絡み合う二人を小さく映すコマだ。カメラを至近距離に映せば迫力が出てその格闘がまるで世界の中心の様に映るが、引くことによって見えるのは公園でもつれ合う2人の男だ。そしてこの漫画は丹波文七がなぜ戦うのかを、最後まで説明しない。

にもかかわらずこの作品にはロマンがある。説明なしにロマンが生まれている。その逆説がこの稿の問いだ。

一 身体は説明しない

谷口ジローは人物の体型を職業の結果として描く。

梶原はシックスパックのないでっぷりしたプロレスラー体型だ。丹波文七は服を着ると少し太って見えるが脱ぐと全部筋肉だと分かる身体をしている。松尾象山は服を着た見た目はただの壮年の男のように描かれるが、その身体には格闘の歴史が刻まれている。

格闘漫画が強さを記号として説明する時、谷口ジローは身体の具体性だけを置く。この身体がどう使われてきたか。その蓄積だけが描かれる。「強い」とは言わない。強さの根拠になった時間が身体に刻まれている。

身体は履歴であって、意味の説明ではない。

二 暴力は説明しない

丹波文七が川辺という男の相手の指を折る場面がある。

派手な効果線も大ゴマもない。上段で技が入る瞬間、中段で「わかったろう?」という確認と折れた指、下段で丹波の顔と「おれも折ることができるんだっ」というセリフ。たった一ページだ。

格闘漫画が通常やる「技の瞬間の誇張」を排除して、暴力が人間と人間の間で起きた事実として提示している。誇張は読者を興奮させるが、同時に暴力に意味を与える。谷口ジローは意味を与えない。暴力が実際に起きたという重さだけが残る。

姫川がセックスの場面で汗をかき必死な表情をする描写も同じだ。原作で底が見えない謎の存在として描かれる姫川に、谷口ジローは身体の事実だけを与えた。どれだけ強くても、どれだけ謎めいていても、身体は正直だ。しかしその身体が何を意味するかは、説明されない。

三 世界は説明しない

クライマックスの丹波と梶原の戦い。風の中、二人が絡み合っている。しかしカメラは引いていて、二人は画面の中の小さな塊だ。周囲には広い空間があり、遠くに立っている姫川と涼次がいる。

格闘漫画はカメラを寄せることで「この戦いが世界の全てだ」という説明を行う。谷口ジローはそれをしなかった。世界は戦いのために止まらない。空間は続き、傍観者は立っている。

この戦いが何のための戦いなのかを、世界は説明しない。ただ風が吹いていて、二人が絡み合っている。

四 丹波文七は説明しない

丹波文七は過去に刃物を持ったヤクザとの喧嘩になり、怖くて逃げようとしていた。しかし逃げる方向にヤクザがいた。そこで戦いになる。意志と身体が乖離している。逃げようとしていたのに身体が戦っていた。

梶原への執念を語る場面では「勝ちたいという意志」と「血が騒いでいた、どうしても鎮めようのない暗い血のざわめき」という夢枕獏の小説からそのまま引用した地の文が並列して書かれる。意識的な動機と、それとは別に身体レベルで起きている何かが同じ人間の中に共存している。

丹波文七は格闘を選んでいない。格闘が身体から出てくる。なぜ格闘が出てくるのかは、丹波文七自身も説明できない。

五 説明しないことが生むロマン

金も名誉もない。ルールもない。危険だけがある。それでも古武術の達人とその辺で戦い、梶原とは横浜の山下公園で純粋に戦う。

格闘漫画が説明するとき、読者は意味を受け取って感動する。谷口ジローが説明しないとき、読者は意味を受け取れないまま立ち止まる。この男はなぜここで戦っているのか。

その問いに答えは来ない。身体の履歴が積み重なり、暴力が事実として起き、世界は止まらず、丹波文七自身も自分を説明できない。説明の不在が問いを生み、問いが読者を作品の中に引き留める。

谷口ジロー版『餓狼伝』のロマンは与えられない。説明されないまま、読者の中に生まれる。

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