<A-7> 李時珍の叡智 「齧桑」編
〜天牛名義考「名義史放浪編(なまえのれきしほうろうへん)」〜
はじめに
先稿 <A-6>までの考察で, 中国の古典籍にはカミキリムシと思われる虫が2系統記載されていることがわかってきました。
「蠰(ショウ)」(別名「齧桑」) と「天牛」です。
ちなみに, 平安時代の学者, 源順(911-983)は自著『和名類聚抄』に「蠰」を記載しています。 「天牛」には言及していません。
さて, 先稿 <A-6>に記しましたが, 明の本草学者, 李時珍(1518-1593)の考察その他を踏まえ, 「天牛」はゴマダラカミキリ(Anoplophora)属のカミキリムシであることが判明しました。
しかも, 紀元前の字書『爾雅』の「註」で郭璞(かくはく 276-324) が「蠰・齧桑」を "天牛に似る" と記していることから, 「蠰・齧桑」と「天牛」とは別物とみなされているにほかならない, と李時珍は言うのです。
それなら,「蠰・齧桑」とはどんなカミキリムシなのでしょうか。 これが先稿 <A-6>の末尾で筆者が掲げた課題でした。 本稿ではこの課題に取り組みます。
1.李時珍,蘇東坡 「天水牛詩」を引用す
さて, 自著『本草綱目』で「天牛」についての知見を披露した李時珍. かれは生態や特徴について述べた「集解」の後半で, なんと蘇東坡(そとうば)大先生を ”召喚” するのであった. 蘇東坡の五言絶句「天水牛詩」を李時珍は問題にしたのである.

早稲田大学中央図書館蔵
(再掲, ただし, 本稿の注目部分を強調) .
青灰着色部:郭璞 (『爾雅』)「註」の引用と解釈.
黄着色部:蘇東坡「天水牛詩」の引用.
緑着色部:李時珍による「天水牛詩」批判.
まず, 「天水牛詩」の引用箇所をみよう. 上図の黄着色部分である.
而蘇東坡 天水牛詩云
兩角徒自長 空飛不服箱 爲牛竟何益 利吻穴枯桑
これを書き下せば,
而るに, 蘇東坡「天水牛詩」に云く,
兩角徒らに自ずから長し, 空飛びて箱に服さず. 牛と爲して竟きるところなんぞ益するや. 利(鋭利)なる吻, 穴して(穿って)桑を枯らす
"而るに" という李時珍の書き出しの意図は後述するとして, まず,「天水牛詩」を上の書き下し文に沿って意訳しておこう. すなわち,
二本の触角は徒(いたずら)に長く, 飛翔して箱の中にじっとおさまっていない. この虫を牛とみなして, つまるところどんな得があるのか. 鋭利な口吻は桑の木に穴を穿ってこれを枯らしてしまう.
中国北宋の政治家にして詩人にして書家にして画家にして文豪. 音楽も能くしたという巨人, 蘇東坡(蘇軾 1036-1101).
その蘇東坡がこの「天水牛詩」を詠んだのかあ. うーむ. まことに畏れ多いことながら申し上げ奉るに, 酔狂にしてもお粗末な出来だ. “この虫を牛とみなして, つまるところどんな得があるのか” などとねえ.
それに, 「天水牛」と題する以上, この詩のカミキリムシは「天牛」と思われるが, 桑を寄主植物として特筆しているのは解せない. 先稿 <A-6>で考察したように,「天牛」はこんにちでいうゴマダラカミキリ類. かれらの寄主植物は少なくとも桑ではないはずだ*1. おそらくこの点が本草学者たる李時珍を刺激したのだろう. かりに押韻の都合で蘇東坡があえて "桑" を選んだのだとしても, である*2.
2.齧桑はキボシカミキリの仲間なり
李時珍は, 蘇東坡の引用の前にまず郭璞(かくはく) を引いている. これはすでに<A-6>で確認しているが, 再掲しよう. 「郭璞註云フ」以下の箇所(上図で青灰着色部)である. ちなみにこれまた何度も紹介して恐縮だが, 郭璞は中国最古の字書『爾雅』の「註」をしたためた人である.
ここでは該当箇所の意訳で済ませておく.
(「蠰・齧桑」は) 形状が "「天牛」に似て" 触角が長い. 虫体には白い斑点がある. "桑の木を好んで齧り", (幼虫は)穿孔して中に潜り込んでいる. 江東地方ではこれを齧髪と呼んでいる.
ここに, (郭璞は)「蠰・齧桑」と「天牛」とを "二物" (別物)としているのだ.
最後の一行は李時珍の見解である. "似ている" という以上 "別物" にほかならないという主張だ. 先に保留した "而るに" は, この一行を受けた逆接の接続詞である. 「それなのに蘇東坡先生はさ, 齧桑も天牛も一緒くたにしたような詩を詠んでいなさるんだよ. 困るんだよね」というわけである.
そして, 李時珍は次の一文で締めくくる.
此則謂天牛卽齧桑也 大抵在桑樹者卽爲齧桑爾※
此れ則ち天牛と謂うは卽ち齧桑也.大抵桑樹に在るを卽ち齧桑と爲すのみ(※ 限定の辞という. "…のみ").
意訳すれば次のようである.
(蘇東坡の詩のいうところの)「天(水)牛」とはつまり「齧桑」のことだ. おおよそ桑につくのは「齧桑」としなければならない.
”召喚” した蘇東坡を, いや, かれは李時珍の時代にすでに故人だから, 蘇東坡を信奉する人々を諭すような一文だ. つまるところ, 「齧桑」と「天牛」とは別物であり, 前者は(その名のとおり)桑を寄主とするらしい.
さて, 主として桑類を食害するカミキリムシにはトラフカミキリ, クワカミキリ, キボシカミキリなどがいる. 蘇東坡が天(水)牛と題したのは, 李時珍の指摘のように正しくは「齧桑」だとして, それが「兩角徒自長」というほど ”長角” ならば「齧桑」はキボシカミキリだろう(下図)*3. 桑や無花果の生木を襲う大害虫である*4.

左:♂26.Ⅵ.2016, 中:♂11.Ⅷ.2010, 右:♀ 9 16.Ⅷ.2011
「蠰・齧桑」はこの仲間なり. 黄斑の濃度は個体差や褪色にもよる.
頭部中央の縦筋(黄色条)は前胸背板両側縁にもあるが,
上の個体はそれらが中ほどで途切れている.
この特徴が現れるのは山梨県以西に分布する個体(西日本型)だという.
ところで, われわれが日本でよく見かけるキボシカミキリの斑点はふつう黄色だから, 郭璞のいう「白い斑点」と整合しない. が, Psacothea (キボシカミキリ)属のカミキリムシとしてみれば白斑の仲間もあるようだ*5.
以上から,「齧桑」(これすなわち「蠰」の別名) は, キボシカミキリ類としていいだろう.
<A-5><A-6>も併せて鑑みるに, 中国では「天牛」は古くはゴマダラカミキリ類を, また, 「蠰・齧桑」はキボシカミキリ類を指し, 互いに似て非なる虫とみられたようだ. 「天牛」の触角は水牛の角にも ”八の字” にも見立てられたが, 「蠰・齧桑」ほど長いとそんな見立ては苦しいかもしれない.
蘇東坡先生はその触角を ”徒らに” 長いと仰せだった. しかし, 筆者には ”素晴らしく” 長く見える. 特に♂の触角は見事というほかない.
それにしても,「蠰・齧桑」と「天牛」の識別は農家以外にはさほど重大事でもあるまい. 蘇東坡も詩作のルールほどには関心がなかったのだろう.
そうして, 語として印象的な「天牛」は後世, カミキリムシ一般を代表するようになり,「蠰・齧桑」は古典籍に名を残すに止まったのではあるまいか, と, これは筆者の勝手な想像である.
ここしばらく, 中国におけるカミキリムシの表記について追跡してきました. 李時珍以降の「名義史」には機会があれば取り組むことにして, 李時珍までは本稿で曲がりなりにも一段落したと思います. すると今度は, わが国のカミキリムシ表記問題の考察が<A-3>あたりで中途半端に止まっていることに気づきました. 当時, 中国の古典籍とそこに潜むカミキリムシとの出会いを期待して, 慌ただしくもワクワクと "出国" したのでした.
そこで, これ以降は中国を離れ, わが国のカミキリムシ表記の検討課題に取り組んでみようと思います. 次稿<A-8>ではさしあたり積み残されている課題を整理して, その後に続けていくことにします.
*1
ゴマダラカミキリ Anoplophora malasiaca は「柑橘類やナシ, イチジクなどの生木に寄生加害」とある. /大林, 新里『日本産カミキリムシ』, 東海大学出版会, 2007 , p.583.
イチジクはクワ科植物だが, クワ=桑そのものはここに挙げられていない.
*2
五言絶句(1句5文字×4句)には, 偶数句で脚韻を踏むルールがある. 「天水牛詩」では第二句末の箱(so)と第四句末の桑(so)が押韻関係にある.
*3
ただし, 清代の学者, 郝懿行(1757-1825)の『爾雅義疏』に「今, 齧桑蟲ハ天牛ニ似ル, 浅黄色ニテ角ヤヤ短ク, 喜(コノ)ンデ桑上に縁(マツワル)」とあるのはクワカミキリと思われる. 郭璞に言わせれば, 「蠰・齧桑」は形状が「天牛」に似て触角が長い, ということだから, どこかで情報が錯綜したようだ.

左:♂ 22.Ⅷ.2007, 右:♀ 27.Ⅷ.2023
右の個体はシロスジカミキリに匹敵する大きさ.
庭の Light Trap に来た.
*4
キボシカミキリ P. hilaris の寄主植物は, 「クワ類, コウゾ, イチジク, イヌビワ, ガジュマル, アコウなどのクワ科」以外に,「柑橘類(ミカン科), ヤツデ, カクレミノ(ウコギ科), クサギ(クマツヅラ科), ムクノキ(ニレ科)」にわたるという/前掲*1, p.598.
キボシ(蠰・齧桑)がクワ類=桑を襲う点でゴマダラ(天牛)とは異なるという見解に誤りはないとしても, 現代では加害植物にかなり重複があることがわかってきているようだ.
*5
たとえば, 中国海南島で採集されたとする Psacothea inarmata に白斑の個体がある/http://bezbycids.com/byciddb/wdetails.id=32622&w=0 .
また, 台湾産の亜種 P. hilaris botelensis も白斑/王效岳『認識台灣的昆蟲 11 天牛科』淑馨出版社, 1995, p.25, さらに, P. hilaris insularis (ヤクキボシカミキリ)も白斑である/前掲*1, p.599.
