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<A-8> 天牛・髪切虫・・・わが国初出問題序説

〜天牛名義考「名義史放浪編(なまえのれきしほうろうへん)」〜



はじめに

もともと, カミキリムシという呼称が古くはどうであったのか, という素朴な疑問から, 試みに平安時代の三書を紐解いたのが始まりでした。 随筆『枕草子』, 辞書『和名類聚抄』, 日記『権記』です。 

ところが, これらを眺めているうちに, わが国の文化に大きな影響を与えた漢籍を探る必要に迫られました。 中国には紀元前に成ったという字書があり, 4世紀にはその註釈書も出ている。 また, 本草学という医薬系の自然科学部門が発達し, 植物のみならず昆虫などにも詳しい書物が出版されていました。 
それら漢籍を求めて慌ただしく "出国" し, 悪戦苦闘の末になんとか次のことが判明したのでした。 すなわち, 中国ではカミキリムシについて「蠰・齧桑」と「天牛」の二通りの表記があり, しかもそれらはそれぞれキボシカミキリ属とゴマダラカミキリ属のカミキリムシに対応する, ということです。 

しかし, 中国での探索が一段落すると, ふと, わが国のカミキリムシ呼称問題は棚上げになっていることに気づきました。 そろそろ "帰国" して日本編の考察を再開しなければなりません。 ただ, 棚上げになっている課題をあらかじめ整理しておくに如くはありません。 
相変わらずスピード感に欠けますが, 本稿はそんな趣旨で書きました。


1. 「天牛」問題

わが国で「天牛」の表記が平安貴族の日記に登場することはすでに明らかになっている<A-1>.  少なくとも, 藤原行成の『権記』, さらにかれの上司だった藤原道長の『御堂関白記』には「天牛」の記載があった.
しか〜し, 精査の結果, この「天牛」はカミキリムシではなく, 牛車を牽くための高級牛 ”あめうし(黄牛)” の書き換えと判明した<A-2>. 紛らわしいヤツめ.

『権記』長保二年/勧修寺家旧蔵本(内閣文庫)から(再掲). 
赤線左が「天牛」にかかる文言.
"千枝朝臣が(私=藤原行成に)牛一頭を貢ぐ 天牛" とある.


それなら, わが国でカミキリムシとしての「天牛」の登場はいつ頃なのか, これは現時点では明らかになっていない.


2. 「齧髪虫」とその周辺

源順(みなもとのしたごう)編の辞書『和名類聚抄』(『和名抄』931-938 ) にはカミキリムシが記載されている.  見出し語は「齧髪虫」だ<A-1>. 源順は「齧髪虫」を中国の古字書『玉篇』にいう「蠰」のことだとした. また, 「加美木里無之」という表記が日本の古辞書『漢語抄』にあるとした*. 「加美木里無之」はいわゆる万葉仮名で, 「カミキリムシ」と漢字の字音を拾って読む.

『和名類聚抄』/那波道園 校訂(1667), 狩谷棭斎手沢本(再掲).
早稲田大学中央図書館蔵. 巻第十九, 蟲豸ノ類(部分).

さて,『和名抄』における見出し語「齧髪虫は, 字義からすれば "髪を齧る虫" である. だが, 言うまでもなく, カミキリムシには好んで頭髪を齧る習性などない. だから, この表記は問題だ. が, このことは "中国への出国" 前にさんざん書いた<A-3>から, ここでは繰り返すまい.

ところで,『和名抄』以前と以後はどうなのか. 同書以外に, わが国には古典的字書・辞書類が数多くあるようで, それらがカミキリムシをどう記載しているか, だんだんそんなことも気になってきた. 「天牛」初出問題も多くの字書・辞書類の探索を経ずには突破できそうにない.


3. 「髪切虫」の登場

それにしても筆者に言わせれば, カミキリムシの最適な漢字表記は ”嚙切虫” だ. ものを ”噛み切る虫” としてその鋭利な大腮(たいさい=大顎)を彷彿とさせる. しかも ”嚙切虫” ならその訓が和名 ”カミキリムシ” に素直に適合する. が, 意味も訓みも整合的なこの表記は現代の国語辞典には見当たらない.

いっぽう, 「髪切虫」なら現代の国語辞典にある. 対して「齧髪虫」はない. 源順の命運はどこかで尽きたのだ. はははは….  いや, 「髪切虫」 は「齧髪虫」の後継か.

ところでその「髪切虫」も語義としては「齧髪虫」同様の問題がある. カミキリムシは好き好んで頭髪を切ったりしないのだ. が, 訓は和名 ”カミキリムシ” に素直に対応するから「齧髪虫」よりはましと言えよう. そのあたりが世代交代の一因かも知れぬ. しかし, いつ頃, 誰が「髪切虫」を編み出したのか. それはまだわかっていない.

行き当たりばったりに『枕草子』,『和名抄』,『権記』の平安三書から入ったカミキリムシ探索. だが, 上に掲げた課題は国内の古典籍調査に本腰を入れないと解決しそうにない. 

以上を踏まえた日本の古典籍探索は次稿<A-9>以降へ. 
次回投稿は「種名考察編」に戻ります. <B-7>.  内容はシロスジカミキリの予定です.



<A-1>の注でも言及したが, 『漢語抄』は『和名抄』に引用があるものの実態が不詳. 別に知られる『楊氏漢語抄』とは異なるらしい(川瀬一馬「平安朝以前に於ける辭書」『青山学院女子短期大学紀要』, 1952, pp.13-14).


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