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短編小説 父のプリン

お昼休みにかかってきた母からの電話は、父が亡くなったという知らせだった。
電話を切った後のことは、ほとんど覚えていない。
でも、今、アパートにいて、実家に帰る準備をしているということは、上司や同僚に伝えることができたんだと思う。

実家へ向かう電車の中。
父のことを考える。
父が亡くなったことに驚いているし、悲しい。
だけど、涙が出てこない。

小さい頃はパパっ子だった。
旅行先で、両親とはぐれて泣いていた私を父が見つけてくれた。
父と手をつないで母のもとに向かう時、父の大きく温かい手に安心したことを覚えている。
でも、思春期を過ぎ、高校・大学への進学と就職。
すべてで、父と揉めた。
私の意見を聞こうとせず、自分の意見を押し付けてくる父に反発した。
父の近くにいたくなくて、就職は地元から離れたところにした。

夕方、実家に着くと、母が弱々しい笑顔で迎えてくれた。
これまで、実家で嗅いだことがなかったお線香の香りがする。
父は仕事中、突然、倒れた。
同僚の人たちが救急車を呼んでくれて、すぐに病院に搬送されたけど、意識が回復することも母に看取られることもなく、父は一人で旅立っていった。

父がいる部屋に入る。
布団で眠る父を見る。
いつもと同じ父の顔。
いつもと違うのは、
お線香の香りがする部屋と、
もう、父と話すことができないこと。

父を見つめる母の顔には、泣いた後が見て取れる。
母が泣いているところなんて、見たことがなかった。
その母が泣いている。

父と母は仲が良かった。
仲が良かったというより、無口な父に母が気を利かせて、色々していた。
何を考えているか分からない父に、たまには文句を言えばいいのにと思っていたけど、

「お父さんとは、お互いに好きになって結婚したのよ。これだけ一緒にいれば、何を考えてるかくらい分かるのよ」

母はそう言って、いつも、ほほ笑んでいた。
今も母は、ほほ笑んでいるが、いつものほほ笑みとは違う。
辛いはずなのに私を気遣って、無理にほほ笑んでいる。

母がお茶を入れに部屋を出ると、父と二人っきりになった。
もう一度、父の顔を見る。
悲しいはずなのに涙が出てこない。
中学生くらいから、父とはケンカばかりで顔も見たくなかった。
見たくなかったはずの父の顔を見つめる。
悲しい。悲しいのにやっぱり、涙が出てこなかった。

少ししてキッチンに行くと、母が急須を持ったまま放心している。

「お母さん、私がするから」

私の声に気づいて「大丈夫」と言う、母の手から急須を取り、お茶を入れる。

「あなたも、ご飯食べてないでしょ? 何か作ろうか?」

「ううん。大丈夫。お腹空かないし」

「そっか…そうね…」

母は一口、お茶を飲むと、

「お父さんのところにいるね」

そう言って、父がいる部屋に戻っていった。
私も父のもとに行くべきなんだろうけど、足が動いてくれない。
お腹は空いてないけど、なんとなく冷蔵庫を開ける。
封が切られていない3個入りのプリンがあった。
父は甘いものが苦手なはずなのに、このプリンだけは、いつも買ってきていた。
思い出の味なのだろうか…
いつか、聞こうと思っていたのに…もう聞けなくなってしまった。

翌日から、葬儀に向けた準備が進んでいった。
忙しなく動く葬儀社の人たち。
祭壇に置かれた父の写真。
長く不思議な夢を見ている気がする。
何を見ても、まだ、父の死を実感できなかった。

父の死を実感できなくても、時間は過ぎていく。
お通夜と葬儀の両方に父の職場の人たちが、大勢、参列してくれた。
父の写真に手を合わせ、泣いてくれた人が何人もいた。
無口な父が、職場の人たちにこんなにも慕われていたことに驚き、嬉しかった。

棺に蓋をする直前、母が家族写真と小説、それと、ネクタイを棺に入れたいと申し出た。
写真は、私が高校に入学した時に記念だからと写真館で撮ったもの。
小説は父が好きで、よく読み返していたもの。
もう一つのネクタイは、ボロボロに擦り切れて、くたびれていた。

「お母さん、そのネクタイなに?」

そう尋ねると一瞬だけ、母が真顔になった。

「覚えてないの?あなたが小学生の時、父の日にお父さんにプレゼントしたネクタイよ」

「…あ…」

そう言われて、思い出した。
小学校二年生の時、父にネクタイをプレゼントしたことを。

「お父さんに、もうボロボロじゃない。って言っても、どのネクタイを締めるかは俺の自由だ。って言って、週に一回は必ず、このネクタイを締めて会社に行ってたのよ」

母は父の顔を見つめ寂しげな笑顔を浮かべながら、そう教えてくれた。

本当は一年生の時にプレゼントしたかった。
だけど、お金が足りなくて、一年生の時は絵をプレゼントした。
足りない分はお母さんが出してあげると言われたけど、自分のお金で買ったネクタイを父にプレゼントしたくて、お小遣いを貯めて、二年生の時にプレゼントした。

母が棺に入れた写真が目に入る。
写真の中で父が締めているネクタイは、このネクタイだった。

忘れていたはずなのに鮮明に思い出す。
一緒にお店に買いに行った時の母の笑顔。
店員さんの表情。
キレイに包んでもらったネクタイを。
リビングで小説を読んでいた父にプレゼントしたら、満面の笑みで喜んでくれて、私を抱き上げ、私の顔に自分の顔を押し付けてきた。
抱き上げられた高さに怖くなったのと、ひげが痛くて泣いてしまい、慌ててオロオロする父と、それを見て笑う母。

棺の中で眠る父の頬に触れる。
冷たい。
今まで、父の顔や手を触った時、温かさを感じたはずなのに、こんな冷たさを感じたことはなかった。
父が死んだことを実感させられる頬の冷たさ。
あの時と同じで、ひげがチクチクする。
ひげがチクチクするのは同じなのに、あの時のような笑顔もオロオロした姿を見せてくれることも、もうない。

気が付いたら、泣いていた。
声をあげて泣いていた。
大人になって、こんなに泣いたことなんてない。
どんなに泣いても、
どんなに「お父さん」と呼んでも、父はもう答えてはくれない。

何で、もっと話さなかったんだろう。
何で、父のことを理解しようとしなかったんだろう。
もっともっと、話したいことがたくさんあった…
私は…何てバカだったんだろう…

後悔してもしきれない後悔が押し寄せる。

母が優しく、肩に手をかけてくれた。
母の目にも涙が見える。
母にとって、父は愛して結婚した最愛の人。
辛くないはずがない。
それでも、母は父が大切にしていたものを用意して、父の死を受け入れている。
私も父の死を受け入れないといけない。
息を整え、母にネクタイを渡してもらい、父の顔の横に置いた。

「お父さん…ありがとう…それと…ごめんなさい…」

この言葉しか思いつかなかった。
家族の思い出とともに、棺に蓋がされた。
そのまま、父は荼毘に付された。

父が荼毘に付されるのを待つ間、改めて、父の死と優しさを実感する。
プレゼントしたことさえ忘れていたネクタイ。
でも、父はずっと大切にしてくれていた。
父が亡くなってから知るなんて、私は何て親不孝な娘なのか。

父は、小さな骨壺に入って戻ってきた。
子供の頃、あんなに大きく感じた父が、今はこんなにも小さい。
骨壺は少し温かい。でも、その温かさは父に感じた温かさとは違った。

その後、親戚たちと食事を取り、夜、実家に戻った。
父がいない実家は広く、どこか空気が冷たく重く感じる。
寂しい。でも、この寂しさは、ずっと一緒に暮らしてきた母の方が強く感じているはず。
少しずつ。少しずつ慣れていくしかない。

少し気持ちが落ち着いたのか、晩御飯を食べたはずなのに小腹が空く。
冷蔵庫を開けると、父のプリンが目に入った。

「お腹、空いたの?」

「あ、うん。このプリン、食べていいでしょ?お父さん、甘いものは食べないのに、このプリンだけは食べてたね」

「何、言ってるの。そのプリンはお父さんが、あなたのために買ってたのよ」

「え?だって、いつも自分で買ってきて、食べてたじゃない」

そう言うと、母がため息をつく。

「そのプリンは、あなたが小さい時、大好きだったプリンよ。お父さん、あなたがいつでも食べられるようにずっと買ってたのよ。実家を出た後もずっと。あなたがいつ帰ってきても食べられるように。って。で、賞味期限が切れると自分で食べてたの」

「そうなの?」

「あなた、お父さんのこと知らなすぎよ」

呆れたような表情をする母に子供の時以来、久しぶりに怒られた。
そうだった。このプリン以外、父は甘いものを食べていなかったんだ。

「お母さん、三人でプリン食べようよ」

母は一瞬、不思議そうな顔をした後、いつものようにほほ笑んだ。

「そうね。久しぶりに三人で食べよっか」

父の写真の前にプリンを置き、母と一緒にこたつに入って、プリンを食べる。
このプリンを最後に食べたのはいつだろう。
子供の頃は好きだったのに、いつからか甘すぎると感じて、食べなくなっていた。
父にこのプリンが好きと言ったのはなんとなく覚えてるけど、食べなくなった理由を話した記憶がない。

「お父さん…私が言ったこと覚えててくれてたんだね…」

「そうよ。お父さんにとっても、お母さんにとっても、あなたは最愛の一人娘。お父さんは本当に溺愛してたわよ。進学や就職で、いつも揉めていたのは、もっと良いところがあるんじゃないかなと思う、親ばかな気持ちからよ」

そう言いながら、母はほほ笑む。

「だったら、もう少し言葉にしてくれてたら良かったのに…」

「そんなことできる人じゃないって、あなたも分かるでしょ?あなただって、お母さんにも何かを伝えることが少なかったんだから。お父さんとあなたは似たもの親子よ」

母がいつものほほ笑みを浮かべながら話す。
確かに言われてみると似ている。
ううん、似ていると分かっていたから反発していたんだ。

「お母さん、お父さんと、どうやって知り合ったの?」

「どうしたの?急に」

「私が知らないお父さんを知りたくて」

「そういうことは、もっと早く言えばよかったのに。そうしたら、何も言わないけど、恥ずかしそうな、ばつの悪そうなお父さんの顔が見られたのに」

母の言葉に笑った。
父が亡くなってから、初めて笑った。

今日は母から父のことを聞こう。
私が知らない 父のことを。


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