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柴田勝家の短編『暗黒人類展総目録・樹木標本棚』

柴田勝家さんから短編を頂きました。とある人気小説家、彼女は小説のネタになりそうな『他人の感情』をさがすため、周囲の人間をわざと怒らせたり悲しませたりする。人の心を冷笑する彼女の前にある日現れたのは――。




 宇宙のどこかに、その小さな部屋はある。過去も未来もない、高次宇宙の位相に作られた空間だが、不思議と地球人類から見ても美しいと思えるような場所だ。
「ようこそ、私の〝猟奇の小部屋(キャビネ・ド・キュリオジテ)〟へ」
 部屋の主が現れた。
 完全美の象徴、ギリシャ彫刻じみた細身の男性だった。彼は銀細工のような長髪をなびかせ、やや眠たげな目で貴方を見ている。襞襟の白いシャツと黒いキュロットは青年貴族を思わせる。
「はじめまして、でしょうか? それとも以前にお会いしましたか? 一応、名乗っておきましょう。私は香取(かとり)華鳥(かとり)。この小部屋のキュレーターをしています」
 華鳥と名乗った青年は室内を歩きつつ、壁際の棚を眺めていた。それらには奇妙な物品が収められている。様々な生物の剝製や骨格標本、あるいはアンティークの細工物に宝飾品、また多肉植物のような自然物から現代的な電子機器まで、実に多種多様だ。
「これらは私のコレクションです。奇品珍品を集め、部屋に陳列し、客人に見せびらかす。貴族趣味のようで恥ずかしさもあるのですが、やはり好きなものを手元に置いておきたい、という思いは止められません」
 華鳥は陶酔したような笑みを浮かべ、腰ほどの高さにある飾り棚に手を伸ばした。それは他のものとは違い、棚自体が一つの工芸品となっている。
「最近になって手に入れた逸品です。どうです、実に美しいでしょう?」
 小ぶりな棚は、天板部分に等身大の木像が彫り込まれている。目隠しをした女性が棚全体を抱き、その両手で開き戸を抱え込むようなデザインだった。
「杢目モク、という名前です。本名は吉田(よしだ)ショウコ。三十四歳の女性で、身長は一六二センチ。大変人気のある小説家だったようです。だからでしょうか――」
 華鳥が開き戸の取っ手を掴む。女性の手の甲を握るような具合だ。木の軋む音とともに棚は開かれ、中に詰め込まれた無数の本があらわになる。
「他人の人生を標本として集めるのが好きな、どこか私と似た趣味の持ち主でした」


 杢目(もくめ)モクは、子供の頃から人間観察が好きだった。
 友人は多くいたが、誰にも本心は悟らせなかった。少なくとも彼女自身はそう思っている。友人たちは全てモクにとって重要なサンプルで、どういう時に、どのような感情を抱き、どう行動するかを観察する対象だった。
 中高生の頃、友人たちの間で醜聞――多くが恋愛関係だった――があれば、根掘り葉掘り聞き出し、誇張して周囲に吹き込んだ。揉め事があれば率先して首を突っ込み、修復不可能な形に整えておいた。友人グループが崩壊するたびに、その原因と経緯、結末をノートに書き溜めた。
 またモク自身が友人を怒らせたり、悲しませたりすることもあった。もっとも感情を揺さぶる言葉を選び、何食わぬ顔で相手へぶつける。その反応を見て、つぶさに記録した。激怒する人、めそめそと泣く人、もしくは笑ったまま恨んでくる人や、全くの無反応の人もいた。それで何人かの友人とは縁が切れたが、サンプルは採取したから別に必要ない人たちだと割り切っている。
 こうした研究が役立ったのだろう。ろくに就職活動もしないまま、大学生の頃に書いた作品が公募で選ばれ、モクは小説家としてデビューした。作家生活も十年を超え、今では「泣ける作品」の名手として評価されている。今まで集めてきた標本を大いに利用できた。
 モクは、自分を一種の研究者だと思っている。それも心理学や社会学ではなく、どちらかと言えば生物学の研究者で、特に植物学が良いと感じる。
「私は、人間が樹木に似てると思ってるんですよ」
 モクが会場を見回しながら言う。
 新宿の書店でのトークイベントだった。室内には熱心な読者が三十名ほど集まっており、それぞれモクの話に頷き、またイベント後のサイン会を心待ちにしている。
「色んな木が集まって、社会っていう森ができるんです。環境で植生が変わるみたいに、それぞれの場所で別の樹木があるんです。たとえば会社員の人たちを見ると、私なんかはスギやケヤキの木が規則正しく生えてるのを想像しちゃいます」
 トーク用に過剰な表現にしているが、間違いなくモク自身の実感でもあった。
「一次産業を支える人はクスノキやヒノキで、インフラ事業者はクヌギやカシ……。芸能人は人々を楽しませるからサクラやフジ、モミジやイチョウですかね。孤独な職人なんてマツがぴったり」
 小説家らしい喩え話を踏まえ、モクは本題につなげていく。トークのお題は「小説家として何を考えて書いているか」だった。
「よく物語は織物に喩えられるんですが、私は木工品のように感じますね。色んな木材があって、用途によって使う種類も変えるし、使う部分も変えます」
 たとえば、と続けてからモクは思考する。
 柔らかな樹皮を剝ぐように、人の秘密を暴く快感。そう言いそうになったのを改めた。
「硬い木材は床とか家具に使うので、家族の話にしやすいですね。自作だと『冬のほうき星』かな。これは自衛隊の災害派遣の話です」
 モクは慎重に言葉を選んでいく。下手なことを言うと、自分が他人をサンプル扱いしていることが漏れ出てしまう。飽くまでリスペクトを欠かさず、貴重な素材を扱う職人であると、言葉に意味を乗せていく。
「いや、でも、どんな人がどんな種類の樹木なのかは、完全に私の直感なんで、これじゃアドバイスになりませんね」
 最後に小さくオチをつければ、会場は温かい笑い声に包まれる。この場にいる誰もが、モクの本性を知らない。

 書店でモクの本を買った人々が列をなしている。
 イベント後のサイン会はモク自身も楽しみにしていた。サインを書く間に彼らと交流することで、人間というサンプルが新たに手に入る。短い会話で触れられるのは表面的な部分だろうが、それでも十分な価値がある。樹木の美しさは外見、つまり樹容で判断できる。
「わぁ、いつもありがとうございます。この間の差し入れも美味しくいただきました」
 まず一人目。いつも新刊を買ってくれるファンだ。すでに標本としてはラベリングしているが、近況報告を聞けるのが嬉しい。季節が変われば樹木の姿も変わる。葉が落ちて寂しく枝を揺らすか、それとも花を満開にするか。その変化を観察していく。
 ただ、やはり一番嬉しいのは新しいファンだ。それも、とびきり珍しい人種が最高だ。
「はじめまして、杢目先生」
 長い銀髪を揺らし、一人の青年がモクの前に現れる。
 モクは青年を見て、まず異様な樹木を想像した。たとえば樹齢千年を超えたサクラ、あるいは古代の仏教寺院を飲み込むガジュマル、または奇怪なリュウケツジュか。
「ど、どうも、杢目モクです」
 その青年は会場にいる時から気になっていた。パイプ椅子に座っていても気品に満ちあふれていた。
 黒いジャンパースカートに黒いブラウス。無数のフリルとリボン。カメオで飾られた付け襟に黒い羽根をあしらった小さな帽子。いわゆるゴスロリ姿だが、顔立ちは男性のもの。それで身長も一九〇センチは超えているだろう、異様な荘厳さがある。愛らしさと高貴さが同居した不思議な人物だった。
「最近、先生の本を読んで感銘を受けまして。こうしてイベントに足を運んだのです。あ、サインはこちらの本に」
 青年は魅惑的な声を響かせる。垂れ目がちの柔和な笑みは中性的だが、長身をかがませて覗き込んでくる姿には威圧感がある。
「そうなんですね、わぁ、嬉しいなぁ」
 モクは愛想笑いを作り、青年が差し出してきた二冊の本を受け取る。新作と以前に出した創作講座本だった。
「あて名はどうしますか?」
「華鳥、でお願いします。華に鳥でカトリです。華は難しい方です」
 青年が微笑む。ほのかに赤い唇が動くのを見て、モクは不意に恥ずかしさを覚えた。見てはいけないものを見たような気持ちとなる。
 そうした感情を隠すつもりで、モクは手元の本を注視しながら、華鳥と名乗った青年に話題を振る。
「華鳥さんは、どの本を読んでくれたんですか?」
「こちらの創作講座本です。そこに『小説家は他人の人生を集める』という一節がありまして、私もその言葉に大いに同意するところがあり、すっかりファンになってしまいました」
「それは、嬉しいです」
 単なる愛想だが、本心でもある。自分の書いたものが他人の人生に影響を与える――というのはモクにとって喜びだ。言ってしまえば、自分が栄養を与えた樹木が大きく育ち、いずれ素材として再利用できるかもしれない、という期待がある。
 そう、小説家として走り続けるからには、いつだって新しいネタは欲しい。こうしてモクがファンと交流するのも、ネタ探しの一環だった。
「本当に嬉しいんですよ。華鳥さんみたいな人に読まれるの意外ですし」
 だから、まずは華鳥に取り入るつもりで話しかける。フィクションではともかく、現実では出会うことのないタイプだ。上手く人物像を吸収できれば、きっとネタに使えるはずだろう、と。
「ほら、私って若い男性のファンって少なくて」
「そうなのでしょうか? 先生の作品は広い世代に届くものばかりです。あと私、こう見えて若くはないかもしれませんし、男性かもわかりませんよ?」
 華鳥が悪戯っぽく笑う。モクは「しまった」とばかりに目を伏せる。他人を見た目で判断し、一方的に属性を決めてしまうのがモクの悪癖だった。
 ばつの悪さを隠すように、モクは一冊目のサインを書き終えて二冊目に取りかかる。
「どうでしょうか、先生」
 会話に失敗したと感じたモクだったが、今度は華鳥の方から話しかけてきた。モクは顔を上げ、優美な笑みを浮かべる青年を見た。
 魔性の瞳が見下ろしている。
「私も先生と同じように、多くのモノを集めているのです。それは尊く、美しく、どれ一つとして同じではない、無二の輝きを放っています」
 不思議な瞳だった。揺らめく虹彩は星雲の色で、中央の瞳孔は薔薇か、蜘蛛に似た奇妙なもの。異形にも思えるが、それが華鳥の顔に収まっていると王侯貴族の持つ宝石に見える。
「ですので、先生の気持ちはわかります。とにかく珍しく、他にはない逸品を探し求めている」
「そう、ですね」
「ただ気になることもあります。つまり先生は、小説家として誰にも真似できないネタが欲しいのでしょうか? それとも、実体として『他人の人生』が欲しいという意味ですか?」
 華鳥から問われたモクだが、どうにも上手い答えが思いつかない。モクにとって『他人の人生』はネタ元という意味とイコールだ。区別して考えたことなどなかった。
「ああ、失礼な問いかけでしたね。ですが、どうしても気になってしまい、その答えを聞くために、今日こうしてやってきたのです」
「いえ、ごめんなさい。難しく考えたことなくて。でも、ちゃんと答えますね」
 モクはとっさに言い訳を考える。本音を隠し、小説家として理想的な言葉を吐くつもりだった。
「ぶっちゃけて言うと――」
 しかし、口をついて出たのは、モクの偽らざる本心だった。どういう訳か、華鳥には隠し事ができないのではないか、という恐れがあった。
「ネタとして欲しいって感じですね。とにかく珍しい経験を聞きたいし、できることなら自分が経験したいと思ってます。私って、平凡な人生だったのがコンプレックスなんで」
「そうなのですね。先生から答えを聞けて嬉しいです」
 微笑む華鳥を見て、モクは安心した。いくらか残念そうなニュアンスが言葉に滲んでいたが、そのことには気づけなかった。すでにサインも書き終え、つい気が緩んでいた。
「今日は貴重なお時間をありがとうございました。この感謝を伝えるのに、私から先生に贈り物をさせてください」
「贈り物、ですか?」
 言いつつ、モクは二冊の本を華鳥の方へと差し出した。
「はい。とはいえ、差し入れのような気の利いたものではなくて恐縮です。ちょっとした応援か、おまじないだと思ってもらえれば」
 華鳥は目を細め、サインが施された本たちを胸元に抱く。モクの目には、それが祈りの仕草のように見えた。
「杢目先生、アナタの願い事を一つ、私が叶えてみせましょう。どうぞ、なんでも仰ってください」
「ああ、なるほど」
 モクは華鳥が冗談を言っているのだと思った。ただの洒落た会話だと考えていた。この時は、まだ――。
「じゃあ、一生使えるようなエピソードが欲しい、って言ったら叶えてくれます? 小説のネタに困らないくらいのヤツ、なんて」
 冗談には冗談で返したつもりだった。だが返ってきた華鳥からの答えに、思わずモクは身震いする。
「よろしい。では、仮契約といたしましょう」
 華鳥が冷たくモクを見下ろしていた。まるで猛禽類が獲物を見つけた時のような目で。

 書店でのイベント終了後、モクは近くの居酒屋にいた。
 書店側が用意してくれた打ち上げの席だ。参加者はモクの他、担当編集と出版社の営業、そしてイベントを手伝ってくれた書店員たち。総勢十名で酒を酌み交わし、イベントの感想や新作の話で盛り上がっている。
「今日は本当にありがとうございました」
 いつも通りの愛想笑いを浮かべ、モクは席を回っては親しげに書店員たちと話している。
 酒に強いわけでもないが、モクは飲み会が好きだった。理由は当然、酒の席だからこそ聞けるモノがあるから。特に今回のような場だと、他作家の業界内での評価や、書店員同士の人間関係も把握できる。実に利用しがいがある情報だ。
 また嬉しいのは、時に珍しい出会いもあること。
「杢目先生」
 モクが居酒屋のトイレから出たところで、同年代の女性から声をかけられた。飲み会の席にいた書店員の一人だったはず。
「ああ、お疲れ様です。今日はどうもありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。それで、あの……」
 女性が何か言いたげに視線をよこす。小柄で、全体的に柔らかそうな印象を受ける女性だ。それでいて左目の下に泣きぼくろがあり、これが不相応な妖艶さを演出している。まるで地味で冴えないクリの木が、厚化粧のごとく白い花を咲かせているような。
 そこでモクは、以前に同じ印象を抱いた友人がいたのを思い出した。
「私、えっと、眞野(まの)です」
「あっ、もしかしてヒトエちゃん?」
 モクが名前を呼べば、女性は表情を明るくさせた。
「うん、そう! 眞野ヒトエ、高校の文芸部で一緒だった」
「ええ、ウソ。ごめん、気づけなくて! 名札も違う名前だったから、ずっと似てる人かな、って」
「ううん。こっちこそ、ちゃんと言ってなくてごめん。名前はほら、結婚したから」
 懐かしい相手だ。モクはヒトエの手を取って再会を喜んだ。二人で連れ添い、雑談を交わしながら飲みの席へと戻る。
「それじゃあ、ヒトエちゃんが今回のイベントを発案してくれたの?」
「うん。だけど、企画を出しただけだよ。実際に動かしてくれたのは先輩たちで――」
「でもさ、私のこと覚えてくれてたから、企画してくれたんでしょ?」
「う、うん。もちろん。ずっと応援してたから」
 ヒトエは顔を伏せ、どこか恥ずかしそうに焼き魚に箸を伸ばしている。かたやモクは紅茶ハイを飲み干し、今も変わらぬ旧友からの厚意に胸を熱くする。
「私は嬉しい。ヒトエちゃんが本屋さんにいるのもね。だって、私より本が好きだったもんね」
「私は吉田さん……、あ、杢目先生の書く物語が好きだったから。こうして本になって新作を読めるのが嬉しい」
 ペンネームではなく、本名の「吉田」で呼んでもらえる。モクにとっては、それすら嬉しく思える。全く新しい人と話すのも重要だが、どうしても思い出を共有できる相手の方が心地よい。おそらく精神的に老化したせいだろうが、これは受け入れるしかない。心地よさに抗えるなら、そもそも老いていない。
 何より、モクにとってヒトエは特別な存在だ。
「ねぇ、ヒトエちゃん。この後、二人で飲み直さない? もっと話したいことあるし」
「うん、私も話したい。ただ、あまり遅くならないくらいで」
 今まで友人たちを標本のように集めてきたモクだが、ヒトエに関しては調べきれなかった。深く知れそうになったところで、お互いに高校を卒業してしまった。
「じゃあ、決まりね」
 だから、意図せぬ再会は喜ばしい。

 ヒトエとは同じ女子校の友人だった。
 モクが高校入学組なのに対し、ヒトエは中学から上がってきた内部進学組、つまりは純粋培養の女子校育ちだ。彼女は実家が裕福で、おっとりとした性格で争いを好まず、また家族以外の男性と触れ合うこともなく、加えてこの世に悪がいないと信じて生きている。まさしく世間で抱かれる女子校出身者のイメージ通りの人物。
 モクが出会ってきた同級生たちは、それこそ外部で男子大学生と付き合う者もいたし、口汚い言葉を使う者も、万引き自慢をする者もいた。別に女子校だからといって、全員が〝お嬢様〟というわけでもない。善人と悪人の比率が、やや善人側に偏っているだけだ。
 ただし、ヒトエに関しては根っからの善人と言い切れる。
「それじゃ、なァに。旦那さんが心配するから早く帰りたいの?」
「うん、ごめんね。終電まではいいけど……」
 モクが選んだバーでの会話だ。週末ということもあり、薄暗い店内はそこそこの賑わい。二人はカウンター席で並び、ともに何杯目かの酒を呷っている。
「せっかく会えたのに、本当にごめんね。でも、これからは連絡くれたらいつでも付き合うから」
「いいって、別に。家庭は大事でしょ。私は自由だから、そっちの都合に合わせるってば」
 最初の話題として家族の話を選んだのは失敗だった、とモクは後悔する。何か家族にまつわる愚痴でも聞きたいと願ったからだが、むしろ家で待つ配偶者のことを思い出させてしまった。
「ヒトエちゃんって、本当に〝いい人〟だよね」
 攻撃的な言い方になったが、ヒトエは気にしないだろう。昔から、この程度の毒を含んだ会話をしてきたはずだ。
「そうかな。へひひ、そうだといいけど」
 案の定、ヒトエはモクからの嫌みに気づかない。自身が褒められたと思ったのか、嬉しそうに手元のグラスを握りしめる。中身は初めて飲んだというチャイナブルーで、それもモクが選んだものだった。
 つくづくイヤになる、とモクが内心で毒づく。
「私は、ヒトエちゃんのそういうトコ、好きだけどね」
 小説家として、モクはレトリックを駆使して気持ちを伝えた。隠さずに言えば『サンプルとしては好きだが、人間としては嫌い』という意味になる。
 そう、モクがヒトエに抱くのは標本としての興味だ。
 どこまでも善人ぶるヒトエには、どんな本性が眠っているのだろうか。人には言えないような性癖があるのか、それとも隠れて悪徳を育んでいるのだろうか。どうしても知りたいし、暴いてみたいという欲求がある。
「本当は、ヒトエちゃんともっと仲良くなりたかったんだよ」
 モクが呟く。本心を隠し、どうとでも取れるような言葉を選ぶ。今回は『高校生の頃は調べきれずに残念だった』という意味だ。
「文芸部の頃はさ、最後の方で疎遠になっちゃったから」
「そうだったね」
「だから、会えて嬉しかった」
 これは本心からの言葉だった。
 今度こそ眞野ヒトエという樹木を調べられる、といった喜びの表明だ。彼女の枝葉を折り、柔らかそうな樹皮を剝ぎ、芯に届くほど穴を穿ってみたい。その奥が腐っていてもいいし、虫食いだらけで空っぽでもいい。
 仮にヒトエが正真正銘の善人だとしても――あり得ないとモクは信じているが――それで納得できればいい。中途半端なサンプルというのが、もっとも意味がない。
「ねぇ、ヒトエちゃんさ、私に対して言い難かったこととか、全然言ってくれていいよ。お互い大人になったし」
 モクは遠回しに聞くのをやめ、より直接的にヒトエの奥を探ろうとした。不平不満や、澱んでいるもの。過去にあったイヤなことも、現在の問題も、将来の不安も、なんでも良いから聞き出したかった。
「言い難かったことかぁ。うーん、昔のことは気にしてないけど」
「なんでもいいよ。改めて会って気づいたこととか」
「ああ、今のことでいいなら」
 酒の力もあったのだろう。ついにヒトエが口を滑らせる。そう確信してモクは、彼女の言葉を聞き逃すまいと神経をとがらせる。
「吉田さんの小説で『ひともじのメッセージ』ってあるよね」
「うん?」
「あれに出てくる西園(にしぞの)先輩ってキャラ、もしかして文芸部時代の花田(はなだ)先輩がモチーフだったりする?」
 ヒトエからの問いにモクが目を白黒させる。驚きの理由は二つ。予想外の問いだったことと、指摘されたものが事実だったこと。
「あと『孤独な籐椅子』もそうだよね。ちょっと変えてるけど、主人公のエピソードってカナちゃんが失恋した時のだよね。それから『赤い砂時計』とかさ、文芸部でシズカちゃんが書いてたヤツに似てる」
「えっ、ちょっと待って。私がパクってるって話?」
 思わずグラスを握る手に力が入る。モクが聞きたかったのはヒトエ自身の薄暗いところであり、自分の悪評を聞きたいわけではない。
 モクは隣のヒトエを睨みつけるが、彼女はまるで気にしていないようだ。そこそこ酔っているのか、ただ顔を赤くし、ニコニコと笑っている。
「違うよ。ずっと気になってたから、いつか聞いてみたいな、って思ってただけ。パクりだとか、そんなふうには思ってないよ。ただ凄いな、って」
 おそらくヒトエは純粋に褒めたのだろう。しかし、モクは同じ言葉を皮肉で使う。だから、自分も皮肉を言われているのだと思い込む。
 言い争いになる一歩手前で、ふとモクは落ち着いて考える。この流れを利用すれば、高校の頃にヒトエから聞けなかった本心も聞けるのではないか、と。
「じゃあ、自分から言うけど」
 息を整え、モクは過去の傷に自ら触れた。
「私のデビュー作だって、ヒトエちゃんの真似だからね」
「うん、それが一番わかる。一緒に書いてたから。でも、あれは私が書けなくなったのが悪いし。吉田さんは続きを書いてくれて、それが賞に選ばれたんだから、凄いのは吉田さんだよ」
「怒ってる?」
 モクが尋ねれば、ヒトエはゆっくりと目を伏せる。ずっと肯定の言葉しか吐かなかった彼女が、今日初めて、自らの意思を確かめていた。
「少しだけ、怒ってる」
 ヒトエの答えにモクは少なからずショックを受ける。自ら答えを聞き出したというのに、自分勝手な感情だった。
「へぇ、そうなんだ。どういう理由で?」
「ごめんね、怒らないで欲しいんだけど、ハッピーエンドだったのが、少しだけイヤだったかな」
 モクは自身のデビュー作である『チェスナットの日々』のことを思い出す。二人の女子高生を主人公にした、現代日本が舞台の幻想小説だった。
「あの作品って、同性愛の描写で評価されてたよね。百合小説の文脈だとスタンダードだけど、中間小説だと珍しかったから。それで、最後は主人公のモネが、友達だったカナカの告白を受け入れるよね。そこがイヤだった。だって――」
 ヒトエはグラスに口をつけ、一拍おいてからモクを見据える。
「吉田さんは、私からの告白を断ったのにね」
 無邪気な言葉だった。ヒトエは気にしていないのだろうが、言われたモクの方は顔を青くする。
「そう。そうだったかもね」
 ヒトエはクリの木だ。堅くしなやかで、踏まれても傷つかない、床材や枕木に使われる便利な木材。それで実は甘ったるい菓子になり、人々から愛される。ただし注意すべきだ。むやみに木を揺らせばイガグリが落ちてくるだろう。
「あの頃、私は吉田さんのことが好きだったよ」
 ヒトエが目を細めて笑う。突き刺すような視線がモクに向けられた。

 モクは過去を忘れやすい。というより、自分に都合よく記憶を書き換えるフシがある。
「ショウコちゃんはさ」
 思い返せば、確かにヒトエから告白らしき言葉を聞かされた気がする。高校三年の冬、文芸部の部室で二人きりの時だった。
「私が恋愛的な意味で好きって言ったら、どう思う?」
 覚えているのは、暖房から吹いてくる生温い風と、窓から見えた灰色の空、その時に読んでいた漫画の表紙だけ。ヒトエの顔は記憶にない。一緒にいたはずだが、その時はすでに興味の外にいた。
「それ、めっちゃ嬉しいかも」
 これは現実での言葉ではない。モクが書いたデビュー作で使われたセリフだ。ここで主人公たちは互いの気持ちを確かめ合い、二人揃って閉じ込められた部屋を出る。そういう結末だった。
 モクは現実の出来事を、自身が描いたフィクションで上書きしている。思い出を加工して保存してしまった。実際にヒトエに向けた言葉といえば――。
「いや、キモすぎ。百合とか嫌いなんだよね。彼氏ができないからって、身近な人間で疑似恋愛すんなよ、って感じ」
 そう答えたはずだ。
 モクにとっては軽い冗談で、ウソでも本心でもない。単なる相槌の延長線だった。だから当然、今日になるまで忘れていた。ヒトエと疎遠になったのは、その言葉によるものではなく、お互いに受験で忙しくなったからだと思っていた。
「今日は久々に会えて嬉しかったなぁ」
 新宿駅のホームを二人で歩いている。先を行くヒトエは酔っているのか、さっきまでの会話など忘れたかのように、どこか浮ついた様子でモクに声をかける。
「ねぇ、また付き合ってね。もっと吉田さんと話したいから」
「うん、そうだね」
 陽気なヒトエとは対照的に、モクは暗い顔で後ろを歩く。気分が落ち込んでいるのは悪酔いしたせいでなく、ヒトエとの過去を思い出したせいだ。
「でも話を聞けてすっきりした。ずっと気になってたんだよ。あの杢目モク先生の作品がさ、私たちの思い出を元にしてるんじゃないか、って」
「その話、よそでしないで」
「ええ、どうしてぇ?」
 ヒトエが振り返る。目を細め、いやらしく笑っている。赤ら顔のせいか、左目の下の泣きぼくろがやけに目につく。
「炎上とかしたくないし。私たちの関係を知らない人がさ、好き勝手に盗作だとか言い出すかも」
「へへ、考えすぎだよぉ」
 モクは小さく唇を噛む。こうしたヒトエの鈍感さが嫌いだったはずだ。過去に捨てた嫌悪感が今さら更新される。
「杢目先生はさ、もっと自信持っていいんだよ。あれは私たちのエピソードだったけど、他の人じゃ書けなかったし」
 当たり前だろ、とモクは心中で吐き捨てる。
 ただエピソードを並べて作品になるものか。より詳細に観察し、相応しい形に切り出し、パーツを組み合わせて小説にしている。森に生えている樹木を見つけ、木材に作り替え、役立てているのは自分だ。ただの材料が意思を持つな、とすらモクは思う。
「次の作品も楽しみにしてるからね。ずっと応援してる」
 ふざけるな、とモクは首を横に振る。
 この先ずっと、ヒトエは事あるごとに連絡してくるだろう。新作を読むたびに「ここはアレに似てるね」だの「このエピソードは昔のアレだよね」、だのと言ってくるに違いない。たとえ全く別の意図で書いたものでも、彼女は似ている部分を見出すはずだ。
 ――イヤだ。信じられない。許せない。
 ヒトエの背後を歩くモクは、次第に大きくなっていく憎しみに意識を向ける。それと同時に、頭の片隅に追いやった冷静な自分が声を上げている。今の感情は悪酔いしたせいで、疑心暗鬼に陥っているだけ。眞野ヒトエはただの標本だ、と。
 ――でも、嫌いなモノは嫌いだ。
 酔ったままホームを歩くヒトエ。足元はフラついており、今にも線路側へ落下しそうだ。もし、ここで背を押したら、どうなるだろうか。
 モクは様々なことを考える。もし今、ここでヒトエが死んだらどうなるだろう。まず自分の過去を掘り出してくるような、面倒な相手が消える。そして〝友人が目の前で死ぬ〟という無二のエピソードが手に入るだろう。
 ――死んでほしいわけじゃない。でも、死んでくれたら嬉しい。
 ちょうど電車がホームに入ってくる。週末の終電間近だ。誰もが疲れた顔で、乗降口を示す線に並んでいる。人
 ――ああ、死んでくれたら。
 モクの筋肉がこわばる。人の目はない。誰も周囲を気にしていない。押してみるか。いや、押すのは目立つ。足をひっかけるだけで十分だ。
 なら、どうする。
「あれれ?」
 ヒトエが情けない声を出し、体勢を崩した。自分が死ぬなどとは全く思っていない。少しの不注意を後悔するような声だった。
 最初は急ブレーキによって鉄が軋む音が響いた。次いで電車と人体が接触する鈍い音があり、さらに肉が破裂し、骨が潰れる音が重なる。続けて現れるのは焦げた臭いと鉄臭さ、それに吐瀉物を合わせたような、どこか電気的な臭い。
 モクは今の状況を五感で味わい、全てを詳細に覚えようとする。ホームに飛び散った血の色も、それが描く軌跡も、何もかも。
「すごい」
 東京の人間は人身事故にも慣れている。悲鳴が起こるより先に、ホームにアナウンスが流れた。事故現場に近づく野次馬が現れる一方、帰りが遅くなることに溜め息を吐く者もいる。
「本当に死んじゃった」
 モクは両手で自らの頰を覆う。指先についた血が次第に冷えていくのを、ゆっくりと確かめていた。

 全ての木材が死んだ樹木であるように、人間も死んでからの方が扱いやすくなる。死人に口なし、という言葉通り。
「ヒトエちゃん、色々と悩んでたみたいで」
 モクは友人の死を物語として作り替えた。酒に酔って線路に転落したのでは格好がつかないから、前々から深く悩んでおり、衝動的に自殺したように証言した。
「誰にも言ってないと思います。周りの人を心配させたくない、って。でも、私にだけは打ち明けてくれて」
 警察の聴取で話したことを、モクは事実として周囲にも吹聴していった。まず自身の担当編集に伝え、次にヒトエの同僚だった書店員たちにも広め、葬儀の場で会った彼女の夫にも話した。
「きっと僕が悪いんです。彼女は子供が欲しいって言ってたのに、僕はいらないって断ってたので」
 モクがいつもの作り話を披露すれば、ヒトエの夫はそれらしい理由を勝手に作ってくれた。身内から理由が生まれてしまえば、もはや事実は〝都合のいい真実〟に置き換えられる。
「ヒトエちゃんは、本当に良い子だったから」
 モクとしては、自らの作り話に説得力があると思っている。ヒトエは本当に善人だったのだろう。だから周囲の目には、不平不満を隠し、ひたすら我慢しているように映った。そんな彼女が思い悩み、いっそ死を選ぶことも、あり得なくはない、と。
 まさに研究の成果だ。
 モクが集めていたサンプルの中に、人当たりがよく、誰からも好かれる男性がいた。彼は仕事を押し付けられ、最後はストレスから自殺していた。この時の記録を利用し、モクはヒトエの死を彩ってみせた。
「彼女とは、高校時代の親友だったんです」
 一ヶ月も待たず、モクはウェブメディアを通じて友人の死について語った。新作のプロモーション込みのインタビュー記事だった。
「あの日、たまたま再会して、二人でバーに行って、ずっと思い出話とかしてて。そのせいかな、きっと寂しい気持ちが溢れてきたんだと思います」
 何度も話していく中で、モクは実際の出来事を忘れ、今では作り話こそ正しかったように記憶を塗り替えている。
「実を言うと、私のデビュー作にも彼女が登場してるんです。モネとカナカっていう二人の女子高生がいて、それが私たちの関係のまんま、っていうか」
 モクは、ヒトエに指摘された部分を自ら解釈してみせた。彼女からの好意をゴミのように退けたというのに、それを美しい物語に作り替えた。亡き友人との思い出、淡い恋心から綴られたデビュー作。そう銘打って、再び自著を世間にアピールした。
 ヒトエの死をきっかけに、モクは女性作家として広く知られるようになっていた。
「杢目先生、次の作品はどのようなものを予定していますか?」
「そうですね。やっぱり親友の死を経験したからこそ、改めて書けるものがあります。次作は、彼女に捧げるような作品にします」
 インタビュー記事は、そう結んで終わった。
 宣言通り、モクは新作を書き進めている。ヒトエを題材に選んだところ、ウソのように筆が乗った。サンプルとしては中途半端だったが、逆に言えば、自由に裏の顔を創作していい。何より、文句を言ってくる人間がいないのが素晴らしい。
「やっぱり、目の前で死んでくれたのは大きかったな」
 半年後、モクは新作を書き上げた。
 タイトルは『私たちのオフィーリア』。内容は戦時中の女学校を舞台に、生徒たちが学園劇としてハムレットを上演するというもの。社会的な不安と、女学生たちに訪れる苦難や精神的な葛藤を織り交ぜ、最後には女性たちのたくましさを伝え、前向きなメッセージが感じられるような作品となった。
 ヒトエをモチーフにした登場人物は中盤で入水自殺し、のどかな雰囲気を一転させる重要な役となった。誰からも慕われた彼女が、主人公にだけ弱さを吐露するシーンは、現実におけるモクとヒトエの関係性を踏まえて書かれた。
 無論、それは加工された記憶だ。作り話から生まれた感情は、さらにフィクションに覆われ、もはや原形を止めていない。
「あのキャラは、友人がいなかったら書けなかったと思います」
 刊行後のインタビューで、モクは涙ながらに語った。亡くなったヒトエは無二の親友だった。そう自分を騙しているし、騙している自覚もない。
 こうした宣伝が功を奏したのか、モクの新作は注目を集めた。
 さらに注目が集まれば、自然と評価も上がる。モクの小説家としての腕は確かで、作品に関しては一切の誤魔化しはない。よって世間にも受け入れられ、かつ同業者からの評判も上々だ。
「これほどの栄誉に与かれたのも、あの子がいてくれたからです。ずっと私は何もできなかった、って後悔があって、それがようやく報われた気持ちです」
 翌年の二月、モクは贈呈式の場にいた。
 眞野ヒトエという人物を大いに利用した作品は、いよいよ栄えある文学賞を受賞するにいたった。小説家としてのキャリアの頂点だ。間違いなくモクの人生においても最高潮であり、ここから落ちることはないと思えた。
「本当に、本当にありがとう」
 モクは何度も感謝の言葉を口にした。いつだって亡き友人のことを思っている。ただし、彼女の墓前に花をたむけるようなことはなかったが。

 文学賞を獲ってから、モクの生活は一変した。
 これみよがしに取り入ってくる編集者が増え、新作の依頼がいくつも舞い込んだ。メディアへの露出も増え、またイベントや講演会に招かれることも多くあった。小説を書かないでも、それらの出演料だけで十分に生活ができた。
 これで人付き合いが苦手なタイプなら苦労しただろうが、モクは交流が増えるのを喜ぶ方だ。なにより標本は多いほど良い。観察する時間が減って質は落ちたが、それと引き換えに十分な数を手に入れた。名刺をしまうカードホルダーを何度も買い足した。
「来てくれてありがとうございます。あて名はどうしますか?」
 久しぶりにサイン会を開けば、前回の十倍以上の人が集まった。つまり、ファンと交流できる時間は十分の一以下になるということ。モクとしては増長するつもりもないが、自尊心がくすぐられる光景だった。
 しかし、人気作家という立場は、時に目をくらませる。
「あて名はどうしますか?」
「おや」
 と、テーブルを挟んで立つ人物が声を上げた。
「華鳥です。華に鳥でカトリ。華は難しい方ですよ?」
 以前に聞いたのと同じ言葉だった。そこで初めて、モクは目の前にいる人物を認識した。
「ああ、華鳥さん」
 ゴスロリ姿の青年。高身長かつ長い銀髪は目立っていたはずだ。しかし、モクは華鳥に声をかけられるまで、彼のことを認識できていなかった。
 いや、華鳥だけではない。他にもファンがいたはずだが、モクは誰も意識していない。見たいものだけを見た結果だ。
「受賞、おめでとうございます。私も先生の作品を読みました」
「ああ、ありがとうございます」
 モクは差し出された『私たちのオフィーリア』を手に、慣れた様子でサインを書いていく。もはや会話をする余裕もない。以前のモクなら、華鳥のような人物こそ詳細に調べたいと願っただろうが、今となっては数多くいるファンの一人でしかない。
「これからも書いていきますので、応援してくださいね」
 サインを書き入れた本を華鳥へ返す。青年は優美な笑みを浮かべているが、どこかでモクを見下しているような気配があった。
「先生、一つだけ。先生にとって、あの出会いは一生使えるようなエピソードになりましたか?」
「え?」
「いえ、お忙しいようなので答えは結構です。それでは」
 華鳥は頭を下げ、モクの前から去っていく。その最後、小さく振り返って――。
「眞野ヒトエさんも、きっと喜んでいますよ」
 と、告げた。

 モクはノートPCを前に考えている。
 馴染みのカフェ、席は決まって窓際で、注文もいつも通りのコーヒーとチーズケーキ。これだけ準備すれば原稿執筆で詰まることなどなかったが、今日に限っては一文字も書けていない。
 ――どうして、あの子の名前を知ってるんだ。
 先のサイン会で華鳥から告げられた一言が引っかかる。モクは今まで、メディアを通じて彼女のエピソードを語る際は〝友人〟や〝親友〟と表現してきた。一部には名前を出して話したが、それは元からモクとヒトエの関係を知っている者に限られる。
 ただのファンである華鳥がヒトエを知っているはずはない。だとしたら何らかの経緯で漏れたのだろう。もしくは熱心なファンがおり、モクが公言している部分から推測し、眞野ヒトエという人物を導き出したのか。
 ――バレても、問題ないけど。
 モクは自分を騙そうとする。
 しかし不安は消えない。今はまだ小さなシミのようなそれが、次第に大きくなっていく。拭けば消えると思っていた汚れが、まるで皮膚の内側で広がっていくような不快感がある。
 こうしてモクが不安を覚えたのは、彼女が人より敏感で、リスク管理に優れていたからだ。正しく危機感は働いた。だが危機というものは、本人が気づいた時には制御不能な状態となっていることが多い。
「あれ?」
 ふと着信があった。モクのスマートフォンに担当編集からのメッセージが送られていた。
『モクさん、これって本当ですか?』
 短文のメッセージの下に、SNSで投稿されたらしい内容が添付されていた。モクがそれを開けば、見知らぬアカウントが『有名小説家さん、人殺しだった』という文言とともに、一件のショート動画を上げていた。
 息が止まる思いで、モクがさらに動画を確認する。
 背景は夜の新宿駅。撮影者は男性会社員らしく、スーツ姿の同僚が嘔吐する様を映していた。しかし本題はそこではない。編集された動画は彼らの背後にズームし、ホームを歩く女性二人組を赤丸で囲った。女性のうち、一人がフラフラと歩いている。もう一人は彼女に手を伸ばすが、体を支えるようにも、突き落とすようにも見えた。そこで画面は揺れ、再びスーツ姿の男性のアップとなった。直後、周囲に急ブレーキの音が響き、動画は終わる。
「なにこれ」
 言うまでもなく、あの日のモクとヒトエだった。
 投稿されたものに続き、さらに情報を補足するように動画の切り抜き画像とモクの写真が並べられていた。動画内に映っていたのは横顔だったが、写真と見比べれば同一人物だというのは明らかで、加えて、当日にモクがイベントで新宿にいたことも言及されている。
 ネットではモクが女性を突き落としたことになっていた。これで無名作家なら注目もされなかっただろうが、メディアで顔を売っていたことが仇となった。アンチというほどではないが、何かあれば足を引っ張ってやろうと考える厄介な者たちに見つかった。
 モクは震える指で、まず担当編集への返事を打ち込む。
『これは確かに私ですが、悪意ある切り抜きです』
『安心しました。ではウチで法務に持ち込みますか? 明らかな名誉毀損だと思うのですが』
 落ち着くつもりでモクはコーヒーを口にする。最初は震えるほどに動揺したが、一息つくと急に怒りが湧いてきた。すぐさま出版社に掛け合って法的措置に乗り出そう、と。
 しかし、ここでモクの慎重さが出た。
『いえ、個人的なことなので、こちらで弁護士に相談しようと思います』
 怒りを押し殺し、モクは問題を保留にした。悪目立ちすれば、かえって大きく炎上するかもしれない。すでに熱心なファンはモクを擁護するような動きを見せている。
 ここは焦らず、擁護派が十分に増えたところで立場を表明しよう。悲しみをたっぷりと表現して、怒りの矛先が最初の投稿者に向くよう誘導し、また信じてくれたファンへの感謝を述べよう。モクはそう考えた。
「大丈夫、上手くやれる」
 カフェからの帰り道、モクは自分を鼓舞した。今までの人間観察を通じてか、モクは自分を安全圏におく方法を熟知していた。

 だが誤算もある。
 一週間が経っても、未だに炎上騒動は続いていた。まず今までモクが言及してきた「事故死した友人」が、眞野ヒトエという人物であると特定された。彼女の職場も、出身高校も明らかとなった。
『死んだ眞野さんと知り合いだったから知ってるけど、彼女、高校の頃に杢目モクにいじめられてたらしいよ。小説だと良い話みたいに書いてるけど、あれって架空だから』
 いかにもな発言がSNSでバズっていた。モク自身、この投稿をウソだと言い張る自信はない。モクとしてはイジメたつもりはないが、ヒトエがそう思った可能性はある。あるいはヒトエが話を盛ったかもしれないし、投稿者が勘違いしているだけかもしれない。
 だから、今回もモクは沈黙を選んだ。
 モクが何も反応しないのを良いことに、アンチは好き勝手に誹謗中傷を繰り返し、騒ぎを聞きつけた外野も参加してくる。こうなると擁護に回っていたファンも疲れ果て、次第に声をひそめていく。
『あの日、新宿駅にいたけど杢目モクが女性を突き飛ばすの見たよ。すごい叫び声あげてた』
 これも無責任なネットの書き込みの一つだ。事実とはかけ離れているが、こうして断言されると多くの人が真実だと思い込む。事実が〝都合のいい真実〟に置き換わるのは、モクもよく理解している。
『モク先生、本当に大丈夫ですか?』
 最初に連絡をくれた担当編集とは別に、多くの知り合いが連絡をよこした。彼らの中でも意見が分かれているのか、心からモクを心配する者もいれば、事実確認を済ませて関係を絶ちたいのだろうという者もいた。
 そして、両者の均衡はやや後者に傾いていく。
「ふざけんなよ!」
 仕事部屋でモクが叫ぶ。自宅でもあるマンションの一室だ。受賞後に引っ越した部屋だが、今では家賃の支払いに不安がある。
「どいつもこいつも、なんで返信しない!」
 モクは机を叩き、ノートPCを乱暴に投げ捨てる。何度もメールボックスを確認したが、各社の担当編集からの返事はなかった。執筆中の作品の進捗報告も、進行中の企画の相談も、向こうから「受け取りました」とだけ返され、その後の具体的な話は出てこない。
 出版社としてはリスクを取りたくないのだろう。だから「事態が落ち着くまで放置」を選んだ。これでモクの潔白が証明されれば、手のひらを返すように以前と同じ付き合いを求めるはずだ。
 しかし、一人の作家が精神的に追い込まれるのは間違いない。
「私が何をしたっての。あの子が勝手に死んだから、それを物語にしただけでしょ。標本を使って何が悪い。こんな殺人者みたいに言われてさ――」
 自問自答する中、ふとモクは口をつぐむ。
 自分はヒトエを突き飛ばしてなどいない。ただ死んでくれたらと願っただけだ。でも、本当にそうだろうか。当時は酒に酔っていて、記憶が混濁している部分もある。
 もしかしたら、本当に。
「ご自身の記憶に自信がないようですね」
 不意に声がした。今の状況にはそぐわない、まるで教会に響く聖歌のような厳かさがあった。
「ねぇ、杢目先生」
 モクが振り返ると、仕事部屋の隅にゴスロリ姿の青年が立っていた。混乱しつつも、彼が以前に会った華鳥だと理解する。
「え、なんで、どこから」
「まぁまぁ、細かいことはいいじゃないですか。それより、契約についてお話しませんか?」
 華鳥はフリル袖を大きく振り、楽しげに近づいてくる。長身ゆえの威圧感があったが、それを隠すように、彼はモクの眼前でひざまずいた。スカートが床に広がり、華鳥が上目遣いで見上げてくる。奇妙な愛らしさがあった。
「待ってよ、え、ちょっと」
 モクは異様な光景を前に、冷静に状況を判断しようとする。まさかストレスから幻覚を見ているのではないか。その可能性も考える。しかし、華鳥の心を溶かすような微笑みを見れば、そうした推測も無意味に思える。
「たとえば――」
 目の前にいる華鳥が口を開く。いやらしく唇が動く。
「私が先生の熱狂的なファン、ストーカーというのでしょうか、そうした類で、こうして平日の深夜、タワーマンションの厳重なセキュリティを突破して会いに来た、という可能性もありますね」
「それが現実的だと思う。ヒトエのことを知ってたのだって、あなたが私のことを熱心に調べたからで――」
「ええ、ですが」
 と、華鳥が発言にかぶせてくる。
「事実とは異なります。私は先生のファンではありますが、別にストーカーではありません。部屋に入れたのは、私にそういう力があるだけです」
「じゃあ、なんだって言うのよ」
「私は高次宇宙に存在する意識体ですが、これを説明するのは難しいですね。人間がよく使う言葉で表現するなら――悪魔でしょうか」
 ああ、とモクが呻く。
 腑に落ちたという気持ちだ。華鳥に抱いていた奇妙な印象にも納得できる。地上の樹木でたとえようとしたが、どうにも違和感があった。その正体が異界の植物だというなら、何より理解できる。
「どうでしょうか、先生。ストーカーが部屋に侵入してきたのと、悪魔がやってきた、どちらが面白いですか?」
 卑怯な問いかけだ。どれだけ非現実的だろうと、華鳥の主張を認めてしまいたくなる。小説家としてフィクションを追い求めてきたモクだからこそ。
「そんなの、決まってるでしょ」
 モクは脱力し、アームチェアに腰掛けた。華鳥は彼女の前にはべり、恭しく頭を垂れている。はたから見れば、尊大な女王と従者に見えるだろう。
「で、あなたが悪魔だとしてさ、どうして来たの?」
「およ、さっき言ったではありませんか。契約についての話をしましょう、と」
 華鳥がとぼけた様子で首をかしげる。
「契約って、何の」
「一生使えるほどのエピソードが欲しいと、杢目先生は望んだでしょう。ですので、眞野ヒトエさんと再会できるよう手配しました」
「は?」
 モクが絶句する。奇妙な状況を受け入れたつもりだったが、あの出会いそのものを作ったと言われると、どうにも反発したくなる。
 だが――。
「よく思い出してごらんなさい。眞野ヒトエさんは最初から書店員でしたか? 出会ったのは打ち上げの場で、それは私が先生から願い事を聞いた後です」
「いや、でも、イベントの時は会えなかっただけで」
「そうでしょうか? イベント前に書店員の方々と挨拶したはずです。そこに眞野ヒトエさんはいましたか? いたのなら、アナタは気づいていたはずです」
 華鳥に言われ、モクは当時のことを思い出す。
 トークイベントを開くに当たって、あの場にいた書店員の全員と顔合わせをした。ならば当然、企画を出したヒトエもいたはずだ。気づかなかった、という可能性はない。モクは過去に出会った人物を標本とし、いつでも小説に使えるよう、しっかり記憶している。
 ましてや、ヒトエのように深い関係だった相手なら。
「どうして、そんな」
「方法という意味なら、私に〝運命操作〟の力があるからです。人間の運命をねじまげ、都合が良い形に変えることができます。私は過去に遡って眞野ヒトエさんの運命を変え、あそこの書店員になるよう仕向けました」
「いや、そうだけど、そうじゃなくて」
「では理由の方ですか? こちらはもっと単純です。私が杢目先生のファンになったので、何か贈り物を差し上げたかった。それだけですよ」
 華鳥は両手を組み、お願い事をするような仕草をする。無垢な笑顔でモクのことを見つめていた。
「じゃあ何、今の状況も全部、あなたのせいってワケ?」
「そうなりますね。ああ、ですが、眞野ヒトエさんが亡くなったのは杢目先生が選んだからです。一生物のエピソードになったのは確かでしょうが、別に殺さなくても同じ効果は得られてましたよ?」
 は、とモクが息を吐く。華鳥の何気ない言葉が引っかかる。
「待って、私は――殺してない」
 いいえ、と華鳥が首を横に振る。
「先生は覚えておられないのでしょうが、あの時、アナタは間違いなく眞野ヒトエさんを背後から押しました。私が保証します」
「違う、私は、違うから」
「未来のこともお伝えしましょう。まず最近の騒ぎを受け、眞野ヒトエさんのご遺族が告訴状を出します。すると捜査によって決定的な証拠が発見され、杢目先生が逮捕されます。やがて判決も下りますが、殺人罪と自殺教唆罪、どちらになると思います?」
 悪趣味なクイズを突きつけられ、モクは言葉を失う。めまいがし、呼吸も浅くなってくる。椅子にもたれて無意味に天井を眺めた。
「これ、どうしようもないよね。信じたくないけど」
「私の存在を否定できれば、ただのウソだと割り切れますよ?」
「無理。私、ミステリーもSFも得意じゃないから。否定できるだけの物語を作れない」
 では、と華鳥が唐突にモクの手に触れる。細い指の感触に驚き、かつ彼が現実の存在だと再認識する。幻覚であってくれた方が、どれほど良かったか。
「ここで杢目先生に提案です。改めて契約して頂ければ、私は杢目先生の〝望んだ運命〟を与えられます。そうなれば当然、罪から逃れることもできます」
「嬉しい提案だけどさ、悪魔との契約って、そりゃ、そういうことでしょ?」
「その通り。私は杢目先生に現世で与えられるものを与え、その引き換えに死後の魂を頂きます」
「安上がりでいいね。私、死後の世界は信じてないから」
「アッハハ、素晴らしい表現です。そうですね、現代日本では魂の価値が安くて助かります。これも一種のインバウンドでしょうか」
 今度こそ、冗談には冗談で返してきた。モクは華鳥が笑う姿を見て安心できた。あり得ざる状況だが、華鳥の瞳を見るほどに落ち着いてくる。
「ねぇ、私が〝望んだ運命〟なら、なんでもいいの?」
「ええ、実現不可能なものはありません」
「じゃあ、こうしよう。私は〝眞野ヒトエがいない世界〟がいい。色々と考えたけど、彼女がいる限り、きっと安心できない」
 モクの言葉に華鳥が微笑む。異形の瞳が炎のように揺れる。
「よろしい。では〝加入(イニシエ)〟を」
 華鳥はモクの手を取り、その甲に甘い口づけを施した。

 休日の午前、吉田ショウコは母親の怒号で目覚めた。
 気分は最悪だが、気持ちをリセットする。なんといっても久々に小説執筆に向き合える。キッチンで喚く母親を無視し、マグカップに熱々のコーヒーを注ぐ。朝食代わりに冷蔵庫から取り出すのは、お気に入りのチーズケーキ。これで十分。
「さて、やりますか」
 自室に戻り、ショウコはノートPCを開く。書きかけの作品がいくつも溜まっているが、今はもっぱら一作に集中している。内容は医療事務の女性を主人公に、彼女が後輩に翻弄されるというコメディ寄りのお仕事モノ。ウェブ小説として投稿せず、新人賞に送るつもりで書いている。
「自画自賛じゃないけど、コレ書けたら、小すばの新人賞行けんじゃない?」
 椅子に座ったままショウコは伸びをし、そのまま本棚に並んだ無数のノートを見やる。それらはショウコが長年にわたって記録してきた、人間観察についてのノートだ。何より貴重な標本であり、上手く活かせば小説に深みがでるだろう。
「ていうか、あれ、展開似てたかもな」
 ショウコは立ち上がり、本棚に収められたハードカバー本に手を伸ばす。タイトルは『私たちの日々』で、作者の名は遠野(とおの)眞人(まひと)。
 これまで遠野眞人の作品は全て読んできた。ショウコにとっては何よりの影響元であり、同時に目指すべき相手だった。この最新作も幾度となく読み返している。
「そうだ、遠野先生」
 何かに思い至ったショウコは、そこで自室のテレビをつける。目当ての情報番組では、ちょうど一週間のニュースを振り返っていた。
「ちゃんとニュースになってる」
 テレビには芥川賞・直木賞の贈呈式の模様が映し出されていた。下半期の直木賞を受賞した本こそ『私たちの日々』だった。壇上には受賞者が並び、自作を持ってカメラに笑顔を向けている。
「すごいな、遠野先生」
 画面に遠野眞人が大写しになった。
 淡いマロン色のスーツに身を包んだ女性だ。小柄で丸っこい印象は、まさにクリの木のよう。愛くるしい笑顔に、左目の下にある泣きぼくろがチャームポイントとなっている。
「女性作家として、憧れちゃうな」
 ショウコは胸元に本を抱く。
 いつか自分がデビューし、遠野眞人と話せる未来を想像した。

 猟奇の小部屋で、華鳥は天板に像が彫られた棚を撫でている。
「こちらは〝樹木標本棚(キシロテーク)〟という品物です」
 棚の扉は開かれている。まるで本棚のように、無数の背表紙が並んでいるのが見えるだろう。しかし、近づいて観察すればわかるはずだ。それらは紙の本ではなく、木材を加工して作られた本型の箱だ。
 華鳥が一冊、いや、一個の箱を手に取る。背表紙は樹皮で、ページをめくるように蓋を開けば、中には枝と葉、そして果実と種子が収められている。
「樹木標本棚は十九世紀頃のヨーロッパで流行ったもので、世界各地から集めた珍しい樹木を標本とし、研究に役立てるのです。驚くべきことに、これらの本は一つずつ違う種類の木が使われているんですよ。見事な遊び心ですね」
 華鳥は箱から枯れ葉を取り出し、手元で愛でている。
「遊び心といえば、私も彼女に対して少しだけ遊んでみました。眞野ヒトエがいない世界を望まれたので、人生で関わらないように調整したのです」
 しかし、と華鳥が目を細める。
「不思議なもので、眞野ヒトエがいないと彼女は小説家になりませんでした。かたや眞野ヒトエは遠野眞人という名で小説家となり、彼女から憧れられる立場となりました」
 華鳥は枯れ葉を箱に戻しつつ、小さく舌を出す。
「契約違反じゃないかと怒られそうですが、彼女の人生にいるのは〝遠野眞人〟であって眞野ヒトエではないので、ここはご容赦頂きたい。ただ守った部分もあるのですよ?」
 標本棚の扉が閉められる。古い木材がきしみ、悲しげな泣き声に似た音を出す。
「あの世界でも、彼女は才能に溢れていました。しかし、それでデビューすると、いずれ遠野眞人が眞野ヒトエだということがバレてしまう。これでは契約が成り立たないので、彼女は一生、小説家にはなれませんでした」
 不意に女性のうめき声が聞こえてくる。その音は樹木標本棚の木像から漏れていた。目隠しをつけ、両手で棚を抱くような形の木像は、必死に何かを訴えている。
 しかし、気のせいだろう。
「いいじゃないですか。少なくとも誰かを殺すようなこともなく、平和で、満ち足りた一生でした。生前は幸せだったと思います」
 華鳥は膝をつき、標本棚に身を寄せる。美しい木目に頰ずりし、ひび割れに白く細い指を這わせる。
「死後も、と言ってあげましょうか?」
 蕩けた笑みを浮かべ、華鳥が標本棚を優しく撫でた。