『小説』 待機中 無料
ライブチャットをご存知だろうか?
インターネットを通じて、出演者と利用者が映像や文字で会話をするサービスである。
画面には、笑っている女性たちの小さな部屋が並んでいる。利用者はその中から話してみたい相手を選び、ポイントを使って部屋に入る。会話にかかる料金は、一分ごとに加算されていく。
出演者の側も、会話した時間に応じて報酬を受け取る。
つまり、一分という同じ時間が、利用者にとっては料金になり、出演者にとっては収入になる。
画面を眺めているだけの「待機視聴」は無料であることが多い。だが、出演者にはその時間の報酬が発生しない。
出演者は、誰かが部屋に入ってくるまで、カメラの前で待つ。
笑顔を作りながら。
退屈していないふりをしながら。
自分が値踏みされていることを、なるべく考えないようにしながら。
午前一時十三分。
「熟女・人妻専門」という赤い文字の下で、四十六歳の梨沙は、音を消したテレビを見ていた。
パソコンの管理画面には、三つの数字が表示されている。
待機時間 01:47:32
接続時間 00:19:08
本日の報酬 1,284円
一時間四十七分、髪を巻き、化粧をし、胸元の少し開いたブラウスを着て座っている。
だが、金になったのは十九分だけだった。
梨沙は待機中も気を抜けない。
スマートフォンを長く見ない。
猫背にならない。
あくびをするときは口を隠す。
笑いすぎず、無表情にもならず、少しだけ寂しそうに見える顔を作る。
画面の向こうの男たちは、入室する前に何人もの女性を比較している。
年齢。
顔。
胸。
部屋の明るさ。
待機メッセージ。
プロフィール写真と実物の差。
すぐに笑いかけてくれそうか。
自分のことを受け入れてくれそうか。
そして、その一分に金を払う価値がありそうか。
梨沙の待機メッセージには、こう書かれている。
〈眠れない方、お話ししませんか。無理なことは無理と言います。でも、お話はきちんと聞きます〉
事務所の担当者には、もっと甘い文章にしたほうがいいと言われた。
〈寂しい夜は、私のところへ♡〉
〈二人だけの秘密にしましょう♡〉
〈奥様には内緒でね♡〉
そのほうが入室率は高いらしい。
しかし梨沙は、「奥様には内緒で」という言葉が嫌いだった。
自分も三年前までは、奥様だったからだ。
画面右下の数字が変わった。
待機視聴 1人
誰かが梨沙を見ている。
梨沙は姿勢を直し、髪を耳にかけた。
マグカップを両手で包み、カメラに向かって小さく微笑んだ。
相手は入ってこない。
二分後、数字はゼロになった。
別の部屋へ行ったのだろう。
梨沙は机の横に置いた大学ノートを開いた。
表紙には、油性ペンで「顧客メモ」と書いてある。
常連客の話を覚えておくこと。
それが、この仕事では大切だった。
名前を呼ぶ。
以前の話を覚えていると伝える。
犬の名前を覚える。
仕事の愚痴を覚える。
腰痛の具合を尋ねる。
息子の受験結果を気にかける。
男は、自分の話が記憶されていると知ると、もう少し長く滞在することがある。
ノートには、ハンドルネームが並んでいた。
〈ミツル1973
既婚。妻とは別室。犬の名前はココ。日曜の夜に来る。説教されると退室する〉
〈孤独なライオン
自称会社経営。外部で会おうとする。連絡先を聞かれても断ること〉
〈ノブさん
母親の介護。野球好き。課金を後悔している。長引かせすぎない〉
〈メロンパン
無言で入室する。「覚えてる?」と毎回聞く。覚えていると言うと喜ぶ〉
〈ユウジ
ブロック済み。名前とプロフィールを変えて再登録する可能性あり〉
本名は、ほとんど知らない。
顔も知らない。
住んでいる場所も、職業も、家族の話も、本当なのかは分からない。
それでも梨沙は、彼らの妻より詳しく近況を知っていることがあった。
会社で降格された日。
娘からLINEを既読無視された日。
健康診断で再検査になった日。
飼っていた犬が死んだ日。
妻の誕生日を忘れて、三日間口を利いてもらえなかった日。
男たちは、現実の知人には言えないことを、ポイントに変えて話しに来る。
一分ごとに残高を減らしながら。
着信音が鳴った。
《ノブさんが入室しました》
梨沙は瞬時に笑顔を作った。
「こんばんは、ノブさん」
《こんばんは》
「今日は遅かったね」
《覚えてた?》
「水曜日は、だいたいこの時間でしょう」
《すごいな》
「お母さん、どう?」
入力中を示す三つの点が、しばらく明滅した。
《施設に入れることにした》
「決めたんだ」
《俺が見捨てたみたいでさ》
「見捨てた人は、そんなに悩まないと思うよ」
《その言い方、仕事で覚えた?》
梨沙は少しだけ笑った。
「半分は仕事。半分は経験」
《梨沙さんも介護してたの?》
「父を少しだけ」
《亡くなった?》
「うん」
《何歳で?》
「そこから先は、今日は話さない」
《俺は話してるのに》
「ノブさんは、お金を払って、話したいことを話しているでしょう」
梨沙はカメラを見た。
「私は、お金をもらっても、話したくないことは話さない」
接続時間が進んでいく。
一分。
二分。
三分。
梨沙の報酬が増え、ノブの残高が減っていく。
《やっぱり壁があるな》
「あるよ」
《俺は梨沙さんのこと、かなり知ってると思ってた》
「私は梨沙じゃないかもしれないよ」
《え?》
「名前も年齢も住んでいる場所も、本当かどうか分からないでしょう」
《四十六歳じゃないの?》
「ノブさんも、本当はノブさんじゃないでしょう」
返事が止まった。
梨沙はカメラの脇に貼った付箋を見た。
〈沈黙を怖がらない〉
新人の頃は、相手が黙ると、梨沙は慌てて話題を探した。
仕事は何をしているのか。
趣味は何か。
明日は何時に起きるのか。
だが、必死に話題を足せば足すほど、男たちは早く退室した。
この場所では、言葉よりも沈黙のほうが、高く売れる夜がある。
《本名は信夫》
ノブが書いた。
《信じるに、夫》
「そうなんだ」
《会社では佐伯課長》
「うん」
《母親からはノブちゃん》
「うん」
《妻からは、あんた》
梨沙は笑わなかった。
《ここだけ、ノブさん》
「じゃあ、ここではノブさんでいよう」
《梨沙さんは、ここを出たら誰?》
梨沙は寝室のドアを見た。
その向こうで、二十歳の娘が眠っている。
娘には、夜間のカスタマーサポートをしていると説明していた。
間違いではない。
客の話を聞き、名前を呼び、気持ちを確認する。
できないことは、できないと伝える。
嘘ではなかった。
全部を話していないだけだ。
「お母さん」
梨沙は答えた。
《子どもいるの?》
「いる」
《何歳?》
「秘密」
《旦那は?》
「秘密」
《会えない?》
「会えない」
《LINEは?》
「交換しない」
《カカオなら?》
「しない」
《一回だけ飯》
「しない」
《客としか見てないんだな》
梨沙は接続時間を見た。
二十二分。
ノブが今夜使った金額を、頭の中で計算してしまう。
「客だよ」
梨沙は言った。
《はっきり言うな》
「でも、客だから雑に扱っていいとは思ってない」
《俺は客以上になりたい》
「客以上になったら、私は仕事を失うかもしれない」
《運営にバレるから?》
「それだけじゃない」
《じゃあ何》
「ここでしか会わないから、話せることもあるでしょう」
画面の隅に、残高不足を知らせる表示が出たらしい。
ノブが書いた。
《今月、これで五万使った》
梨沙の表情が止まった。
「少し休んだほうがいいよ」
《客にそんなこと言っていいの?》
「よくないかもしれない」
《五万のうち、梨沙さんにはいくら入るの》
「全部じゃないよ」
《残りは運営?》
「サイトや事務所にも入る」
《俺と梨沙さんの間に、何人いるんだろうな》
その言葉は妙に正確だった。
二人の間には、運営会社がいる。
所属事務所がいる。
決済会社がいる。
カード会社がいる。
利用規約がある。
本人確認書類がある。
通信記録がある。
報酬明細がある。
確定申告がある。
そして、誰かが保存したスクリーンショットが、ネットのどこかに残っているかもしれない。
匿名掲示板では、出演者の顔や年齢、態度が採点される。
〈写真と違う〉
〈老けた〉
〈営業感が強い〉
〈話はうまい〉
〈脱がない〉
〈地雷〉
梨沙も一度だけ、自分の名前を検索したことがある。
三ページ目に、小さな掲示板が出てきた。
〈梨沙、普通のオバサンだけど話しやすい〉
褒められているのか、侮辱されているのか分からなかった。
別の書き込みには、こうあった。
〈旦那に相手にされてなさそう〉
書き込んだ男が梨沙と話したことがあるのかは、分からない。
無料の待機映像を数秒見ただけかもしれない。
ネットでは、三秒見た人間が、他人の人生を説明する。
《ポイント切れる》
ノブが書いた。
「今日はもう追加しないで」
《営業失格》
「そうだね」
《でも切れたら、一人になる》
「水を飲んで、歯を磨いて、寝て」
《そんなので寝られたら、ここに来ない》
「ラジオでもつけて」
《梨沙さんじゃないと無理》
梨沙は、すぐには返事をしなかった。
この言葉を何度も聞いてきた。
君じゃないと無理。
君だけは分かってくれる。
君と話すために働いている。
君がログインしていないと不安になる。
それは愛情にも見えた。
依存にも見えた。
脅迫にも、営業成績にも見えた。
おそらく、どれか一つではない。
全部だった。
「ノブさん」
《なに》
「私がいないと眠れない生活には、しないで」
《俺が来なくてもいいの?》
来なければ、梨沙の収入は減る。
娘の専門学校の授業料がある。
エアコンの修理代も払った。
昼のスーパーの給料だけでは、今月は足りない。
ノブが来ることで、梨沙の生活は助かっている。
梨沙がいることで、ノブの夜も助かっている。
しかし、それを助け合いと呼ぶには、片方だけがポイントを購入していた。
「生活を壊してまで、来てほしくない」
《じゃあ、壊さない範囲なら来ていい?》
「うん」
《結局、営業だな》
「たぶんね」
《でも、少し救われた》
「それも、たぶん本当」
接続が切れた。
《ノブさんが退室しました》
画面は待機状態に戻った。
待機視聴 4人
会話が終わるのを待っていた人たちがいた。
梨沙はもう一度、笑顔を作った。
午前二時四十八分。
配信を終了し、管理画面を開く。
本日の報酬 4,612円
接続時間 01:03:44
待機時間 03:22:09
三時間二十二分待ち、一時間三分働いたことになっている。
だが梨沙の身体には、四時間二十五分ぶんの疲労が残っていた。
リングライトを消すと、部屋は急に暗くなった。
鏡の中では、目の下にファンデーションの溝ができている。
娘からLINEが届いていた。
〈明日、お弁当いらない〉
梨沙は「了解」とだけ返した。
その直後、サイトから通知が届いた。
〈ノブさんがお気に入り登録しました〉
以前から登録されていたはずだった。
一度解除して、もう一度登録したのだろう。
自分がまだ存在していることを知らせるために。
梨沙は顧客ノートを開いた。
〈ノブさん
母親、施設へ。今月五万円。追加課金を止めるよう伝えた〉
そこまで書いて、ペンを止めた。
その下に一行、付け加えた。
〈ここでは、ノブさん〉
朝になれば、彼は妻と同じ食卓でパンを食べるかもしれない。
会社では佐伯課長と呼ばれる。
施設では佐伯様と呼ばれる。
母親だけが、もうすぐ彼の名前を忘れるかもしれない。
そして水曜の夜だけ、ポイント残高の横で、ノブさんになる。
梨沙も同じだった。
スーパーでは山本さん。
娘からはお母さん。
税務署の書類では個人事業主。
サイトでは梨沙。
掲示板では普通のオバサン。
誰も嘘ではない。
だが、誰も本物ではなかった。
午前三時を過ぎても、サイトには無数の部屋の明かりがついている。
笑っている女。
踊っている女。
誰かの入室を待っている女。
残高を見ながら迷う男。
お気に入り欄を更新し続ける男。
退会ボタンを押して、最後まで押し切れない男。
待機映像には、「無料」と表示されている。
けれど、その画面の中で、いったい何が無料で差し出されているのか。
正確に答えられる人は、誰もいなかった。
