驕り哲学第3弾 限界を自分で決めるのは驕りである

みなさんこんにちは。

以前、白い巨塔から学ぶ驕りとは何か?という記事を書かせていただいたのですが、今日はその続きです。

以前の記事では、驕りとは何か、というテーマの元、「自分では決められないはずの物事を、自分で決められると思っていること」だと考えました。

どういうことかということは、前の記事を読んでいただきたいのですが、今回は、その考えを発展させたものになります。


皆さんは、人生の中で、これは自分には無理だ・・・。と諦めてしまったことがありませんか?これは、自分の能力を客観的に見積もって、自分には不可能なことであると感じた・・・。そう自分自身で信じてしまっているわけです。そして、『驕り』という言葉の意味を『自惚れ』とか、『根拠のない自信を持つ馬鹿野郎』みたいな感覚で解釈している方もいらっしゃいます。そういう方にとっては、『自分には無理。自分はダメ。自分は能力が低い』と、自分自身を低く見積もっている人のことを、謙虚な人間とか、驕っていない人間とか、プラスの眼で見ることだってあるようです。

しかし、自分の力がどれくらいあるのか、ということは、自分が決めることではないのです。自分に属することであるにもかかわらず、自分にどれほどの力が秘められているのかは、自分で決定することはできません。

それにもかかわらず、自分が決定できると思っているのであれば、それは驕りなのです。自分の力は、自分でさえもわからない。まだまだ成長するかもしれないし、成長しないかもしれない。やってみなければわからない。少なくとも、それを知っているということ。それが、驕らない精神です。

先ほどの、自分には無理だ・・・と感じている人とは逆に、自分にはもっともっと力があるはずだ!自分だったらできるはずだ!ということが驕りだと言う人がいるわけですが、それが驕りだと言われてしまうと、そう考えてはいけないかのように感じてしまいますよね。じゃあ、自分にはもっとできるはずだ!という意気込みも、やる気も出してはいけないのでしょうか。そんなことはないはずですね。それだと、希望も理想もない状態になるだけです。

確かに、根拠もなく暴走されては困ります。こうした根拠のない自信は、自信過剰と言ったりします。そのままですけどね。ただ、根拠のない自信を持つことは大切だ、と唱える人もいます。例えば、偏差値40の高校から、偏差値70とかの東京大学に合格する人もいます。自分にはできるはずだ、と何の根拠もないのに信じている人が結構います。ですが、それは驕りではなく、単に自分に限界を決めつけなかった上、努力を重ねた結果がついてきたと言うだけの話です。だから、自分にはできるはずだ、とか言っているから、何やら自分の力を過信している、身の程がわかっていない、驕っている、といいたくなるんですが、自分の力を自分が線引きしていないというだけで、努力を続けたわけですから、そりゃ力は伸びるわけです。そんなことを思わないで、ただひたすら努力を続けた人間と、大して変わりません。大切なのは、自分には無理だと言って、最初から努力しない人間にはならないことです。私の理論だと、その人間こそが驕っているのです。

驕りは人を亡ぼす、とよく言いますよね?ほら、その人は自分が無理だと決めつけて、自分からむざむざ自分を亡ぼしに行っている。これほど愚かなことがあるだろうか・・・。私はそう思います。

自信というのは、何回も反復練習を積み重ねて、自分は確実にそれができるという実体的な力を持った時の心理です。よく、何の実績もない人間に、自信を持てよ!と言葉をかける人がいますが、これはやばいんです。それならば、自信を持てと言う前に、その人間に実践的な行動の反復を行わせることが必要です。

ですが、それでも無理だと思うシーンもありますよね。例えば、恋愛で自分の好きな人がいて、自分の思いが受け入れられるかどうか自信がない、という人がいるとします。そういう人に、自信もてよ!と言っても、それは無理です。自信を持てないのが普通です。なぜならば、人の心なんてコロコロ変わるわけだし、自分がコントロールできるものではないからです。それに、実践しようにも、告って失敗すれば終わりなわけですから、練習もくそもないわけです。告白を繰り返して、反省して己を磨いて、いつかうまくいくんならいいですけどね。実は、告白するのも、私はこれでいいと思っているんですけどね。

ですが、仮にこういう物事の場合、自信を持てよ!と言っている人が、驕っているんです。自信というものを、自分のなんとなくな感覚でとらえているからです。自信は、反復して練習し、自分が体得したものであるとか、相当考えこんで理論的に精緻化されていて、間違いがないだろうな・・・という場合などを除いては、なかなか持てるものではありません。

自信のない人間というのは、行動と反省が足りていないのです。自信がないと、行動する気も起きませんが、行動をして、経験を積まないと、自信にはなりません。むしろ、自信がない中で、一歩一歩歩んでいったとすれば、その一歩一歩が自信の素となるのです。

告白をするのに、どうして自分に自信がないのか?顔が悪いから?お金を持っていないから?違いますね。自分の行動と反省が足りていないのです。もちろん、自信があってもふられることはあります。自分を確実に相手が好きになるはずだ、自分は確実に相手から気に入られるはずだ、という考えは、驕りです。それは、相手が決めることです。自分がどれほどモテても、それは自分が決めることではありません。あなたがモテる要素を持っているから、そうなっただけのことで、あなたが決めたことではありません。あなたが決めることなら、私はあなたによって好かれると私が決めた!と言えば、あなたは好かれるはずです。

自分の愛する人、信じている人、決して裏切らない!と自分が思っていても、残念ながらそれは驕りです。それは、あなたが決めることではありません。それは、その対象者の心次第です。例え、何らかの特殊な事情(脅しをかけられているとか)があって、本心とは違っていたとしても、やっぱりその時は、あなたを裏切るという選択肢を取ることがあるでしょう。そういうものです。

じゃあ、何を信じればいいんですか?自分が信じたものが、全て驕りだと言われていることと同じではないですか?そうなのです。私たちは、驕りからは逃れられません。私たちはすぐにどこかで驕ってしまいます。そして、それが信じるべき対象であるということさえ、私たちが決めることではないのです。信じるべき対象であるかどうかは、私たちが決めることではありません。

私たちは、よくこういうとき、驕りの例を見ますよね。例えば、全国大会で優勝した。だから、もう練習しなくて大丈夫だ。自分達はもう最強なんだ!とかっていうのも、驕りですからね。もうちょっとわかりやすい例を言うと、難関大学に合格したら、突然勉強をしなくてもいいや!と思っちゃう人もいるわけです。勉強をしなくてもいいとか、練習しなくていいかどうかは、あなたたちが決めることではありません。これは、驕ってしまった心として、よく取り上げられる心理ですよね。だから、驕ってるな!?と思った人は、そのおごりを取り払うために、お前たちよりもまだ上の人間がいるんだぞ!ということを知らせようとしてきたり、お前たちなんてまだまだなんだぞ!ということを教えてきたりすることもあります。そして、あ~あ。せっかく自分達はもう十分やったと思ったのに、せっかくいい気分だったのに・・・。ということにもなるわけで、中々難しいものですよね。

亀仙人がジャッキー・チェンに変装して、悟空とクリリンを叩きのめすようなものです。

『はじめの一歩』という有名なボクシングの漫画があります。ブライアン・ホークという、驕りを絵に描いたような世界チャンピオンが登場します。彼はほとんど練習しないにもかかわらず、世界チャンピオンになった、まさに天才でした。そして、自分はもう勝てる気でいたわけだし、負けるはずがないと思っていた。確かに、とてつもなく強い人でした。

しかし、やっぱり、勝てるかどうかはその人自身が決めるものではありません。彼が本当に努力をしていれば、リカルド・マルチネス以上の無敵ぶりを誇っていたでしょう。しかし、彼は驕ってしまいました。自分は天才だ。自分は最強だ。負けるはずがない。そう決めつけてしまっていました。

確かに、彼を倒した鷹村にさえも、最初は圧倒していました。あの物語は、天才というものの脆さを描いた話でもあり、人の驕りを描いた話でもあり、鷹村の人間の強さ、バックボーンというものの上に立つボクシングという武を描いたものでもあり、一方、文なき武のみを振り回し、悦に浸っているのは、所詮ただの快楽屋でしかないことを露呈した物語でもありました。例えボクシングの才能に優れていても、人間としてはとてつもなく弱かったのです。そのため、1敗をしただけで、彼の精神は壊れてしまいました。彼は確かに若い時に苦労をしましたが、その苦労は、彼にとって、苦でしかなく、チャンピオンの地位は、その苦しみや恐怖とは対照的な場所にある、快楽でしかなかったのです。彼は、ただ、苦しんでいただけの過去から、苦しまない、快楽を感じる場所に移動できていただけでした。彼には、何もありませんでした。彼は、人生の深みを学ぶ機会を持ちませんでした。それは彼のせいではなかったかもしれませんが、いずれにせよ、もったいない話であります。

驕りとは、自分では決められない物事を、自分が決められると思っている心です。私たちの心は、驕りに満ちています。さて、私は驕りという言葉の意味を、こうだと思っている人です。私が驕りの意味を決められると思っている。驕った人間の一人なのでしょうか・・・。それとも、驕りというものは、確かに私の言っている意味と一致しているのでしょうか・・・。これは驕りか、それとも驕りではないのか。

私は、私が驕っていないと思っています。なぜか・・・。それはとてつもなく微妙なラインです。驕りと驕らずの境界線の、紙一重の差かもしれません。理由を言えば、驕りの意味を私が決められると思っているのならば、例えば、驕りとは自惚れのことだ!と言う人は、やっぱり驕っています。その言葉の意味を、自分が決められると思っているのだから。しかし、私は、驕りという言葉の意味の、真意を探ろうとしている。私がその言葉の意味を決めつけようとしているのではなく、その本来の意味を、解き明かそうとしているにしか過ぎないのだから!!!






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