白い巨塔から学ぶ 驕りとは何か

皆さんは白い巨塔という話をご存じですか?医大の中で繰り広げられる権力抗争の泥沼を描いた物語です。

ネタバレになってしまいますから、これ以降は白い巨頭を見た後に読んでいただきたいのですが・・・。





主人公の財前五郎は、大きな過ちを犯してしまいます。自分の診断にミスはないと言い張り、誤診したことを決して認めようとはしなかった。そのおかげで再検査をせずに放置した結果、患者が死んでしまいます。

財前五郎は、自分の診断に間違いはないと言い張りました。そこに彼の驕りがありました。

人間は、自然と対比した意味で、人工という領域を持って生きていますけれども、人間の体自体は自然のものです。人間は、自然と関わることができるため、人工的なものを創り出すことができます。

ビーバーがダムを作るのと同じように。あれは、ビーバー工っていうんだろうか。動工っていうんだろうか、そういう言葉は聞いたことがありませんし、そもそもないのであろうと思いますが、そういうことです。ビーバーは、全て自然のものを再利用していますから、そういう意味で、自然のままのもの、ということになるのでしょう。

で、何が言いたいのかというと、人間の体に病気が発生するのは、自然由来のものです。私たちが、ここに病気ができろ!とかいうわけはありませんが、おのずから出来上がるものです。それは、私たちが決めることではありません。私たち人間から離れた、この世界の、自然のルールに従ってそうなっているのです。

そして、そのルール自体は、決して変えることはできないのです。人間に出来ることは、ルールそれ自体の変更ではなく、そのルールがあると見定めたうえで、それを回避したり、防衛したり、受け入れたりする、あるいは、そのルールを利用することでしかありません。

財前五郎は、「自分の診断こそが、病気のありかを決める」と言わんばかりの考えでした。彼自身、そこまでは考えていなかったはずです。「自分の診断が正確である。」というのが彼の考えでした。周囲が、再三、再診断をするべきだ、と言っているにもかかわらず、「自分の診断が正確である。」の一点張りでしたね。しばしば、驕っている人間を表現する時、「周りの人の意見に耳を傾けない。」という別の言い方がされることが多いです。だから、この場合も、文字通り、他人の意見に耳を傾けなかったわけです。

他人の意見に耳を傾けない時、それは結局、自分の考えが正しいと考えている、ということです。そして、財前五郎の場合、「自分の診断が、この世界の自然のルールに沿う流れによって生み出された病気のありかやその状態と一致しているのだ。」ということになるわけですね。

しかし、これは周囲が決めることでもなければ、財前五郎が決めることでもありません。彼の考え、彼自身の存在から離れて、病気は自然の仕組みに従って、その場所に存在しているのです。彼の考えや彼の存在とは全く無関係な存在なのです。

驕りとは、「自分では決定できないものを、自分が決定できると考えていること」なのではないかと私は思っています。


驕らないリーダーは、実は存在しない。

しばしば、驕らないリーダーが、理想のリーダーとして求められることがあります。でも、驕らないリーダーというのは、実は存在しません。

リーダーは、自然の流れの中から、物事を人工的に切り取って、それを正しいとするところがあるからこそ、リーダーなのです。

例えば、政治のリーダーを考えてみましょう。政治で、最も大切なことは、治水事業です。河川の傍に住まなければ生きていけない、水が無ければ生きていけない我々にとって、河川が氾濫するということは、死活問題でした。

エジプトはナイルのたまもの、という言葉もあり、ナイル川がある程度氾濫してくれるからこそ、土に栄養分がいきわたる、ということもありますが、そういう意味でも、水は程よく土と混ざり合うように、管理しなければなりません。

そこで、リーダーの手腕が発揮されます。治水を行うとき、どのように川をせき止めるか、どのような形で、壁を作り、どのようなタイミングで、ダムの水を管理するか。とか、ダムをどこに作るかとか、いろいろな考えを考慮して定めます。

それでリーダーが大丈夫だ、これで絶対に氾濫は起きない。そう考えていたのにも関わらず、例えば、3.11のような事件が起きることだってあるわけです。あれは、正確には、津波でしたが、ああいうことが起きると考えているリーダーがいれば、あの場所に原子力発電所は置かなかったし、置いたとしても、それ相応の防御策を講じていたでしょう。

リーダーが治水事業を行っても、人によっては考えが異なります。例えば、セメントで壁を作り固めたとします。セメントの量はどれくらい?人によっては、1Kg多くしたり、少なくしたりすることだってあります。細かいことを言えば、その中の原子量の個数の違いまでも言及することができます。

ここまで来るとヤクザみたいですね。自分は自分の要求通りにしろっていうんや。原子量が~無量大数個のセメント量じゃないとダメだっていうたじゃろ。それより1個でも少なかったらいかん。とか。

しかし、この話にも学ぶことはあります。私たちは、絶え間なく流れゆく、変化し続ける物事の中で、ここだ!と思うところで、切り取り、とりあえず確定しなければならない時が来ます。これを、「判断」といいます。半とは、半分の半。りっしん弁は、刀を意味し、断も、断ち切るといいますね。

判断とは、必ず驕りを含んでいるのです。それが最適解とは限らないのですから。そして、自然由来の物でも何でもないのですから。自分が決めることではなく、自然が決めるべきことであるのに、それを圧して、自分が決めているのですから。

じゃあ、驕らない場合はどうすればいいのかというと、そのまま自然に任せて放っておく、ということです。自然の成り行きに任せ、氾濫するときは氾濫し、凪の時は凪である。そのままほったらかしておく、何もしないリーダーこそが、驕らないリーダーなのです。

そんなのリーダーじゃない・・・。と思われるかもしれませんが、本当にそうなのだと私は思います。

で、小心者で無責任なリーダーっていうのがよくいるんですよね。自分はリーダーとしてのメンツを持っておきたいけど、判断した責任は負いたくない、というやつです。これを語っちゃうと、いろいろと長くなりますが、文系社会に狸親父が多いのは、こういうところがあるからなんですよね。

例えば、西遊記のお話で、お釈迦様とソンゴクウの話が有名です。ソンゴクウが筋斗雲で高いところまで登り、こんなに高いところまできたぞ!と思っていたら、お釈迦様の指の先端だった、ということですよね。

これをまともに受け取ると、そんなあほな!お釈迦様ずるい。って思う面もあるっちゃあるんですよ。

でも、ここでお釈迦様が言いたかったところは、お前自身がお前自身で、どれほどの距離を移動したのかは、全てお前の心の中の現象でしかない。つまり、お前がそう考えているにしかすぎないことなのだ。お前の外にある世界は、お前とは無関係に定まっており、お前自身がどれほどお前の中で満足していようと、それは全くかかわりのないことなのだ。

ということを伝えようとしていたのではないか、と私自身は考えています。お釈迦様がいかにすごい人でも、自分の体を大きくしたり小さくしたりするっていうのは、さすがに物語の暗喩でしょう。釈迦は実在の人物ですから、人間の範疇を超え、物理的に巨大化することはできなかったはずです。そこの部分には、私の驕りはないと思います。

 しかし、ひょっとすると、過去にそういう人間はいたかもしれないが!!!こう考えるのも、私の驕りかもしれない。そんなことあるわけないじゃ~ん!とすぐに決めつける人間みたいなものですね。自分の頭の中の出来事だけが、この世界で起きうることだと思っている。これも人間の驕りなのだと、私は考えます。驕る人が成長を止めてしまうと、よく言われますよね?それは、自分の頭の中にある、その世界の中から、抜け出すことができないからです。だから、外の考えが全く入ってこなくなり、自分の頭が更新されなくなり、自分の知見が全く広がりを見せなくなるのです。財前五郎も、孫悟空も、これと同じ状態を表していると私は考えます。その狭い世界の枠を表現したのが、お釈迦様の例えだったのでしょう。井の中の蛙大海を知らず、というやつですね。

驕りとは、自分が決める物事でも何でもないのに、その物事を、自分自身が決定できていると考えてしまう人間の心理です。

もう一つ有名なエピソードがありますね。驕れる平家です。平家にあらずんば、人に非ず。という有名な言葉があります。この言葉を聞いた人は、こう考えます。自分達が人間で、それ以外の人間たちは、人間ではないと言っている。自分達は、とても、高尚で、高貴で、格式高く、素晴らしく、逆に、それ以外の人間は、そうじゃない。動物などの犬畜生である。そういう意味で、驕りというのは、自惚れと同じだと、よく誤解されることがあります。そういう気持ちになっていることを、おごり高ぶっていると表現することがありますが、驕りと自惚れは全くの別物です。

例えば、驕りという観点から、平家を捉えてみると、人間が何であるのかを決定するのは、お前らじゃないのです。「人間が何であるのか?」というこの哲学上のテーマは、少なくとも、「平家であるかどうかで決定されるもの」ではありません。これは間違いのないことです。それは次の事実で簡単に証明できます。

 それは、平家がない原始時代は、じゃああいつら何だったんだ?っていうことだからです。平家ができる前の人間は、人間じゃないのに、人間じゃないものから平家は産まれてきたんか!ってことになると、やっぱり平家も人間じゃないわけですから。

そして、この世界は、どれだけ隆盛を極めても、やがて変化し続けるもの。この「変化する」、というところが、自然の在り方です。一切皆空です。ですから、平家が政権を取って、それは何時までも続くのだ!と考えているのであれば、それはやっぱり、その考え自体が驕りなわけですね。そして、いつまでも続けよう!とすると、それは自然の流れに反してしまうものであり、そこには権力にしがみつくための欲望まみれの世界が生み出される、ということになります。驕れるリーダーが上に着くと、自然の流れに反した存在となる。従って、そのよどみが生まれてしまい、世界は却って荒れてしまう、ということになります。

驕れるものは久しからず。ただ春の夜の夢のごとし、という言葉通り、平家は割とすぐにつぶれてしまいました。

だから、私はたまに冗談めかしてこう言います。政治家は、何もしないほうがいいんじゃないか?って(笑)




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