女が人を作る 女は「女性」のことではないと思う
多くの場合、人の限界は女によって決定してしまう。
例えば、学問の世界。
あなたにとって、学問の道はどこまであるだろうか?
例えば、人間の男性を例にしよう。多くの男性は、学問の道に入っても、真実の探求を目的とはしない。
彼らにとって大切な学問のレベルはこうだ。
いわゆる人間の「女性」である女から自分を見てもらった時、他の男性と比べて、自分が他の男性よりも賢いと思われる程度の学力があればいい。
悲しいことだが、これがほとんどの場合だ。
特に、学校時代には、誰の頭がいいとか、悪いとか言われているが、どれだけ差があっても、ほとんどの場合、団栗の背比べである。
これと並行して、人から頭がいいと評価される程度の学力があればいい、そこで満足してしまうものたちだっている。
お金が稼げる程度の学力があればいい、そう考えるものもいる。
実は、女というのは、私たちが思い描いている「女性」のことではない。
私たちに生を感じさせる対象、私たちの心に「それを得たい、そこにたどり着きたい、その場所を感じていたい」といったような、何らかの誘因性を感じさせる「光」のようなものである。
あなたが闇夜を彷徨っていて、突如光がぽつりと見えれば、それを頼りに歩き始めるだろう。そういうものだ。
例えば、「嫌う」という言葉を見てみよう。女を兼ねると書いてある。親の遺産相続をめぐって、家族が骨肉の争いを繰り広げる、というエピソードを聞いたことはないだろうか。これは、「お金」を問題としている。このとき、「お金」が「女」だ。皆お金が欲しい、あるいは、お金を誰かが取ることに不満を持つ、そういった気持ちがどぶさらい劇場を産む。
「女」をそのようにとらえた場合、人間の「女性」にとっては、実は人間の「男性」こそが、「女」である。女でも、自分の意中の男を巡って、お互いが争いを繰り広げることがある。源氏物語の桐壺でも、有名な話ではないか。これも、「嫌う」とか、「嫉妬」とか、女という文字が関わっていることがわかる。
人が人を嫌うのは、その人が悪い人間だからではない。実は、「女」を兼ねる問題で、その人間と関わるからである。
私達が人を「好き」になるのも「嫌い」になるのも、私たちの心に、自分達の心に湧く、掻き立てられる欲望が関係している。それを生み出すものが「女」と称されているのだ。
ただ、女性差別はずっと昔から根強かったためか、人間の「女性」に、「女」という名前が付けられている。男と女というのが両性であるかのように扱われているが、私たちが考えている女性としての「女」は実は「女」ではないのではないか。女性とされている性を持つ人間に、女という言葉があてられていること自体が、既に差別された結果としての名称なのではないかと感じている。
確かに、女を巡ったトラブルは非常に多く、男女関係は多くの場合こじれることが多い。だから、女に囚われている人ほど、精神的な不安定を感じやすくなったりする。
女とは人間の「女性」のことではなく、何らかの報酬、対価などの、私たちの心に欲望を掻き立ててくるような何かであり、多くの人たちは、この報酬や対価を得るために学問を学ぶ。それが得られる程度の学問があれば、そこで満足する。
女性としての「女」自体が、精神的快楽をもたらす報酬、対価であると考えれば、女性としての「女」を獲得するのに十分な学力を持つことが、やはり目標となる。これは、男社会であったことを軸とするからこそだ。
もちろん、他者からの評判も、「女」だ。皆評判を欲しがる。
学者の中には、見当違いのことを言っている人たちがいるし、大きな間違いや、独りよがりな論理展開を行う人間もいる。だけど、学者だから、頭がいいと思われている。彼らはもちろん、真実を探求している(のだろうと思う)けれども、実際の場合、保身と名誉、取り巻きを求めており、そこで満足している、ということも多い。
特に国立大学の教授はヤバイという噂を聞く。ただの噂であればいいのだが、国立大学の一教授自体がそういっているので、きっとそうなのではないだろうか。
大学自体が、今や競争の時代。ブランドがな通用しなくなることだって出てき始めたように思う。少子化も深刻であり、地位を手に入れれば食っていける、という時代も終わろうとしている、もしくは終わった、と思われる。
それぞれの人間の限界は、自分がどの「女」を目指しているのか、ということによって決定してしまうように思う。宗教が「女」というものを差別し、悪いものであるかのように扱っているのは、人間としての「女性」が悪いのではない。「女」というものが、私たちの欲望の源泉であり、人としての道を踏み外し、和を乱し、この世界を悪化させていく元凶だとみなされているからだろう。
念を押すが、私はいわゆる「女」が、人間の「女性」を指しているわけではないと考えている。それが女だとしても、女同士、男のことでもめることがある。女性にとって、男は「女」になることだってあるわけだ。だから、人間の「女性」にだけ、「女」という文字があてられてしまっているのは、そもそもそれ自体が差別的な呼称なのではないか…と言いたいのである。
