真面目なはずの校長がなぜ変態校長へ変貌するのか
校長先生が小学生児童に猥褻行為を働く、という事件がよく起きますね。小学校なんて安心して通わせられません。
校長先生もそうですが、普通の教職員も同じで、猥褻目的で教師になっているんじゃないかと思うくらいです。
そもそも教師という職業にあこがれを持つ人とか、教師になりたいなんて思う人は、学校の仕組みがわかってないんじゃないかなって思うんですよ。
まず、教師になっても、自分の教えたいことをおしえることはできません。
学習指導要領というもので、何を教えるのかはあらかじめ決められています。
これはなぜかというと、全国の学校で、教える内容を同じにしなければ、不公平になる、つまり、教育の機会均等が妨げられるからです。
ということは、教師というのは名ばかりで、文科省の命令を伝達するだけの、上の命令伝達士というのが、教師の実体です。
そりゃたまには好きなことを話してもいいかもしれませんが、基本的に単独行動で授業を行い、自分勝手に話を展開させていくことは許されません。
最近こそ、教育改革が行われ、「探究」?とかいう科目が出来上がって行っているようですが、どうなんでしょうね。
上が恐れるのは、個人の主体性なんです。個人が好き勝手に物事を考え、個人が好き勝手に行動し始めると、自分達の言うことを聞いてくれなくなったりして、権力の行使に支障が出るのです。
個人の主体性が確立することと、権力の行使は、二律背反の関係にあります。権力者は、個人の主体性が確立することを嫌います。自分達の言うことを正しいと考えてほしいのです。それは、今の中国やロシア、北朝鮮を見てもよくわかると思います。果ては洗脳です。これが最高の状態です。
そして、教育自体の意味を分かっている人もいません。実際、教師に教育って何ですか?と質問したことがありますが、三者三様の答えが返ってきます。
教育(と言われている分野)もすでにビジネスになってしまっていますから、生徒をとりあえず確保し、収益を確保する、という経営の方が重要となっていき、肝心の生徒自体の成長という点は、なおざりになってしまっている、ということもあり得ます。
また、権力者は個人の主体性が成長することを嫌いますから、看板としては「主体性」とかいう文字を掲げていても、実態は違います。そうした、主体性なき個人のなかから、教師は誕生します。
皆さんが出会った教師は、盲目的に上の命令を聞き、規則に従わない生徒を注意するなど、頭の固い人であることが多かったでしょう。それはそういう理由で、自分の主体性よりは、上の命令が正しい、と信じている人が多かったり、上に不満を持ちつつも、命令だから聞かなければならない、といったような、心と体の分離が発生する状態の教師が非常に多く存在しています。そのため、公立学校の教師の精神病を理由とした休職率は非常に高くなっています。
そもそも教師自体の頭が固いし、上の命令伝達士であることが正体なのですから、自分の考えというものを持つことがない、そういう人が教師になっていくことが多いです。私が学生時代は、教師の正体は、自分で考える力を持たない、上の命令をとにかく聞いているだけ、保身が目的のことなかれ主義、という感じで、彼らの相手をすることは、ただ時間だけが過ぎ去っていくだけだなぁ。。。というイメージがありました。
私が学生時代、いろいろとこうしたほうがいいんじゃないかと提案したことがあるんですが、教師の返答は、「めんどくさい」でした。そう、教師は非常に真面目なのです。真面目さの裏返しっていうのは、「めんどくさがり」なんですよね。彼らは上の命令だけ聞いていれば自分はもう生きていけるんだ。そういう感覚になっている人が多いわけです。だから、それ以外の余計なことなんてしたくない。上の命令さえ聞いていれば、自分が責任を負うこともない。馬鹿にしすぎかもしれませんが、私が実際にあった教師たちはこんな人たちでした。いい人たちではあったんだろうと思います。悪い人たちじゃなかったんだろうと思います。でも、こういうところはありました。
で、こういう人たちは、学校の規則っていうのもしっかり守ろうとします。その規則っていうのがなぜ必要なのかも理解せず、そう決められているから守る、という頭です。その派生効果として、だからこそ、髪が目にかかっている生徒をしかったり、シャツを出している生徒をしかったりと、基準に反した生徒を叱ったりすることがあるわけですね。
で、実はこの真面目さが、変態教師をはぐくむ母胎になるわけです。
まず、一つ目としては、真面目な人は、立派な人だから真面目なのではないということに気が付かなければなりません。彼らは、真面目であれば自分が生きていけるからこそ真面目なのであって、真面目さは、彼ら自身が幸せになるための手段にしか過ぎないということです。本当に真面目なのではなく、自分達の幸せのために、真面目をやっているのです。真面目屋さんなのです。だから、自分を幸せにしてくれないような真面目さをつきつけられると、真面目さをすぐに捨て去るのがセオリーです。これを仮に、似非真面目と言います。
次に、似非真面目な人は、本当に自分の心の底から、内部からやってはいけないことを、どうしてやってはいけないのかを理解しているのではなくて、ただ、外からやってはいけないと言われていることを、その通りだと信じて、自分をその枠にはめ込もうとしているにしかすぎません。ですから、自分がやってはいけないと言われていることについて、欲望を持っていたとしても、その理由をしっかりと考え、わかって、理解してやらないようにしているのではなく、やってはいけないと言われているからやらないようにしているだけなのです。この欲望抑圧の壁が、如何にうすっぺらいものか、想像できますか?
レジェンド校長と言われる、高島雄平氏は、フィリピンで1万人以上の少女と買春を繰り返したと言われています。彼は校長先生でしたが、フィリピンに赴任した際、タガが外れた。と言っています。
つまり、フィリピンのような外国だと、日本で気にしていた周囲の眼や、ルールみたいな、自分の欲動を押さえつけていたものが取っ払われるわけです。私は、彼はとてつもなく真面目な人だったのだろうと思います。周囲がしてはならないと要求していたことを、何も考えず、してはいけないことだから、してはいけないと、ただそれだけを根拠に、自分の欲望を、抑圧していたのだろうと考えています。
私は、法律入門シリーズの記事を書いているのですが、ルールを守る人は、周囲の目を気にしているだけの人、という結論を展開しています。
この言葉をそのまま借りるならば、真面目な彼らは、ルールが大切だからルールを守って来たのではなく、ルールを守らないと、自分が周囲から後ろ指をさされる・・・ということにおびえてきただけだったのです。そして、生徒たちに対しても、ルールを守りなさいと強制する手前、自分達が守っていないと思われるのも、どんどん怖くなっていくのです。人を呪わば穴二つ。人を批判する人間は、自分が批判されることが怖くなり、何もできなくなっていくように・・・。
そうして、欲望だけはしっかりと存在し、それを止めるすべも、精神性も育たぬまま、ただ周りの圧力のみを頼りに、それを押さえつけるだけの毎日です。気がおかしくなるでしょう。
そして、私たちは人生で、性の欲求というのを、少なからず皆、体験してきているはずです。ただ抑えろと言われるだけでは、なかなか抑えることなんてできないでしょう。なぜ、性の欲求を満たすことが、それほど悪いことなのか。わかっていない人の方が圧倒的多数かもしれません。
性の欲求を抑えられない人を非難する人は、その非難をしようとする気持ちを抑えられませんよね?また、肉体という意味での性の欲求を抑えられる人は、ギャンブルを抑えることはできますか?飲酒を抑えられますか?喫煙を抑えられますか?ゲームすることを抑えられますか?嫉妬を抑えることができますか?
ひいては、自分の内から湧き出る欲動を抑えることができますか?
欲求をただ抑える、ということは、難しいのです。
さて、こうして、欲望があるのに、ただ、外部からするな!と言われているだけを頼みに抑え込むこと。真面目な人は、しばしばこれをやってしまいます。真面目な人は、命令さえあれば動くのです。だから、ミャンマーで国民が虐げられているのに、国軍は、上の命令があるから動くのです。真面目な人は、実は世界を亡ぼすのにも一役買っているのです。
真面目な人は、とても周囲からの評価が高い人格です。でも、実はとても危ない人格なのです。自分の考えを持たない、主体性が育ってないので、上から命令されればその通りに動く機械になっています。
でも、人間はやっぱり欲望を持ちます。機械ではありません。自分の持っている欲望がうまく解消できない、うまく自分の気持ちに整理がつかないまま、ただ外から抑え込まれるだけの日々。こうなると、人間はおかしくなっていきます。しかも、自分の頭で考える力を持たないので、自己解決できる日は永久にやってきません。これは一種の地獄なのです。
そんなとき、やがて膨らんだ欲望が爆発する日がやってきます。先ほども言いましたが、ルールを守る人は、結局周囲の目を気にしているだけなのが正体だと言いました。これには異論があるかもしれませんが、もし興味があれば、私の法律入門シリーズを一度読破してください。
犯人は、主体性を失わせ、上から命令をするだけで人を操作しようとする人たちにあるのですけれども、これは二律背反なのです。個人の主体性はとてつもなく邪魔なので、主体性を失わせるように行動してくるのです。
そういう意味では、真面目な彼らは、一種の犠牲者です。ただ上の命令に忠実に、心も体も合わせようとした。しかし、人間の中にある、上の人たちでさえもコントロールできないものは、やっぱりどうしようもできません。
こうした事件が起きてしまうことは、非常に嘆かわしいのですが、私は一つだけ、このことに肯定的な視点を持っています。これこそが、人間が誰にも支配されない部分なのではないかと。そういうものは、永久に侵されることはなく、コントロールの及ばないものなのであろうと。
本当に辛うじて存在する、一種の希望なのではないかと。その希望が、悪い結果として出てきた結果が、このような巨大な性の事件なのではないか・・・。そう考えてしまうのです。
やれとは言ってませんよ。そして、こういう育ち方をしてしまった彼らのようになってほしくはありませんね。
