勝利と敗北の哲学 ~仕事で素直にいうことを聞くのはなぜ大切なのだろうかということを通して~
皆さんは、上司や先輩から、
ちゃんと~してくださいよ!
こうしてくださいね!
~したほうがいいですよ!
といった叱咤を受けたり、こちらがわかっていることをいちいち言われたり、あるいは相手が取り違えてきたことを、そのまま相手が自分が正しいと思って文句を言ってきたり、こちらが知らなくて当然のことであるのに、当然知っているかのように扱われ、叱られる。そういう経験をしたことはありませんか?
そういうときでも、いちいち口答えをせず、はい・・・。申し訳ありません。とか、承知しました。とか、素直に謝らなければなりません。
相手が多少理不尽であっても、素直に言うことを聞かなければならないのです。
でも、私は昔から、おかしいと思っていました。そう、おかしいことはおかしいのです。だって、こちらが正しいこと、相手が間違っていること、それは厳然たる事実としてあるのですから。
これは、事実の論理としては、正しいのです。こちら側が正しく、相手が間違っていることが確かなのに、それを言えない、というのは歯がゆいですよね。
私はもう気にしてはいませんが、昔はこういうところをいちいち正さなくては気が済みませんでした。
素直に謝るのが謙虚さとか、素直にいうことを聞くのが利口だとか、はたまた大人になることだとか、そういう都合のいいぼかし方をされると、余計に胸の中がもやもやしてきて、素直さとは何か・・・。謙虚さとは何か・・・。大人とは何か・・・。それらすべての言葉の意義、正確な意味を自分で解き明かさずにはいられませんでした。
何でかって、もし相手側が理不尽で滅茶苦茶なことを言う大人である可能性だってあるわけですから・・・。実際、そういう大人も非常に多いわけですから。素直に聞かなければならない、だからといって、全て素直に受け入れてしまうと、それだと却って、自分の身さえ守れなくなるではないですか。大人だからって、自分より地位が高い人だからって、正しいこと言っているとは限らないとか、そんなこと、皆さんもよくご存じですよね。
さて、それらの意味が全てわかった後でも、そして、ホイホイいうことを聞いている今となっても、やっぱり自分のいうことの方が正しい時は正しいと感じる気持ちは今でもあります。
具体的な例を挙げろと言われると、ちょっと難しいですが、ある時、他の人と一緒に自分の書いた原稿を見るため、日にちを決めてくださいと言われました。その際、私はそれをしなさいと言った方が、私と一緒にその書類を見るのだと思っていたのですが、リモートで会社の何人の人たちかと、共にその書類を見る、という意味だったのです。
新米の私はそのことを全く知らず、じゃあ、この日でいいですか?とその人に伝えました。するとその人は、「は?何言っているんですか?ちゃんとみんなに伝えないとだめですよ。」と言われました。
私がそんなことをしなければならないということを知らないことくらい、相手だってわかっているはずでしたが、私は、申し訳ありません~。と素直に謝りました。
そこで、そんなこと知ってるわけないじゃないですか。と言ったらどうなるでしょう。途端に口論になるかもしれません。
他にも、自分が言ったことを別の意味に取り違えられ、相手はそれがそのまま正しいと思い込んで文句を言われたこともありました。
こういう時、それはあなたの誤解です。私はこういうつもりで言いました。と言い返せばどうなったでしょうか。
その場合、論点が、私が本当にそれがわかっていたのかどうか、ということにシフトします。そして、それは永久に証明できません。相手としては、そんなはずはない、自分の考えたことの方が正しいはずだ、という思いであるはずですから、ここでお互いの主張は平行線をたどり、水掛け論になります。
すると、その証明ができるかどうかは、永久の時間を必要とする上、相手との関係も悪くなるでしょう。
そういうときは、言い返さず、素直にいうことを聞く。謝る、というのは大切なのです。
一つ目の理由は、無駄な論戦や人間関係の悪化を避けることができる。
二つ目の理由は、これが大切なのですが、先輩や上司の言うことが、その会社ではさしあたってのルールなのだから、お互いに確認し合える、ということです。言われなくてもいい事かもしれないし、相手もわかっていることかもしれないけど、しっかりと伝えた、ということが、お互いに確認が取れるということです。
いちいち口答えをすると、自分の言ったことが、相手にしっかりと伝わったかどうかわかりません。また、相手が自分に不満を持っていると思われると、何かのきっかけで、それが仕事上に支障をきたすのではないかと思われかねません。
私は自分が購入した小さな商品の段ボールを、燃えるゴミに入れてしまいました。ところが、段ボールは分別しなければなりません。だから、しっかりと分別してくださいと言われました。実は、小さな段ボールは、燃えるゴミに入れても、問題はないのです。問題はないのですが、一応段ボールなので、別扱いなのです。
本当にそれがわかっているなら、私は、小さな段ボールは燃えるゴミでいいですかと事前に聞くこともできました。でもそれをしませんでした。これくらいいいだろうと思っていました。
しかし一方で、分別をしなければならないという知識も、持っていました。家でも段ボールは分けて出すからです。
私に注意をした人は、段ボールを分別しなければならないということを知らない人なんだ。と思ったかもしれません。私も、それくらいはわかっていたんですが、それくらいならいいじゃないですか・・・といい返すことだってできました。しかし、素直に、承知しました、と答えました。
こういう時、大切にすることは、「しっかりとゴミは分別しなければならない」という共通認識を持てた、ということです。言訳をする。反論する。そりゃ確かに、こちら側の言うことが正しいこともあります。でも、それより優先するべきは、確かなる「共通認識」を確立することです。
ゴミを分別すること。それは言われなくてもわかっていたことでした。そして、いちいち言われてしまいました。でも、そこでいちいち反論や言訳をしていてはいけません。これで相手との間に、ゴミの分別についての、「確かなる共通認識」が打ち立てられたのです。そのことに価値を置くべきだと思います。
また、反論を行って、仮に私の方が正しかったことが証明されたとします。それが一体何になるのでしょうか?私が正しいことが証明されること自体に、実はたいした意味はないのです。
世の中には、他者に勝利すること。勝利という結果に価値を持つ人が多いです。私もよくわかります。野球の試合で勝った。負けた。サッカーの試合で勝った。負けた。負けるより勝つ方がいいに決まっている。それは、私たちにとって、とてつもなくわかりやすい話です。
しかし、勝った、というのは、無意味なのです。同様に、負けた、ということも無意味なのです。その、「勝った」ということ自体や、「負けた」ということ自体は、とてつもなく無意味なのです。
でも、人はこう反論するでしょう。野球の試合に勝った。だから、賞金を貰えるじゃないか。記録が残るじゃないか。ファンが喜ぶじゃないか。負けると、くやしいじゃないか。嫌な思いをするじゃないか。ファンが離れていくじゃないか。お金を稼げないじゃないか。
よくわかります。でも、よくよく考えてみてください。それは、勝利、という結果に対して、人々が後からもたらしたものにしか過ぎないということを。そして、敗北、というのも、やはり同様のことなのです。
試しに、私とジャンケンをしてみましょう。私が勝ちました。何かありますか?私が負けました。何かありますか?
ジャンケンで勝ったものには、金の延べ棒10枚とか、そういうものは、勝利という結果に対して、後から誰かが付け加えてきたものにしかすぎません。
しかし、私たちには、勝利への執着心がどこかにあります。勝利は敗北よりも快感です。
例えば、あなたが生きるか死ぬかが掛かっている、まさに勝負の時を迎えたとしましょう。そうすると、やっぱり勝ちの方がいいに決まっています。敗北は死だからです。そういうことがあるから、余計に、勝ちの方が意味を持つことになります。
その勝利は、死にたくないという思いを叶えてくれますし、生きていきたいという願いをかなえてくれるものです。でもそういう場合でも、何故相手が死ななければならなかったのか。どうして自分の方が生き残ったのか。単純に自分の方が強かったからなのか。その強さを持つことができたこと自体も、単なる偶然であり、運であっただけなのではないか。勝利をしたはずなのに、素直に喜べないこともあるでしょう。
これは不思議な話ですね。勝ちの方に価値を置いているのに、勝った時、却って嫌な気分になることもよくあります。逆に、負けには価値がなく、負けた時はとても嫌な気持ちになるんだけれども、そのことが却って功を奏す、ということもあります。
ですが、死んだほうからすれば、命が完全になくなってしまうわけですから、自殺願望のある人でない限り、とてもじゃないが、どんな理由でも受け入れたくないのではないでしょうか。
でも、こうした極限状態の勝利や敗北でも、その人が生き残るより、死んだ人が生きていたほうがよかったのではないか…ということもあり得ます。また、人生それ自体に意味なんてないんだよ・・・という言葉を肯定するならば、生き残るという勝利を得たこともまた、無意味であるとしか言えません。
人の死は、他の命を生かす、ということもありますから、死んだ方が実は意味のある死だった、ということもあります。そして、人が死んだとしても、そのことによって、他者はいろいろなことを学んだりするものです。
勝ち負けにこだわるな・・・という言葉があります。それは、今まで私が言っているように、勝ち負け自体には、実は何も意味はない、ということです。でも、その勝ちとか、負け、という結果に、どのような意味を与えるのか、はその人次第なのです。
私は仕事間の対人関係では負け続けています。しかし、その負けの中には、相手との共通認識を確認し続ける、という確かな意味を見出しています。
勝利をすれば、極端な話生き残ることができる、ということがあります。私たちが勝利を希求し、勝利に快感を覚えるのは、実は性欲の一種なのであり、性欲を満たし続けられるかどうかが掛かっているわけです。
私の話を聞けば、勝ちと負け自体には意味がないということはわかっていただけると思います。むしろ、自分が相手に勝った時、ただ喜ぶだけか・・・。ただ快感を感じるだけか。それとも、その勝ち自体に何らかの意味を見出すか。自分が負けた時、ただ悔しがるだけか。負けというレコードを消したいと思うだけか。それとも、その負け自体に、何らかの意味を見出すか。
勝っても負けても意味はないのです。そこにどれほどのものを見出すのかは、自分次第なのです。勝ちにも負けにも、同じくらい実り豊かな教訓があります。それが何であるのかを自分自身が考え、発見し、自分の糧にしていけるかどうかは、自分次第です。
私たちが勝ちたいのは、お金や、他者の評価などが手に入ることも多いからです。極めつけは、自分の死活問題にもかかわることがあります。でも、ただ自分が生きているだけ、であるならば、何の意味もないように、ただの勝利は、全く意味がありません。
頭のいい人であれば、負けが多くついた人でも、絶え間なく努力を続けている人がいることに気が付くでしょう。そして、たくさん負けがついているからといって、ただの勝ち負けのレコードで、その人を評価することはないでしょう。さらには、その負けから様々なことを学びとって、大きく成長していく人間の姿に気が付くでしょう。
勝ちは楽しいです。よくわかります。負けはつまらないです。よくわかります。幸い、私たちは生き死にをかけてのバトル、戦争などには、そうそう関わらないでいられる人生を送ることができています。
ですが、小さな勝ち負けにこだわる人が多いのもまた事実です。勝ちと負けにこだわるのではなく、勝ちからも、負けからも、多くのことを学べる人間になる方が、はるかに有意義だと思います。
強いか弱いかではなく、受け入れること。
勝つか負けるかではなく、受け入れること。
正しいか間違いかではなく、受け入れること。
懐の深さや、人の器というのは、こうして大きくなっていくものなのではないでしょうか。
勝ちというものにも、負けというものにも、他者がつけた評価に左右されてはならない。どちらに転んだとしても、そこから何を学び取るかは自分次第だ。負けた方が、勝つよりも多くのことを得ることがある。
