もののけ姫 アニメ文学読解 隅から隅まで 完全考察
これはもののけ姫を見た時に個人的に考えたことです。アニメの内容を中心に考えました。
ネタバレ注意
発端
アシタカが暮らす里に、突然タタリ神が現れる。アシタカは、アカシシのヤックルに騎乗し、怒りを鎮めようとする。村の女の子が襲われそうになったので、やむなく弓矢で応戦。呪いを身に受けながらも、撃退に成功する。
八百万の神
この時代は、日本に仏教が入ってくる前の世界を舞台にしている。ナゴの守を含め、幾多の神々は、人々の崇拝の対象となっていた。
そのため、ナゴの守はタタリ神になるものの、丁重に弔われる。
大和政権の没落
大和政権は衰退し、帝の力も落ちていた。帝の力が落ちると、国をまとめる力も弱まる。各地では争いが発生し、この世こそがタタリと言われる。
アシタカの旅立ち
右手の呪いを解くため、村を出ることとなる。
断髪
アシタカは、村を出る前に断髪を行う。
自分で考えてもこれは無理だと思ったのでWikipediaを調べてみました。
村の掟とは?
『掟に従い見送らぬ。』
村を守るためとはいえ、神に手をかけてしまったアシタカ。呪いを解いて戻るまでは神の許しを得ることができないとされたのか。(しかし、呪いが解けた後も、アシタカは村へ戻ろうとはしなかった。)アシタカが自分から村を出るという形をとりながらも、罪人を村から追放するかのように扱われる。
カヤは掟に背きアシタカを見送る。最も大切にしている玉の小刀をアシタカに渡す。
この時代は、戦が多い時代だったので、一旦村の外に出てしまうと、スパイとして帰ってくる可能性があるため、村を離れる=一生村には入れないという掟があったようです。
そのため、呪いを解くために
村を出ることを決心したアシタカは、
一生、村には戻ってこれないのです。
それをわかったうえで
断髪式を行いました。
おそらく、切る前のアシタカの髪型は
村の住人を意味する髪型だったのでしょう。
断髪をするときに涙する者もいました。
タタリ神
物語の初めに、いきなり登場するのがタタリ神だ。これはナゴの守という巨大な猪が化けたもの。体全体に気味の悪い巨大なウジ虫(ワーム)がわいている。
自分の森を切り拓かれ、怒り狂ったナゴの守は、人間を撃退しようとする。ところが、エボシ御前に石火矢で弾を撃ち込まれる。それがきっかけで深い傷を負い逃走。憎しみの果てに呪いをまとった姿となる。
どうしてこんな姿なのか?
ワームはひとりでに寄生主の肉体から離れ、独自に動くことがある。アシタカの腕を包んだのも、その能力によるものだった。それにしても、なぜこのような姿なのだろうか?
ヒイさまの言葉によると
ナゴの守は『深手の毒に気いふれ 身体は腐り、走り走るうちに呪いを集め、タタリ神になってしまったのだ。』
この物語ではそうなんだろうけど、自分の性格上どうしても理屈をつけたくなる。
個人の推論
物語の終盤では、乙事主(オツコトヌシ)もタタリ神となる。
また、乙事主(オツコトヌシ)が辛うじて生きていた時にタタリ神となったように、ナゴの守も死の間際に恨みの言葉を残して逝った。タタリ神であるときは、まだ命自体はあるようだ。
『ダーウィンかキリスト教か』という記事で触れたのだが、私の考えでは、神とは精神のことだ。しかし、この世界では神は人外の存在として具象化されている。とはいえ、タタリ神となったナゴの守、乙事主(オツコトヌシ)をはじめ、生きとし生けるものに精神があることはまちがいないだろう。このとき、ナゴの守も乙事主(オツコトヌシ)も、肉体は既にボロボロの状態になっていた。
肉体が駄目になると、どれほど精神の力が体を駆け巡っても、思うように体が動かなくなる。ところがそれとは裏腹に、人間に対する恨みの感情は募るばかりだ。
すると、その力だけが暴走を始め、やがて肉体の外へと現れ出るのだと考える。そのエネルギーは暴走し、体を熱く煮えたぎらせる。そして、肉体という器からあふれ出る精神が具体化し、あのような姿になったのだろう。
精神は目に見えないはずだ。だが、肉体を変形させる力を持っている。つまり、あれも一つの進化なのだ。恨みの力により、進化が急速に進んだのだろう。
こうなると、肉体は精神の命令を抑えきれずに暴走を始める。その姿がタタリ神だ。
呪いとは何か
呪いについては、呪い - Wikipediaに詳しい。
アシタカの右手にはナゴの守の呪いがついた。アシタカが弓を引こうとしたとき、この腕が暴れてしまう。アシタカは右利きだ。弓を打とうとすれば、自然と右手に力が入る。そこに生気が集まる。
この呪いは生命力を喰って活発化するようだ。
腕が暴れて一人でに動こうとするということは、呪いが神経を冒してきているということだ。すなわち、時間がたてばアシタカの右手を駆け上って全身を冒しはじめ、やがて脳まで浸食すれば、アシタカ自身がタタリ神へ変貌する可能性もあったと言える。
呪いは、人を縛るものだ。神経にまで至る強力な刷り込みを行い、人の意思を奪い、その行動を制約するのである。呪いを解くには、その意思を奪う存在の願いをかなえるほかないのか。
サンとの出会い
サンとモロ達は物資運搬中の牛飼いの列を襲う。その後、モロの君は弾を撃ち込まれ、崖から落ちていく。
アシタカは崖下の川でサンと出会う。声をかけるものの、この時は『去れ』と言われるだけで終わる。
コダマとの出会い
コダマがいるという意味
アシタカ 『ここにもコダマがいるのか』
『森が豊かな証拠だ。』
甲六 『こいつらがシシ神を呼ぶんだ。』
甲六がしりもちをついて怖がる。デイダラボッチが昼の姿に戻るときコダマは大量にその姿を現す。そして首を回転させ、カラカラと音をたてる。甲六の言う通り、コダマがシシ神を呼ぶのだろうか。
コダマの役割とは
甲六の言ったことを真に受けてみよう。彼は頼りない性格をしているが、周りの人間たちより物をよく知っている。地走りという組織についても知っていた。こういう人が物をいうと人は信用したくないものだが、この二つを考えれば、彼は意外と知識人であることがわかる。
シシ神を呼ぶ能力を持つということは、シシ神がデイダラボッチになったときの道しるべとなる、ということだ。デイダラボッチがシシ神の住処に帰るときに大量に現れたのも納得がいく。さらに言えば、コダマがいる場所をシシ神が通るということになる。
シシ神は、自分の通ったところにある森や生物に命を与え、あるいは死すべきものには死を与える。死すべきものに死を与えることにより、生きるべきものは生きやすくなるのだ。
アシタカたちも、コダマの道案内のおかげで、タタラ場にたどり着くことができた。コダマは森の案内人なのだ。
コダマがいるところにはシシ神がやってくる。そうであるとすれば、コダマの存在は、その森がシシ神によって守られていることの証明なのだ。だから、タタラ場の男はその存在を恐れたのである。
なぜこの男はシシ神を恐れたのか。多分この男が人一倍臆病者だったということと、自分達が恐れている『もののけのボス』だというイメージがあったからだろう。自分に襲い掛かってきたモロの君よりも上位の存在だから、それはそれは怖いだろう。
コダマがいないという意味
コダマがいないことがある。それは、その場所にはシシ神がこないということだ。シシ神は人間の匂いに敏感なので、その付近には人間がたくさんいるということになる。乙事主(オッコトヌシ)&モロの一族連合軍と人間が全面対決をする際、森からコダマが居なくなっていた。一方、アシタカと甲六の前には姿を見せたことからも、この解釈は間違っている可能性も高い。人を選ぶのだろうか。それとも、アシタカを信頼しきっているヤックルを見たからだろうか。
シシ神を遠くに見る
アシタカがシシ神の池で休んでいると、遠くかすかな場所にシシ神が現れる。するとアシタカの右手にかかった呪いが再び暴走を始める。
一方、そののち、アシタカの疲労は嘘のように回復し、体が軽くなる。甲六ともう一人の男の怪我も回復するのであった。甲六の足はまだ治っていないようだったが。
個人の推論
先ほども触れたように、呪いは生命エネルギーによって活性化するらしい。シシ神の生の気がアシタカたちの体を回復させた。しかし、その副作用として、呪いも活性化してしまったのだ。
モロの君も右手の呪いについて言及している。
『体力が戻れば痣も暴れだす。』
モロの君は知識が非常に豊富で知恵もある。きっと黙ったまま何も言わなかったことも多いのではないだろうか。
やはり右手の呪いが暴れだすのは、アシタカの生気に反応するからだろう。アシタカが弓を引くときに暴れだすのも、そこに生気が集まるからだ。
エミシの村でも、シシ神の池でも右腕を水につけたが、それでましになるのは、水につけることで熱が奪われるからだろう。生命エネルギーは熱量を持つからだ。
タタラ場へ
タタリ神が産まれた原因を知る
サンの奇襲の後、アシタカは崖から落ちた男2名を救いだし、コダマの案内の下、タタラ場へたどり着く。そこで、タタラ場を治めるエボシ御前と出会う。
その晩、タタラ場の男衆とアシタカは飯を共にする。
「お宝を目の前にしながら人間様は指をくわえてたのよ。」
「この下じゃ砂鉄を取りつくしちまったからなぁ。」
・・・
「俺たちの稼業は山を削るし、木を伐るからな。」
怒り狂ったナゴの守をエボシ御前が撃退したことを知る。
エボシ御前はタタラ場の主だが、その社会は私たちの社会と違い、女性が優位の社会だ。エボシ御前は人に売られそうな女を自分が買うことにより、彼女たちを保護し、仕事を与え、そして尊敬を集めていた。
エボシ御前に面会
アシタカはエボシ御前に面会する。アシタカがタタラ場を訪れた理由を聞き出す。
アシタカはナゴの守の中にあった礫を見せる。
エボシはそれを見て、自分が放ったものだと認める。
エボシ 『その礫の秘密を調べて何とする。』
アシタカ 『曇りなき眼で見定め、決める』
エボシ 『曇りなき眼?(大声で笑う)』
エボシ御前は何がおかしかったのか。『曇りなき眼』という言葉が少し青臭く感じたのだろうか。
いずれにせよ、曇りなき眼というのは、色眼鏡でものをみないということだ。ナゴの守を殺したエボシ。エボシをはじめとする勢力にはむかうもののけ達。個人的な感情を抜きにして、事実のみをただ見つめようとする心。
この言葉によって、エボシはアシタカを敵ではないと見た。アシタカは、真実を求めて来ただけだということがわかったのだ。その心の潔さに気持ちが晴れたのかもしれない。なぜならばその後、アシタカをタタラ場の仲間として引き入れようと誘いを持ち掛けるし、サンを救おうとするアシタカを見ても、『好きなようにさせておけ。』と言ったからだ。
このようなことを言うのは、アシタカは敵でもないし味方でもないとわかったからだ。
だからこそ、エボシも自分の秘密を見せようと考えたのである。
エボシ御前の目的と考え
目的はシシ神を殺すこと
①シシ神を殺せば、森に光が入る。古代のもののけたちは普通の獣に戻る。
②シシ神は万病に効く薬でもある。ということは、自分が匿ったハンセン病患者の病も癒える。
③そしてもののけ姫も普通の人間に戻る。
つまり、万事が解決する。
①について。
乙事主(オツコトヌシ)の話からもエボシ御前のいうことは正しいことがわかる。
『モロ わしの一族を見ろ』
『みんな小さく 馬鹿になりつつある』
『このままでは わしらはただの肉として
人間に狩られるようになるだろう』
『森に光が入ると、古代のもののけたちは普通の獣に戻る』というのは、後で記すシシ神の分析を根拠づけるものとなる。
②について。
これは物語を通して実証される。
③これは疑問。もののけ姫の恨みは消えないだろうから、おそらく一人になっても母の想いを叶えるべく反抗するはず。
アシタカの右手が一人でに動く
エボシ御前を目の前にして、ナゴの守の呪いがアシタカの腕を動かす。
アシタカは何とかその腕を抑え込む。恨みの精神がアシタカの腕を動かしたのだ。
このことから、腕は2つの原因で活性化し、暴走することがわかる。
①呪いの元となった恨みの対象がいる。
②何らかの方法で生命エネルギーが与えられる。
もののけ姫 2度目の襲来
サンは単身でタタラ場へ乗り込む。
アシタカは、サンに『森へ帰れ。』と諭そうとする。しかし、サンは一顧だにせず、エボシの首を取りに行くのだった。
サンとエボシの一騎打ちの最中、アシタカは呪いの力さえも自分の力へと変える。一時的にアシタカの精神力が呪いの力さえをも凌駕したのだ。エボシとサンの間に割って入り、10人がかりでやっと開く扉さえも呪いをまとった右手で開け、サンをタタラ場から救い出す。
タタラ場の人間たちは、アシタカの深い傷を見て、アシタカは途中で絶命するだろうと思い込む。後に再会したときには、アシタカが生きていたことに驚く。
シシ神の下へ
気がついたサンは横たわるアシタカに対して、『なぜ自分を助けたのか』を問う。そして剣を喉元へ突き立て、アシタカを殺そうとする。
人間の証明
サンが人間の女であることの証明は、アシタカの一言で証明される。
「生きよ。そなたは美しい。」
美しいと言われれば、喜ばない女はいない。
喜ばないのはかなりのひねくれものである。
サンは長いこと狼と共に生活し、人間の下を離れていた。社会を離れて暮らしているサンには、「美しい」という言葉はただの音声にしかすぎないのではないだろうか。
ところが、サンの中にいる「女」は、その言葉に反応する。もののけであれば、「美しい」と言われても、その言葉が響くはずはない。
現にモロの子は、サンのたじろぎを不思議に思う。
「美しい。」その言葉の響きを理解できるのは、人間の女であればこそだ。
枝を切った理由は?
サンがアシタカをシシ神の池へ運ぶ。その際、一本の小さな木の枝を刈取り、アシタカの頭の上の地面に差し込む。
これは、祭事的な意味を持っているのだろう。その後、シシ神はその枝を死すべきものと判断し、枯れさせる。
シシ神の到来
シシ神がアシタカの傷を癒す。これを見たサンは、アシタカを助けることを決意する。
シシ神
シシ神は、森を壊されようと、森の動物たちの命が奪われようと、人間に襲い掛かったりしない。中立的な存在である。エボシに狙われているときも、エボシの命を奪わず、その武力をおさえようとする平和主義的な態度が見て取れる。
シシ神とは何者か
サンにお母さんと呼ばれるモロの君が言うように、シシ神は『命を与えもすれば奪いもする』存在。生と死を司るものだ。
アシタカの前にやってくるとき、足元の草は生命を与えられながらも、死を与えられていた。
シシ神は、生と死が一体となった存在である。このことはアシタカの一言からもわかる。
「シシ神は死にはしないよ。生と死と、二つもっているものだから。」
おそらく、シシ神は自然そのものが具象化されたもの。イノシシたちはシシ神が森の守り神だと思っている。だからこそ、森を伐採する人間を亡ぼしてくれるよう期待しているようだ。そして、森を守る動物たちを優先して保護してくれるはずだと考えているが、シシ神は全くそういうことはないようだ。
善人にも悪人にも太陽が日を照らし、雨が降り注ぐように、全ての存在に対してシシ神は平等である。
個人的な推論
シシ神の能力について。個人的には、シシ神は時間を司る生き物なのではないかと考えている。例えば、私たちにも寿命がある。私が100年生きるとすると、その間の時間を一気に進められてしまえば、私はすぐに死んでしまう。逆に、20年、30年と時間を戻してもらえれば、私は若返り、自分の持つ病も癒えることになる。この考えによれば、シシ神はとても器用なもののけのようで、部分的な箇所についての時間も操れるらしい。アシタカの傷の部分だけ元通りにできるのだ。時間を戻したのか進めたのかはわからないが。
シシ神の足元の雑草は、急激に時間が進み、またそのために死を迎えていたように思う。時間というのは、命をも支配する。時間を巻き戻せば、死者も蘇ることになる。
もののけ達が何百年もの間生き続けることができるのも、そして太古の森がいつまでも残されていたのも、シシ神がもののけ達や森の寿命を司っていたからではないだろうか。夜になり、デイダラボッチとして世界を徘徊し始めるのも、そのための行動だったのであると考えれば納得がいく。
ところが、人間は森を切り開き、どんどんもののけ達の住処を奪っていった。こうなると、シシ神の力は届かなくなる。よって、乙事主(オツコトヌシ)たちの配下であるイノシシたちが小さくなり、馬鹿になっていったように、もののけ達の力も弱まっていくのだった。
シシ神への細かい疑問
人間には近づかないはずのシシ神は、どうしてアシタカには近づいた?
人間たちの勝手な思い込みだったのか?あそこがシシ神の池の中心地だったからか。ヤックルがそばにいたからか。アシタカが無防備に眠っていたからか。アシタカはコダマが気を許すくらいの殺気のない存在だったからか。
アシタカは不思議な夢を見たという。
『金色の鹿だった。』
アシタカが初めてシシ神の池にたどり着いた時、シシ神の足跡を水底に見つける。しかし、シシ神は水の上を歩ける存在だ。どうして足跡が残っていたのだろうか?
水の上を歩けるけれども、その圧力により足跡が付いたとしか考えられない。でもあれだけ綺麗な足跡はつくだろうか。
そもそもなぜシシ神は水の上を歩けるのだろうか?
これだけの存在ならそういうものだということもできるけれども。後で触れるが、シシ神は首から上が生。首から下が死だ。死は命あるところを通過する。水は生命ではないから、水を通過することはないのだろう。
頭を打ちぬかれた時、足が水の中に少し入りかけた。これはシシ神の中の生と死のバランスが少し狂ったためだと考える。しかし、生もまた命あるところしか通過しないはずだ。これは一体どういうことだろうか。こじつけを行うならば、シシ神のコントロールがうまくいかなくなった。これくらいのことなのかもしれない。
アシタカが目覚めた時、どうして寝ている位置が変わっていた?
見間違いかと思ったが、確か中央の島にいたはず。そして、ヤックルは水の中でアシタカを見守っていたはずだ。
多分シシ神の治療を受けた後、サンがアシタカを対岸まで運んだというのが一番納得のいく考えだろう。
シシ神はどうしてアシタカの傷を癒したのか
生きるべきものに生を与え、死すべきものに死を与えるシシ神。シシ神には、目の前の対象が生きるべきか、死ぬべきか一瞬で判断できる特殊能力が備わっているのだろうか。
これは一つの考えだが、そのような判断能力はそもそも持たないのかもしれない。つまり、アシタカが生きるべきであるときは生きる方に転がる。死ぬべき時は死ぬ方に転がる。シシ神の意思にかかわらず、そうなるのかもしれない。私たちが自然の厳しさを目の前にしたとき、生き残るか生き残らないかは、本当に偶然に決められる。運命ではなく、偶然だ。シシ神も、目の前の存在が生きるべきか死すべきか、知らないのかもしれない。だからこそ、常に中立でいられるのだろう。
口を近づけて、命が吸い込まれればその者は死に、逆に命が吹き込まれて行けば、その者は助かるのだろう。
つまり、傷は癒えるべくして癒えたのだろう。
しかし、アシタカの解釈は違うようだ。
アシタカの解釈『呪いがわが身を食い尽くすまで、苦しみ生きろと。』
アシタカとサンがシシ神に首を返すとき、シシ神はアシタカの呪いも消してくれる。傷を消すことと、呪いを消すこと。この二つを使い分けできるということは、シシ神自身が自分の意思で治すべき対象を見極められると考えてよいだろう。
シシ神は治すべき対象を選別できることは間違いがないようだ。だが、生きるべきか死ぬべきかを瞬時に判断しているかどうかはわからない。デイダラボッチになってその仕事をこなすとすれば、頭の中がどうなっているのだろうか。判断しなければならない命の対象なんて星の数以上あるのではないか。人間のわたしからすれば、想像もつかない能力だ。
考えれば考えるほど謎は深まる。
アシタカの涙
口移しで食べ物を与えられたアシタカは涙を流す。サンの無垢な介抱に、もののけの世界ならではの温かさを感じたのだろうか。動物同士の絆は、人間のわたしたちにも羨ましく感じる時がある。
先ほど、サンは人間の女であると書いた。しかし、彼女はもののけ社会で生きてきた分、もののけらしさも備えている。この場面は、もののけとして生きたサンの一面を象徴的に映し出す場面であると感じた。人間の世界で生きる女の子はこんなことしないだろう。
また、アシタカはサンに恋心を寄せていたから、好きな女に口移しされるというのは、自分が受け入れられた証拠と感じたのかもしれない。男としては無条件にうれしいものだ。
モロの君はなぜ自分の傷を治さなかったのか
モロの君がエボシ御前に撃たれた後、アシタカはコダマの案内によりシシ神の池の近くまでたどり着く。そこで、シシ神とモロの君の足跡を発見する。足跡は新しいようだった。
おそらく、怪我をした直ぐ後にシシ神のところに傷を治しに来たに違いない。サンもモロの君にそれを必死で勧めたはずだ。が、モロの君自身がそれを拒否したようである。シシ神は自分の命を吸い取るだろうと考えたからだ。自分の死と向かい合う覚悟があるのだという。
一方、ナゴの守は死から逃げたという。これはどういうことだろうか。シシ神がモロの君に死を与える。だからモロの君はシシ神に傷を癒されることを拒否した。というのであれば、むしろ、モロの君が死から逃げているように思う。
実はこれには深い意味がある。死から逃げるというのは、死を与えられることを避けるということではない。つまり、死なないように生きるということではないのだ。死を見つめることから逃げるということである。
わかりにくければ、死はあらゆる病気の極地にあるものと考えてほしい。 普通、私たちが病気にかかったとき、その病気から目を背け、自分の体は健康そのものだと考えることが多い。しかし、病気は確かにその場所にあるわけだし、自分が意識しようが、意識しまいが、病気は勝手に進行するのである。
これと同じで、私たちはいずれ死ぬ。どれだけ頑張っても、死という最高の病からは逃れられないのだ。だが、私たちは死というものから目を背け、あたかも自分達は一生生きていられるかのような感覚さえ持って生活をしている。しかし、私たちの意識とは無関係に、死は私たちの側へ歩みよってくる。死を治すには、死を見つめるしかない。死を見つめるからこそ、生は輝くのである。
とすれば、ナゴの守は、自分が死ぬことを拒絶し、死が迫っていることを信じようとしなかった。死というものを受け入れず、いつまでも生きようとあがき続けたのだということだ。
モロの君はナゴの守をそういう哀れな奴だと考えたのである。
その後、イノシシたちはその言葉に怒り狂う。
乙事主(オツコトヌシ)はアシタカの何を嗅いだのか
アシタカがナゴの守にとどめを刺したことをイノシシたちに告白する。
乙事主(オツコトヌシ)は、アシタカの体からナゴの守の匂いをかぎ分け、真偽を判断したのだろう。アシタカも、「ナゴの守の最後を伝えたいから。」と言っている。だとしてもすごい嗅覚。
乙事主(オツコトヌシ)は死に体になり、タタリ神になる前に自分の配下の猪たちの匂いを嗅ぎ、勇者たちが黄泉の国から戻ってきたと叫ぶ。乙事主(オツコトヌシ)は目が見えなくなっているので、全て嗅覚を頼りに生きていたのだ。ジコ坊たちが乙事主(オツコトヌシ)に見つかってしまったのも、この異常に鋭い嗅覚のおかげだろう。
ジコ坊はもののけ達の異常な嗅覚に気が付いていた。だからこそ毛皮をかぶって調査をしたし、イノシシの嗅覚を奪う作戦を実行していた。
アシタカの葛藤
モノノケと人間の共存は可能か?
今の社会に通じるテーマ
この物語が送るメッセージの一つではないだろうか。エボシ御前は資源を採取するために森を切り開く必要があった。山を削って砂鉄を掘り、木は建築や銃などの資材とするのである。そしてそうした活動により、外貨を得て自分達の生計をたてているのである。そして、人間にとって最も怖いのは人間だ。周りの国から自分たちを守る必要がある。自分達を守るためには、自然から力を得る必要がある。そのためには、自然を侵害しなければならないのだ。
逆に、猩々というもののけは、人間に勝つために人間を殺して食うと言っている。猿、ゴリラに似ている。木を植えて森の範囲を拡張する役目をはたしている。この考え方は、人間が敵に勝つために自然を侵そうとする考えと似通っている。人間は猿から進化したから、似たような発想も持つのだろうか。
ところで、生きるための自然破壊は
私たちが住む経済社会が持つ二律背反でもある。
経済は常に利益と損害がワンセットだ。
リゾート地を開発すれば、自然が破壊される。その場所には巨額の利益が舞い込むが、自然には多大な損害が発生する。また、結局廃墟と化した建物はそのまま長い時間放置される。
原子力発電所を開発し、稼働させれば、やはり巨額の利益が舞い込むが、一方で、自然や人間に多大な損害が発生する。東日本大震災は大損害であった。
自動車などの乗り物が作られれば、やはり巨額の利益が舞い込むが、
一方で、多くの動植物、あるいは人間までもが踏みつぶされる。車だけではなく、道路を建設するためにも、多くの環境を破壊する必要があるのだ。
森の動物たちは、私たちの身勝手な開発に怒りを抱いているかもしれない。その動物たちを主役にし、彼らの思いを作品に乗せることが、もののけ姫の物語が作られた、一つの目的なのだろう。
共生の道を探るきっかけ
アシタカの表情からはすぐに読み取れたものではないが、サンを守ろうと懸命になったこと。『美しい。』と言ったこと。決定打は最後のプロポーズ。アシタカは一目見てサンに恋をしていたと見える。
そのため、サンが死なないように人間たちからサンを助けた。しかし、一度助けてもサンは再び死地へ向かうだろう。アシタカがどれほど助けてもそれでは焼け石に水だ。遅かれ早かれサンは命を落とすだろう。
アシタカはこれをきっかけに人間ともののけの共生の道を考えはじめたのだろう。
モロの君にも、エボシにも、同じような可能性を模索するよう願い出ている。
モロの君の二枚舌
モロの君は、人間との共生はできないと言う。そして、アシタカにはもう何もできることは無いという。
一方、サンに対しては、アシタカと生きる道もあると言うのだった。
なぜこのような二枚舌をモロの君は使ったのだろうか。
アシタカへの覚悟を問うたのだと考える。共生の道はないのかと問うアシタカの心をモロの君は見抜いていた。アシタカはサンに恋をしているのだと。親が自分の娘の婚姻相手の質を見定めるように、親代わりのモロの君が、娘の結婚相手を見定める厳しい質問を行ったのだ。
お前にサンを救えるか
モロ 『サンは我が一族の娘だ。森と生き、森が死ぬときには共に滅びる。』
アシタカ『あの子を解き放て。あの子は人間だぞ。』
モロ 『黙れ小僧。お前にあの娘の不幸が癒せるのか。森を侵した人間が、わが牙を逃れるために投げてよこした赤子がサンだ。人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ。哀れで醜い可愛い我が娘だ。お前にサンを救えるか。』
アシタカ『わからぬ。だが共に生きることはできる。』
モロ 『(笑い声)。どうやって生きるのだ。サンと共に人間と戦うというのか。』
アシタカ 『違う、それでは憎しみを増やすだけだ。』
モロ 『小僧。もうお前にできることは何もない。お前は直に痣に食い殺される身だ。夜明けとともにここを立ち去れ。』
モロの君と出会った人間は、自分が食べられることを恐れ、自分の赤子(サン)を投げてよこした。つまり、サンは捨て子でもあり、身代わりにもされた哀れな子供だったのだ。
モロの君が初めてサンを拾ったとき、どのような心情であったのだろうか。そのことに思いを馳せた者はいるだろうか?
モロの君の子がヤックルから落ちたアシタカをすぐに食べようとしたように。ヤックルを食べてもいいかと尋ねたように。普通であればすぐにでもその肉を食らってしまうのが山犬というものだ。
ところが、モロの君はあろうことかサンを育てたのである。通常の山犬の行動から考えても、人間に恨みを持っていたことから考えても、サンはそのままモロの君の腹におさまっていても不思議はなかったのである。
捨てられただけでなく、身代わりとして与えられたサン。モロの君は一体どういう気持ちだっただろう。親は自分の命を賭してでも自分の子を守るものである。
いわんや動物たる山犬をや。モロの君もそうするはずだ。しかし、サンは・・・。親にさえ守ってもらえなかったのである。
モロの君はサンを一人前の山犬として育てようと決意したのだろう。それが不可能であると知りながら。
モロの君がアシタカなら答えを見つけるだろうと考えている理由も明白だ。「お前は直に痣に食い殺される身だ。」といいながらも、サンにはアシタカと共に生きる道があると言っているからである。言葉通り、何もできずに死ぬと思っていればこんなことは言わない。
モロの君もまた、アシタカ、サン、エボシと同じように、葛藤と二律背反の世界で長い間苦しんだ存在なのだろう。そうでなければ、このような賢者になることはできまい。モロの君は、そこらの人間など及びもつかないほどの大賢者だ。
何を思ってアシタカを認めたか
お前にできることは何もない。といいながら、心の中ではアシタカのことを認めているモロの君。
どこでアシタカを認めたのだろうか。まず、アシタカのサンへの気持ちは本物であるということを見た。死を覚悟でタタラ場からサンを救い出したからだ。
サンの救助。アシタカの持つ葛藤。その葛藤を生んだきっかけがサンへの愛。今は迷うとも、いつか必ず答えを見つけると見込んだのだ。
また、サンはやはり人間だ。親として、自分が死ぬ前に、良い相手を見つけてあげたかったはずである。モロの君はもうじき死ぬことがわかっていたからだ。あえて死ぬことを先延ばしにしたのは、サンといる時間を延ばすこと。そして、エボシの頭をかみ砕くこと。こうした目的があったからだろう。
すぐにサンを捨てた実の親と違い、最後まで育て上げたのは見事である。
おそらくサンに人語を教えたのもモロの君だろう。
さらに言えば、将来的にアシタカがサンと結ばれて子をなせば、もののけと人間の仲のいい家族が出来上がる。人間ともののけの共生が進む第一歩となるのだ。そこまで読みすすめておき、なおサンの自由な意思に任せた。そして、アシタカにはこのまま悩ませておくのがよいと考えた。
それが2枚舌を使った理由だろう。人間を含めたあらゆる存在の気持ちを正確にとらえ、見事な解答を打ち出し、それを体現している。
二律背反の宿命を持つ少女 サン
アシタカが葛藤の少年であれば、サンは二律背反の宿命を背負う少女だ。サンは人間のことが嫌いだ。しかし彼女は人間なのだ。もし共存というものが可能であれば、それは人間でもあり、もののけでもあるサンを救うことになるのか。人間にもなり切れない、山犬にもなり切れない。どちらにもつくことができない。こんな人間を、一体だれが救えるというのだろう。
サンの苦しみに歩み寄れるのは、母親代わりのモロの君とアシタカくらいだった。しかし、歩み寄るだけで救えるわけではない。人間ともののけの中間にいるサン。
猩々というもののけに嫌味を言われるサン。
「わしら死ぬ。山犬の姫平気。人間だから。」
どちらにもなり切れないサン。人間社会でも、どちらにもなり切れないものは、どちらからも疎まれる宿命を背負うのか。
二律背反の宿命を持つ女 エボシ御前
エボシは二律背反を背負う女性だ。自分達が生きるためには自然から力を奪わなければならない。女たちを守り、その家族を守るには、経済を回さなければならない。そして経済を回せば回すほど、自分達のところに利益が来る。その一方で、自然の怒りを買うことになる。
デイダラボッチ
シシ神の夜の姿。夜になると、シシ神は自分の住処からデイダラボッチへと変化する。朝が来ると戻る。
デイダラボッチはなぜ夜のみ活動する?
ジコ坊がシシ神の首を取った後、あれだけ一生懸命逃げるのは、朝日が出るまでの時間を稼ぐためであった。朝になれば、デイダラボッチは消滅すると考えていたのだ。
では、どうして朝日を浴びれば消滅するのだろうか?
デイダラボッチはそもそもそういう妖怪だからだ。というのでは答えにならない。
朝日が出ればデイダラボッチが消滅するということは、日の光がデイダラボッチに死を与えるということだろうか。
ところで、シシ神の昼の姿に目を向けてみると、シシ神自身、鬱蒼と茂る森の中で暮らしており、普段から日の光が届かないところにいる。
このことから察するに、デイダラボッチが夜のみに活動する、というよりは、シシ神自体が日光を避けて生活していると言える。そして、多少の光を受けても平気なのは、外皮に自分の姿をくるむことによって、光を遮断しているからではないだろうか。
ここより前に書いたことだが、エボシの言葉が鍵になる。
『シシ神を殺せば、森に光が入る。古代のもののけたちは普通の獣に戻る。』
シシ神は生を司る存在でもあるため、シシ神を殺せば、森は死滅するということだろう。
光が入るとどうして古代のもののけたちは普通の獣に戻るのか。
例えば、エボシがジコ坊と話合っているとき、森を削ることによってもののけ達の力を弱めると言っていた。
(今の常識でいえば、そんなことやると地球が駄目になる、と簡単にわかってしまうが、当時はそんな知識はなかったのだろう。)
つまり、森に光が入るということは、それだけ森の力が弱まっているということなのだ。木々がスカスカになっていると、それはもう光がよく通ることだろう。逆に森が繁っていると、光が遮断され、陰が強くなる。
当時の日本で、陰のある場所と言えば、99%以上木々の生い茂る場所を指していたと思う。今のような高層ビルなどは立っていないだろうから。つまり、陰は自然が生きていける場所を指しており、陽は逆に自然が死に絶えた場所を指していたのではないだろうか。私たちも自然の一部だ。私たちが立つとそこに影ができる。影は死のイメージが強いが、生きているからこそ影もまた出てくるのだ。
もののけ姫の世界も、木々が焼かれ荒野となった大地と、木々が生い茂る森とが対比的に描かれている。
したがって、シシ神は自然の死を意味する光のある場所にいることはできない。これがシシ神の持つ唯一の弱点だったのではないだろうか。
ジコ坊は独自の調査でその弱点を掴んだのだろう。
①デイダラボッチの追跡によるシシ神の住処の発見
②人間の匂いを察知するとシシ神は現れない
③デイダラボッチは日の光を浴びると消滅する
ジコ坊はかなりの密度でシシ神のことを調べ上げていたのだろう。
物語の合間でも、その調査の精緻さと、用意周到ぶりが見て取れる。
その調査能力と分析能力が、天朝や師匠連合に買われたのだと思う。
後、見た目によらず、すごい運動神経がいい。
木々が作り出す陰の世界は、自然にとってのエネルギーとなる。これによりもののけ達は力を得る。その外にある陽の世界は自然のエネルギーが無くなった場所。したがって、もののけ達はその場所からエネルギーを得ることができなくなり、太古からの力を失う。
首より上が生であり、首から下は死?
シシ神は生と死が一体となった存在だが、首を取られることによって、死のみの存在となり、バランスを崩した。なぜ首より上が生と言い切れるのかというと、首に直に触れても死ぬことはなかったからだ。
獅子神の頭を弾が突き破ったが
一時的にシシ神の行動を止めることはできたが、シシ神はすぐに回復した。きっとシシ神のことだから、すぐに生を周りから吸収できるのだろう。
驚いたのは、弾によってシシ神も変形するということだ。自然も物理的な力によって変形するのだから、不思議でないと言えば不思議ではない。
アシタカの呪いが消えたのはシシ神のおかげか
シシ神に首を返すとき、アシタカの右手の呪いは共にいたサンの体にまで及ぶ。この呪いは人の体に移るものだったから、サンの体に移ること自体は不思議ではない。これは強烈な生のエネルギーが、呪いを一気に活性化させたからだろう。
では、呪いが消えたのはシシ神のおかげだろうか。
アシタカは最後にこう語る。
『私に生きろと言ってくれた。』
私たちには聞こえなかったけど、アシタカが言うのならばそうに違いない。
生と死のバランス 私たちの人生になぞらえると
例えば、私たちが命を落とす大きな原因として、癌がある。この癌なのだが、健康な人間も、常に癌細胞が生み出されていることはご存じだろうか?
それにもかかわらず健康な人間に癌ができないのは、癌を打ち消す力も同時に働いているからだという。
テレビのCMで骨密度の話が出てくることがあるだろう。骨を作る細胞と骨を壊す細胞があるというのはご存じの方も多いのではないだろうか。作る細胞よりも、壊す細胞が強くなると、骨はやがて弱っていくのだという。
このように、シシ神の生と死も、互いに絶妙なバランスを保って存在しているのだと言える。そこに、生の部分である首を取ってしまうと、死のみが残り、バランスを崩すのだ。
思えば、アシタカの右手の呪いも、アシタカに死を与えてくるものだった。この時は、アシタカの生の力が勝っていたため、死を抑え込むことができていたが、やがて死の力がアシタカの生の力を上回るようになると、アシタカは死んでいただろう。とはいえ、アシタカ自身が持っている命の外からやってきた死ではあるけれども。
イノシシ・モロ一族連合軍VS人間
サンは乙事主(オッコトヌシ)の目が見えないことを心配し、乙事主(オツコトヌシ)の目となるために駆け付ける。
猪たちは誇りを優先し、罠とわかっていて人間たちに突っ込んでいく。そうして大多数の猪は、人間に狩られ、皮を剥がれてしまう。
人間たちの狙いは、イノシシ・モロ一族連合軍に勝つことではなく、シシ神に接近するための匂い消しとなる毛皮を手に入れることだった。そして、傷ついた乙事主(オツコトヌシ)を泳がせ、シシ神のもとに案内させるつもりだった。
シシ神を狩る
エボシ御前は大変度胸が据わっており、そこら辺の人間とは比較にならない肝っ玉を持っているため、ジコ坊にもシシ神退治の先鋒として担ぎ出される。ジコ坊の取引にのったのだ。
シシ神がデイダラボッチへ変化する際、見事にシシ神の首を獲るのだった。
首を獲るという意味
私たちの社会でも、首を獲るというのは、その者を殺すことを意味する。つまり死を与えるということだ。したがって、シシ神の首を獲るということは、シシ神に死を与えるということだ。しかし、シシ神はもとより生と死が一体となった存在である。したがって、首を取られると、生の部分のみが無くなり、死の部分のみが残ることになる。
死のみとなったシシ神は、死の種をそこかしこにばらまき始める。それに触れたものは、皆命を吸い取られてしまうのだった。
首から上が生であると考える大きい理由は、エボシ、ジコ坊、アシタカやサンがその部位に触れても死ななかったからだ。シシ神は触れられる存在。やはり、あれは外皮なのだろう。
死は生を追いかけるもの
死は生を追いかけるものだ。私たちはみんな、死へ向かって歩いている。生きるということは、死へ向かうということだ。しかしながら、多くの人間は、生へ向かい、死から遠ざかろうとする。
先ほどのモロの君の言葉を借りれば、<生へ向かい、死から遠ざかろう>とすることは、死から逃げているのである。生きることは、死へ向かうことなのだから、『生』を求めるものほど、自分自身が『生きていないこと=死』となっていることに、気づいていないのだ。
経済は利益と損害がワンセットだと言った。利益を得るということは、それ以外の場所に損害をまき散らすことになる。経済は世の中を経て、人に生と死を与える。死を恐れる人は生のみを感じられる場所へたどり着こうと必死でもがく。そして自分達が生きていくために、様々なものに死を与えていくのだ。もののけ姫の世界では、それが生きていこうとする人間であり、そのとばっちりを受けているのが、もののけ達なのだ。さらに人間は、人間同士で争うのである。争うのは、人間の中から、さらに生を求めるものが出てくるためである。
エボシ 『本当に怖いのは人間だからね。』
死のみとなったシシ神は、生である首を追いかけ、ジコ坊一味を追跡する。そして、まき散らされた死は、所かまわず巻き込んだ者たちの生を吸い取るのだった。
一方、ジコ坊は、シシ神の生首がひとりでに動いていることから、シシ神の首が呼んでいるのだと考える。
ジコ坊が知らない方がよいと考えた上の考えとは
エボシ 『不老不死を信じているのではあるまいな。』
シシ神をジコ坊らの上の存在が狩ろうとしている目的は、不老不死の力を手に入れることだった。私が自分の考えで述べたように、時間を操る力がシシ神の力だとすれば、不老不死の力を手に入れることも可能だ。時間を操れるのだから、自分の時間を止めればいい。特に、太古の森が守られ、もののけ達が何百年にもわたって生きていることがシシ神の庇護によるものなら、この物語の中ではこの話は信用度の高い情報と言える。
しかし、先ほども言ったように、不老不死を求めるというのは、死から逃走する行為である。生を求め、死から逃走する行動に走るのは、通常誰もが行ってしまうものであるが、人生は死へ向かうからこそ生きていることになるのだ。
私個人としては、上の人間たちは、死から逃れたいと思う一心で、それだけの立場に立つことができたのだという隠れた批判が読み取れる。上の立場に立てば立つほど、戦などでも矢面に立つことがなく、より安全な場所で生きていけるからだ。
ジコ坊 『肝心なことは死に喰われぬことだ。いや、これは師匠の受け売りだがな。』
何だか立派な人が話す人生の奥義のような言葉に最初は響いたものだが、なんか情けない気がする。ジコ坊自身は受け売りで使っており、意味を深く理解してはいないみたいだ。
また、死を究極の病であるとするならば、万病に効く薬であるシシ神は、死を治癒できる、と考えることも可能だ。時間を操る能力は私の推論にしかすぎないから、こちらの考え方のほうが説得力があるだろう。
エボシの読み
『シシ神殺しが済んだらいろいろわかるだろうよ。』
『唐笠連の師匠たちがシシ神の首だけで、ここから手を引くもんかね。』
エボシは、シシ神に不老不死の力があるとは信じていないようだ。しかし、シシ神の首を獲ったら、ひょっとすると天朝たちは自分達の手柄のように語り始め、自分達の権勢を強める根拠とするかもしれない。
おまけに不老不死の力を手に入れれば、より怖いものがなくなるということだ。そうすると、天朝という虚像は未来永劫輝くものとなる、そんなことをかんがえているのかもしれない。
一度強気になれば、今まで協力したもの達をこぞって虐げ始めるのが上のやり方だ。今でさえそうなのだから。エボシはきっとそこまで読んでいただろう。
見え隠れするタタラ場以外の国
タタラ場は一種の自治国、独立国家だ。そして、あまり目立たないのであるが、周りにはほかの国があり、タタラ場にいろいろとちょっかいをかけてくるし、シシ神退治の際にはタタラ場に戦争を仕掛けてくる。鉄をよこせとタタラ場に要求したり、ジコ坊にシシ神の首を取って来いと命令したりするのだ。人間vsもののけという構図に見える世界だが、実は人間vs人間のとばっちりを受けているのがもののけ達。その結果として人間vsもののけという形になっている。結局は人間こそが本当の敵。
シシ神は死んだのか
サンは『シシ神様は死んでしまった』と言った。
しかし、アシタカはシシ神は死んでいない。命そのものだから。という。
命は生と死を併せ持っているものだ。
私は自分の分析から、シシ神はアシタカの言う通り死んでいないと判断する。なぜならば、最後のシーンで一体のコダマが登場するからだ。
コダマの意味を再読していただきたいが、コダマがいる場所にシシ神がやってくる。最後のコダマが登場する意味は、シシ神は再びあの姿となって甦り、命を司るものとして再臨するだろうということを暗示しているのだと思う。
時間がたち、木々が成長すれば、きっとこれからコダマは数を増やすだろう。つまり、その時森は再び豊かになっているということだ。そうするとそこには再び陰ができ、陽が遮断された世界が生まれる。森は呪いだけではなく、さまざまな気をその身に宿らせているのだろう。周囲の生気と死気を集めて、再びシシ神はあの姿を取り戻すだろう。
と思ったら、私の解釈とは違い、このコダマはWikipediaではこう説明されている。
最後に生き残った1体が頭を振り回してカラカラと音を鳴らす。
ただの生き残りだったようだ。
エボシの反省
最後にエボシは何を悟ったのだろうか。
『アシタカに礼を言おう。』 というのは、単に自分を助けてくれたことではなく、この世界全体を救ってくれたことに対するものだっただろう。
今までは自然を狩り、自分達の便益のために利用する対象としてしか考えていなかったエボシも、死をまき散らすシシ神を見たり、枯れていく森を見てさすがに反省したのだと思う。自分達は自然の力がなければ生きていけないのだと。
アシタカはタタラ場で暮らすという。エボシとアシタカは、ようやく分かり合えるはずだ。そして、共にもののけと人間が共生する道を模索していくことになるだろう。
個人的に不明な所
細かいことかもしれないけど、よくわからないと思ったところ。
玉の小刀
アシタカがモロ達の住処から去る際に、モロの子に玉の小刀を託ける。
あれは元々カヤがアシタカのためのお守りとして渡したものだ。
アシタカは『カヤのことを常に思おう。』と約束して去っていくが、あれはどうなったのだろうか。
ただ、ひょっとすると、カヤはアシタカの見送りの罰を受け、命を落としているかもしれない。しかも、アシタカはエミシ(蝦夷)の村には戻らず、タタラ場で暮らすといった。カヤのことは頭の中に残っていないと言っていいのではないだろうか。ここはおそらく、アシタカへの大きな批判がくるところだろう。
ただ、玉の小刀はタタリ神となった乙事主(オツコトヌシ)の中からサンを探し出す良い目印となった。しかし、その後アシタカはサンを救い出せず吹き飛ばされてしまう。だから、お守りの効果はあまりなかったことになる。
調べたところ、アシタカが村に戻れない理由は、一度出て行ったらスパイと思われるから、だそうだ。
この時代は、
戦が多い時代だったので、
一旦村の外に出てしまうと、
スパイとして帰ってくる可能性があるため、
村を離れる=一生村には入れない
という掟があったようです。
個人的には、挨拶でもいいから一度は戻ってもいいんじゃないかなって思うんですよね。呪いが消えたことの報告もしたいだろうし。
ですが、そこが掟の厳しさ。村に戻ってきてはいけないというのは、姿すら見せてはいけないのかもしれません。なぜならば、姿を見ると情に流される者が出てくるでしょうから。
もう一つ、最後のシーンで、「アシタカのことは好きだ。」とサンが言うのは、どうもアシタカがサンにプロポーズをした返事のようです。だから、共に暮らそうと持ち掛けたのでしょう。サンにいつでも会うことができるよう、近くのタタラ場で暮らすことを選択したのでしょう。
オープニングタイトルの土面(カヤが後にアシタカの子を出産して、子孫がアシタカ伝説を誇示するために作った土面)は、アシタカがシシ神を倒したという伝説になってしまうが、シシ神を倒したのではなくサンと共にシシ神に首を返還しシシ神(デイタラボッチ)自身が朝日を浴びてしまって消滅してしまい、後にアシタカはタタラ場で暮らしたのでアシタカ伝説という形態で故郷の村に伝わり、一つ目の角の文様の意味で、製鉄業に携わる者は高温のまばゆい光で片目を失うとされており製鉄業を意味する一つ目と、シシ神を意味する大カモシカの角の形態が融合したものだとする説がある[要出典]。
やはりシシ神は首が元に戻り元の姿に戻ったとしても、朝日を浴びると消滅してしまう。太陽の光はシシ神の弱点だったのだ。私たちは太陽の光がいいものだと思ってしまうものだが、これは真逆の発想。
デイダラボッチの正確な行動範囲は?
デイダラボッチの行動範囲は異国にも及ぶ?
乙事主(オッコトヌシ)やその配下の猪たちは、シシ神の存在を当然のように知っていた。彼らは異国のもののけとして、シシ神の森にやってきたのだった。人間たちと全面戦争に出るためだ。鎮西の乙事主(オッコトヌシ)。どうも鎮西とは九州のことらしい。彼らもシシ神のことをよく知っている。デイダラボッチは、日本全国津々浦々の森林地帯を回っているのだろうか?それだけ山や森が連続しているのだと思う。昔は自然がとても豊かだったのだろう。
しかし、正確な行動範囲は?日本全土?それともシシ神の森近辺?
日本全土であってくれないと、私は困る。
日本全土である場合、その姿を目撃したものはいるはずだ。デイダラボッチという妖怪として各地に記録が残されているのは、きっとそのためだろう。
太古の森にしか巨大な生き物はいない?
ジコ坊 『これより更に西へ西へ進むと、山の奥のまた山奥に、人を寄せ付けぬ深い森がある。シシ神の森だ。・・・そこでは獣はみな大きく、太古のまま生きていると聞いた。』
ジコ坊の話を真に受けると、太古の森近辺にしか巨大な生き物はいないという。だが一方で、鎮西のオツコトヌシがいるわけだ。
オツコトヌシの生息域は、太古の森の範囲内だったのだろうか?きっとそうだったんだろう。シシ神が日本全国を回っているのであれば、そこも太古の森と化す可能性はあるはずだが・・・。
水の中にあるシシ神の足跡
シシ神は水の上を歩くから水底に足跡ができるのは個人的に謎。
サンが刈り取った一本の小さな木は本当にシシ神に対する祭事のため?
推測の域をでない。
死のドロドロはどうして水に入ると遅くなる?
死のドロドロは生気を吸い取る。シシ神の死の部分だ。水の中に入ってもそのまま浮かんでいるところを見ると、水とは溶け込みあわない成分のようだ。
一方、命はその中に取り込まれると生気を吸われ、体は溶けてしまうようだ。
ドロドロが陸地を流れているときにも、岩などのような、命のない物理的な障害物を避けて通っていた。
命のない所には、死は通過できないということを表しているのではないだろうか。
文学的に考えると、この答えはありうるのだろうけど、本気で物質の解析を加えるのだとすれば、化学に詳しい人が必要だ。
アシタカの天才的な気配察知能力
崖下の川岸にサンが現れること、とまではいわないが、何かがいることを察知している。
シシ神が遠くに見える前からシシ神が現れる場所を見つめている。
すごい。ニュータイプみたいだ。これが超人的な戦闘能力を持つ原因の一つだろう。
カヤのその後と与えられた罰とは
未婚の女性が守り刀を男性に渡すという行為は、『粉河寺縁起』にもみられるように求婚の証であり、カヤが決して戻ってくることのないアシタカに守り刀を渡すという行為は、カヤが一生未婚のまま人生を全うすることを暗示しているとする指摘がある[78]。
断髪、罰、掟、こうしたものを深く知るには蝦夷の習俗について詳しく学ぶ必要がありそうだ。そこにカヤの与えられた罰を知る手掛かりがあるだろう。
サンはオッコトヌシの体に触れたのに、なぜ呪いをもらわなかった?
その後のアシタカ、モロの君も同じようにタタリ神となったオツコトヌシに触れている。これは、なり立てだったから、ということでいいだろう。呪いは苦しみと憎しみを抱えながら森をさまようことで集められていくようだから。
サンの体からもワームが出てきたのはなぜ?
やっぱり移るんだ。そもそもが他の生命に寄生する性質を持っているからだと思う。
モロの君はなぜナゴの守が死から逃げたと言いきれた?
ナゴの守がタタリ神になり、アシタカにとどめを刺された。その一部始終をモロの君は見ていたわけではない。しかし、モロの君は、ナゴの守が死から逃げたと言い切っている。ここに、モロの君の生きてきた経験とこの世界への深い洞察が盛り込まれていると言える。
例えばあるビルが建っていて、その3階に私たちがいるとする。ビルにはエレベーターと通常の階段、そして非常階段がついている。ある時その3階に来客が来た。では、その客はどうやって3階まできたのだろうか?
答えは至って簡単。エレベーターか通常の階段、あるいは非常階段を利用してきたのである。つまり、そのお客の行動の一部始終を見ていないにもかかわらず、建物を3階まで上がってくる手段を知っていれば、どうやって上ってきたのかはわかるわけだ。
これと同じように、物事の性質をしっかりと見極めれば、遠くの存在がどのように動いているのかも読めるのである。では、モロの君は物事をどのようにとらえていたのだろうか?
切り口としては、ナゴの守と同じものがモロの君の中に入っているということである。それにもかかわらず、ナゴの守はタタリ神となり、モロの君はタタリ神とはならなかった。
モロの君は頭脳明晰、博学にして経験豊富な山犬であり、物事の道理には極めて精通していることを意識することも重要だ。アシタカの痣の性質を見抜いていたし、シシ神についての正確な役割も捉えていると考えられる。
タタリ神になる条件は、臓腑を突き破られる苦しみ、そして憎しみ、そのうえで森を駆け回り呪いを身にまとうこと。そうした3つの条件があるかのようであった。
しかし、モロの君も3つの条件は全て揃えている。なぜこれほどの差がうまれたのだろうか。
それは、ナゴの守が死から逃げたということだ。一方、モロの君は死と向かい合っている。大きな違いはここにある。
ではなぜ死から逃げることがタタリ神に変貌する条件となるのだろうか。
タタリ神の呪いは生命エネルギーに反応する。それと憎悪の気持ちだ。死から逃げるということは、自身に生のエネルギーをかき集めようとする試みである。人間が富や名声、異性などの快楽を求めるように。あるいは嘘を自分の身にまとい始めるように。
すると、憎悪の心に生のエネルギーをかき集めてしまうことになる。憎悪の心がマッチの箱で、死から逃れようとして生のエネルギーをかき集めようとすることがマッチを擦ることだ。この二つがかけ合わさり、憎悪と生のエネルギーは大きく燃え広がり、発火した。
そのためにナゴの守の器からその火はあふれ出し、肉を焼きながらも徘徊するタタリ神へと変貌したのだと考える。
モロの君は、タタリ神になるこれらの条件を理解していたのだと思われる。
死から逃げるものは言葉が通じなくなる
モロの君 『もう言葉まで無くしたか。』
乙事主(オツコトヌシ)を見て悲しそうに呻くモロの君。過去の恋人の変貌ぶりを嘆く気持ちもあっただろうか。
人間でも、いや、人間こそ言えることだが、生ばかり追いかけて死から逃れようとすると、言葉が全く通じなくなる。言い逃れやその場しのぎ、自分にとっての都合のいい考えばかりに走っていくのだ。
太古の動物たちが言葉をしゃべることができるのは、常に死と向かい合う覚悟ができた彼らの道徳、知識と経験に裏打ちされた徳と誇り、それらを実行していく度胸と忍耐があるからである。オツコトヌシも死を覚悟して人間に突っ込んでいったのだ。そして彼は、話の分かるやつだった。
(個人的に考えていることは、言葉を人間に伝えたのはひょっとするとこのもののけ達だったかもしれない。この物語の中ではありうる話だ。文化を伝えたもののけ達。しかし、人間は全くそうした恩を忘れて自然を破壊し始めたとすればどうだろうか。モロの君も、サンを育てるのに言葉をつたえなくてはならなかっただろう。しかし、知識と知恵を付けた人間たちは、その知識と知恵を自分達の欲望を満たすために使い始めたのだと考えることがある。自然への畏敬と謙虚さを忘れたのだ。)
猪たちがシシ神を勝手に自分達の守り神だと決めつけたり、人間を救うはずがないと考えたりして、物事を正確にとらえられなくなるのも、モロの君の話に冷静に耳を傾けなくなるのも、自分の感情をコントロールできなくなってしまっているからである。そして、彼らは、実際に死に直面したことがないのだ。
その長たるオツコトヌシもやはり命あるもの。人間への憎悪と差し迫る死への恐怖で頭がイカれてしまったのだろう。サンの必死の呼びかけにも答えず、暴走を開始し、結局タタリ神へ変貌してしまう。
『悲しいことだよ。わが一族からタタリ神が出るなんて。』
この言葉は、死に直面したとしても恐れずに立ち向かっていくイノシシの誇り、心理的態度が失われてしまったことを意味するのである。
こう考えると、このことがわかっているモロの君、更にそれを実行することができるというのは、人間とは比較にならないくらい立派な生き物に思えてこないだろうか。
もしジコ坊が逃げ切っていたらどうなっていたか
もしジコ坊が逃げ切っていたら、シシ神の死の部分が日光にさらされることになる。とすれば、物語の最後にそうであったように、シシ神の体は消滅することになる。アシタカとサンがシシ神に生の部分である首を返したからこそ、最後は草木がなんとか生い茂る状態になったけれども、もし死の部分のみが拡散していたら、あたりは死の世界にかわっていただろう。
その時になったらジ・エンド。アシタカも、サンも、ジコ坊も、その隣にいた四角い顔のおじさんも、エボシをはじめとするタタラ場の人達、モロ一族、生きとし生けるもの全て死滅していたと言えよう。
あまりそんな感じはしなかったけれども、ジブリ史上最もギリギリの切羽詰まった状態だったのではないだろうか。
シシ神は顔の形がなぜよく変わるのだろう
普段のシシ神は、マントヒヒのような顔をしている。ところが、最後アシタカとサンが首を返そうと掲げたとき、それは鹿とかトナカイのような顔になっていたように思う。
シシ神はデイダラボッチであり、ぶよぶよとした液体のような体をしている。だから、状況に応じて顔が変化してしまうのだろう。
シシ神が後光を放つのはなぜ?
シシ神自体が後光を放っているのならば、シシ神が光を嫌う理由が薄れてしまう。自分で放つ光だからいいのだ、という意見もあるかもしれないけれども。後光と言えば釈迦を想起させる。釈尊のように神聖であるもの、ということだろうか。
シシ神が弱いのは日の光であって、自分の後光ではないというのはあるかもしれないが、どうも腑に落ちない。
例えば、この物語では森やもののけがはぐくまれる場所が影、陰であり、森がない場所が日の差し込む場所、陽であるならば、生が影であり、死が光ということになる。
シシ神は生と死を併せ持った存在だから、死の部分が光を帯びている、と考えることはできないだろうか・・・。ちょっと苦しい気がする。釈尊と同じようにありがたい存在説が有力だろう。
物語に隠されたテーマなど
差別と社会的弱者、共生と侵略、生と死、葛藤と二律背反、人間の活動と自然破壊、それぞれの正義、自然の経済と人間の経済、死からの逃走が生み出す悲劇。動物側から見た人間。コミュニケ―ションの分離による憎悪の増幅。他に何かあるでしょうか?
ちなみに、サンのモデルは、実在した『オオカミに育てられた少女』だろうか。
楽しめた
もののけ姫は非常に深い話だった。細かい歴史や村の習俗、掟など、知らなければわからないところが多いため、馬鹿なことを言ってしまったところも多いかもしれないが、私はよく考えさせてくれるこうしたアニメは大好きだ。何かありましたらコメントください。
私の推しはモロの君様。かっこよすぎますね。
