見出し画像

「竹取物語」の「裏」を読む

注意点

高畑勲監督の「かぐや姫の物語」の画像を使っていますが、このお話はそれとは関係ありません。適当な絵がなかったからです。



日本最古の物語 竹取物語を独自の目線から解読していきます。まず、解読前の前提知識として、私は文学をこのようにとらえていますから、事前にご覧ください。


というわけで、竹取物語が描こうとしている人生の抽象、それはこういうことです。

人間は、虚を追い求める生き物だ。

ということです。

とは何かですが、もしよろしければこちらも参考に。
プライドも、虚の一つであり、だからこそ人に求められるものなのです。

とにかく、と対比されて使われます。

とは、名誉栄達や、命、若さ、金(利益)、異性の気持ち、自分への評価、強さ、順位などの、ヴァリアブル(variable=変数)を意味しています。ヴァリアブルは、上下変動するものです。ノートユーザーでいえば、スキ数やフォロワー数のようなものですね。そして、虚という言葉通り、あるように見えて、実は全くないものを指しています。

とは、不変のもの、あるいは、少なくとも自分が死ぬまでは、常に自分と共にあるものを意味します。簡単に言えば、変動しないもののことです。

かぐや姫とは何者だったのか

竹取物語の主人公はかぐや姫だ!と思っちゃいますね。私も最初はそう思っていましたが、よくよく考えると、実際は全然違います。竹取物語の主人公は、竹取りの翁、あるいは、この世界に住む人々です。

かぐや姫は最高の「」を暗示しています。平安時代、女性の教養としては、和歌、書、作法、琴、家柄格式などが、女性の品格を決定していました。

そのすべてを併せ持ったかぐや姫は、最高の「」でした。「」を求める世間の人々は、やはりかぐや姫を求めるわけです。この物語は、そうした人間の普遍的な行動パターンを暗示しているのです。

人々の心の中に宿っている、虚を追い求める心。それが姿かたちとなって、この物語の中に具体的な人間としての姿を与えられ、登場させられている。それがかぐや姫の役割なのです。かぐや姫の正体は、私たちが心の中で追い求めている、「」そのものなのです。

皆さんは、今何かに囚われていますか?お金ですか?名誉ですか?

そうであるとするならば、それがあなたの「かぐや姫」です。こういう私もめちゃくちゃ囚われてます。金欲しい!好き欲しい!フォロワー欲しい!


まず物語の冒頭では、竹取りの翁が、竹の中から小さい人(のちのかぐや姫)を見つけます。そして、その子を大切に育てます。

後日、竹の中から、金銀財宝や、綺麗な着物が見つかります。そこで、翁はこう考えるのでした。

「これは、あの子を立派に育てよという天からの御言葉だ。」

ここでキーポイントとなるのは、誰もそんなこと言ってないのに、翁はそう考えちゃった、ということです。皆さんも、この翁がこのように考えることに疑問を抱かないはずです。普通の事じゃんって思いますよね。

翁の心の中には、既にかぐや姫が宿っていました。それは名誉栄達を願う心です。この心がなければ、かぐや姫や、金銀財宝や綺麗な着物が手に入ったとしても、当時の出世コースを驀進しようとは考え付かないのです。

翁は、さっそく目標を実現させるために行動を開始しました。かぐや姫を、最高の「」へ変える事。つまり、当時の女性に求められた全ての教養を、余すことなく覚えこませることでした。そうしてゆくゆくは時の権力者と結婚させれば、自分も大出世できるのです。そしてそれが、かぐや姫の幸せにもつながると考えてしまったのでした。

翁は老人でしたが、この年になっても、胸の奥には名誉栄達をもくろむ心が隠されていたのです。ここが読み取れたかどうかが、竹取物語を理解するために最も必要なところとなります。

やがてかぐや姫の評判は、世間にとどろきました。
かぐや姫を一目だけでも見よう、結婚を申し込もうとして、人々が殺到しました。

かぐや姫の名声、家の格式、かぐや姫自体の能力、おまけに大変な美人、完璧な状態になったかぐや姫、最後に足りないとされたものは、立派な家柄の婿を迎えることでした。

愚なる人は、「益やうなき歩行ありきはよしなかりけり。」とて、來ずなりにけり。その中に猶いひけるは、色好といはるゝかぎり五人、思ひ止む時なく夜晝來けり。

https://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/taketori.htm


そこで、翁はかぐや姫の婚約者を募るわけですが、最初こそ多くの人が訪れたものの、あきらめて、やがては来なくなりました。最後は5人の大臣が残りました。ここで、有名なかぐや姫の難題がつきつけられるわけです。

この物語では、おそらくこの話が最も有名で、人気のある場面かもしれませんが、私は余りここは重要視していません。大切なことは、かぐや姫としては、結婚なんてしたいとはみじんも思っていなかったということです。他にもし重要なことがあるのだとすれば、虚を求めるがあまりに人は失敗をし、却ってつらい目に合う、ということを暗示する文学が込められている、ということです。

しかし、かぐや姫は相手の要求を無碍に断るわけにもいかず、翁をがっかりさせたくもありません。だから、遠回しの表現でやんわりと断ったのです。これも、教養のなせる業ですね。

かぐや姫の今までの人生は、全て翁の頭の中で思い描かれたレールの上に乗っかっていたことは間違いありません。

何故かぐや姫が結婚したくないと思っていたのかは、自分がこの国のものではないということがわかっていたということが最も有力な理由として考えられます。それを言いたくても、言えずにいたのでしょう。しかし、竹から生まれたということ自体はおじいさんも知っていましたから、異形のものだから・・・ということを理由として断ります。

翁にとって、かぐや姫を育てることは、自分の名誉栄達を達成するための手段でした。翁はかぐや姫が可愛いという気持ちはあれど、そちらの方に夢中になっていました。

結婚する気もないのに、勝手に縁談を勧められたわけですね。文脈からはっきりとはわかりませんけれども、あらゆることは、翁が手を回して行われていることが読み取れます。ここには、子供が親のレールに乗せられて、運命を翻弄されている姿が読み取れます。ここも、現代に通じる普遍的なメッセージがあるわけですね。

かぐや姫がああしろこうしろと言ったとは、どこにも書かれていません。

翁の目的はもう少しのところで達成されるはずでした。


ちょっと翁の気持ちを想像してみました。竹取りの翁が竹藪に入ったときに、自分の人生を嘆き、自分の人生をやり直し、栄達の道を進みたいと言う回顧の心を抱いたのかもしれません。

少なくとも、そういう道に対するあこがれを持っていたことは確かなのです。それがかぐや姫という形となって、彼の心に宿り、彼に夢を見せたのだと考えることができます。そうでなければ、かぐや姫という出世の手段が手に入ったときに、この道を進むことを即座に思いつくはずがありません。

年老いた翁にとっては、娘が有力者と結婚をすること、これが唯一の人生逆転の道だったのです。だから、それを願う翁の気持ちもひとしおだったということですね。

名誉栄達への願望 ⇒ かぐや姫
かぐや姫が手に入ったんだから次は ⇒ 綺麗な着物とお金。
じゃあ最後は ⇒名誉栄達 娘と有力者の結婚を実現

を望む。このように、虚の軸が胸の中で遷移しています。

世間虚仮。この世界は仮の世界であって、私たちの心を投影して出来上がっているという仏教観があります。すなわち、私たちの心から見えるものがこの世界であると・・・。この竹取物語は、最後にお釈迦様がかぐや姫を迎えに来ることからも、仏教の世界を文学として表現しているのです。仏教自体文学とかなり通じますけどね。

ですから、竹取物語は、翁の心の中にあるかぐや姫を、この世界に投影したときの人々の動きを描いているのです。

さて、かぐや姫に対しての求婚ですが、多くの人間たちは、かぐや姫を追いかけるのをやめてしまいました。最後に残ったのは5人の大臣でした。彼らはどうしてかぐや姫にここまで執着したかというと、それはそのまま、虚を求める執着心の強さを物語っているわけです。

世間一般の人は、いつまでもかぐや姫を追いかけていられるほどの暇がありません。明日飯を食うためにやらなければならないことがたくさんあるのです。恋愛ができるっていうのは、暇だからなんですね。寅さんみたいなもんです。(ただ、寅さんの心はきれいな所が違います。)次第にかぐや姫の存在は心の中から薄れ、明日どう生きていくかの方に目的がシフトしていきます。だから、彼らは「虚」を追い求めるという心から離れやすくなります。

一方、大臣たちは常に「虚」ばかり追いかけてきたような人間たちなので、いつまでたってもかぐや姫のことが頭から離れません。これはそうした人間の行動を批判する意味も込められているのです。

だから、性欲ばかり満たそうとしている人のことを、「暇人」と揶揄するのはこのためなのです。「虚」ばかり追いかけているから、「性欲」もつよくなるわけです。(くどいですが、寅さんは違います。)

そして、かぐや姫を求めるのは、かぐや姫を愛しているからではありません。かぐや姫を手に入れることによって、自分の中にある「虚」に到達したかっただけだということです。

人の欲とは、虚を求める心であると言う事が出来ます。

かぐや姫は、有名な遠回しのお断りをして、その場を切り抜けます。

これで安心かと思ったら、最後の最後は、なんと天皇の目に留まることになります。

竹取物語は、皇室批判が含まれていると言われています。そのため、皇室を敬愛する方達にとっては、決していい気持ちにはならない方もいらっしゃるでしょう。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               ですが、どうしてこれが皇室批判になるのか、ということを正確に理解することは重要です。

この物語の世界では、天皇が最もの中にいて、を求める気持ちが最も強い人物として設定されているからです。もしこれを現実の世界に当てはめるとするのであれば、いわば、俗物の極みとして描かれているわけです。となると、不敬な本ということになりますね。

当時の平安社会を背景として考えれば、それも無理はないかもしれませんね。

かぐや姫は、天皇との結婚を断りはしたものの、文による交際を続けることはしていました。

ある時、かぐや姫は、月を見ながら悲しそうに泣く姿が目立つようになります。

どうしてなのかを聞くと、月に帰らなければならないというのです。

そこで、翁や、天皇をはじめとした人間たちは、かぐや姫を月へ帰らせまいとして、翁の家の周りを兵士で固めるわけですが、仏様連合軍には全く歯が立ちませんでした。

かぐや姫は、月の世界で罪を犯し、この世界に罰として送られた、ということを翁に語っています。その罪と罰というのはどういうことなのでしょうか。

私たちはこの世界に産まれてよかったと思う人が多いのかもしれませんが、仏教的に言えば、この世界に産まれるのはなのですね。

私たちが罪を犯すとき、それは大抵「虚」に囚われていることが多いのです。お金欲しさにあーしたこーした。名誉が欲しくて世間を欺いた。地位が欲しくてあいつを排除した。異性を取られまいとしてあーしたこーした。もっと次元を下げていくと、腹が減ったから生き物の命を奪って食べました・・・。というところまでいくわけで、さすがにこれはしかたないでしょ~と思いますが、仏教を信仰していた人たちはかなり真面目にこの問題まで捉えており、生臭ものをいただくのはダメだという考えも今に生きていますね。

天皇の権力者としての行動も、現代に通じます。自分の心の中のかぐや姫が、誰かに脅かされようとしているとき、国は他国と戦争を行うわけですね。例えば、資源を巡った争いや、領土を巡った争いです。ですから、兵士を配置したわけです。従って、戦争を起こすプーチンの胸にも、強力なかぐや姫が宿っていることでしょう。

また、自分の虚を満たしたいために、かぐや姫を自分と合わせてくれたら、翁に官位をやるといって誘惑します。これは賄賂です。人は虚へたどり着こうとするからこそ、罪を犯すのです。で、翁もそれにほいほい喜んでのるわけですね。

命というのも、「」ですから、永遠の命を求めたりするのも、やっぱり人間の性(さが)の一つです。

自分が助かりたいから、あいつを犠牲にした。という話はよくあるわけですよね。

つまり、かぐや姫のいう「罪」とは、「虚」を求める心一般を指していたのです。そして、この世界に送り込まれることにより、「虚」を求める心を一生懸命かきたてられながらも、それを手に入れられぬことや、それをいつかは失ってしまう悲しみを「罰」として受けていたのでした。

かぐや姫は、月から地球を見て、あの星に行きたいと考えてしまったのかもしれません。つまり、俗世に産まれてみたいと。それは、「虚」を求める心なのです。従って、「罪」を侵す心を持ったということと同義になるのです。(まぁ、かぐや姫自体が虚なので、ちょっと錯綜してしまいますね。)

かぐや姫側からすれば、地球側の世界が虚であり、地球側からすれば、かぐや姫側が虚だとかんがえれば、わかりやすいかもしれませんね。

こう考えると、かぐや姫と翁の間に深まった親子としての愛情は、この罰をいつか受けるための事前準備だった、と考えることもできます。そして、この永遠の別れは「死」を暗示しており、月は昔、「死の世界」を意味していました。ちょうど、死者の魂が返ってくると言う8月15日に、かぐや姫は月へと帰っていきます。

最後は、罪が許されて、かぐや姫は全ての記憶を失うようになります。これは、もう「虚」に囚われて苦しむ必要はありませんということです。お釈迦様からすれば、かぐや姫のために行った行動なのですが、かぐや姫からすれば、翁たちのことを忘れたくはない、という思いが強いわけですね。

しかし、これも「虚」を求める気持ちが為すものなのでした。人は虚を求め、虚に執着します。しかし、虚を求めるがゆえに苦しむのです。

仏教では、「虚」を否定し、「実」を育てる方向で行動します。だから、生臭ものを食べず、女を持たず、酒なんてもってのほかで、金を持たず、自分の実の力を鍛えるように修行に明け暮れるわけですね。自分の体から、「虚」を求める心をどんどんそぎ落としていく方向に行動していくわけです。だから、結局は禁欲思考になるわけです。

そして、天皇たちの軍勢が何を行っても全て無駄だったのは、あちら側にとっては、閉じられた扉も、軍勢も、全て「虚」だからです。「虚」は全て実体のないものですから、実の世界にいるお釈迦様には何もないことと同じなのです。とりあえず、文学上の暗喩としては、そういうことになるわけです。

だから、「虚」で「実」に対抗しようとしても、歯が立たないのです。しかもお釈迦様レベルの「実」ですからね。

天皇がかぐや姫を捉えようとしても、かぐや姫が消えてしまうのは、やっぱり彼女が「虚」だからです。虚は常に人々の目には輝いて見えます。人はそれに引き寄せられ、燃えてしまうのですね。飛んで火にいる夏の虫というやつです。

邪魔な原文を無視したい


物語の原文では、翁がちょっとばかり善行をしたから、少しの間ということで、かぐや姫を遣わした。と書かれています。私は個人的に、これがどうしてなのかわかりません。というのは、ちょっとばかりの善行をしてこんなことになるのであれば、他の人はもっと翁のようになっているはずだからです。

そして、お金を与えてやったと言うことですが、これも同じで、ちょっとばかりの善行でここまでお金持ちにしてもらえるなら、やっぱり他の人もそうなっているはずだと思います。最後の都の王とされる人の言葉は、この物語全体を駄目にしてしまっている気がします。

もし私がこの物語を書くのであれば、釈迦のように、「虚」を求めるがゆえに人は迷い苦しむということを、人々の教訓として伝え、翁たちの心に産まれた「虚」の結晶体、最高値である「かぐや姫」を失わせるという形にした方が、物語文学としてはストレートにはまっていたと思っています。

そして、今までの翁の驀進街道は、全てはお前の名誉栄達を望む心が生み出したものだ。全ては翁のはかない夢なのだ、系のオチにしたほうが、よっぽどか話の筋が通っていると考えられます。

最後の最後で、めちゃくちゃつたない物語感が出てしまっていて(よくある、「善行に対してなんかもらえる系」)、文学としての面白みが全く破壊されてしまったと、私自身は大変残念に考えています。もし、そうじゃないと思うよ!という方がいらっしゃれば教えてください。

産まれて初めて、本気で歴史を捏造したいと思いました。

後、サブストーリーですが、この物語から、「夜這い」という言葉、そして、「富士山」という山の名前がついた、ということですが、文学を中心として考えれば、この二つは正直言って、どうでもいいことです。

不死の薬をもらった、ということですが、これを駿河国の山で燃やせと天皇は言うわけですね。これは、命という「虚」を、実体化する手段でした。しかし、天皇は燃やすことを決意します。私は、個人的に、「虚」というものを追い求めていくのは、もうやめにするべし、といった、諦観が天皇をはじめとした人々の中に起き、それがために、命を永遠とすることを拒否したのだと考えます。仏の教えが伝わった箇所だと考えたいですね。

「かぐや姫の物語」


それで、高畑勲監督の、かぐや姫の物語を見てみました。

私と同じことを考えたのかどうなのかはわかりませんが、王とされる人のこのセリフはごっそりなくなっていました。何もしゃべりませんでしたね。

翁が名誉栄達に囚われたところは同じでした。

捨丸という少年と仲良く過ごした子供時代や、天真爛漫なかぐや姫の性格は、アルプスの少女ハイジのように、俗世とは無縁の性格と生活を思わせます。

この性格が、俗世との摩擦によって、かぐや姫を傷つけていくのです。
また、ハイジがフランクフルトへ向かったり、学校に行ったりすることが、幸せであると周りの人たちが勝手に考えるように、翁も、俗世の立身出世こそがかぐや姫にとっても幸せであると考え、かぐや姫の意思に反して、都へ連れていくというのも、互いに重なり合う気がいたします。これは、周りがその人の幸せだと考えることは、その人自身が思う幸せとは、たいてい違っているものだっていうことですね。

フランクフルトへ連れていかれたハイジ自体、クララのカナリアを外へにがし、それがカナリアにとって幸せだと考えます。ハイジもいつの間にか、同じことをしてしまっているのですね。

高畑勲監督も、ハイジの作成にかかわっていることから考えても、似たような世界観があるように思いますし、似たような経験をされた方もきっと多いのではないかと思います。

仏様たちは、この人間たちの虚を追い求める心が作り出す世界を、「けがれた世界」と表現します。かぐや姫は、けがれてなどいない!と反論しますね。

かぐや姫は、翁と媼のことを愛していました。最後は記憶を無くしたにもかかわらず、地球を振り返っては涙を流します。記憶を無くしたにもかかわらず、どうして涙を流せるのでしょうか。

記憶、というのが人間のどこからどこまで関わってくるのかは、私にははっきりとは分かりません。しかし、記憶は消せても、経験は消せないと考えることもできます。記憶喪失になった人でも、昔暮らしていた場所にかえると、なんだか懐かしいと感じたりすることだってあります。その気持ちだけが強まると、自然と涙がこぼれることもあるかもしれませんね。

覚えていないけど、ここは昔、自分がいた気がする・・・。という感じですね。


で、最後の最後なのですが、翁の言う通りの人生が、本当にかぐや姫にとって幸せだったのでしょうか。それとも、かぐや姫自身が、あのまま翁と、貧しい家で暮らし続けた方が幸せだったのでしょうか。

私は、元々の貧しい暮らしをしていればよかったなぁ~と、結果論ですが、そう思います。

人は、虚を実現させることこそを幸せだと考えます。そして、本当にそれによって幸福感を覚えるものです。だからこそ、また追いかけたくなるのですね。

まとめ

外道と正道

皆さんは私の話を聞いて、ああ、じゃあ、何か目標を追いかけるって悪いことなの?私たちの目標も、結局は「虚」なんでしょ?って考えます。目標自体が虚であることは、その通りです。私のこれまでの話を完全に信じると、無気力になってしまい、何も追いかけなくなる、そんな悟り野郎になることを、私がお勧めしているように思えるでしょう。今私が作った言葉ですが、いわゆる悟り系ニートですね。案外、結構いるんじゃないかなって思っています。

しかし、これは大きな間違いです。例えば、大谷君は、絶え間ない努力によって、今自分の目標を実現しています。彼は、地道な努力の結果として、その「虚」へとたどり着いたのです。それはもはや、「実」なのです。わたしたちも、本当に自分の目標とするものがあるのならば、ちゃんと自分で努力をして、それだけの立場に立つべし、ということを言っているのです。これを正道といいます。

逆に、外道とは、人の関心を買ったりすることばかりにかまけて、本来の道筋からそれ、実力もないのにその立場に付く人間をいいます。つまり、実がないのに虚だけはある、という状態を一生懸命作る、正規ルートを通らない人間です。

この物語も、翁は自分の力で官位を登るのではなく、あくまでも身分の高い者への賄賂や政略ばかりにかまけていましたね。かぐや姫も、政略結婚されそうになったわけです。そうして官職を手に入れようとしてしまった。

ですから、仏さんたちにかなり軽蔑されているわけです。老人なのに、幼きものよ、といわれます。仏さんたちからすれば、が育っていない人間なんて、いくら年をとっても赤子と変わらない、ということです。

つまり、虚を目標とするのはよいし、欲を持つことを悪いとは言わない。しかし、その実現を行う方法を間違えると、結局全てを失いかねないぞ、あるいは何も手に入れていないことと同じだぞ、ということを、この物語は示唆しているのだと考えられます。















いいなと思ったら応援しよう!