負け惜しみとは何か

こんにちは!3連休!今日は負け惜しみについて語ります。

私の考えだと、負け惜しみとはこういうことです。

 負け惜しみとは

 自分が到達したいと思うことに到達できなかったことをきっかけとして後悔の念が発生し、その苦しみから自分を守ろうとするために、対象の価値を下げようとする試みである。


「負け惜しみ」って一体何なの?

今日はそれを解き明かします。

負け惜しみを理解するための3つの要点は、こんなところです。

1.自分が求めていた物事の価値を、自分から下げる。
2.価値は主観によって決まる。
3.精神の防衛規制。

ソーシャルゲームの例

例えば、ソーシャルゲームでは自分のキャラクターを鍛えます。周りのプレイヤーはどんどん強くなります。自分は最初は強かったのですが、後から来たプレーヤーにも追い抜かれ、せっかく自分が強い気分になっていたのに、なんだかつまらなくなってきました。周りは課金を行い、すぐに強くなってしまいます。その一方、自分はそれだけのお金をかける余裕がありません。

負け惜しみ:ゲームなんて、時間と金どれだけ、かけたかだし。

負け惜しみ:どうせ、ゲームなんてリアルとは何の関係もないしね。

負け惜しみっていうのは、確かに間違いないなっていう言葉なんですよね。
だってそうでしょ?ゲームは確かにリアルとは関係がない。生きていくのに別に必要とは言えない。今は学習ゲームとかいろいろ役に立つゲームも増えてますが、特に一昔前は本当にそう考えられており、今もまぁそうでしょう。
 今でこそプロゲーマーが世界で活躍する世の中ですが、ちょっと前までは、ゲームは本当にただの遊びでした。どれだけうまくっても、生きていくために必要ではなかった。ゲームを作る側ならばまだしも、ゲームをするのがどれだけうまくっても、評価はされなかったのです。高橋名人という人がいました。ゲームがうまくて有名になった人はいましたが、稀有な存在でしょうね。こういう人でも、企業か何かのバックアップが無ければ有名になれなかったんじゃないかなと思いますよ。だから、その辺のただの遊びゲーマーが、何かできるっていうことはなかったと思いますね。

負け惜しみは自分が手に入れたいと思う対象であれば、どんな対象に対しても言うことができます。例えゲームでさえも。

恋愛でうまくいった人の例

  • 美人を捕まえた人に対して⇀どうせすぐ年を取るし。

  • 本当に大切なのは性格。

  • 美人は3日で飽きる ブスは3日で慣れる

  • 見た目だけの恋愛でしょ

  • 胸の大きい女は馬鹿(これは全然根拠なし)

様々な負け惜しみの言葉がありますね。これは負け惜しみじゃなくて、嫉妬なんじゃないか?と思われるかもしれませんが、負け惜しみと嫉妬はちょっと違います。使うシーンが重なりますけど。

 手に入れたいという欲求が出てきたときには、それが正しいかどうかなんて考えない。恋が始まるのと同じように、その目標に到達してみたいと思うものですよね。

 欲しい、到達したい、手に入れたい、叶えたいと言う欲望が生まれ、
 でも達成できない、あるいは、既にほかの人に達成されてしまった。
 そんな時、負け惜しみの感情が芽生えるものです。

 負け惜しみの言葉は、正しいと言えば正しい。というか、間違いだと言い切れないところがあります。本当にそのとおりと思うこともあれば、正しいかどうかわからないので、間違いだとも言えないことも多いですね。

勉学がうまくいった人への負け惜しみの例

  •  勉強ばっかじゃなくて、ちゃんとみんなで思い出作る方が大切だよ

  •  友達いるの?

  •  自分のことしか考えてないんじゃないの。

  •  勉強なんて、将来役に立たないよ。(職業によってはそういうことも多い)

負け惜しみの種類

 零距離負け惜しみ


 じゃあこういう場合は?自分がいざこれからゲームをやろうかどうかっていうときに、ゲームなんて時間の無駄でしょ。といって最初からやらなかったとします。零距離で負け惜しみの言葉を使い、そもそもゲームをしなくなりました。

 そして、ゲームがすごいうまくいっている人のところにその人が来ました。すごい盛り上がっているところを見て、同じ言葉を言った場合、それはあたかも負け惜しみであるかのように見えますよね?周りの人たちにとっては。

 負け惜しみが成立する条件としては、本人が本当に目標を手に入れたがっていた、到達したがっていたかどうかは重要なところです。周りにとって負け惜しみに見えたかどうかは関係ありません。負け惜しみの言葉は、その心を元にして出てくるものですから。

 また、自分はそもそも大して興味がないのに、相手が達成できたことによってとてつもなく満足をしている様子を見ると、あれ?やっぱりなんか悔しくなってきたな・・・。と思って、負け惜しみの言葉を言うこともありますね。

 このことから分かるように、相手が相手にとって到達した物事が、相手自身にとっては、喜びや幸せといったことへとどれほど変換できているかによって、本当に自分にとっては無価値だと思っていたものに対しても、負け惜しみを言いたくなってくることもありますね。
 

 いーもん。自分そんなの別に興味ないし・・・。

 とかいう言葉も、本当にそうでも、負け惜しみ臭いですね。

 負け惜しみの言葉は正しいことが多いです。このケースは、最初からその理屈を考え出して、自分がその目標を追わない、という選択肢を取ったことです。そもそもゲームに興味が持てなかった、その理由を自分で添えたようなものですね。そういう場合は、負け惜しみとは言えないと自分は考えています。

 もし、自分が何かを始めたい。でも怖い。だから、始めない理由として、自分を納得させる言葉を言った。という場合は、単純に憶病だっただけですかね。

負け惜しみは、価値観で強度が決まる

 価値は主観によって決まるといいましたね。この世界の全ては無価値なのです。だけど、私たち個人個人がその価値を決めます。金(きん)は動物からすれば、全くの無価値です。カラスは光物が好きなので集めるかもしれませんけどね。価値を決めるのは常に主観です。

 1人の人間の命より、大谷選手のホームランボール1個の方が大切だったりします。3人のガードマンに囲まれ展示されるわけです。

 で、それをパクッて売るとします。全く大谷選手のことを好きでもなく、ボールにも興味のない人には売れません。でも、欲しいということはあります。それはなぜかというと、大谷選手とかどうでもよくて、そのボールがそれだけの売却価値を持っていると知るからです。つまり、その人は、大谷選手に価値を置いているのではなく、ボールの交換価値、もといお金に価値を見出しているわけですね。

 例えばニンテンドースイッチとか、アイドルのCDとか、物凄い盛況だな!!!と思っていたら、転売されまくっていた!!!というオチが多いのもよくある話ですよね。大谷選手が人気なのはわかりますが、実際はメディアがかなり持ち上げているだけで、興味のない人もそれなりに多いと思います。

 なんてことはない。ただのボールです。他のボールと全く違いはありません。バットの影響でちょっとへこんでいるかもしれませんけどね。←これも負け惜しみの言葉ですね。で、私がそんな価値のある人間になりたかった!!!という思いがあり、大谷選手にそうした立場を取られてしまった!!!と感じて、その悔しさを紛らわすためにこういうことを言い始めれば、それは負け惜しみですね。

 実は、こうした転売品とか、美術品の取引とか、そうした経済が成立しているのは、その取引価格で取引できる!!!と思っている人たちが多いから、というのが実のところであり、その美術品自体にそれだけの価値があると思っているわけではないのだ、というところが本当のところなのですね。

 理論っていうのは、味気ないところがあります。気分が盛り上がっているんだけど、それ、大したことないよ、と言ったような話にしちゃうことが多いんですよね。だから、私の発言は負け惜しみじみている気がしなくもない。

 で、話を戻すと、興味のない人にとっては本当にどうでもいい話です。でも、そのボールを欲しい!と思う人がいる。だから、そこに価値が生まれます。高値がつくのです。誰も欲しいと思わなければ、0円か、ボール一個分相当の値段にしかすぎません。(そのボールが欲しい理由は、金になるから・・・。という理由が、その取引価格を支えているように思います。そう思う人が多いから、それを狙って手に入れ、投機財産にしようと思っている。)

 オリンピックの金メダルも、どうしてそんな価値があるのか?というと、それを欲しい!と思っている選手たちがたくさんいるからです。誰も欲しくないわ~。オリンピック?は?んなもん出るか。参加人数0人でいいやん。

 となると、金メダルは、金のg単位程度の価値でしかありません。金メダルじゃなくて、金が欲しい人にとってはいいものでしょう。

 ちょっと脱線しましたね。

負け惜しみを言う目的

 どうしてこんなことをするのか。それは、その価値を下げてしまうことによって、自分がそれを取らなくてもよかったのだ、得られなくっても良かったのだと安心するためです。精神の防衛規制ですね。

 そして、さらに行けば、自分は、それを得る必要などなかった。いや、むしろ、得ない方がよかった!!!と言えるくらいに、自分を安心させようとするのです。

例えば、東京大学に3人の子供を合格させた母親の方が一時期有名になりましたが、ネットでは負け惜しみの嵐でした。

こんな母親の元に生まれなくってよかった!!!

3人の子どもを東京大学に入学させたことはすごいことだと思いますが、彼女は大学合格のために、様々なサポートをしていたそうです。彼女なりに考えた方法で。

ただ、周りからすると、ぎちぎちにスケジュールを組んで、自分のレールに子供を乗せて走らせただけ、といった話に挿げ替えられたかのようになってしまいました。

それを言うならば、子供自身の正直な気持ちが大切だとは思います。子供が、こんな母親の元に生まれたせいで、自分はやりたいこともできず、東大を受験させられるはめになった。例え合格したとしても自分にとって、この道は全く望んだものではなかった。

ここまでのことが本心であれば、確かに彼らの言う通りだと思います。でも、もうその人生は修正がきかなくなっているし、子供たちも別の人生があるとは考えられない状態になっている可能性も0ではありません。その道をしっかりサポートしてくれた母親に素直に感謝しているかもしれませんね。

 世の中には超理不尽な家庭だってあるわけですから、負け惜しみを言う人たち、ちゃんとそっちの方も見てますか?って聞きたくなりますよね。子供を東大に受からせる母親と、超理不尽な機能不全の家庭に生まれるのどっちがよかった?

 結果としてですが、どちらもそれ相応の人生があります。その人自身がどれほど強いかによって、学び取るかによって、そのどちらの人生もその人だけのものになります。東大に受かった人は、虐待や機能不全の家庭で育った経験がないため、そういう人たちの気持ちや理屈はわからないでしょう。逆に、いい家庭とは言えないかんきょうでそだった人は、東京大学合格の道筋なんて想像もつかないでしょうね。

 私個人は、機能不全の家庭に育った方が、人間としては結局はよかったと思っています。意外な答えでしょう。でも、そう思います。ただ、とてつもなく気持ちが悪く、辛く、嫌な人生だと思います。それでも人生とは何か?と問われると、そちら側の方がどっちかというと、人生なのです。

 東大に合格した人は、教科書通りの、人から教えられた勉強などはできるようになるでしょう。でも、実際にこの世界で問題となっている有象無象の現象の中で育ったことはないかもしれません。そして、社会で解決しなければならない問題は、むしろこういう問題なのです。人間が織りなす問題は、教科書では語れないし、参考書を持って挑んでも解決しないのです。

 だから、私も負け惜しみの言葉を言わせてもらうと、東大に受かったら、その人たちが気持ちよくなった。たったそれだけだったんじゃないかなって思っちゃうことがあります。東大に合格するよりも、問題と向き合う、向き合わざるを得ない人生を送った人の方が、その答えを考えている可能性が高いなと。

 東大に合格する人は、今の現実の問題を後回しにして、別の問題ばかり解いてきた人なだけなんじゃないかと。そんな気がしてくることもあります。本来この世界の様々な困難な課題を克服するべきだと思われる人ほど、その問題から遠ざかっていくような仕組みがこの世界にはありますね。

 しかも、東京大学の問題として出されるということは、そのどれもが、すでに解決済みの問題なのです。じゃないと答え合わせできませんから。

 だからこそ、生の経験、生の体験こそが、本当の学問なのです。本や人づての言葉ではない、自分の人生自体から学び取った経験です。私に負け惜しみを言わせると、こういうことになります。

 で、話を元に戻してみましょうか。何が本当のことなのか、全くわからないのです。非難轟轟だったのは、もし自分がその母親の元に生まれたら!という仮定の話であり、その子供たちの立場に立とうが立つまいがそんなこと関係がないと言えばないですね。文句を言っているあんたたちは関係がない。

そして、負け惜しみを言った動機についても、はっきりとしたことはわかりません。

自分も東大に合格したかったのか。(高い学歴を得たかったのか)
自分も東大に合格させてくれるような母親が欲しかったのか。
自分も子供を東大に入れさせられるような母親になりたかったのか。
自分も安定した人生を(大学までだけど)歩みたかったのか。

そんな非難の言葉を浴びせた方達が、本当に悔しいと思っていたかどうか。それも彼らの胸の内を覗いてみなければわからないわけですが、負け惜しみを言うような人がそれを認めることはないでしょう。

負け惜しみを言う人は、少なくとも全否定されるようなことは何一つ言っていません。ここに難しさがあります。

 でも、すごいことに、受かった方が間違いで、受からなかった自分達が正しい道を行っている!!!という話にさえなっています。受かる方は受かるなりにかなり苦労しているんだから、そんな言葉の上っ面だけでぺしゃっちゃだめだよ。それだけ勉強頑張った人がいるんだから、私たち協力し合わないと・・・。負け惜しみなんて言ってたら、それこそ世の中よくならないよ・・・。とは思うんですけど。そして、あんたたちはあんたたちで正しい道を行っているかどうかはわかったもんじゃないよ。 

 で、負け惜しみを言う人自体に、果たして自分の人生の設計があったのかどうか。自分の決めた道を進んできたのかどうか、と言ったことを考えた時、私はそういう人間はそう多くはないと思っています。

結構多い 牽制負け惜しみ

 さて、負け惜しみにはいろいろ種類がといいましたね。先ほどお伝えしたように、最初から自分が興味を持っていない言訳としての、零距離負け惜しみ(正確には負け惜しみではなく、自分が興味を持たなかったのはどうしてなのか、を自分なりにとってつけた理由)、そして、牽制負け惜しみを言ってくる人もいます。

 牽制負け惜しみとはこういうことです。例えば、ある物事を一生懸命やるぞ!!!ととてつもなくやる気になっている人がいるとします。でも、それを聞いた人は、

 結局~だから、それって意味ないよ。

 と言って、せっかくのやる気に水を差して沈下させてくるんですね。東大に合格するぞ!と言った人に対して、~だから意味ないよ。とか言ったりして、やる気をそぐわけですね。大学なんてどこも一緒だよ。とか。

 東大行くのはいいけど、君、受かって将来どうするの?
 行ったはいいけど、東大に行ったことは、君の将来とどう結びつくの?
 
 大切なのは、過程であって結果ではありません。

 そもそも、人生は自分の計画通りにうまくいくことはほとんどありません。また、東大に合格するかどうかよりも、その過程で学ぶことの方が大切だし、その過程で学ぶことについては、負け惜しみを言う人間たちも、知らないのです。知ってたらそいつらも東大合格してるでしょ。

 つまり、負け惜しみというのは、取ってつけたような、すげー無責任な発言なのです。自分がちゃんと全て経験して、全てを知り尽くして、そして無駄だったとわかった。だから、私はあなたに対してこういうことを言うんだ!というのであれば、私はその人はすごい立派だと思います。

 東大目指して考えもせずガンガン突っ込んで結局後悔するならそいつの責任と言えばそいつの責任なわけで、本当は他の人は干渉する必要のないことではあるわけですね。

 で、負け惜しみを言いたかった人は、そのざまをみて安心するわけです。
ああ、自分は東大なんて目指さなくってよかった・・・。ああなるところだった。

 でも、あなたが受かってたら、うまくいってたかもしれませんし。結局あなた自身がないってことですよ。 

立場逆転負け惜しみ

 先ほどの東大合格の話なのですが、多くの人が、こんな母親のところに生まれなくてよかった!という一言を言い放っています。

 これは、ただの一言で、東大合格をした人の人生よりも、自分の人生の方が良いのだ、と言ってのけているわけですね。

 これはとてつもなくすごい「見なし」ですね。絶対にそうとは限らないわけですよ。でも、本人たちがそう信じちゃっているわけなので、もうそれでこの話は終わりなんですね。

 私は彼らの言っていることは負け惜しみにしか聞こえませんでした。中にはそうじゃない人もいるかもしれませんけどね。

 こういう負け惜しみを、立場逆転負け惜しみと言います。相手を悪く言って、とにかく相手の相対的な地位を下げていくことです。そうすれば、自分達は鶴の一声で立場を逆転できます。

 人間関係っていうのは、本当のところはどうなのか?ということでは定まりません。皆、印象だけで立場を決めます。そういうものです。

イソップ物語 狐とブドウ

 負け惜しみを説いた物語は、イソップ物語に見られます。狐がとても美味しそうなブドウを見つけますが、高すぎて手が届きません。そこで、あのブドウはきっと酸っぱいんだ。ああ、食べなくてよかった。と言ってそのまま立ち去って行きます。

 私は過去記事でこの続きを自分で創作したことがあります。

 手短に言うとこうなります。後日、狐が散歩していました。そこで、ショッキングな出来事が起きました。何と、そのブドウを他の狐が食べていたのでした。それを見た狐は、大変ショックを受けます。そして、そのブドウがいかに酸っぱくてまずいブドウであるかをその狐の口から聞き出そうとしたり、それよりもずっとおいしいブドウがあるところを知っている、そのブドウはブドウの中でも飛び切りまずい方のブドウだ、と言ったことを言い聞かせます。

 こうして、相手が気持ちのいい状態になることを阻止しようとしたり、自分がそのブドウを手に入れなくてよかったのだと思えるような誘導尋問をしようとするのです。なぜなのか。

 それは、取られた物によって気持ちがよい状態になればなるほど、それを見て自分が食べればよかったと思わされるからだし、相手がこのブドウまずい、と言ってくれれば、自分は本当に食べなくてよかったと思えるからです。

 どれだけうまいブドウがあったとしても、自分がおいしいと感じればそれがおいしいわけで、うまいブドウかどうか、というのは、自分がそれによってどう感じるか、というところで決定されるのですが、狐にはそれがわかりません。

 見た目として、おいしそうだと思うものを食べられなかったこと。それが自分の胸にもたらしてくる激しい後悔の波を感じ、その苦しみから逃れようとするわけですね。

 私の物語だと、狐は、そのブドウを食べた狐を殺してしまいます。

 ここにはとてつもなく恐ろしいメッセージが込められています。そのブドウを食べたから、その狐はそういう目に合ってしまったのだ。自分がしたことであるにもかかわらず、自分がそうであると思い込みたいがために、そのような結末を自らもたらしたのです。

 防衛こそが攻撃を生む。自分の心を守るために、狐はそのような攻撃を行ってしまったのでした。

 負け惜しみを言う人間は、相手にきつい一言を言うことが多いですよね。それもたいがい、その気分を醒めさせてしまうような。

 私も同じような経験があります。私はちょっとした集まりに参加して、いい大人ですが、子供たちと仲良くし、遊んでいました。そこで、近くでそれを見ていた大人が、私を見てクスクスと笑うそぶりを見せたのです。

 あなた、その年になってそんなことやってるんですか?みっともないですよ?恥ずかしくないんですか?

 私はそのメッセージに気が付いていましたが、見て見ぬふりをしていました。その人はどうも同じフロアの別の場所で働いている人のようで、楽しそうな笑い声を聞きつけ、様子を見に来ていたようなのです。

 ですから、その会合があるたびに、その人はさりげなくそばを通ることがあるのですが、私が全く気にしていないのを見るや、ひどくつまらなそうな表情になりました。

 本心はその人の胸の内にあり、証明はできません。確かなことは言えないのですが、彼も私と同じように遊びたかったのです。その人もいい大人でした。その人は本当は、皆と和気あいあいと、そして子供たちと触れ合える関係を羨ましく思っており、その場所をブドウの生るところと思い、さらにそのブドウを取るのは恥ずかしいことなのだと自分では感じており、そこに自ら到達することはなかったのです。

 その人自身、子供たちと仲良くできるかどうかはわかりません。つまり、ブドウに手が届くかどうかはわかりません。しかし、彼はそのブドウを欲しがっていた。でも、結果としてその場所に到達することはなかったのです。

 そこで、私がブドウを取った人として、気分がよくなっているところに、その心に攻撃を加えようとしてきたのでした。

 私はほどなくして、そこではもうやることがなくなり、参加はしなくなりました。そして、私が立ち去ったのが分かったその人が、その後私の失踪をどう考えたのかはわかりません。自分の行動が功を奏したからいなくなったと考えたかもしれません。


 例えば、受験戦争に厳しい人がいます。ある時、有名な大学に合格している人がいました。難関と言われる大学です。それを知ったご近所の、競争心の激しい人は、必死でその人の粗を探し始めます。

 なぜ粗を探す?嫉妬か?負け惜しみか?
負け惜しみならば、その大学は~の問題を起こした!~は確かにいいかもしれないけど、~は悪い!その大学に行ったのはいいけど、結局今何やってんの?

 つまり、その人が行った大学の価値をすごい下げ始める。でも、それが難しい時には、その人の価値を下げ始める。そしてこうなる。

 ああ、こんな人が行っている大学なんだから、きっと大したことないんだろうな。とか。変人だよな~。こうはなりたくないね。とか。あんたの行ってた大学って、みんなあんたみたいな奴らがいるの?

 負け惜しみの強い人間は、事前にせよ、事後にせよ、とにかく、相手が到達しようとすることを妨害してきます。もう妨害をすることができないとなると、その価値を一生懸命下げようとしてきます。

 で、やっかいなことに、負け惜しみの言葉は正しいから困るんです。言われた人は、嫌味を言われた時のように、何も言い返せません。

 その人の心の中は、本当に人を思う気持ちがあるのか、それとも、負け惜しみの気持ちで言ってくる言葉なのか、なかなか見分けがつかないんですよね。そのため、自分のためを思って言ってくれている言葉なのに、負け惜しみだ!!!嫉妬だ!!!と感じる人もいます。これは、受け手が取り違えるパターンです。

 このような形で受け手がかみ合わないと、精神戦が展開されて、あれは負け惜しみなんだ!嫉妬なんだ!と言った話になっていって、ゴロゴロゴロゴロとどうでもいい状況に陥り、破滅的な人間関係へと転がっていくわけです。送り手は本当に心配しているのに、受け手はそれを受取ろうとしないんですよね。

負け惜しみを乗り越えるには?言う方も言われる方も

 負け惜しみを打ち破るにはどうすればいいかな。理屈としては間違っていない。でも、それは自分が経験もせずに決めつけた結果論でしかない。そして、あなたがやったらそうなるかもしれないけど、私がやったら違う結果になるかもしれない。

 生まれたらどうせ死ぬんだから、生まれること自体無駄じゃないか。やったー!この世界に生まれてきたぞ!と思っている人に対して、もしこの世界にいない人が自分に負け惜しみを言って来たら、

 おめでと。まぁどうせ死ぬけどね。とか、
 地獄行おめでとう。

とか言われることも想定されるわけで。

 これも負け惜しみの言葉として正しいわけです。この世界こそが地獄ですね。生きてても死んでても、結局は自分達でこれを言い合っているだけなわけで。で、生まれることはいいことだと言って守ったり、でも、生まれることはよくないことだと攻撃したり。ずっとこれを延々と繰り返しているわけで。

 ソーシャルゲームを始めて頑張ったというのは、言ってしまえばソーシャルゲームの中に生まれて、生きたわけですね。そしていつか終わりがくる。それはそうだ。どんな世界でもそうだ。必ず終わりが来る。だからと言って、じゃあ、最初から自分をその世界に誕生させるかさせないか。

 これを考えると、SFっぽい話になりますが、私たちは産まれる前に、興味のありそうな世界を生まれる前に選んで、お!ここ面白そうだな!と思って、選んで生まれてきたのかもしれない。その時のことを全くもって忘却していて、その中で、自分のレベルアップを頑張っている人生ゲームのプレイヤーなのだろうと言う気にさえなってくる。

 確かにソーシャルゲームはいつか飽きてやめてしまうときがくる。金も時間もそんなのにかけるのは無駄かもしれない。しかし、結果として金も時間も失ってしまうことは、金を得ようと思って行っている経済活動でも訪れてしまうもの。権力を得ようとして、結局は転がり落ちてしまうように。

 そういう意味でいえば、現実を頑張って、結局無駄になることだって非常に多い。じゃあ、ゲームばっかやって、あ~楽しかった。と言って死んでいくのと、どちらがよかったのだろうか。

 ゲームにしろ、この世界で起きていることにしろ、私たちが夢中になるものは、決まって意味のないことばかりだ。全ては私たちの心の作用が絡み合っているだけなわけだし、結局はテレビ画面を見て夢中になっていることと変わりがないのである。ただ、感じ方は違う。酸っぱいブドウは酸っぱいし、おいしいブドウはおいしい。感じ方は違うものになる。どっちがいいかと言われれば、いい感じ方をしたい。それが負け惜しみの極意かもしれない。自分達の人生は、気持ちのいいものじゃないといけない。そういう決めつけが、既に自分の中で行われていて、それが揺らぐことを恐れている。

 そして、負け惜しみを言う人は、自分が悪い感じ方をする立場にいることをとてつもなく嫌う。もし自分がそういう立場に置かれたら、一刻も早くそこから離脱しようと思う。

 負け惜しみを言う人は、その道を実際に頑張ったわけじゃないのに、その物事の価値を下げてくる。そして、経験自体をもまとめて否定してくる。負け惜しみを言う人の言葉は、全否定はできないけれども、とてつもなく危険なものだ。

人生自体無意味だしね 最高の負け惜しみ

 朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。

 自分自身が道理を知ってしまったら、この人生はとてつもなく長くて無駄なことなのかもしれない。だからと言って、もう自分はこの人生でやりたいことやって用を果たしたんで自殺します、とはならないだろう。どこまでも生に執着したいだろう。例えその部分が無駄であったとしても・・・。

 負け惜しみを言う人達よ。結局あなたたちの人生も、負け惜しみを言われた人とそう変わることはない。だが、気持ちの良さを、感じられるかどうかに尽きると言うことだ。


 


 
 

 

 

 

 


 








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