信用できる国とは -信用とは何か-
『信用』とは
例えば『信用』を重んじるところと言えば、最初に思いつくのが銀行である。
仮に私が100万円を銀行に預けたとする。そして銀行はそのお金を自分達の業務のために利用する。他の人や企業に貸し出したりするのだ。そして利ザヤで儲けるのである。銀行は他の人や企業からも預金を受けている。私の100万円は、どこかの誰かが預けたお金と一緒になって、まとめて使われるのである。金が融ける(かねがとける)。金で融通をきかせるということで、金融だ。
しかし、私があるときその預金を引き出そうとする。その時は、銀行はきっちり100万円を私に返す。
「100万もあるんだから2万円くらいいいですよね?」
とかいって、98万しか返さないことはない。
つまり、『信用』とは『自分に属している変動するもの(多くの場合は財産だが、自分自身が個人的に価値をおいているものであればなんでもよい:単純に財とする)を、相手側の管理下に置き、相手の自由な意思の下で運用させた後、任意の時あるいは契約上決められた時に、自分が預けた財が、最初に預けた時よりも、減少していないことが信じられた状態で用いられていること』
と言った意味である。
例えば私たちは、日々食品を買うけれども、中には傷んだものがあるかもしれない。私たちはそうしたものにお金を払ってしまうかもしれない。そんなものにお金を使うということは、自分に属している変動するもの(お金)を相手に渡した時に、自分に返ってくる物(品物)が、減少した状態で返ってきたことになる。だから、その店は信用ができない。この場合は、相手の自由な意思の下で運用させる、という過程が抜けているけれども、リアルタイム(即時)に行われたものだと考えてほしい。
年金問題
この話が今最もよく当てはまるのが、国の年金問題である。
私たちは年金を、65歳以降になったら支給してもらえるという約束で納めている。ところが、支給年齢が遅れてきたり、将来我々が受給する年金がなくなってしまうということは、単純計算でもよくわかるのだ。そもそも、65歳まで生きる保障なんてどこにもないのである。つまり、博打なのだ。しかもその博打に勝ったうえで手に入る金額が、支払った金額よりも低いのである。
しかも、65歳になれば、一時に全ての支払った金額が戻ってくるのではない。自分達が納めた金額が全て戻ってくるようになるには、最低でも80歳近くまで生きなくてはならないだろう。博打は続くということだ。あなたの心臓がいつまで持つかのタイムバトルだ。
国が銀行であるとすれば、国は私たちが預けた変動するもの(この場合はお金)を、国の管理下に置き、彼らの自由な意思の下で運用した結果、最終的に私たちに返ってくるものが、私たちが最初に預けた時のものよりも、減少してしまうことになるのだ。そして、そうであることが確実視されている。
とすれば、私たちはもう国の年金制度は『信用』できないといっていいだろう。
税金問題
年金のベクトルは、そのまま税金にも当てはまる。税金はこの国をよくするために支払ったお金だ。自分達に直接税金が返ってくるとは思っていないが、それでもこの日本がよくなることを期待して支払っている。
つまり、国はこのお金を自分達の管理のもと、自由に運用した結果、少なくとも私たちの期待したように、よき国にしてもらわなくてはならないはずなのである。
しかし、円安に物価高、少子化が深刻で、国は防衛費を上げ、税金も高いままである。若者の貧困の中で子供が産まれても、果たしてどうなることやら。つまり、私たちが税金を支払ったことに見合うだけの効果が、私たちに返ってきていないというのは明白であるといえる。
これには反論があるかもしれない。貧乏な若者はたいして税金を払っていない。一方、年寄りは税金をたくさん払っているので、そういう意味では年寄り優遇だと。
ところが、税金はそもそも社会全体のために拠出されるものであり、例えその金銭のでどころが老人たちによるものであったとしても、社会全体のために使われるべきであるし、そういうキャッチフレーズだったはずだ。
人間関係の中の信用
ワルではないもの同士であると仮定した場合の信用
ところで、『信用』というのは、もっと広い意味で使ってもいいだろう。例えば友人間の『信用』である。ある者が友人に自分の秘密を打ち明けた。自分の秘密は自分に属する情報だ。情報は変化するから、これも変動可能性のあるものといってよい。その情報を友達に預けたということになる。しかし、友達はその情報を利用して、噂を一気に広めて、笑いの種にしてしまった。そして、その秘密は全体に知れ渡ることになった。
こういう場合、その友達は信用できない人である。このように私たちは人間関係の中で、他人に属している価値あるものを突如渡されることがあるし、それが自分の手元に来ることだってある。
あなたがそのものの所有者や、それが帰属すべき人たちにとって、信用できる人であるのならば、彼らが知ると知らないとにかかわらず、その人たちにとって完全にいい状態でそのものを扱う必要があるのだ。そしてそれが何らかの形で預けられた以上、少なくとも最初の状態よりはいい状態で、その持ち主に返してやらなければならないか、あるいは共有し続けてあげなくてはならない。
人間関係上の信用とは、何の保証もない中で託されたものである。人を信じるというのは、とても難しいことである。だから、約束破りの人間や、言ったことを結局覆してしまう人間は信用ができないのである。
信用できる人間であることは、かなりの自制心を要求されるのだ。
だから、信用されていない人間には、人は秘密を打ち明けようとはしない。あくどい人間はうまく信用を勝ち取ることもあるが、その人間が信用できる人間ではないということに変わりはない。
ワルたちの間の信用
信用はワルの間でも重要視される。『あいつは警察にタレ込む可能性があるから信用がおけねぇ。』ということがあるわけだ。信用というのはいいイメージで使われることが多いのだが、結局は使う人間次第で、良くも悪くもなるのである。
「信用される人」=「いい人」ではない
信用されていないからと言って悪い人間とは限らない。ワルの間では、暴露する人は信用されないからだ。
「信用される人」 = 「正直な人」でもない
正直にされてしまうと、秘密を暴露される。秘密を守りたい側からすると、その人は信用できない。
世間の『信用できない人』のイメージは間違い
人は言葉をイメージで追いかけてしまうから、『信用されない人』というだけで、悪い人のように考えてしまう。大切なのは、何について『信用されない人』であるのか、ということなのだ。ここを確認せずに、相手の言うことを鵜呑みにしてしまうというのは危険なことであろう。だが、ワルはそういう時、正直なことをいうはずがないので、結局は何のことだかわからないまま終わるであろうけれども。
また、『信用されない人』は、自分がいいと思ってやっていることもあるかもしれない。みんな信用できないと思った人間には、最初から関わろうとしないので、こうした問題はなおざりになりがちだが、『信用できない人』の方が、案外いいひとかもしれないこともある。
信用の欠点
バレなきゃOKの人間が出てくることがある。最終的にその帰属主のところに満足のいく形で戻りさえすればいいというのであれば、例えば、100万円が200万円になってその人のところに帰属するべき場合でも、50万円くすねて返す、ということが起こりうるかもしれない。ばれないところでうまく利益を吸い取っているかもしれない。
先ほどの友人間の話も、本人は全く知らないところで伝えられ、周りの友人は皆知っていることを隠している、ということも起こりうる。
願わくは人格者の多き国であらんことを。
付き合いで信用される人間
例えば、人当たりが大変よくて、好かれている人間がいるとする。でも適当な人間。人懐っこく、良くプレゼントなどもくれたりする。嘘をつくことも多分にある。
逆に、人づきあいがすごい下手で、好かれているかというとそうでもない人間。しかし、哲学的であり、曲がったことはしようとしない。
どちらが信用されるかというと前者である。社会で活躍するのも、たいてい前者であろう。よくよく見れば、前者は自分を好きになってくれる人間たちに対しての信用だけは裏切ってはいなかったりする。うまく嘘でコーティングもできるので、最終的には信用が確保されてしまう。
しかし、後者は愚直すぎて、却ってその場の空気を乱したり、融通が利かなかったりすることがある。目先の人間以外に対して、自分の得にもならないところでしっかりとした行動をとったりするものだから、逆に危険視される。愛想もないため付き合いも薄い。結局、人づきあいという意味での『信用』はされないことの方が多いのだ。
『白い巨塔』に出てくる大河内先生のようなものだろうか。
信用を勝ち取れる人間は、聖人君主のような人格者ではなく、そのグループの中での、どこか都合のいい人間なのだ。これが白い巨塔の中で派閥となってくると、信用される人間も信用されない人間も入り乱れてくることになる。信用される人と、されない人が、良い人と悪い人に一致しているとは限らないことがよくわかるだろう。財前五郎は結局最後は医局の学生からも裏切られるが、学生からも『信用できない』とされたためである。
やがて疑心暗鬼となり、混然一体となった人間模様の中で、本当に誰を信用するべきだったか、ということが明らかになっていく。
信用は、最後まで穏便に、何事もなく穏やかに過ぎればそのままであることもある。現実的にはこういうパターンが多いのではないだろうか。
だから、ことなかれ主義に走るものも多いものだ。
信用は結局人の主観が与えるものなので、主観さえだましとおせればいいと考えるものが多いのは、やむを得ないかもしれない。
結論
信用できる国も信用できない国も、信用できないからといって、ワルの国とは限らない。しかし、年金は支払った分だけでも確実に返ってくるようにはならないであろうし、税金も、本当によい物事へ使われ、最終的に確実にいい結果となっているといえるだろうかというと、そうとは思えない。
したがって、今の国は信用ができるとは言えない。信用するかどうかは、私たち個人個人が決めていいのだ。信用というのは、私たちの気持ちの問題でもあるからである。
国が国民の信用を取り戻すには、最初に支払ってもらった以上のものを、返さなくてはならないのだ。ここに信用がかかっていると言えよう。
読者の皆さんも、自分の中の何かを託し、本当に最終的に自分が最初に託したものそれ以上のものが、自分に返ってきているのかを、しっかりと考えてみられてはいかがだろうか。
悲しいことに、金銭以外のものは、客観的に見積もれないところがある。
そこに付け入る隙があることも事実なのだ。だから、税金が信用を得ることは、今後ともないといっていいのかもしれない。支払う方は金であり、客観的に数値化できるが、戻ってくるものは数値化することができない事が多いからだ。
その間隙が税金運用の自由さでもあり、信用のなさでもあるだろう。したがって、誤魔化しが利くところでもあるが、そろそろやばくなってきたのではないだろうか。
