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狭量な存在とは?コミュニケーションを考えながら明らかにする「狭量な人」の真実

コミュニケーションに対する私の考え

コミュニケーションが大切だ!と言われて久しいですよね。そして、コミュニケーションについての本がたくさん出ています。でもね、コミュニケーションって一体何なんだろう?って、疑問に思ったことはありませんか?

コミュニケーションは、事実情報の共有を複数の人間間で行うプロセスです。

この事実情報の共有というところが極めて重要です。例え自分に恥ずかしいところがあったとしても、それが事実ならば伝えなければならないことがあるわけですね。

コミュニケーションを取りたがらない人

 簡単な例を言えば、例えば診療の際に、自分が知られたくない事実を隠していたがために、処置を受けて問題が発生した、というようなこと。これもコミュニケーションがうまくいっていない例ですよね。

 コミュニケーションは、自分を守りたいと思う防衛意識を持つ人とは、基本的にとることができません。

 例えば、ネプリーグで、原田泰造さんがクイズに正解したとします。それはたまたま正解した問題でした。そして、実際に知っているかどうかを詰問された時、「それくらいは自分で調べようよ~。」と言ってはぐらかしますよね。

 「それくらいは自分で調べよう」 この言葉の意味自体はわからないことなんてありません。うん。自分で調べる。そういえば済む話でもあります。

 で、泰三さんはこれを持ちネタとしてやっていますから、本当のところはわかりませんが、現実の社会でも、こういう手を使う人は良くいます。

 その知らない知識を原田泰造さんが答えることを聞かれているわけですから、原田泰造さんは、「自分にはわかりません。たまたま正解しただけなんです。」というべきで、これがいいコミュニケーションの例です。

 こうして、原田泰造さんは、その知識を知らないのだ。たまたま正解しただけなのだ、という確かな事実が、周囲の人たちとの間で、確かな情報として刻まれることになります。


それくらいいいじゃん? そう思う?

 それくらいいいじゃん・・・。そういう人も多いわけですね。病院で自分の服用している薬を隠していたり、人を騙して利得を不当に得ようとする、なんていうことならば問題かもしれませんが、泰三さんがその知識をもっているかどうかを隠していたとしても、大した社会的影響力はない、と言えばそれまでです。

 ただ、実際の社会で知ったかぶり、というのを行ってしまうと、その人はそれだけの知識があるひとなんだ・・・。ということが、共通の認識として刻み込まれてしまいます。

 これは、一言で言うと、嘘を周りが信じていることと何ら変わりはありません。私はこういうことを知っているんだよ!と積極的に、はっきりとした言葉で嘘をついたわけではない、というだけで、結果として、そうやって嘘をついたのと同じ結果が生まれています。
 
 ちょっと話はそれますが、人は不思議と、①「自分が嘘をつく」、という積極的な行動と、②「知ったかぶりをして、相手が自分にそれだけの知識があると信じた」、という消極的な方法とを分けてしまって、①は嘘つきだけど、②は嘘をついたわけではない、という話にしているところがあるように思っています。

 けど、事実ではないものを周りに信じさせてしまった、という点でいえば、どちらも嘘をついたことと変わりはありません。もしそれでもそうじゃない、違う、嘘をついていない!と言い張るのであれば、論点が違っていることに気づくべきでしょう。

 つまり、問題は、「周囲の人間が、事実を正確に把握していないこと」が問題なのであって、あなたが嘘をついたかつかなかったか、というところが問題なのではない、ということです。

コミュニケーションは、オン オア オフ

 コミュニケーションが下手な人は、能力の高い人にも多くいます。能力が高かったり、地位が高かったりすると、かえって、自分を高く評価してほしいと思う気持ちも強いことがあります。また、周囲は、自分をそれだけの能力があると思っているからこそ、その立場につけているのだから、自分の能力の低さが露見してしまうと、自分はこの立場にいられないかもしれない・・・。そう考える。そうすると、自分を高く見せようとします。しかしそれは、周囲が抱いている、自分の客観的な状態を見誤らせ、他者が自分自身の正確な像をキャッチできないようにする、ということが発生してしまうのです。

 こうした、周囲が事実を正確に認識しないことによって、問題が発生する場合もあれば、発生しない場合もありますけれども、もし問題の発生可能性を、0にしたいのであれば、周囲が事実を正確に把握する状態にしておく、ということが、何よりも重要なことなのだと考えます。

 「それでも0になることはないでしょ!?問題の発生は、コミュニケーションがうまくいかなかっただけが原因ではない!」と主張したくなることもあるかもしれません。しかし、問題の発生の原因が、コミュニケーションの不足にあった!ということだけはなくなるはずです。これだけでもかなり大きいはずです。

 事実が正確に共有されていることをオンとすると、正確に共有されていないことは、オフであります。コミュニケーションは、オンか、オフかなのです。

知ったかぶりはコミュニケーションを壊す元凶

 
 私は、過去の記事で知ったかぶりを非難する記事を書いたことがあります。どうしてかというと、知ったかぶりの人と話をすると、コミュニケーション自体がまともに機能しなくなるからです。

 どれだけ知識が豊富でも、どれだけキャリアがあっても、コミュニケーションをうまく取れない人がいるのです。

 そういう人は、自分の弱い部分を、表に出そうとしない人が多いように思っています。情報を一部隠しているのです。

プライバシーはどうする?

 これは論じる必要はありません。私が問題視しているのは、仕事とか、複数の人間が関与する場面でのコミュニケーションだからです。医療機関で自分の病歴などを知らせる場合、病歴はプライバシーの問題ですが、これを話しておかないと、医療機関も適切な処置をとることができません。

 コミュニケーションが大切であり、事実情報の共有が大切だからと言って、詮索好きの人が根掘り葉掘り聞こうとする可能性も0ではありませんが、それはもはやコミュニケーションの問題ではありません。ただ詮索好きで、厭らしい性格をしているだけです。

 コミュニケーションは、お互いの利益、あるいは公益のために確保するべきものなのであり、一方がただ事実を確認したいからと根ほり葉ほりきくものではありません。

 そういう意味では、関係のない事実を確認したがる気持ちを抑える能力も、コミュニケーション能力として重要であると言えますし、これは、人と人との距離感を図る上でも、重要な素養であると、私は考えています。

 私は実は、物事を理解したいという気持ちが強すぎて、相手の秘密を知りたいという気持ちからではなく、事実を確認したい、という気持ちから、少し人に質問をしすぎる悪癖を持っていたことがあります。一休さんに出てくる、どちてぼーやみたいな感じですね。聞こうとする人もそりゃいるにはいますが、私の場合ちょっとしつこい時もあったようです。その人にしかわからない情報だと、その人に聞くしかありません。しかし、その情報を公開するかどうかは、その人の自由なのです。


 さて、コミュニケーションがうまくいかないということは、どこかに問題があるわけです。

 ①言葉を伝え、理解する力が不足している。国語力の問題。

 ②事実を隠蔽したいと思う気持ちが強い人間との対話。

 ③事実と向き合いたくないと思う気持ちが強い人間との対話。

①はもう仕方が無いでしょう。勉強して、鍛え直してきてもらうしかありません。

そして、先に③から行きましょう。私は過去、宗教についての記事を書いた時、「宗教を信じる人は、何かを信じる力が強いから、それだけのものを信じているのではなくて、自分が認めたくない事実を、認めたくないがために、そのものごとを強く信じているのだ」と語ったことがあります。

 で、実際に体験した人は、良く分かると思うのですが、そういう狂信者(金正恩を崇めている北朝鮮の人たち等)のような人とは、まずまともに会話が成立しないことが、わかっていただけるでしょう。このコミュニケーションが不一致、成り立たない、ということからも、家庭が崩壊する前兆となることが、容易に見て取れますよね。そもそも事実と向きあう力自体がないのですから、コミュニケーションなんて、絶対に取れないのです。

 そして、事実と向き合えない力というのは、精神病を誘発することもあります。精神病の人とも、会話がまともに成立しません。

 では、②に行きましょう。

 これも、あまり語らなくっても、わかると思います。
事実を隠ぺいするためには、嘘をつく必要があります。嘘は事実ではありません。

 政治家の人たちがよくやっていることです。事実の隠蔽。だから、彼らとはコミュニケーションが取れないのです。そのくせ、事実を隠している人には、ちゃんと全部正直いいなさい!といってくるでしょうね(笑)。与党になる前の野党って感じ。

 結局、どんなにいいものでも、使い手次第ということです。

機械型コミュニケーションと人間型コミュニケーション

機械型コミュニケーション

 これは、どのようなコミュニケーションかをお伝えします。

 インターネットは、まぁ、機械ですよね。で、機械と機械が行うデータとデータのやり取りも、データという事実と、データという事実を渡し合うわけですから、コミュニケーションの一種です。
 
 で、このデータなのですが、私達がインターネットを使うとき、パケットというものを送信するんですけれども、この中にデータを包んで運んでいます。

 このパケットの中身は、決まった順序で構成されています。この順番がくるってしまうと、機械は、それを受け取ることができないので、通信を拒絶してしまいます。

 つまり、機械は、送られてくる情報がルール通りになっていないと、その情報を一切受け取らず、拒絶するのです。

 このコミュニケーションが素晴らしいと思ったかどうかは知りませんが、この手のコミュニケーションをとる人間が増えてきています。尊大・傲慢・権威型の人間に多いように思います。

 昔は2ちゃんねるや5ちゃんねるで、日本語でOk.という言葉が流行ったりしましたが、日本人でも日本語を正確に使うのは難しく、自分の頭の中の思いだけを自分だけにわかるように文字列に書き起こして、投稿する人も多くいました。だから、何言っているのかよくわからない、という人を上からなじる、揶揄うような文句として、よく使われたものでした。

 そして、マウントを取る人たちは、こうした、相手に言葉をうまく伝えられない人、自分だけがわかっているような言葉を書いてしまう人に寄り添うのではなく、馬鹿にしたり、批判を浴びせたりして、相手が怒ったりするところを見ては、楽しんでいる人もいれば、野次馬となったり、弱い立場の人間だと見なし、次々に相手を追い込んでいく投稿をする、と言ったことも行われていたように思います。

 そのことにより、反射的に、自分の方が優れており、自分のほうがコミュニケーション能力を持っており、まぁ、具体的にどのように感じているかはわかりませんが、悦に浸る人間も多くいたように思います。

 機械型コミュニケーションの人たちは、とても狭量で、相手が自分の要求するルールを満たすような言葉を持ってこない限りは、その言葉を一切受け取らず、相手にもせず、しかもそこに乗っかって、マウントを取り、相手を馬鹿にし、虚仮にして笑っておちょくる、といったタイプの人間もいました。機械はそんなことまではしてきませんから、機械型というよりも、神様型コミュニケーションをとるタイプと言ってもいいかもしれません。

人間型コミュニケーション

 一方で、人間型コミュニケーションをとる人もいます。これはとても暖かい、情味のある人格の持ち主がとるコミュニケーションです。相手の言っていることが、ぱっと見(きき)、わからなかったとしても、辛抱強く、相手の意図をくみ取ってあげようとするのです。機械は、ルール通り話を組み立てていなければ、即拒絶です。ですが、人間型コミュニケーションをとる人は、相手が何を伝えようとしているのかを考え、その人が伝えようとしている事実を拾い上げ、自分の言葉に変換し、相手に伝え、相手も伝わったことを喜ぶ、そういう関係を持つことができます。

 そういう意味で、人の弱さをしり、相手の立場を理解し、自分が優位な立場に立っているにもかかわらず、相手と同じ土俵に降り、相手の立場に立って考え、相手の意図をくみ取ろうとする。そういうタイプのコミュニケーターです。

 機械型、神様型のコミュニケーターたちは、相手に完全性を求めます。一方、人間・温情型コミュニケーターたちは、相手を馬鹿にしたり、拒絶するよりも、相手が何を言おうとしているのか、という意図をくみ取ることに注意を傾けます。

 なぜならば、彼らは、その相手が伝えようとしている事実の共有を目指しているからです。これに対して、機械型・神様型は、伝達手段の不備をなじるばかりで、手段が目的化してしまっているということに気が付いていません。確かに、より正確に、的確に、先鋭された手段となればなるほどいいに決まっていますが、それを行うならば、拒絶して相手が何も言えなくなったらもうおしまい、はい、相手が悪かった。という結果に落とし込んでいる件が非常に多くみられるのです。これでは、目的が全く達成できていません。また、相手のそのような尊大なやり取りにより、余計に言葉が伝えにくくなり、そんな人とは、そもそもコミュニケーションを取ろうとすらしなくなってしまうのです

 私は、人間型コミュニケーターが、真のコミュニケーション能力の持ち主だと考えています。

 聖人とは、「耳と口の王」と書きます。よく人の話を聞き、理解し、よく人に伝える。これの王様です。すなわち、コミュニケーションの王様です。
 
 聖人としては、イエス・キリストや、釈迦なんていうのが有名ですね。特に釈迦は、手塚治虫の漫画「ブッダ」を読むと分かるように、自分の眼の前の動物と同じ一生を送るというすご技をやってのけるわけです。

 これはどういうことかというと、相手の立場に立つどころか、「相手と全く同じ人生を送る」、ということになるわけです。「コミュニケーションの完全版」です。もう非の打ちどころがありません。

 なぜ釈迦が聖人と称されるのか、それは、これだけを見ても確かなことです。

 私が他にも聖人だと思う人は、宮沢賢治です。雨にも負けず、風にも負けず、という詞では、「よく聞き、わかり・・・」というフレーズが出てきますよね。

 私は、機械型コミュニケーションや、神様型コミュニケーションをとる人を、良く見かけます。彼らは、とても賢そうだし、何でもわかってそうに見えます。そして、コミュニケーションを断絶された相手が悪いかのようにも見えます。

 しかし、その実は、本当はコミュニケーションをとること自体に、どこか怯えています。相手と同じ立場に立つのが嫌だ。自分は、上の立場に立っていたい。自分は相手よりも賢く、相手よりも優れていると感じていたい。そういう、承認欲求の肥大化した精神の持ち主や、自分の防衛本能が、とても強い人間に多いように思います。

 ま、行政機関が手続きを多重化するのに似ています。向こうはこちらがすぐにでも応じないと処分するのに、あっちは手続きを取るのに何重にも手続きを用意し、何年たっても答えが返ってきません。今の裏金問題を見てもそうですね。コミュニケーションが全く取れていません。

 コミュニケーションは、事実の共有を目的とするのであります。こうしたコミュニケーションを取ろうとする人たちは、コミュニケーターではなく、コミュニケーション能力ということさえをも、自分自身の権威付け、マウント取りに悪用しているような、悪質な存在だと私は考えています。相手の弱みを握ろうとすることが目的だったりします。そして彼らは、的確なルールにのっとって、自分達のところに言葉を伝達してこない相手こそが悪いのだ、と言わんばかりの尊大さを持っています。

 彼らの意見は、ぱっと見とても的を得ているように思えるので、弱い立場の人間や、不十分なコミュニケーションをとることしかできない人たちからすると、なかなか言い返すことができません。そして、意見を言いたいと思っている人たちは、自分達の言いたいことを引っ込めて、すごすごとしぼんでいくばかりです。

 そして、そうしてとぼとぼと立ち去って行った人たちを見ても、その人達が言いたかったことを受け止めないまま、帰ったからもうほっとこう・・・という態度です。全然コミュニケーションが取れていない、ということに気が付くでしょう。事実の共有以前に、関係のないところでもめて、関係のないところで時間を喰って、関係のないところがうまくいかなかったせいで、ただ時間と労力を無駄につかっただけだった、というオチになるのです。

 狭量な存在というのは、このように、相手の意図を全然くみ取らない人間を言うのではないかと私は考えています。

 

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