人の本質を測るための物差しについて

皆さんは目標をお持ちですか?

目標というのは、私たちから見て、いいものだと思うものもあれば、悪いと思うものもあります。

話は宗教的なんですが、お金目的とか、女目的とか、宗教的によくないとされることを目的として近づいてくる人がいますね。

例えば女からすれば、自分の体目的で近づいてくる男とか。
例えば客からすれば、自分の金目的で近づいてくるセールスマンとか。

上辺ではいいことを言っていても、裏では別のことを考えているなんていうことは、しょっちゅうありますでしょう。

体目的かどうかはともかくとして、自分の好きな女性の愛がほしい。心を自分の物にしたいと考える男性は多いでしょう。それが目的となった時、それを得られないとわかったら、激しく切れるか、もしくは激しく落ち込むか、ということは、よくある話ですよね。今でもしょっちゅう起きています。

ハンターハンターのゴンは、物語の冒頭で自分の親から聞いた言葉を言います。うろ覚えなので1字1句正確というわけではないのですが、

その人を知るには、その人が何に対して怒るのかで判断しろ。

ということです。

これは、名言です。怒りは、その人の心の中の、本当の目的、その人が持つ独自ルールに違反しているかどうかで発生するからです。私達はみんな、自分達の中に自分ルールを持っています。それはある程度は周囲の人たちと共通しているもの(いわゆる常識というもの)で、ある程度は自分だけの特殊なルールです。その特殊なルールが周囲の人たちが持つルールとかけ離れている場合、変人と評価される領域に入って行きます。それが周りの人たちを納得させるくらい合理的なルールである場合は、評価がよくなったり、それが周りの人たちにとって理解不可能な状態である場合は、頭のおかしい人、といった評価を受けます。そして、それが自分の欲望に基づいたルールである場合、わがままとか、強欲とか、そういった評価が下されることになります。

漫画の主人公は、独自ルールの強いキャラクターが主人公になることが多いです。個性的なキャラクターにするには、マイルールを持たせると、個性を表現しやすくなります。それが、他の人達をすごいとうならせるようなルールである場合、その主人公の好感度に直結することになるでしょう。

例えば、こういう例を出してみましょう。正規社員と非正規社員の格差のお話です。ある時、こういうことが話題になりました。非正規社員が、頑張って仕事をしているのです。ご存じの通り、非正規社員と、正規社員の仕事の内容は変わりません。同じ仕事です。頑張って仕事をして、正規社員以上に仕事をするくらい、その人はやる気がありました。

ところが、正規社員から、怒られてしまいました。

理由はこれです。

「そんなにがんばったら、自分達まで頑張らなければならなくなる。やりすぎだ。やめろ。」

ということです。

これだけを聞くと、なんて人たちだ!と思うかもしれませんが、そこは複雑な社会の事情があります。一人だけがやたらと頑張りすぎると、却って全体のチームワークが悪くなる、ということだってあるくらいです。しかも、下の立場の人間が頑張ると、上の立場の人たちのメンツにも関わってきます。そして、彼らの立場に立った人たちだったらわかるかもしれませんが、案外この人たちの感覚が、常識的なルールなのです。こういう立場に立つ人たちは、国民全体でみると、割と少数なので、少ないと思われるかもしれませんが、もしその立場に立っていない人たちが同じ立場に立つに至ったと仮定すると、きっと皆同じように感じてしまう、そう思います。証拠はありませんけど。

実は、私たちは、自分達の心の中に、とんでもなく身勝手なルールを持っています。それはこういうことです。

自分は何もしないで生きていきたい。でも、自分を追い抜くのはやめてほしい。

皆さんは、勉強をしなければならない時代に生きています。でも、その一方で、勉強が嫌いだと言う人は多くいます。特に学校の勉強は嫌だった、という人も多かったと思うんですよね。でも、一人だけ勉強をめちゃくちゃ頑張っている奴がいると、周りはどう思うでしょう。実際は、それをやめてほしいと思うのが、周りの心理だったりします。自分は、勉強のことを気にせず、もっと楽しみたいのに、あいつが頑張るせいで、自分も追い抜かれたくないという気持ちが刺激される。そのために、自分は、自分の時間を勉強に割かなければ気が済まなくなる。ああ、厄介な奴がいる。という感じです。

そうすると、自分が頑張るよりは、逆にその人を潰す方に力を使いたくなる。自分が努力するよりは、他人を破壊することの方が圧倒的に楽だからです。その人の勉強を制限したくなる、そういう心理が働いて、時には怒りへとつながることがあります。つまり、攻撃的欲求ですね。

勉強をどれだけするかは、個人の自由なのでしょう。しかし、それを許さない人たちも出てくるわけです。筋が通らないのは、勉強を止めてくる人たちなのですが、気持ちが理解できるのは、どちらかというと、勉強を止めたがる人達の心理だと思います。

こういうのは、村社会の世間体の心理と直結しています。世間体というのは、私は当初、周囲の目を気にする心理、くらいにしか考えていませんでした。でも、これはどうやら、周りと歩調を合わせなければならないと考える心理、なのではないか、と考えるに至りました。周りと歩調を合わせない人は、村社会では嫌われる。そうして村は秩序を保っている、と言った感じになるわけです。

例えば、日本人のサッカーも、似たような特徴があったように思います。昔、日本代表の試合を見ていたのですが、なぜか引き分けで終わる試合が多かったように思います。今でこそ、ガンガン点を取りに行くスタイルですが、昔はやっぱり違っていたように思います。私も学校の授業でサッカーをしましたが、周りに遠慮して、スポーツをしていたように思います。

それは、自分が点を取ると、周りの人たちと、歩調を合わせなかったことになる、という感覚です。敵チームに遠慮しているというよりは、自分が一人だけ目立ってはいけない、という、そういう感覚です。少年漫画では、サッカーものが多くありましたが、点を取る勇気 といった、恐らく海外の人には理解できない気持ちをテーマにした話も展開されます。

サッカーが強いチームは、自己中の選手が多いようです。自分が全く点を決めずにチームが勝つくらいなら、自分がハットトリックを決めて負けたほうがいい、というくらい。

日本人社会では、そういう精神こそ、異端でしたよね。

ちょっと話が変わりますが、例えば、戦国七雄の時代、『キングダム』を読むと、趙の悼襄王は、めちゃくちゃな暗君として描かれています。快楽に溺れた存在でした。公子嘉の箴言に対しても、耳を引きちぎる等の対応を行っています。

この王様は、何もしていません。ただ、快楽を感じているだけでした。でも、この精神がとてつもなく強いことがわかります。再度上げますが、

自分は何もしないで生きていきたい。でも、自分を追い抜くのはやめてほしい。

公子嘉の箴言は、趙国の先を思うがための箴言だったわけですが、これを聞き入れると、自分よりも嘉の言うことの方が正しいかのようになるわけですね。典型的な駄目な君主は、周りにYesマンをつけることが多いわけです。この役割をしているのが郭開というYesマンでした。悼襄王は根っこからの暗君ではなく、彼を暗君にしてしまった側近としても描かれているようです。自分に都合の悪い情報は、王に伝えないようにしていましたね。

でも、何でYesマンをつけたがるのか、というと、やっぱり自分自身を持ち上げてほしい。自分よりも目立ってほしくない。自分を否定してほしくない。と言った気持ちが背景にあるからですね。

で、ハンターハンターの話に戻るわけですが、ハンターのトップだったおじいさんがいるじゃないですか。私、お名前忘れましたけど、虫の王と戦って死んだ人。あの人はすごいとうならせる一言は、確かこういう一言です。

「Yesマンが周りにいても、面白くない」とか、確かそういう言葉だったと思います。正確ではないですが、同じ意味です。
そうそう、調べましたが、ネテロ会長


ハンターハンター Yesマン で検索結果 画像タグ

超かっこいいですね!そして、この言葉がすごいのは、自分もそういう精神を持った一人の人間なのだけれども、そのことを認め、受け入れて、なおかつ世界のためにあえてYesマンではない人間をつける、と言った、その人の経験の豊かさ、自己洞察の深さ、客観的に自分を見定める目線、器の大きさといった、その人となり、奥ゆかしさを感じられるところだと思います。ハンターハンターがすごいと思えるところは、キャラの個性に対し、とてつもなく深い人間の心理、洞察が見られるところです。しかもそれを表に出さないところから、読む人がどれほどその人物を評価できるのか、深さが分かれるところだと思います。正直、「販売部数」や「売り上げ」だけでは作品の評価はできないことがよくわかりますね。

星の王子様の記事でも言っているのですが、当てはめてみます。
大人は数字が大好き。とサンテグジュペリは語ります。じゃあ、彼の考え通りに、人にその作品のすばらしさを語ると、こうなります。

その漫画は、1億部を超える売り上げがあるんだよ!

と言えば、大人たちは、「なんて素晴らしい漫画なんだろう!」という、と彼は語ります。

でも、「その漫画のキャラクターは、こういうセリフを言ってて、そこにはその登場人物のどういう思想があり、哲学があり、うんたらかんたら、といった話をすると、彼らは途端につまらない顔をし始める」、といった感じですね。

で、私はもう一つ主張したいことがあります。

その人の真の目的を測るには、その人が何をもって「絶望感を感じたか」ということです。

人は私益を求めるために公益を主張する。

ということがあります。私はしばしば、公益を主張するような記事を書いていますが、私の腹の中にも、結局は自分のためにやっている何か、が常にあるのではないでしょうか。例えば、ノートでいえば、お金とか。あるいは、自分自身の名声とか。

そう、世の中が荒れていると、人が汚い、悪いと、私はそれを指摘し、攻撃的主張、批判をすることで、周りから高い評価を得られるかもしれません。しかし、それは、世の中が荒れてくれているおかげなのです。

こうしたとき、私は、こう感じます。

私は、とてつもない悪人である。と。

世の中がすさんでいる。人が汚い、悪い。だからこそ、自分は輝くことができる。自分とはなんとダメな人間なのだろうと。

そして、それを嬉々として行っているとします。あれが悪い!こうしなければならない。これが駄目だ!こうして批判と自己主張を繰り返します。

そこで、世界がなぜか突然よくなり始めました。とてつもなく急速に皆が自分の考えを改め、物事をよくする方向に動き始めました。どんどん素晴らしい行動を行い、節制と質素倹約に努め、お互いが助け合い、我欲を捨て、素晴らしい人間たちになって行きました。

そうして、批判をするところが全くと言っていいほどなくなってしまいました。

そしたら・・・。私はとてもつまらない気持ちになりました。なんだか、とても残念な気持ちになりました。自分の言うことが一つも見つからなくなってしまったのです。私はこの世界に対して、不快感を覚えました。そうすると、私は今度は逆に、この世界をめちゃくちゃにしてやろうと考えました。

変なお話です。この世界がとてつもなく良い状態であることに、却って絶望を感じるのです。ということは、私は世の中はもっと良くなれ!と表向きは言っているのにもかかわらず、実は自分が世の中の悪い部分を指摘することで、悦に浸っていたかっただけだった、という真の目的があることに気が付くのです。とても小さな器です。

そして、つまらなくなり、少し拗ねたような感じにもなり、何もすることが無くなり、結果、単に暇な奴だった、ということになりかねません。

皮肉な話ですが、こういう人間は、世の中がよくなってしまったら、要らないどころか、却って害悪の原因ともなるのです。

フィギュアスケートの世界に、グレイシー・ゴールドというアメリカの選手がいました。彼女は国際大会で優勝するなど、そうした成績を上げて、アメリカの中ではトップの選手でしたが、残念ながら、世界で1位になる、といったことはできませんでした。

彼女の本当の目的はわかりませんが、彼女は、やがて精神的に不安定な状態となり、とても太ってしまいました。外観はとても美しい少女です。おそらく、多くの女性からも、あこがれるくらいの人です。そんなにいいところを持っている彼女なのに、何をそんなに絶望することがあるでしょうか?

彼女は、自分が、オリンピックで金メダルを取りたかった、世界で1位になりたかった。フィギュアスケートの世界で、アメリカの女王の座につきたかった。アメリカ女子フィギュアスケート界に、再び女王を生み出したい。それが、アメリカのため!とか、やや俗っぽい表現になってしまいますが、そういう気持ちがあったかもしれません。私も、本当のところはわかりません。しかし、彼女の心の中で、それは無理なのだ、と言った諦観が襲ってしまいます。

その人が、本当に目標としていたことがかなわなくなった時、その人には、精神的な激しいショックが訪れます。これを洗礼と言います。

今の宗教の世界では、洗礼というと、洗礼名を授かり、何やら形式的な儀式を行うことになっているようですが、洗礼とは、本来そういう意味ではありません。日本でも、プロの洗礼を受けた!という表現があるように、洗礼とは、精神的にとてつもなくきつい体験なのです。

グレイシー・ゴールド選手も、とてつもない洗礼を受けてしまったのです。
そこからなお立ち上がり進んでいくことが、一つの人間の強さでもあるのですが、逆に言えば、グレイシー・ゴールド選手の目標は、それだけ純粋に、その部分にあったと評価することができます。

私の先ほどのどす黒い欲望エピソード(仮の話ですよ!えへへ.
)では、世の中が完全によくなってしまったことに、激しい絶望感を感じてしまう、ということでした。そこで、あ~あ、詰まんねぇな~ッと思い、暗い気持ちになってしまいます。そこで、私自身が、本当は何を目標としていたのかがわかるのです。

このように、表面上は立派に見えても、人の本当の目的というのは、その人が何によって、つまらなさを感じ、精神的に暗い気持ちになってしまうのか、というところを見て、初めて明らかになるところであります。

ルパンを逮捕したいという目標がある銭形は、実はルパンが大好きだった、ということもあるんですよね。ルパンが死んだと思った銭形は、号泣してしまうシーンがあります。これは、ほほえましくもありますね。

この場合は、もちろん、嬉しさによってもわかるところであります。私が本当に世の中がよくなってほしいと考えていたのであれば、世の中がよくなった途端、私の心は晴れやかに澄み渡り、笑顔がこぼれ、幸福度がマックスになり、うきうきとして、いてもたってもいられなくなるでしょう。

人の本心は、自分でも気が付かないことが多いし、自分の本質を捉えるということは、とても苦痛を伴うものだと思います。そして、私のエピソードと同じような、似非目的人間のかっこつけマンがこの世界に多くいるため、却って社会は不安定なままになっているのかもしれないと、そう考えるわけです。


















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