「冷笑認定」という「冷笑」
人は誰しも、生きていく上で何かにモヤモヤしたり、違和感を抱いたり、苦しくなったりすることがあるだろう。そんなときに、それを言葉にして吐き出すという行為もまた、ごく自然なことではないだろうか。あるいは、社会に対して何らかの生きづらさや問題意識を抱き、それを言語化しようとする行為も同じことであると思う。当noteも同じである。
このnoteというプラットフォームをはじめとして、多くのブログやSNS、あるいはネット以外のさまざまなメディアや現実世界においても、それは人間のごく自然な営みとして行われていることだろう。そして、その言及の正確性や論理性がどうであれ、違和感を抱いてしまった感情そのものや、問題意識の存在自体は決して否定されるべきものではないと思う。
しかし、それに対して「なぜそんなにピリピリしているのか」「ナヨナヨしすぎ」「何と戦っているの」「グチグチ言わず、嫌ならそこから離れればいいだけなのに」「アンチがわざわざ燃やしている」「騒がなくていい問題を作り出して勝手に騒いでいる」などとラベリングされるケースも少なくない。このような反応は、相手を視野狭窄であるかのように決めつけ、自らを冷静で俯瞰的な立場に置くことで真剣な議論を無効化してしまう、ある種「ズルい」反応である。昨今流行している言い方を用いるならば、それは「スカす」「冷笑」という行為だといえるだろう。
ただ、このとき「スカしている側」から「問題提起を行った側」に対して、あろうことか「自分たちに冷や水を浴びせてくる向こう側こそが “冷笑者” である」とレッテルを貼ってしまうことすらあるという点に、さらなる違和感を抱いてしまう。
「冷笑」しているのは一体、どちらの側なのだろうか。
もちろん、中には本当に悪意だけを動機として、快楽的に誰かを攻撃したいだけの人もいるだろう。しかし、そうではないケースも多いはずだ。何かがおかしいように思えるから、問題があるように感じるから、それについて真剣に考えている人がいる。それなのに、何事もなく平和に過ごせている側にとってはそれが「平和への攻撃」のように見えてしまうのか、ある種「被害者の声」として問題提起している側がいつの間にか「加害者」に認定されてしまう。だが本当は、問題を抱えている者の声を嘲笑し、不可視化して片付けてしまっている側こそが “冷笑者” なのではないのか。
この構造は、思えば日常のいたるところに潜んでいる。たとえば、勉強や仕事に追われ、睡眠時間が削られてしまったり疲弊してしまったりしているとき、それを素直に「眠れていない」「疲れている」と口にすることぐらい誰だってあるだろう。だがそれに対して「忙しいアピールは無能の証拠だ」「寝ていない自慢は逆効果だ」というアドバイスの言葉が、さも「ビジネス的金言」「自己啓発的名言」「心に響く深い言葉」のように説かれているのをよく目にする。
だが、少なくとも筆者は、自身の疲れや睡眠不足をそのまま口にしてしまうとき、それは決して有能に見せたいからなどではなく、極端に言えば逆に「無能でごめんなさい」というように、本当に追い詰められて助けや休息を求めて漏れ出てしまった弱音であることが多いし、おそらく多くの人も同じではないだろうか。
しかし、環境に恵まれ、のうのうと多くの仕事をこなせる「有能な強者」たちは、他人の切実な弱音を「自慢だ」と穿った解釈をして「逆効果ですよ」と助言してくる。だが、親切ぶって善意の顔をしてお説教されたところで、「ブラックな状況でもそれをただただ受け入れてポジティブでいろ」と強制されているようにしか聴こえず、それはもはや一種のハラスメントに近い。余裕のある側が、余裕のない側の声を勝手に「演出」として扱ってしまう、弱者への冷淡な見下しにほかならない。
あるいは、「弱音」で無くとも、真面目に何かを考えて口にしただけで、「重い」「怖い」「面白くない」と思われてしまいがちだ。一般社会では、「(funnyな)楽しさ」への過剰な信仰があるように思う。ポジティブであることや好きなものを享楽的に応援することが強く推奨され、何かを真剣に考える人よりも、軽薄に消費する人のほうが好まれる。シリアスであること自体がどこか後ろ向きなものとして扱われる。結果、熱く真面目に考えているだけなのに「冷笑者」として扱われてしまう。この点に納得がいかない。
真剣な問いの中にも「(interestingな)面白さ」があるはずだ。それが「ポジティブでいこうよ」という圧力によって、つぶされてしまう。みんなで楽しく盛り上がることが善とされる空気の中で、真面目な検討や批判的な視点は歓迎されない。
弱音はアピールと見なされ、問題提起は攻撃と見なされ、真剣さはつまらなさと見なされる。余裕のある者、楽しくやれている者が、そうでない者の言葉をつねに誤読する。その誤読のまま「善意の名言」あるいは「平和を守る正義」として、お節介な説教を押し付けてくる。
だが、「ハッピーなところを冷笑してくるな」とハシゴを外すこと自体が、逆に冷笑行為なのではないか。他者の真剣さを切り捨てたうえでしか成立しない「(funnyな)面白さ」は、それ自体が暴力性を帯びているように感じる。
もちろん、人間誰しも、常に道徳的で理性的な感情を持っているわけではないから、真剣な問題提起に対して、拒絶反応が起こることもまた、ごく自然な感情だと理解はできる。筆者自身、noteやSNSでパーソナルな面を出しすぎると「ナヨナヨしすぎ」「愚痴多すぎ」と言われてしまうことがあるが、それもある程度は仕方ないことなのかもしれない。
どんなに綺麗事を言ってみたところで、ブサイクよりイケメンや美女のほうが好かれるのと同じように、弱い人より強い人、ネガティブよりポジティブな人、いじめられっ子よりいじめっ子のほうが格好良く見られがちだし、好まれるのは自然の摂理として当然なのかもしれない。残酷だが、人間社会にはそうした価値判断が確かに存在している。
それでも建前上は、仮に人間の本音としてそのような残酷な価値判断があったとしても、それをそのまま正義として扱って良いことにはならないはずだ。たとえば「おっぱいが大きい方が良い」「容姿が良い人のほうが価値が高い」という判断は、自然の摂理としていくら抗えないものだとしても、それを公の場で当然の価値基準として正当化して振り回すことは倫理的に最低限控えるべきだ、という社会的な共通認識はあるだろう。
ところが、「弱音」「SOS」に対しては、あろうことか「ネガティブで良くないもの」と堂々と認定され、「もっと前向きになれ」と正当に批判されることのほうが多い。あたかも、そのほうが倫理的に当然の社会基準であるかのように。これは明らかにおかしくないだろうか。
「どうしてもおっぱいが大きい方が好き」という意見と同じように、ある種不条理さを認めながら「どうしてもネガティブよりポジティブのほうが聞き心地はよい」と謙虚に表明する程度であれば大いに納得できるが、「ネガティブは害悪であり、愚痴は良くないことだ」という価値判断がしばしば倫理的正当性すら持たれがちな風潮には大きな違和感がある。これでは「貧乳は根本的に人間としての価値が低い」などという暴論を断言しているのと変わらないのではないか。
そして近年、この問題はさらに複雑になっているように思う。昨今は精神疾患への理解も以前より確実に高まり、確かに偏見もまだまだ根強いものの、診断された人に対しては社会的に理解していく努力が推奨される空気になりつつある。ただ、そのように精神疾患への理解を説明する場合においては「精神疾患は心の弱さではなく脳の病気である」という言い方がよく用いられることについて、ある種の逆説も感じてしまう。
もちろん、これは偏見と闘うための重要な説明であることに間違いはないだろうが、その一方でその言葉は裏を返せば、「脳の病気だから許されるのであって、心が弱いだけなら許されない」という価値観が温存されてしまってはいないか。ここで「心が弱いことは悪」という価値観が再生産されてしまう。その結果、「病気なら仕方ないから配慮する」「(まだ)病気ではないなら、弱音は慎むべき」という妙な線引きが生まれてしまい、弱音や愚痴への風当たりはむしろ強まってはいないだろうか。
病気になった瞬間から配慮の対象になる、しかし病気になる前の段階で発せられるSOSには厳しい。それはどこか倒錯しているように思える。
本来であれば、病気になる前に助けるべきではないのか。限界を迎える前に支えるべきではないのか。にもかかわらず「病気なら心の問題ではなく脳の問題だから仕方ない」という発想が強まるほど、「脳の問題ではなく心の問題ならば怠惰だ」という観念は逆説的に強まってしまい、病気の手前にある弱音や苦しさが正当性を失ってしまわないか。
こうして「弱音を吐く人は悪い」「ネガティブな人は迷惑だ」という価値観は依然として正当化され、結局「強い人だけが歓迎される社会」を肯定していることになってしまう。弱音への風当たりが強まり、人々はますます弱音を吐きづらくなる。「これくらいならば弱音を吐くな」「 “まだ” 病気じゃないだろう」「甘えるな」そんな空気の中で、人は限界ぎりぎりまで耐えようとする。いや、限界を超えてからでないと助けを求められない。そうして本当に壊れてしまったときになって初めて、「もっと早く相談してくれればよかったのに」と言われる。だが、相談できない空気を作っていたのは誰なのだろう。
弱音は、病気になった人だけに許される特権ではない。診断書によって初めて正当化されるものでもない。人が苦しいと感じたときに発する、ごく自然なシグナルだ。問題提起する人や弱音を吐く人が冷笑されるべきではないし、ましてはそれを逆に「冷笑者」扱いされるなんてもってのほかである。
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