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効率化を極めた先に待っていた、意外な『虚無感』の正体

やることが早く終わったのに、なぜか気持ちだけが置いていかれる日がありました。

こんにちは、じゅんです。

AIを使うようになってから、調べる、整理する、書く、比べるといった作業はかなり速くなりました。以前なら半日かかっていたことが、今では数十分で形になることもあります。

便利になったのは間違いありません。

それでも最近、ふと手が止まる瞬間がありました。効率化を重ねた先に、達成感ではなく薄い虚無感が残ることがあったからです。

この記事では、効率を追いかける中で見えてきた副作用について、私自身の体験をもとに整理してみます。


効率化は、最初は間違いなく味方だった

AIを使い始めた頃、いちばん強く感じたのは「時間が戻ってきた」という感覚でした。

文章のたたき台を作る。情報を整理する。複数の案を比較する。言葉にしきれない違和感を、対話しながらほどいていく。

それまで頭の中で何度も往復していた作業が、目に見える形で進みました。特に、書く前の整理や、考えを並べ替える作業では、AIはかなり頼れる相棒でした。

「これはすごい」と素直に思いました。

今まで自分ひとりで抱えていた作業の一部を外に出せる。しかも、疲れている日でも一定の速度で返してくれる。その安心感は大きかったです。

たとえばnoteを書くときも、タイトル案を出す、構成を比べる、導入を磨く、ハッシュタグを考える。こうした細かな作業が短時間で進むようになりました。

以前なら、ひとつの記事に何度も迷っていました。書き始めるまでに時間がかかり、途中で手が止まり、最後の推敲でまた悩む。

その負荷が軽くなったことは、間違いなくありがたい変化でした。

ただ、効率化が進むほど、別の感覚も生まれてきました。

早くできるようになった分、次の作業にすぐ移れる。空いた時間に休めばいいはずなのに、なぜかまた別のタスクを入れてしまう。

結果として、時間は短縮されたのに、心はあまり休まっていませんでした。

速く終わるほど、味わう時間が消えていった

最初に違和感を覚えたのは、記事を書き終えた後でした。

以前は、書き終わるまでに時間がかかっていました。その分、完成したときには小さな疲労と一緒に、少しだけ満足感がありました。

「今日はここまで書けた」
「この表現は自分らしい」
「まだ粗いけれど、少し前に進んだ」

そんな手触りが残っていました。

ところが、AIを使って効率よく仕上げられるようになると、完成までの時間は短くなりました。構成も整い、文章の流れも滑らかになり、見た目には以前より良いものができているように感じます。

でも、投稿ボタンを押した後に、ぽつんとした感覚が残ることがありました。

達成したはずなのに、あまり残っていない。

この感覚は、単に疲れているからではありませんでした。むしろ、作業としては楽になっている。時間も短くなっている。それなのに、心の中に積み上がるものが少ない。

考えてみると、効率化によって削られていたのは、作業時間だけではありませんでした。

迷う時間。
選び直す時間。
自分の言葉を探す時間。
いったん寝かせて、翌日に読み返す時間。

一見すると無駄に見える時間の中に、自分の納得感が育っていたのだと思います。

AIが整えてくれると、迷いは減ります。候補もすぐ出ます。文章もきれいになります。

ただ、自分の中で言葉が熟す前に形になってしまうと、「できた」という事実だけが先に来ます。そこに、自分がたどり着いた感覚が追いつかないことがありました。

虚無感の正体は、空いた時間をまた埋めていたこと

効率化の目的は、本来なら余白をつくることだったはずです。

家族との時間を増やす。
体を休める。
散歩する。
何も考えない時間を持つ。
気になっていた本を読む。

そういう時間を取り戻したくて、AIを使い始めた面もありました。

でも実際には、空いた時間に次の作業を入れていました。記事が早く書けたら、次のタイトルを考える。調査が早く終わったら、別のテーマを深掘りする。資料が整ったら、さらに改善案を求める。

効率化で生まれた余白を、私はまた効率よく埋めていました。

ここに、虚無感の一因があったように思います。

やることは増えている。成果物も増えている。けれど、心が受け取る時間がない。終わったことを味わう前に、すぐ次へ進んでしまう。

これでは、どれだけ作業が速くなっても満たされにくいはずです。

しかもAIは、とても親切です。こちらが求めれば、次の案も、改善点も、別パターンも出してくれます。止めどきは、AIではなく自分が決める必要があります。

ここが難しいところでした。

効率化は、作業を軽くしてくれます。一方で、止まる理由までは与えてくれません。むしろ、やろうと思えばまだできる状態をつくります。

「もう少し良くできる」
「あと1案だけ見てみよう」
「せっかく早く終わったから、次も進めよう」

そうやって、自分で自分を追い込んでいたのかもしれません。

効率の先に必要だったのは、終わり方を決めること

最近は、効率化そのものよりも「終わり方」を意識するようになりました。

作業を早く終えることだけを目標にすると、終わった後の時間までタスク化してしまいます。だから、AIを使う前に、どこで終えるかを先に決める。

たとえば、記事を書くなら「今日は導入と見出しまで」と決める。タイトル案なら「10個出して、3個に絞ったら終わり」と区切る。推敲なら「読みやすさだけ確認して、表現の細部は追いすぎない」と決めておく。

この線引きがあるだけで、AIとの向き合い方はかなり変わりました。

AIは、どこまでも付き合ってくれます。だからこそ、こちらが終点を置く。終点があると、効率化は自分を急かす道具ではなく、余白を取り戻す手段に戻ります。

そしてもうひとつ大事だと感じたのは、あえて少し非効率な時間を残すことです。

すぐにAIへ投げず、最初の一文だけ自分で書く。候補をもらう前に、自分の違和感をメモする。完成した文章をすぐ投稿せず、コーヒーを飲んでから読み返す。

大きなことではありません。

でも、その小さな間があるだけで、自分が作業に参加している感覚が戻ってきます。AIに任せた部分と、自分が選んだ部分の境目が見えやすくなります。

効率化で失いたくないのは、時間そのものではなく、自分で選んでいる感覚なのかもしれません。

まとめ

効率化は、私たちの作業を確かに軽くしてくれます。AIを使うことで、迷いが減り、形にする速度も上がります。

それは大きな前進です。

一方で、速く終わるほど、味わう時間や迷う時間まで削ってしまうことがあります。空いた時間をすぐ次の作業で埋めてしまえば、効率化は余白ではなく、さらなる忙しさを生みます。

私が感じた虚無感の正体は、成果が足りなかったことではありませんでした。

終わったことを受け取る時間が、足りなかったのだと思います。

これからもAIは使います。効率化も手放しません。ただ、その先に何を残したいのかは、毎回少しだけ立ち止まって確かめたい。

速く進んだあと、ちゃんと自分の心が追いついているか。

その問いを、作業の最後に置いておきたいです。

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