『七彩の七宝』一章「絶望からの、挑戦」(2/6)
「行きたくないなあ……、目の下も赤くなってるし」
浮かない顔の彩七が呟くと、鏡に映ったオッドアイの女性の口も動いた。
彩七の虹彩は、左目がブルー、右目がライトブラウンだ。
日本人でも青い瞳で生まれてくるケースは少なくないのだが、その大多数は青年期に入る前に茶色に変化していく。
しかし彩七の瞳は成人しても青いままだった。しかも左右で色が違うので、奇異な目で見られることも少なくない。
そのため、薄桃色のカラーレンズメガネをかけて瞳の色をごまかしていた。カラーコンタクトも試してみたが、目に痛みがあって続けられなかった。どうしても青い瞳を隠したくて痛みを我慢して装着し続けたことがあったのだが、目が充血して瞼が動かないほど腫れてしまった。それからはコンタクトを諦めている。
この瞳のせいで、小学校ではいじめにあった。
それが心の傷となり、外出時にはカラーレンズメガネはかかせず、今でも人に顔を見られるのが苦手だ。
鏡の前で少し丸みを帯びた四角いフレームのメガネをかけると、左右の虹彩の色の違いがわからなくなった。また、垂れ眼がちの瞳を更に大きく見せている涙袋周辺の赤みもカバーされる。
父から「窯を閉じる」という衝撃の宣言を聞いた翌日、彩七は一人暮らしをしている東京都国分寺市のマンションに戻ってきた。両親とどんな会話をして実家を出たのか覚えていない。
それから二日経過していたが、希望の進路を絶たれた彩七は立ち直っていなかった。こちらの部屋でも作っていた七宝焼の作品を見てはメソメソとしてしまう。
失って改めて、七宝焼にどれほど情熱を注いでいたのかを思い知らされた。当り前のように共に生活していたので、好きである自覚すら薄らいでいたようだ。
こんなに沈んだ気持ちで、接客なんてできるのかな……。
彩七はうつむいて小さく息をはいた。ストレートの黒髪がサラリと肩から落ちる。
三が日が終わり、今日からイタリアンレストラン『アルコバレーノ』のアルバイトが始まる。
大学が冬休み中なので、オープンからクローズまでシフトを入れていた。元々人前に立つのが苦手なのに、こんなメンタルで長時間の接客に堪えられるのか不安だ。
「そろそろ、出なきゃ」
ぐずぐずしていても仕方がないと、彩七は頬を両手でペチリと叩く。休むという選択肢はなかった。アルバイト先に迷惑をかけてしまう。
コートを羽織って鞄を握り、ローファーに足を突っ込んだ。
「寒い……」
外に出ると、彩七は身を震わせた。
年末年始の休業があけていない企業が多いのだろう、午前十時の住宅地は閑散としていた。
わざと息を大きくはくと、息がけぶった。本来は白いはずの息は、カラーレンズと同じ薄桃色だ。
彩七はポジティブとは言えない性格なので、視覚から元気をもらおうとピンクのレンズを選んだ。この色の世界も嫌いではないが、本当は家の外でもクリアな世界でいたい。
「久しぶりのバイト、ちょっと楽しみかも。美味しいし賄い料理が食べられるし」
あえて口に出してみると、本当にそんな気分になってきた。
アルバイト先は彩七の大好きな場所だ。
そもそも、顔を見られるのが嫌いな彩七が、なぜ接客業をするようになったのか。
それは一年程前に遡る。
彩七は当時、自室でできるデータ入力のアルバイトをしていた。しかし時間に対して稼ぎが悪いので、別のアルバイトに切り替えようと考えていた。
そんなタイミングで、近所のイタリアンレストラン『アルコバレーノ』が「アルバイト募集」の張り紙を出していた。
住宅地にポツリとある洒落たレストランは目立っていて、いつも列をなしていた。夜は完全予約制のようで、外から見る限り常に満員御礼のようだ。
そんな気になる人気店に、列のない日があった。おそらく豪雨の影響だろう。ランチタイムの終了間際の時間で、これはチャンスだと彩七は店に飛び込んだ。
「いらっしゃいませ」
白いコックコートと黒いソムリエエプロンを身に着けた、五十歳くらいの女性に笑顔で迎えられた。百六十センチの彩七より少し背が高く、スレンダーな美人だ。ショートカットがよく似合っている。
席には人がまばらで、みんな締めの飲み物を飲んでいるようだった。もうラストオーダーが終わっていたのかもしれないと、彩七は内心焦った。
それの考えを読んだかのように、女性は「大丈夫ですよ」と笑みを浮かべて、彩七を席に案内してくれた。
一軒家の一階をリフォームしてレストランにしたようで、店内はそれほど広くない。オープンキッチンの前にカウンター席が四つあり、テーブル席は三つだけだ。イタリアンではラーメン屋のようには回転しないはずなので、これでは並ぶはずだと彩七は思った。
内装は洗練されていた。白を基調として、インテリアはダークブラウンに統一されている。白い折り上げ天井にもダークブラウンの化粧梁がほどこされ、奥行きとメリハリが演出されていた。
テーブルに着くと目立つ位置にワインセラーが設置されていて、ライティングで宝石のように輝いていた。壁の一角が広い窓になっており、フロアを明るく照らしている。季節によっては窓を開放してテラス席になるのかもしれない。席はハイバックソファでくつろげる。
彩七は美術大学に通っているだけあり、センスのいい空間が大好きだ。すぐにこの店のファンになった。
しかも、驚くほどランチが美味しかった。それなのに、前菜、サラダ、手打ちビザ、パスタ、デザート、ドリンクがついて、なんと二千円しかしない。儲けがあるのかと心配になる価格だった。並んででも食べたくなるのは頷ける。
あとから知ったことだが、この店のオーナーは海外で修業を積み、長年有名ホテルに勤めていたシェフで、早期退職をして夫婦でのんびり営めるような、小ぢんまりとした理想のイタリアンレストランを建てたそうだ。
この店の料理をまた食べたくて、遠回りをしてでも彩七は店の前を通るようにしていたのだが、行列が途絶えることはなかった。前回のように悪天候を狙うしかないが、こういう時に限ってお天道様はご機嫌だ。かといって、恥ずかしく一人では並べない。彩七はランチを誘えるような友達がいなかった。
そのレストランがアルバイトを募集していたのだ。賄い付きで。
お皿洗いなら、あまり人と話さなくてもすむかも……。
彩七は思い切って、裏方希望で申し込んた。
「困ったわ、募集しているのはフロア担当なの。接客はダメかしら?」
彩七の面接を担当したのは、以前来た時に出迎えてくれた、ショートカットの美人だ。
ランチとディナーの間の準備時間中で、厨房には五十代後半くらいの男性と、フロアにアルバイトらしき若い男性が忙しそうに作業している。
「あの、わたし、ちょっと、人に見られるのが苦手で……。このメガネも外せませんから、接客には向いていないかと……」
口下手な彩七はテーブルの端をみつめて、もごもごと返答する。
「無理にコンタクトにしなくていいのよ。それとも、そのカラーレンズじゃないとダメってこと?」
女性は首を傾けた。
「はい。視力はいいんですけど……」
彩七は迷ったが、メガネを外した。この女性になら瞳を見せてもいいと感じたのだ。そもそも面接なので、隠していても仕方がない。
「わたしは左右で目の色が違うんです。だからお客さんを不快にさせてしまいます」
「それ、裸眼?」
女性は驚いている。
「はい。生まれつきです」
両親も祖父母も純粋な日本人だ。なぜ自分だけがオッドアイなのかと、鏡を見るたびに滅入ってしまう。
「まあ、珍しい。素敵な瞳じゃないの、隠すことないのに。ねえ秀一(しゅういち)くん」
女性はフロアにいる男性に声をかけた。秀一と呼ばれた男性が近づいてくると、目鼻立ちのはっきりとした端正な顔立ちであることがわかり、彩七はドキリとした。
女性と同じく、白いコックコートと黒いソムリエエプロンを身に着けていた。店の制服のようだ。
男性も彩七を見ると瞠目して、しばし見つめてきた。彩七は視線を合わせるのが苦手なので、もともと外しているが、見られているのが視界の端でわかるので、いたたまれなくなってくる。
「やっぱり、気持ち悪いですよね」
彩七は顔を伏せながらメガネをかけた。
「違います。すみません、すごく綺麗だからびっくりして」
この目が、綺麗?
初めての評価に彩七は耳を疑った。しかし、すぐに凝視したことに対して取り繕ったのだろうと思い至る。
「そうよね、隠さなくていいのにねえ。じゃあ、メガネのままでいいからフロアを担当してみましょうよ。大丈夫よ、料理を運ぶだけだから。みんな食べに来ているのだから、顔なんてジロジロ見ないわ」
「いいんですか、色付きのメガネをしていて」
「ええ、そんなことで目くじらを立てるようなお客さんは来ないもの」
女性は笑顔でうなずいた。
「賄い付きなんですよね?」
彩七は大切なことを確認した。
「そうよ。主人の料理は絶品なんだから」
この店の料理が美味しいことは、よく知っている。
彩七は人に見られる接客と、美味しい賄いを天秤にかけた。
しばし迷い……。
「よろしくお願いします」
彩七は頭を下げた。この店でなら大丈夫なのではないかという、不思議な安心感があった。それは店の雰囲気のせいかもしれないし、面接をした女性や秀一が、オッドアイを褒めてくれたせいかもしれない。
仕事を始めてみると、思っていた以上に覚えることが多くて大変だった。しかも頻繁に客から話しかけられて話が違うとも思ったが、環境が良く、料理も美味しく、なにより店の誰もが優しくて、すぐにかけがえのない場所になった。
彩七は誰かに攻撃されるのが怖くて、それまではできるだけ人と接触しないように生きてきた。そのため友達が極端に少なく、コミュニケーション力も高くない。仕事の覚えだって早くはなかったが、秀一を筆頭に繰り返し丁寧に指導してくれた。
そのおかげで、イタリアンレストランでのバイトが一年続いたのだ。
アルバイトは彩七にとって金を稼ぐ以上の価値があったが、心にポッカリと穴が開いている今、部屋で引きこもっていたい気持ちも強かった。そこをなけなしの気力で、なんとか家を出たのだった。
「おはようございます」
彩七は店の正面のドアから入った。今はオープン前だが、営業中でも出入は正面だ。元気な声を出そうと試みたのだが、案の定、覇気のない声になってしまう。
「おはよう彩七ちゃん、あけましておめでとう」
いつものように、既に制服を身に着けているショートカットの美女が笑顔を向けてきた。彼女はオーナー兼料理長の妻で、彩七は多佳子さんと呼んでいる。五十二歳と言っていたが、四十代でも通用するほど若々しい。
この店は名前で呼び合うのが習わしのようで、働き始めたばかりの頃、彩七は戸惑った。親以外にファーストネームを呼ばれることはなく、呼びかけることもなかったからだ。
それでも、慣れてくると親密な関係になった気がして嬉しく思った。
そんな多佳子に上手く笑顔を返すことができず、新年のあいさつをか細く言って、着替えるために控室に入った。
控室は四畳半ほど。ロッカーが並んでいて、壁に複数のパイプ椅子が立てかけられているだけの狭い部屋だ。男女分かれているわけではないが、コックコートはインナー越しに身につければよく、下はソムリエエプロンを巻くだけなので困らない。
「よう、あけおめ」
ノックの後に、アルバイトの箕輪崎(みのわざき)秀一が控室に入ってきた。何人かアルバイトはいるが、秀一は彩七と同じ大学三年生なのでシフトが被ることが多く、同い年という気軽さから仕事の指導をしてもらうことも多かった。
ボリュームのある黒髪を遊ばせるようにセットしていて、接客として清潔感を保ちながら軽さもある絶妙なバランスの髪型をしていた。ダークグレーのカシミアのチェスターコートは上品な光沢を放っており、ファッションブランドに興味のない彩七から見ても高級だとわかる。
彩七は視線を落としたまま、多佳子にしたのと同じようにボソボソと新年のあいさつをした。
「どうした、元気がないじゃん。はい、お土産」
「ありがとう」
可愛らしいピンク色のパッケージには「PRESTAT」と書いてある。プレスタはロンドンの老舗チョコレート店だ。映画にもなった小説『チャーリーとチョコレート工場』にも登場しており、英国王室御用達でもある。
そういえば秀一くん、イギリスに行くって言ってたな。
彩七はぼんやりと思い出した。
「ごめんね、わたしはお土産、買い忘れちゃった」
ますます自分のダメさが際立った気がして、彩七は余計に落ち込んだ。
「おいおい、実家でなにかあったのか」
コートを脱ぎながら秀一が尋ねてくる。
彼とは年齢の他にも共通点があり、彩七は近しく感じていた。
それはお互いに「親の家業を継ぐ」というものだ。詳しくは聞いていないが、秀一の親は飲食店の社長らしい。
だから彩七は秀一に、今回の帰省で親に窯元を継ぐ意思を告げることを伝えていた。
「秀一くん……」
彩七は父親の言葉を思い出して、また泣きそうになってしまう。
「おいおい、なにがあったんだよ」
秀一が顔を覗き込んでくるのを、彩七は首を振って距離を取った。説明し始めたら気持ちがあふれて、仕事が手につかなくなってしまうかもしれない。
「なんか、深刻そうだな。オープン前は忙しくて時間がねえし、休憩時間に話を聞くから。彩七も今日はクローズまでいるだろ?」
彩七は大きな瞬きをして、一拍置いて頷いた。そういえば、人に相談するという発想がなかった。この気持ちを吐き出せば少しは楽になるだろうか。
「つらくなったら言えよ、カバーしてやるから」
秀一は彩七の肩に手をのせると、準備を終えて控室から出て行った。
秀一くん、いつも頼もしいな。
彩七もいつまでもノロノロとしていられない。髪を首の後ろでひとまとめに結わくと、気を引き締めて部屋を出た。
十六時近くになって、彩七たちはやっと休憩をとることができた。正月の延長で客が少ないかと思いきや、普段と変わらなかった。むしろ年末年始にレストランが休んでいた分、『アルコバレーノ』のファンが押し寄せていた気がする。
「お疲れさま」
カウンター席に座る彩七と秀一に、オープンキッチンから多佳子がプレートを差し出した。彩七たちは礼を言って受け取る。待ちに待った賄いだ。
ウニのクリームスパゲティに牛ロースのビステッカ、タコとじゃがいもの温製サラダ、ドルチェにはティラミス。いつも賄いレベルではない食事が出てくるが、今回は一段と豪華だ。
「ティラミスはイタリア語で、元気づけるって意味なのよ」
多佳子はウインクをして厨房の奥に下がっていった。どうやら料理長と多佳子に心配をさせていたようだ。彩七は二人に感謝する。
彩七は「いただきます」と手を合わせて、スパゲティを口に含んだ。
「美味しい……」
ウニは高いだけで磯臭くてベチャッとしている、という印象が一瞬で変わった。濃厚なクリームソースと共に、程よい弾力のあるトッピングのウニが口の中でとろりと溶け、甘味が口いっぱいに広がった。くどくなりそうな組み合わせだが、意外にもあっさりしていていくらでも胃に入ってしまう。
ほっぺたが落ちるとはこのことかと、彩七は頬を押さえた。
「彩七って、いつも美味そうに食うよな」
隣りに座る秀一の声に、彩七は紅潮した。思わず顔を向けると目が合ってしまって、慌ててプレートに視線を落とす。
「料理長の料理、すごく美味しいから」
「それはわかってるけど。元気が出たならよかったよ。それで、なにをそんなに落ち込んでたんだ?」
その言葉で、忘れていた現実に引き戻された。
「それがね……」
彩七は実家でのやりとりを語った。
すると秀一は、
「なんだ、そんなことか」
と、ホッとしたように息を吐きだした。
「そんなことって」
ムッとして、彩七は目を尖らせる。
「あれだけへこんでいれば、身内に不幸でもあったのかと思うだろ」
そんな顔をしていたのか。多佳子を含め、心配をかけて申し訳ないと思う。言われてみれば、彩七にとってはそれくらいの精神的ダメージがあったのかもしれない。
「ずっと目指していた夢が叶わなくなったんだよ。秀一くんなら、わたしの気持ちがわかるよね」
「親の跡を継ぐって意味で?」
彩七は頷いた。
「いや、俺だったら清々するかも。一人っ子だから俺に押し付けられているだけだし」
「えっ、嫌だったの?」
初耳だった。同じ立場だと思っていたから、彩七は七宝焼職人になる夢をよく秀一に語っていたのだ。
「嫌というか……、今は俺の話はいいよ。仕方がないんじゃないかな、どんな店でも職種でも、潰れるってことはニーズがないんだ。ビジネスであるかぎり、淘汰されるのは当然だ。工芸品は衣食住には関係ない贅沢品だから、生活に余裕がないと真っ先に切られるだろうしな」
そう言った秀一はグラスの水を飲んだ。プレートの上の料理はほとんどなくなっている。彩七は食べるのが遅いので、まだ半分以上残っていた。
「そんな、冷たいよ。あんなに綺麗なものが世間に認められないなんて、絶対におかしい」
「だから、ビジネスならって言っただろ」
彩七はつついていたサラダから秀一に視線を移した。
「もう七宝焼を作れない、みたいなことを言ってたけど、趣味で続ければいいじゃないか」
「趣味」
「どうしても商売にしたいなら、副業という手もある。フリマアプリでハンドメイドのアクセサリーや雑貨を売って、本業より稼いでるって話は、よくネット記事で取り上げられてるよ。ニッチなものにはファンもつきやすい」
「副業……」
考えてもみないことだった。窯元を継がなければ、もう七宝焼を作れないかと絶望していた。好きなのだから趣味として続ければいいのだ。今までだって部屋で作品を作ってきたのだから。
腕を上げるために作っていたそれらの作品を、ネットで販売する。仕事にするのなら、メールでほしい商品のリクエストを受け付けてもいい。彩七は商品を作り、受け取った人は笑顔になる。
彩七が夢見ていたとおりのことだ。
しかし。
「なんだか、違う気がする」
彩七は小首をかしげた。
ネット販売だからピンとこないのだろうか。ならば、小さくても彩七がショップを開けばいいのか。
いや、それもしっくりこない。
七宝焼の店は全国にいくつもある。ショッピング中に東京の一等地に構えている店を見つけて喜んだこともあった。
七宝町を出て、彩七もその一つになる。オリジナルの七宝焼を作って店で販売する。
もしそれができるなら、夢は叶っているのではないか。それなのに、なぜこんなにモヤモヤとするのだろう。
彩七は小さくうなりながら、眉間にしわを寄せた。
自分でも説明のできない違和感があった。なにか、彩七の理想と違うのだ。
なにが違うのだろうか。
パクリと牛ロースのビステッカを口に含んで噛みしめる。岩塩とコショウというシンプルな味付けで、ボリュームのある肉から肉汁のうまみがあふれ出す。
ううっ、美味しい。
彩七は悩むままに眉をハの字にしかめながら、口元はほどけるという器用な表情になった。
この店は料理が美味しいから人が集まる。また食べたいとリピーターになる。ファンに愛されている。
それと同じように、彩七は愛する七宝焼をたくさんの人に愛してもらいたいのだ。知ってもらいたいのだ。使ってもらいたいのだ。
彩七は両親の作品を見て育った。だから両親の作る七宝焼が一番好きだが、七宝町にはほかにも窯元があり、その数だけ特徴的な作品がある。同じものは存在しない。
たとえば、町内で最高齢の七宝焼職人である神谷源道は百万単位で値がつく大物しか作らないのだが、その作品は圧倒的な存在感のある緻密で繊細なデザインだ。神谷にしか作れないだろうもので、町では勝手に人間国宝と呼んでいる。
彩七は生まれ育った七宝町の七宝が大好きなのだ。
「……そうか。わたしはこれ以上、窯元さんになくなってもらいたくないんだ……」
視界を曇らせていた霧が霧散していくようだった。
「実家だけじゃない、わたしは七宝町の窯元を守りたい。父や母の技術をわたしが受け継いで、こんなに綺麗なものがあるんだよって、もっとたくさんの人に知ってもらいたい。そのために素敵な作品を作りたいの!」
彩七はこぶしを握った。普段は小さい声のボリュームも上がる。
「彩七の親父さんも言ってただろ。芸術なんて、ごくごく一部の人間しか儲からない斜陽産業だ」
「それは、みんな七宝を知らないからだよ。見たら欲しいと思う人がたくさんいるはず。だって衣食住に関係ないジュエリーは人気がなくならないじゃない。工芸だって同じ装飾品だよ」
「……なるほど」
食べ終わった秀一は頬杖をついて、切れ長の二重の瞳で彩七を見る。
「彩七って、そんなに声を張れたんだな」
「えっ」
そこなの? と思いながら彩七は身を引いた。恥ずかしくなって顔を赤らめる。色が白いので、ほのかな色でも顔に出やすい。
「確かにダイヤモンドと七宝焼では、圧倒的に知名度に差があるな。周知されたら売り上げが上がるというは理屈に合ってる」
「でしょ」
彩七は伏せた顔を再び上げた。
「だが、彩七は難しい要望をしていることに気づいているか?」
「難しい……?」
秀一は頷く。
「さっき俺が言ったように、彩七が個人で活動するなら、ネットを使ってある程度売り上げを出すことはできると思う。でも彩七が目指しているのは、七宝焼の窯元の存続、七宝町の文化を守るという大プロジェクトだ」
「……そう、なの?」
彩七は瞠目して秀一を見つめる。
そうか。そうだ。
――腑に落ちた。
窯元の人たちは中高年以上だ。若い世代は一人もいない。彩七は自分が入ることで七宝町を活気づけたいと、どこかでそう考えていたのだ。だからフリマアプリで売れと言われてもしっくりこなかった。
「広めるにも、品物に魅力がないとな。さっきから綺麗だ素敵だと言ってるけど、その七宝焼ってのは、そんなにいいものなのか?」
「秀一くん、知らないの?」
彩七は驚いた。すっかり彼には認知されているものと思っていた。
「いや、知らないだろ。窯元を継ぐとは聞いていたけど、七宝焼って言葉をあまり使ってなかったから検索してない。興味がないわけじゃなかったけど」
秀一は慌てたように言い訳をする。
「そっか、わたし言ってなかったんだね。これだよ」
彩七は首の後ろで結っていたヘアゴムを外した。光沢のある黒髪がさらりと広がる。
「この装飾が七宝」
黒猫の飾りがついているヘアゴムを秀一に渡した。駆ける猫の形に銅板をくりぬいてから、ベースの絵具の上に小さくカットした銀箔やガラス粉を焼きつけている。彩七が作ったものだ。
「ああ、いつもしてるこれがそうだったんだ。黒猫の中に宇宙があるようなデザインだよな。彩七の黒髪は光に当たると紅茶色になるし、そのヘアゴムはキラキラ輝くしで、よく似合ってると思って見てた」
「……ありがとう」
思いのほか褒められて、ゴムを返されながら彩七はまた頬を染めた。
「それ、ガラスでできてるよな」
「そうだよ。七宝焼は基本的に、銅とか銀の金属素地にガラス質の絵具、釉薬(ゆうやく)っていうんだけど、それを塗って八百度前後で焼き付けて作る工芸なの」
「伝統工芸とか窯っていうから、壺を作って“納得いかん!”ってガチャンと割る、あれかと思ってた」
「それは、ろくろを使ったりする陶芸だね。窯(よう)変(へん)っていうんだけど、陶磁器を窯に入れて高温で焼成すると、窯の内部で化学物質が反応して色が変化するの。有田焼だって備前焼だってそう。職人はどんな焼き色になるか計算しているけど、陶磁器の乾き具合とか温度で色が変化することがあるから、最終的には窯から出してみないとわからない。だから同じ作品は二度と作れないと言われたりもするの」
彩七はゴムについた黒猫を見ながら「でも、これは違う」と目を細めた。
「完全に計算美。だから作り手の技と感性がストレートに表れるの。言い訳なんて通用しない。職人としては、ちょっと怖いよね」
彩七はそのゴムで黒髪を結いながら、秀一に目を向けた。
「でも、そこがいいの。やりがいがあるでしょ」
彩七はにっこりと微笑んだ。それからプレートに視線を落としてティラミスをフォークですくう。
「七宝の語源は、仏教の経典にある金・銀・瑠璃・真珠とかの“七つの宝物”をちりばめたように美しい、ってことに由来するんだって。それくらい七宝焼は色鮮やかで綺麗なんだよ。七宝町で生まれたわたしは、“美しい彩り”という意味の“七彩”を入れ替えて、“彩七”って父に名付けられた。七宝焼の窯元を継ぐ運命でしょ、これは」
彩七は小学生の時に父から名前の意味を聞き、嬉しく思ったものだ。
ティラミスを口に運ぶと、彩七は思わず目をギュッと閉じた。
滑らかなマスカルポーネチーズと、エスプレッソを染み込ませた冷えたスポンジが、舌の上で甘味と苦味の絶妙な共演を繰り広げている。もう何度も食べているのだが、食べるたびに感動してしまう。
こうして喜びをかみしめていると、横から視線が刺さっていることに気づいた。目を向けると、頬杖をついたまま瞠目している秀一と目が合った。
「な、なにか?」
彩七はドギマギする。
「彩七って七宝焼のことになると、こんなにしゃべるんだなと思って」
「あっ」
彩七は口元を押さえた。しゃべりすぎて相手を不快にさせてしまったのかと不安になる。
「ごめんなさい」
「なんで謝るんだよ。普段からそれくらいしゃべってくれたほうがいいよ」
そう言われても、七宝焼以外は語りたいことはない。話した先からおかしな発言をしないか心配になるので、沈黙は吉だと常々思っている。
「秀一くん、話を聞いてくれてありがとう」
言われてみれば、家族以外とこんなに会話をしたのは初めてかもしれない。少しだけ気持ちが軽くなったような気もする。
「それはいいけど、話が途中だったろ」
彩七はフォークをくわえながら首をかしげた。
「窯元存続の一大プロジェクト、策はあるのか」
そう言われて、彩七は青くなる。いろいろと話したが、状況は一歩も進んではいなかった。
「……なにもない」
というよりも、無理ではないだろうか。
故郷だって、黙って窯元を減らしていたわけではない。『あま市七宝焼アートヴィレッジ』という、七宝焼をテーマにした総合施設が二〇〇四年に開館した。近年は天皇皇后両陛下が訪問されて話題にもなった。
それでも状況は変わっていないのだ。彩七一人になにができると言うのだろう。
「俺は経済学部で地方創生のゼミにいるんだけどさ。二〇四〇年までに八百九十六の自治体が消滅する可能性があるって調査があるんだよ」
「そんなに」
恐ろしい、と彩七は青ざめた。
東京の一極集中は問題だとよくニュースで見ていたが、そんなに多くの団体が窮地に立たされているとは。七宝町も田園が広がる田舎町だが、大丈夫だと思いたい。
「対策はあるの?」
彩七は前のめりになった。
「空き家を使って子育て世帯や企業を誘致するとか、募った基金で街の魅力を上げるとか、訪日観光客増加を狙うとか」
「そういうのだよね」
彩七はがっかりした。目新しい案は特にない。
「画期的な解決策があったら、過疎問題なんてとっくになくなってるだろ。一つ言えることは、なにをするにも金がいるってことだ」
やっぱりお金なのかと彩七は頭を抱えた。
「お金があったら、七宝町の七宝をもっとPRできるんだろうなあ」
そうすれば七宝町に人が集まって、町が賑わい、七宝焼のファンが増えるかもしれない。七宝焼の魅力が周知され、窯元に弟子入りする人が出始めて、七宝町の文化が末永く引き継がれる。
……なんて、都合よくいかないだろうけれど。
理想と現実の差に落胆し、彩七はメガネの下に指先を入れて両手で顔をおおった。
「金、集めてみる?」
秀一の言葉に、彩七は手を下ろす。
「そんなこと、できるの?」
「不可能じゃない」
秀一は片方の口角を上げてニッと笑った。
「クラファンだ」
クラウドファンディング。
不特定多数の人から寄付を集めてプロジェクトを行う仕組みである、という知識は漠然とあった。
「知ってる?」
「名前だけ。どうやればいいの?」
「簡単に説明するよ。その前に、飲み物を持って来ようぜ」
二人は空いたプレートを片付けて、ホットコーヒーをいれた。まだディナーの準備までに時間がある。
厨房にいる多佳子に「随分と顔色が良くなったわね」と声をかけられた。彩七は「美味しい料理で元気が出ました」と答えて礼をした。
彩七たちが休憩をしている間も、料理長と多佳子はディナーの仕込みで忙しい。彩七は「休憩を取らなくて大丈夫ですか?」と尋ねたことがあるのだが、「立ち仕事は慣れているし、料理を作りながら味見をしているから、お腹もすかないのよ」という返事だった。タフだ。
カウンター席に戻る際に、秀一はタブレットPCを手にしていた。秀一は長い指先でタブレットを操作する。
「クラファンにはいくつか種類がある。まず“寄付型”“購入型”“金融型”の三つ。それとは別の実施方式が二つある。“All or Nothing”と“All in”だ」
どうしよう、もうついていけない。
彩七はタブレットの画面を見ながら眉根を寄せた。
「そんなに難しくないから」
秀一は苦笑した。
「寄付型の特徴は、被災地の復興支援など、社会貢献性の高いプロジェクトに利用されることが多い。東日本大震災の復興として活用されたこともある。だから起案者は、NPO法人や自治体なんかの団体が多いな」
「つまり、わたしは寄付型とは合わないってこと?」
「基本的にはね。もう一つ合わないのを先に言っとく。金融型はプロジェクトに出資した出資者が、分配金なんかのリターンを受け取ることができる仕組みだ」
「まるで投資みたいだね」
「そう。だから起案者は業者が多いし、こうなると彩七のやりたいこととかけ離れるよな」
なるほど。こうやって順序だてて説明されるとわかりやすい。
「じゃあ、わたしは購入型になるんだ」
「うん。クラファンというと購入型、というくらいに主流だ。物、サービス、体験などを販売して資金を集める」
秀一はまた画面をタッチして、実際のクラウドファンディングのページにとんだ。
「ホントだ、リターンってところに商品が並んでる」
品物の写真の下に金額や商品説明が表示されていた。
「購入といっても、さっきの寄付型の要素もある。たとえば、これ」
秀一が指さしたリターンは「お礼メール」で、金額は五千円だ。
「メールが届くだけなのに五千円もするの?」
彩七は驚いた。それなのに支援者はかなりいる。
「出資額と受け取り商品の価値に、かなり差があるだろ。こういうのは寄付みたいなもので、プロジェクトを応援したい人が出資しているんだ。結局、応援したくなるような、魅力的で共感を得られるプロジェクトを立ち上げることが重要になる。だからこのサイトでも、プロジェクトの必要性や目的が、図や写真で丁寧に説明されてるだろ」
「逆に言えば、クラウドファンディングをすることで、七宝焼をたくさんの人に知ってもらえる可能性があるんだね」
「そういうこと」
だんだん彩七にも仕組みがわかってきた。
「そうだ、さっき実施方式が二つあるとも言ってたよね」
秀一は頷いた。
「クラファンは、“このプロジェクトにはいくらかかるから支援してほしい”、というものだろ。たとえば目標金額を五百万円にしたとする。All or Nothingは文字通り、全部かゼロか。四百万円以上集まっていたって、一円でも目標金額に足りなければ資金調達できない」
「せっかく集まったのに、なんだかもったいない」
「対して、All inのほうは目標金額の達成に関わらず、集まった資金を得ることができる」
「だったら、みんなAll inを選ぶんじゃないの?」
秀一は「いいや」と振った首に手を添えた。黒髪は襟足で切りそろえられ、長い首がすらりと伸びている。
「All inには条件があって、集まった金額にかかわらずプロジェクトを実施しなければいけない。だから運営サイトの審査も厳しくなるし、たとえまったく支援が集まらなくてもプロジェクトを実施できる準備が整っていなければいけない。だからAll or Nothingを選ぶ人のほうが多い」
「そっか、そう簡単にお金がもらえるはずもないもんね」
彩七は眉を下げた。
「そう難しくないと思うよ。All or Nothingでも、無理のない金額設定にすればいいだけだ。じゃあ次は、そのあたりを詰めていくか」
「あっ、大丈夫。あとは自分でやるよ」
タブレットに表示された時間が、休憩時間の終わりを告げていた。彩七はメガネの位置を整えながら、はにかんだ笑顔を浮かべて秀一を見上げた。
「ありがとう秀一くん。できることが見つかったら、やる気が出てきた」
「よかった。さっきまでゾンビみたいな顔してたもんな。いつでも相談にのるから」
微笑んだ秀一は空になった自分のカップと彩七のカップを持って立ち上がり、厨房に片付けに行った。胸がじんわりと温かくなる。
この店の人はみんな優しい。いじめられていた小学校時代の自分に伝えてあげたい。「この先、いい出会いがあるよ」と。
忙しいディナータイムが終わって家に帰ると、十時をまわっていた。『アルコバレーノ』は住宅地にあるので、近所迷惑にならないようにと料理長が配慮して九時半で閉店する。とはいえ客層がいいので、店内や店を出た後の帰り道で、大声を出す客を見たことがなかった。
「よし」
風呂に入り、あとは寝るだけの状態になってから、彩七はねじり鉢巻きでノートパソコンに向かった。部屋ではカラーレンズメガネを外している。
アルバイトの休憩中は秀一が説明してくれたので理解が早かったが、一人ではそうはいかない。複数のクラウドファンディングのサイトに目を通す。
「なるほど、まずは企画書を作ったほうがいいみたい」
そもそも、どんなプロジェクトを立ち上げるのか。「七宝町の七宝焼を広めたい」という目的はあるが、具体的にはどんな方法があるのだろう。
「手に取って見てもらいたいんだよなあ」
彩七の実家『美馬坂七宝』もウェブサイトがあり、商品をネット販売している。写真はよく撮れているのだが、実際の光沢や色合いには及ばない。ガラス製品の宿命かもしれない。
だとしたら店舗を持つしかない。七宝町にある八軒の窯元の作品を集めて販売するのだ。
七宝町では『あま市七宝焼アートヴィレッジ』で商品を販売しているので、別の場所がいいだろう。
ホントに、わたしの就職だけの話じゃなくなってきたな。
彩七はごくりと息を飲んだ。パソコンを操作していた手が止まる。
窯元さんたちの作品を集めるって、人間町(・)宝のあの神谷源道さんの作品も……。
神谷の高額な七宝作品と共に、深いしわが刻まれた強面が頭に浮かんだ。
彩七は想像した神谷の迫力に肩をすくませながら、まずは実行できるかを確認しようと、再び手を動かし始めた。
「どこまで考えたんだっけ。……そうだ、販売する店舗の場所だ。名古屋駅の近くがいいかな」
七宝町から名古屋までは車や電車で二十分ほどなので、商品を運ぶのも容易い。名古屋駅は新幹線の停車駅なので、人も多いだろう。
あと考えることは、出資者に送るお返し、リターン品だよね。
日常使いできる品ならば毎日目について、また七宝の品が欲しくなるかもしれない。
ならば、持ち手の部分に七宝を埋め込んだティースプーンはどうだろうか。ティータイムがいつも以上に贅沢な一時になるかもしれない。
それにヘアゴムも毎日使えていいだろう。ピアスやネックレスという手もある。男性向けにはネクタイピンあたりか。
「商品写真をネットにアップする用に、明日にでも見本を作ろうかな」
どんな作品にしようかと紙にデザインを書き始めたころ、スマートフォンが鳴った。彩七に連絡してくるのは両親くらいだ。
なんの用かと通知を見ると、秀一からのメッセージだった。
《まだ起きてる? クラファンの準備は順調?》
どうやら彩七を心配して連絡してきたようだ。秀一からアルバイトと関係のないメッセージが届いたのは初めてだった。
「明日もバイトで一緒になるのに。よっぽどわたしが頼りなかったんだな」
彩七は小さく笑って、《たぶん順調。企画書を作ったから、明日チェックしてください》と返事を打った。
すると、すぐにスマートフォンが鳴りだした。今度は電話の着信だ。
「はい」
「夜分ごめんな。起きてるようだから、かけてみた。時間は大丈夫?」
「うん」
落ち着いた低い声。いつもより息の量が多い気がする。ベッドに横になりながら電話をしているのかもしれない。
「今、なにしてた?」
「リターン品のデザイン。明日、見本品を焼こうと思って」
「焼くって、愛知の実家に帰るのか? 一日バイトが入ってるのに」
「ううん。この部屋に窯があるんだよ」
「窯が?」
驚いたのか、秀一の声がワントーン上がった。
「電気炉なんだけどね、そんなに大きくないよ。七宝町には大型の冷蔵庫くらいのがあるけど、ここにあるのは電子レンジくらい。だから小物ならすぐにできるんだ。今日見てもらった黒猫もこの部屋で作ったんだよ。四十分くらいだったかな」
「そんなに早くできるんだ」
「うん、簡単だよ。といっても、職人技の作品とは別物だけどね」
「黒猫だって充分すごいよ」
こうして誰かと電話で話しているなんて不思議な気分だ。しかも、異性と。
意識してしまって彩七は頬を染めた。中高生の頃は、友達と電話で他愛もないおしゃべりをするのに憧れていた。そんな相手はいなかったが。
「明日作るなら、見学しに行ってもいいか?」
えっ、と小さく声にして、彩七はしばし止まった。
「秀一くんが、この部屋に来るの?」
「作る工程を見たほうが、クラファンについていいアイディアが出るかもしれない。それに、純粋に興味もあるし。迷惑?」
「ぜんぜん、そんなことないよ」
相手には見えないとわかりつつ、彩七はつい首を横に振った。
迷惑ではないが、緊張してしまう。このマンションに住み始めてから来客はゼロなのだ。
「夜だと遅いし、バイトの前しか時間がないよな。何時に行けばいい?」
「えっと、余裕をもって八時半かな……、早すぎる?」
少々パニックになりながらも、作業工程を思い浮かべて返事をした。
「大丈夫。あとで住所送って。おやすみ」
「おやすみ」
彩七は通話の切れたスマートフォンを見つめた。それから部屋に目を向ける。七宝焼作品だらけだが、片付いてはいた。明日のために準備をするべきことを考えたが、なにも思いつかない。
「企画書を完成させちゃおう」
すっかり眠気が飛んでそわそわするので、彩七は眠たくなるまでパソコンに向かい続けた。
翌朝。
彩七はスマートフォンのアラームが鳴る前に目覚めてしまった。時間は五時五十分。
「どうしよう、すごくドキドキしてる」
彩七は寝間着ごしの胸を押さえた。起き抜けなのに心拍数が上がっている。
秀一の提案を断っておけばよかったと、今更ながら後悔する。同性のクラスメイトとさえ遊びに行ったことがなかったのに、自宅に異性を迎えるなんて狂気の沙汰だ。
「わたしったら意識しすぎ」
彩七はぶんぶんと頭を振った。
秀一くんはクラファンを成功させるために協力しようとしてくれているだけなんだから。それに七宝焼に興味を持ってくれるなんて嬉しいじゃない。
彩七は深呼吸をして心臓を落ち着かせてから起き上がった。
シャワーを浴びて軽く朝食をすませると、七宝焼の道具をテーブルに揃えた。
それから部屋の掃除を始めるも、一DKという広くもない空間なので、すぐに終わってしまう。せっかくなので、普段はしない窓掃除をしてみた。年末に大掃除をしなかったので丁度いいかもしれない。
始めると細かい汚れが気になって掃除に集中してしまう。インターフォンが鳴って彩七は我に返った。八時二十分になっていた。
「もうこんな時間」
慌てて掃除道具をベランダに出して、カラーレンズメガネをかけて玄関に向かった。ドアスコープから外を見ると、ダークグレーのチェスターコートを着ている秀一が立っている。
「おはよう」
ドアを開けると、冷たい空気に乗って秀一の爽やかな声も流れ込んできた。高い鼻梁の先っぽが少々赤くなっている。整った顔立ちに相反しているようで、可愛らしく映った。口元がほころびそうになり、彩七は俯きながら、ぎこちなく返事をする。
「どうぞ、狭くて申しわけないけれど」
「お邪魔します」
秀一は玄関を上がってよく磨かれた革靴を揃えた。
「これ、土産」
秀一は紙袋を彩七に差し出した。
「そんな、いいのに。昨日もお土産をもらったばかりだし」
「家にお邪魔するのに手ぶらはないだろ。この時間だから空いてる店がなくてさ。駅前のパン屋で焼き菓子を買ってきた」
「あの有名なお店の? すごい」
行列ができる人気店で、夕方には売り物がなくなって店を閉めてしまう。彩七は大学の行き帰りに何度か購入していたが、どれも美味しかった。しかし、焼き菓子は見たことがない。既に売り切れていたのかもしれない。
「よかった。喜んでくれると思った」
笑いながら秀一はマフラーとコートを脱ぐ。ネイビーのモックネックニットと黒のスリムパンツがスラリとした長身によく似合っていた。彩七はコートなどを預かってハンガーにかける。
「マドレーヌと、ガトーショコラ……」
袋を覗き込むと甘い香りがする。しかも、まだ温かい。
「二,三日もつって言ってたけど、焼き立てが一番美味いってさ。今、食う?」
「食べる!」
朝食を済ませていたが、別腹というものだ。彩七はダイニングキッチンの椅子に秀一を促すと、パックタイプのドリップコーヒーを淹れて向かいに座った。四つもあるテーブルの椅子が初めて役に立った。焼き菓子を皿に並べる。
「いただきます」
ほんのりと温かい貝殻の形をしたマドレーヌを手に取って一口かじると、芳醇なバターと甘いバニラの香りが鼻に抜けた。表面はカリッ、中はふんわりとして舌の上で溶けていく。
「美味しい……!」
両目をギュッと閉じながら、彩七は口の中でしっとりと広がる旨味を舌で転がした。アルバイト先である『アルコバレーノ』の上品なスイーツとはまた違った魅力がある。
「彩七って、いつも美味そうに食うよな」
秀一の声にはっとして目を開ける。正面でまじまじと見つめて来る視線とまともにぶつかって、彩七は慌てて下を向いた。
「それは、本当に美味しいから……」
昨日も似たやりとりをしたばかりだ。食い意地が張っていると思われてしまっただろうか。恥ずかしくて顔が赤らんでくる。
「そんなに表情が動くなら、普段から笑っていればいいのに」
彩七は申し訳なくて、ますます眉を下げた。
「ごめんね、接客が下手で……」
「下手じゃないよ。そうじゃなくて、笑っちゃいけないって決めてるみたいに、いつも微妙な表情をしてるだろ。食ってる時と、窯元を継ぐんだって話をしている時しか笑わないから、もったいないと思っただけ」
そんなふうに思われていたんだ。
恥ずかしいような、困ったような、嬉しいような、複雑な気持ちになる。
なんと応えていいのかわからなくなって、彩七は意味もなくカップの持ち手を指でつついた。
秀一はマドレーヌを一口で平らげた。彩七では無理だ。味わわないともったいない気もするし、大きな口が羨ましい気もする。休憩でよく食事を一緒にとるが、品がある食べ方なのに完食するのが早い。じっと見ているわけではないが、小気味いいなと常々思っていた。
「そういえば秀一くん、親の跡を継ぎたくないの? お父さん、飲食店の社長さんなんでしょ?」
結局、対応に困った彩七は話を変えることにした。
「ああ、それか……」
今度は秀一が端正な顔を陰らせた。
「わからなくなってきたんだよな、このまま親父の言いなりでいいのかって」
「言いなりだったの?」
「そう、親父が敷いたレールを走ってきただけ。中高一貫校も大学も親父の母校だ。勉強になるかと思って自主的に、いつか経営するだろうレストラン系で、いくつかアルバイトをしてみたんだけどさ」
秀一はコーヒーを口に運ぶ。手の大きな秀一が持つと、カップがいつもより小さく見える。
「秀一くんが『アルコバレーノ』でバイトをしてるのは、勉強のためだったんだね」
「そう。だから雰囲気とか味とか経営的なところとかがわかったら、最長でも半年くらいで切って、バイトを転々と変えていた」
なるほど、と彩七は納得した。秀一が身に着けているものはどれも高級そうで、お金が必要なようには見えなかったのだ。
「俺は一人っ子だから、親の仕事を継ぐのは当たり前だと思っていたんだけど、ゼミのヤツらとかは大学在学中からベンチャーだ起業だと、目を輝かせていろんなことに挑戦してるんだ。俺だけ取り残されている気がしてきた」
同じ年なのに起業するのかと、彩七はぎょっとした。周囲でそんな話を聞いたことがない。大学のカラーの違いだろうか。
「みんなは秀一くんを羨ましがってるんじゃない? 飲食店の社長になるのが約束されてるんだから」
「そう言われることもあるけど。でも、今なら失敗が経験に繋がるだろ。いろんな道を開拓できるはずなのに、俺は親父が敷いたレールを楽して走ってるだけなんだ。このままでいいのかって迷ってるし、第一、情けない」
「そんなことないよっ」
彩七は拳を握った。
「お父さんの意思を継げるのは秀一くんだけなんだよ。確かに秀一くんの道は舗装されて歩きやすいかもしれない。でも、今までだって転んで進めなくなったり、道に迷ったりする可能性もあったはずでしょ。きちんと歩いてきた自分を褒めていいんだよ」
彩七は自分の境遇と重ねてしまい、言葉に力がこもる。
「……そう?」
彩七の力説に秀一は驚いているようだ。
「うん。それに、今までは完璧な道だったかもしれないけど、これからどうなるかわからないよ。穴が開いてるかもしれないし、砂利道になるかもしれないし、いっぱい分かれ道があるかもしれない。そこを上手に通過するために、今は力を蓄える時期なんだよ。いろいろとやることが多いのは、周りのみんなと一緒だよ。だからバイトでいろんな飲食店を回ってたんでしょ? 隣の芝生は青く見えるんだよ」
「そうかも」
秀一は軽く口角を上げて頷いた。どことなく彩七を興味深そうに見ているようでもある。
「わたしなんて、あると思ってた道が崩れちゃって、これから橋を作るところなんだから。喜んでもらえると思ってたのに、思わぬ試練だよ」
とほほと言わんばかりに肩を縮めて、彩七は両手で頬を包んだ。
「彩七はよく、親に技術を教わりたい、そして窯元を継ぎたいって言ってたもんな。よく長い間気持ちがぶれないなって不思議に思ってた」
「それは、七宝が大好きだから」
彩七は自然と笑顔になる。秀一はそんな彩七を見て、眩しそうに目を細めた。
「そうだ、七宝焼。のんびりしていたら作る時間がなくなっちゃうね」
彩七は立ち上がった。残っている焼き菓子はありがたく頂戴する。
「あれ、そういえば秀一くん、『アルコバレーノ』に一年以上いるよね?」
テーブルを片付けながら彩七は尋ねた。
「そうだな。それが?」
「さっき、バイトは最長半年で変えるって言ってたから、ちょっと気になって」
秀一は「あっ」と声を漏らしながら、わずかに頬を染めた。珍しい反応だ。
「まだ、知りたいことが残ってるから」
「料理の技術とか? 美味しいもんね。今日の賄いも楽しみだね」
彩七はまた食べ物に思いを馳せそうになり、これでは本当に食いしん坊のようだと苦笑した。
「秀一くん、あっちの部屋に移動しよう」
六畳の洋間にはカーペットを敷いていて、遮光カーテン越しに太陽の淡い光が部屋を照らしている。二段ベッドの上段だけのような造りのロフトベッドが部屋の奥にあり、その下の空間には七宝の道具が詰まった多段チェストやパソコンの周辺機器を置いていた。
そして、部屋のあらゆるところに彩七が作った七宝作品を飾っている。
部屋の中央には、秀一と七宝焼を作るために準備したローテーブルと、それに必要な道具を並べていた。
「壁にかかってる額も、棚の上の写真立ての絵も丸皿も、ガラス製だ。彩七が作ったもの?」
「そうだよ」
「すごいな、個展が開けそうだ」
感心したように部屋を見回している秀一を見ていると、彩七は自尊心がくすぐられた。部屋に溜め込んでいた作品を誰かに見てもらうのは初めてで、それを褒められるのは想像以上に気分がよかった。
「さ、座って座って」
ローテーブルの下には、向い合うようにクッションを置いていた。
「七宝焼の技術は、紀元前の古代メソポタミア文明とかからあったとされていて、日本では江戸時代に名古屋の職人が広めたといわれているの。だから尾張七宝とも言うんだけど、その代表的な技法は有線七宝なんだ。細いテープ状の金属線を使って形を描くんだけど……、それは初めての人には難しすぎるから、フリットを使ってペンダントを作ろう」
フリットとは、釉薬になる前の粒状の色ガラスだ。透明、半透明、不透明のものがある。
「俺も? いや、俺は見てるだけでいいよ。邪魔になるだろ」
「そんなことないよ。体験したほうが七宝焼のことがよくわかるよ。それに、簡単なものにするから。ペンダントの形はどれにする?」
彩七は、長方形、丸型、雫型など、ペンダントになる銅板を秀一の前に置いた。
「じゃあ、長方形」
彩七は秀一が選んだ長方形以外の銅板を回収すると、自分の前にも長方形の銅板を置いた。
「ベースになる釉薬はどれにする?」
次に彩七は厳選してトレイに並べておいた釉薬を手前に寄せる。上にのせるフリットが目立つように、黒や紺などの濃い色がシャーレのような器に入っている。
七宝でいう釉薬の主な原料は、珪石、硝石、鉄、銅など、色素を出すための着色金属だ。釉薬として販売されてもいるが、それらの原料を掛け合わせて色を作るため、各窯元には秘伝の調合があるものだ。
目の前にある釉薬は、その工程を経て色ガラスを砂状にし、更に水洗いをしてペーストのようになった状態だ。
秀一は黒を選んでから、顔を上げた。
「ところで、彩七」
「なに?」
「これから色を扱うのに、メガネを取らないのか?」
ドキリとする。カラーレンズメガネについてはあまり触れられたくない。
「そこの釉薬はわたしが並べたものだし、作業は慣れてるから大丈夫だよ」
「視力は悪くないんだから、普段、家ではメガネをかけてないんだろ。俺はもうその目を見てるから、隠さなくていいよ」
彩七はハッとした。
そうだ、秀一くんは面接の時にいたから、目のことを知ってるんだ。
彩七はメガメを守るようにテンプルに手を添えた。表情が強張る。
「そんな頑なに隠すってことは、目について誰かにネガティブなことを言われたんだろうけどさ、そんなこと気にするなよ。俺だったら自慢するけどな。その目、綺麗だって言っただろ。見せてよ」
彩七は首を横に振る。
「本人を目の前にして、気持ち悪いって言えないから……」
「綺麗だと思わなかったら、わざわざそう言わないよ。綺麗だって言われたことない?」
「ないよ」
「マジで? おかしいな。……そうか、メガネで隠していれば見えないから、褒めようもないのか」
秀一は腕組みをした。
あまりに秀一が「綺麗」を連発するので、彩七の顔がだんだん紅潮してくる。
「彩七はちゃんと鏡でその目を見てる?」
彩七は「もちろん」と頷いた。
「気持ち悪いと思うのか?」
「自分の目だから見慣れてて、よくわからない」
「だったら昔のことなんて忘れて、俺の評価で上書きしろよ。子供なんて美醜もわからず、人と違ったら“変だ”“おかしい”と言う生き物なんだから仕方がない」
一度言葉を切った秀一は、彩七を真っすぐに見つめた。
「彩七の目は綺麗だ」
彩七は恥ずかしくなって、とうとう俯いた。こんなに熱心に目を褒められたのは初めてだ。
「だから彩七、メガネを外して」
秀一はおねだりをするように声音を甘くした。
ここまで言われては、もう拒否なんてできそうもない。彩七はカラーレンズメガネをそっと外してテーブルに置いた。
「やった、顔を上げてよ」
おずおずと彩七が顔を上げると、瞳を輝かせている秀一と視線が合った。彩七の身体がまた硬くなる。逃げ出したい。いつまで羞恥プレイが続くのだろうか。
彩七はなんとか顔を反らさずにいたものの、困惑しながらカーペットに視線を落とした。
「ほら、やっぱり」
視線を戻すと、頬杖をついている秀一に見つめられていた。思わずメガネに手が伸びそうになる。
「茶色い右目は光に当たると黄色っぽくなるし、左目も角度によって青色が緑がかったりする。メチャ綺麗だって。まさに七宝みたいだよ」
七宝みたい。
その言葉は彩七の体内で反響して、心を揺さぶった。
じんわりと胸に沁みこむと、今度はなぜか涙がこみ上げてきた。
「ありがとう、秀一くん」
ぐっと涙をこらえたものの、その声は鼻声になってしまった。
「ただの事実だから」
優しく微笑む秀一を見ると、また胸が温かくなってくる。
ほっこりとした気分に浸っていたいところだが、時計の針は九時を回っていた。十時過ぎには家を出たいので、そろそろ作業を開始しなければ間に合わない。
「じゃあ、始めよう」
彩七は姿勢を改めた。秀一もクッションの上で座り直す。
「まずは粘着性をよくするために、銅板の表面についている油汚れを取ります」
彩七は綿棒に脱脂液をつけて銅板を拭う。秀一も真似て同じようにした。
「それからホセっていうんだけど、この竹べらでベースの釉薬をのせて広げます。出来るだけ均等な厚さにね」
湿った黒い砂をのせていく感覚だ。
ベースを塗り終えたら、その上にピンセットで小石ほどのフリットをのせていく。色も形も様々だ。
「透明なものはベースの黒が透けてくすんで見えるから、不透明か半透明のフリットを選ぶといいよ。粒が大きいと溶けてちょっと横に広がるんだ」
秀一はあえて全面にフリットをのせずに、半月のように左上を空けてフリットを配置していく。中央部分を密集させ、端に行くほど隙間を空ける。最後に砂状のフリットを振りかけると、星のようになった。
「秀一くん、センスいいね」
「マジで? センセイに褒められると自信がつくわ」
「茶化さないで。……わたしも同じようにのせてみようっと」
彩七は照れながら、秀一と同じデザインを作った。
配置が完成したら、いよいよ焼成だ。
「少し乾燥させたいから、その間に部屋を出る準備をしちゃおう」
焼成用のステンレス網に作品を二つ並べてのせ、それを電気炉の上に置いた。
「それが窯なんだ。電子レンジと金庫を足して二で割ったような見た目だな」
「うん。小さいけど、千度まで出るんだよ」
コートを着込むと、彩七は炉入れ用のピンセットと軍手を秀一に渡した。
「これで網を挟んで、炉に入れてください。フリットが落ちないようにね」
秀一が慎重に作品を炉内に納めると、彩七は炉を八百度に設定した。
「この覗き窓から中が見えるよ」
円形の窓から見る炉内は真っ赤だ。
「おっ、フリットが飴みたいに溶けていくな」
二分ほどで釉薬が溶け、表面がフラットになる。
「では、取り出してください」
「さっきから時々、敬語になるな」
「なんとなく」
彩七ははにかんだ。
秀一が窯のふたを開けると、「さすがにスゲー熱いな」と言いながらピンセットで網を掴んで取り出した。
「表面が真っ赤になってる」
そう言っているうちに熱が下がり、飾り付けた釉薬の鮮やかな色合いが浮かび上がってくる。そして七宝独特の光沢を放った。
「うわ、すっげ!」
興奮したように目を見開いて秀一が声をあげた。
熱された釉薬が彩りを取り戻していくさまは神秘的だ。彩七も何度見ても胸が震える。
あとは冷やして、ざらつきがあればヤスリで研き、銅板をアクセサリーに加工して終了だ。
「ね、簡単でしょ」
彩七はペンダントトップとなった銅板をチェーンに通して秀一に渡した。秀一は角度を変えてペンダントを眺める。まるで初めて万華鏡を覗き込んだような反応だ。
「子供でもできそうなほど簡単なのに、売り物みたいな完成度だな」
「実際に、七宝の体験教室は親子で来る人が多いよ。でも、そのペンダントの完成度が高いのは、秀一くんが上手だからだよ」
「褒められた」
「事前に賄賂をもらってますから」
「土産を持ってきてよかった」
二人はクスクスと笑い合う。
「同じデザインなのに、やっぱセンセイのペンダントのほうが綺麗だな」
秀一は自分で作ったペンダントと彩七のものとを見比べた。
「初心者に負けたら泣く」
「要領は掴んだから、二度目は勝っちゃうかも」
「やめて、秀一くんなら本当にあり得る」
彩七が大いに顔をしかめるので、また秀一は笑った。
「材料費とか払うよ。いくら?」
「そんなのいいよ。最近もらってばっかりだし、プレゼント」
これからもクラウドファンディングの件で相談することになるはずなので、お礼の先渡しだ。
「だったら、彩七が作ったペンダントと交換したい。ダメかな」
「もちろん、いいよ。秀一くんのも素敵だもの」
二人はペンダントを交換した。
「サンキュー」
秀一はくすぐったそうにペンダントを眺めた。
「ちょうどいい時間だね。バイト行こ」
時間は十時を過ぎたところだ。『アルコバレーノ』まではゆっくり歩いても十五分もかからない。彩七はテーブルに置いていたメガネをかけた。
「彩七、これつけて」
彩七にペンダントを渡した秀一は背中を向けた。
「今つけるの?」
「鞄に入れると傷つきそうだから。かがんだほうがいい?」
「だ、大丈夫」
緊張のあまり彩七の声が硬くなった。
男性の首に手を回すなんて……。
友達もいなかった彩七は、当然、恋人ができたこともなかった。
突如、個室に異性と二人きりであることを意識し始めた。しかも相手は容姿端麗な秀一だ。
だめだめ、意識しちゃだめ。
彩七は首を振った。秀一は親切で彩七のクラウドファンディングに協力しようとしているのだから、おかしな感情を抱いては失礼だというものだ。
彩七は心を無にして、少し背伸びをして秀一に手が当たらないようにチェーンを回した。心臓の鼓動に押されるように手が震えるので、留め具を上手くはめられずにもたついてしまう。最終的には手が震えないように息をとめた。
「できたっ」
彩七は手の甲で額を拭う。肌は乾いていたが、気持ちの中では冷汗が滝のように流れていた。
「ありがとう」
秀一は彩七の作ったペンダントを満足そうに指先で弾いた。
「彩七にもつけてやるよ」
「えっ」
秀一はテーブルの上にあるペンダントを手に取った。それは秀一が身に着けているものとそっくりだ。彩七が秀一のデザインを気に入り、手本にもなるかと真似をして作ったので当然だった。
意図していなかったが、お揃いのペンダントが出来上がっていた。
同じアクセサリーを身に着けるなんて、恋人みたい……。
そう想像した途端、彩七の顔は真っ赤になった。
「わたしはいい。これからバイトだし」
「俺もバイトだよ。服の下にいれておけば邪魔にならないだろ」
秀一はそう言って、逃げ腰の彩七の正面から腕を回した。
うわあっ、近い近い!
目の前に、作り立てのペンダントが輝いていた。かすかに柑橘系の香りがする。秀一は香水でもつけているのだろうか。
「よし」
その声と同時に髪が持ち上げられて彩七は肩を強張らせた。チェーンが下に来るように髪をかぶせたようだ。
「これでお揃いだな」
ペンダントトップを持った秀一が爽やかに笑うので、彩七は恥ずかしさのあまり両手で顔を隠してうつむいた。わかっていて身につけたのか。
バイトに行こうと促され、頬の火照りが収まらないまま彩七は部屋を出た。
「クラファンの企画書作ったんだろ」
「うん、チェックしてもらいたいと思ってたんだ。データはクラウドにあるよ。URLを送るね」
彩七はスマートフォンを鞄から取り出して操作する。秀一も着信音が鳴ったスマートフォンを取り出して画面を開いた。
「後でいいよ。読むのに時間がかかるだろうから、歩きスマホは危ない」
「ざっと見るだけ。ゆっくり歩けば大丈夫だろ、人通りもないしな」
秀一は画面をスクロールしていく。
「よくできてる。昨日までクラファンを知らなかった人が作った企画書とは思えない」
「秀一くんが教えてくれたから、なんとか」
まだたたき段階の企画書だが、それでも相当苦戦したことは言わないでおく。
「実店舗だけじゃなく、インターネットで購入できるサイトを作ると、なお、いいかもな」
「店を構えている窯元さんは、もうホームページがあるよ」
「だから、プラットフォームだよ。店舗と同じで、七宝町の窯元の商品をまとめて扱うんだ」
彩七は大きく目を見開いた。
彩七の実家を含めて商品をインターネット販売している店もあるが、高齢化が進んでいるため、デジタルが苦手でホームページを作成したり管理ができない窯元もある。その商品もすべて通販できるようにするのか。
「さすが秀一くん」
「いやいや……」
スマートフォンの画面を見ながら呟くように返事をした秀一は、眉間にしわを寄せて足をとめた。
「店舗、名古屋駅の周辺に出すのか?」
「うん。七宝町に近いし人通りも多いから丁度いいと思って。内装費はあまりかからないと思うんだ。さっき提案してくれた通販サイトを作るなら、業者に依頼して作ってもらわなきゃいけないよね。合わせて百五十万円くらいかな? クラファンでいけそう?」
立ち止まってしまった秀一を見上げて、彩七は不安になる。
「彩七がこの店舗に常駐するんだろ」
「そうなるね」
人件費など内訳に入れていない。
「七宝焼を知らない人に直接見てもらいたいから、店舗を作るんだよな」
「そうだよ。名古屋駅なら、全国から人が集まるでしょ」
「構内だけならな。駅周辺にまで、どれだけの人が足を延ばすのかは未知数だ。それに、そんな近場に店舗を作ってどうするんだよ。東京に店舗を作ったほうが断然いい」
「そうかもしれないけど……」
彩七も選択肢としてまったく考えなかったわけではない。しかし東京は地価が高いので、比例して店舗の賃貸料も高くなる。場所にもよるが、どうしても二百万円を超えそうだ。All or Nothingなのだ、できるだけ目標額を低く設定して達成させないと意味がない。
「地元に近い方が、地元の援助を受けやすいって思ってるんじゃないか? 店を畳んで逃げ出しやすいって」
「そこまで思ってないよ」
彩七はギクリと視線を泳がせる。逃げ出そうとは考えていなかったが、なにかトラブルが起きた時、地元に近ければ助けを求めやすいとは思っていた。
「たとえば新宿駅は一日平均の乗降客数が三百五十三万人で、ギネスブックに世界最多と認定された。名古屋駅は……約百三十万人だな」
秀一はスマートフォンで調べながら言う。
「この数が購入者に直結するわけじゃないが、東京なら三倍近くチャンスが増えるとも考えられる」
中部の代表である名古屋駅も、ギネスと比べられては歯が立たない。
「腹をくくらないか、彩七」
秀一が真摯な眼差しを向けて来る。
――東京で店を出す。
彩七はしばし逡巡し、伺うように秀一を見上げた。
「勝算はあるかな?」
「あるように計画するんだろ」
肩を叩かれ、二人はまた歩き出した。
「うん、そうだよね」
彩七たちは『アルコバレーノ』の忙しいランチタイムをこなし、賄いを食べ終わった休憩時間に、店舗をどこにするか検討した。
まず挙がったのは池袋だ。
元々池袋はサンシャインシティ周辺に通称「乙女ロード」があり、アニメや漫画といった日本が誇るサブカルチャーの聖地だった。そこに加えて、国際アート・カルチャー都市構想を掲げる豊島区は二〇二〇年、ミュージカルや伝統芸能を公演するホールなど、八つの劇場を備える新複合商業施設『Hareza池袋』をオープンさせた。
東武百貨店では長年『美術画廊』『アートギャラリー』で絵画や工芸を展示しており、駅の西口には『東京芸術劇場』もある。池袋は間違いなく芸術の先端を走る都市のひとつだろう。
六本木も候補になった。
六本木ヒルズ内には『森美術館』、『森アーツセンターギャラリー』があり、東京ミッドタウン内には『サントリー美術館』、『21_21 DESIGN SIGHT』がある。その近くに『国立新美術館』もある。煌びやかな夜の街のイメージがある六本木だが、アートも充実しているのだ。
大穴として挙がったのは、渋谷区にある初台だ。駅を離れるとすぐに閑静な住宅街となり落ち着いているが、初台駅北側には『東京オペラシティ』と『新国立劇場』があり、前者の施設内にはアートギャラリーがある。
ほかにも「芸術の街」と冠をつけられそうな地域は複数あって彩七は迷ったが、第一候補を決めた。
上野だ。
全国規模で考えても、ここは美術館や博物館が最も多いエリアではないだろうか。『国立西洋美術館』や、彩七が定期的に通っている『上野の森美術館』、日本初の公立美術館である『東京都美術館』。日本最古の博物館『東京国立博物館』や『国立科学博物館』。そのほか枚挙にいとまがない。
不忍改札からアメヤ横丁方面は人でにぎわっているが、美術館のある公園口を出ると広いロータリーと緑が広がり、都心であることを忘れてゆったりとした気分になれる。
芸術愛好家たちが集まる上、日本屈指のターミナル駅であることは言うまでもない。
「上野となると……、四百万円はほしいな」
「えっ、そんなにしちゃうの?」
百五十万円の目標設定額でも高すぎるかと心配したのに、倍以上になってしまった。
「物件取得に関しての初期費用として大きいのが保証金で、賃料の約十か月分が相場だ。内装や外装工事はできるところを手作業にするとしても、それくらいは覚悟したほうがいい。本当は五百万円で設定したいくらいだ」
彩七はプルプルと首を横に振る。そんなに集められる気がしない。
「あとは、自治体で使える補助金や助成金をチェックすると、結構あると思うよ。大学でも起業支援してないかな。俺の行ってる大学はあるんだけど」
「調べてみる」
彩七は忘れないうちに、スマートフォンでメモをとった。
「やることいっぱいあるね」
「そりゃあな。萎えた?」
「燃えた!」
彩七は両手で拳を握った。
七宝焼職人になるという夢を叶えるだけではない。多くの人に七宝焼の魅力を知ってもらい、七宝町のみんなが笑顔になるプロジェクトにしたい。やりがいがないはずがない。
それから彩七は、大学とアルバイト以外はクラウドファンディングの準備に時間をあてた。リターンのための見本品を製作して撮影し、インターネット上でプロジェクトページを作成する。慣れていないためデータを保存しそびれて何度も書き直すことになった。
なんとか形になって、運営サイトにプロジェクトを申請したときには、指が震えるほど緊張した。
四日ほどで、審査が通過したとメールで返事があり、彩七は飛び上がって喜んだ。
――しかし、それは困難の幕開けに過ぎなかった。
