『七彩の七宝』三章「故郷との確執」(4/6)
クラウドファンディングは準備にも時間がかかったが、募集がスタートしてからもなにかと時間を取られた。
プロジェクトのサイトやSNSにメッセージが届くことがあり、それがどんな好循環につながるかわからないため、丁寧な対応が必要だった。一通ならものの数分なのだが、複数に返信していると、あっという間に時間が過ぎた。
どんなに時間をかけても支援に直結するわけではなく、いたずらなメッセージも多分にあったため意気消沈し始めていたころ、変わったメッセージがSNSに紛れていた。
《美馬坂彩七様
取材のお願い。
突然のご連絡にて失礼いたします。
地元の伝統工芸を守るためにクラウドファンディングを始められ、自らも職人として活動したいという美馬坂さんに、お話を伺わせていただきたく存じます》
「取材のお願い」
見慣れない言葉に、彩七はしばしスマートフォンの画面を見たまま動きをとめた。
それから、小さくこぶしを握る。
聞いたことのないウェブサイトの記者からのオファーだったが、彩七が世間に疎いだけかもしれないし、そもそも彩七は媒体を選べる立場ではない。
記事で取り上げてもらえるなら協力をしない手はない。まさにプロジェクトや七宝焼を広めるチャンスだ。
彩七は取材を受けると返事をした。
すぐにSNSで《取材を受けることになりました!》と報告した。普段よりも「いいね」がたくさんつく。
秀一からもメッセージが届いた。
《よかったな。一人で大丈夫か?》
口下手で人見知りの彩七を心配しているようだ。
《大丈夫だよ、ありがとう》
クラウドファンディングを始めてからPR活動を続けるうちに、七宝焼の広告塔になれたらいいと考えていたのだ。これくらい一人でこなせなくてどうする。
彩七は胸元のペンダントを服越しに擦った。
秀一くんなら誰にも心配をされずに、そつなくこなすんだろうな。
彩七に任せておけば大丈夫。
そう故郷のみんなに頼ってもらえるようになりたいと彩七は思う。
その二日後、彩七は国分寺駅近くの喫茶店で記者と会うことになった。
写真も撮らせてほしいと頼まれたが、それは丁重に断った。先日、秀一に撮影してもらった写真がたくさんあるので、写真提供することで話はついた。
取材時も、目が悪いためカラーレンズメガネを着用すると詫びを入れておいた。記事に取り上げてもらえることはありがたいが、初対面で信頼関係を築いていない者にオッドアイを晒す勇気はない。
取材日は朝から緊張していた。
見知らぬ人と長時間会話をしなければならないのだ。こんなことは初めてかもしれない。
自分はなんと小さな世界で、身を守って生きてきたんだろうと考える。
彩七は大学を卒業して実家に帰り、工房で両親と共に働こうと思っていた。そうやってぬくぬくと小さな世界に留まろうとしていた。実現していたら、それはそれで居心地がよかったに違いない。
しかし、まずはインターネット経由のメッセージを通じて、そして今からは対面で、知らない人たちとコミュニケーションをとるようになった。
いままでの彩七なら考えもしなかったことだ。
クラウドファンディングを始めたことで、そして秀一の存在で、彩七の世界が大きく変化したことを実感していた。
「もう、着いちゃう」
意識してゆっくり歩いているにもかからず、早鐘を打つ心臓がおさまってくれない。
約束の十分前に喫茶店につき、深呼吸をしてから、上部が曲線になっている木造りのアール扉を開けた。
チリンとドアチャイムが鳴ると、脇に並ぶ椅子に腰かけていた四十代ほどの男性が顔を上げた。小柄な痩躯で、キャップからはみ出した短髪や眉には白が混じっている。彩七と目が合うと相好を崩したが、どこかネズミのような顔は無機質な印象が残った。
「美馬坂彩七さんですね」
彩七が返事をすると、店員に話を通していたのか、「こちらの席へどうぞ」と彩七を案内する。夕方に近い時間帯で、客はまばらだ。
着席してあいさつを交わし、記者から名刺をもらう。店員に飲み物を注文し終わっても記者は帽子を取らなかったので、彩七の色付きメガネのことも気にしていないかもしれない。少々ほっとする。
「録音させていただきますね」
記者は慣れた様子でスマートフォンをテーブルに置いて録音機能をスタートさせた。いよいよか、と彩七の肩に力が入る。
七宝焼とはなにか、なぜ七宝焼職人になりたいのか、クラウドファンディングを始めたきっかけ、など想定していた質問が続いた。
「女性で職人を目指されているということで、ご苦労はありませんか?」
「いえ、特には。そこは男女の差はないと思います」
「女性ということで、時に軽く見られるようなこともあるんじゃないですか?」
その言葉に驚いて、彩七はすぐに声が出せなかった。
秀一も職人と言えば男性のイメージがあると言っていたが、この記者と随分ニュアンスは違った。
女性が職人を目指したら、本気だと思われないのだろか。
「ほら、女性の場合は成果が出なくても、結婚という逃げ道があるでしょう」
彩七が黙っていると、記者は補足が必要だと思ったようだ。重ねられたその言葉にも彩七は衝撃を受けた。
彩七の表情が曇ったことに気づき、記者は「一般論ですよ」と弁解するように付け加えた。
彩七は俯き、膝の上に揃えていた手を強く握る。
これは職人に限った話ではないのかもしれない。
――どうせ腰かけ気分なんだろう。
――男よりもリスクがないから気軽にチャレンジできていいよな。
リスクを伴う世界に挑戦しようとしても、この記者のような目で女性は見られてしまうのかもしれない。
悲しい気持ちになったが、彩七は歯を食いしばって堪えた。
記者の言ったようにそれは一般論で、きっと序の口の意見なのだ。これからもっと強い風当たりを受けることもあるのだろう。彩七が恐れている、誹謗中傷もあるかもしれない。
なんとなくで始めてしまったプロジェクトだが、今では成功させたいと強く願っている。それには自分自身も、ぬるま湯のようだった殻を破らねばならないと理解していた。
プロジェクトが成功したら、大きく成長できる気がしていた。きっと、自信がなくて情けない過去の彩七を脱ぎ捨てることが出来るはずだ。
「わたしは、たくさんの人に喜んでいただけるような作品を作り続けたいです」
一拍置いて、彩七は静かに、はっきりと答えた。つい口の中だけでモゴモゴとしてしまう口調も改めなければならないと意識した。俯きたくなる衝動も抑える。
「そうですか」
記者のつまらなそうな表情から、期待していたコメントではなかったことがわかる。しかし記者もこれ以上掘り下げるべきではないと判断したようで、次の話題に移る。
「伝統工芸といえば高価すぎて庶民は手が出せないイメージがありましたが、クラファンのリターンを見ると、かなり安いですね」
「手にしてもらいやすい雑貨やアクセサリーを意図的に選びました」
また話しやすいテーマに戻り、彩七は安堵する。
「バックヤードがみなさんに見えないので、なぜこれがこんなに高価なのかと疑問に思う品もあると思います。工芸品は手造りですし、色や形は何年も試行錯誤を重ねて出来上がることも多いので、どうしても値が張ります」
血の滲むような苦労の末に出来上がった工芸品。だからその技術は窯元ごとの秘伝となる。
競争の激しかった過去ならばそれでよかったのだろう。しかし、窯元がバタバタと倒れていく現代において、素晴らしい配合や技術を公開せずに消滅させてしまっていいのだろうか。墓場まで持っていくと決めた職人がいてもおかしくはない。しかし、彩七は複雑な思いがある。
「芸術性の高い品は素晴らしいものです。それでしか味わえない感動があるので、ぜひ実際に目にしてほしい。でもそればかりでは、今おっしゃっていたように、七宝焼が高価すぎて手が出せないものだと認識されてしまう。安価でも美しい品があることを知ってほしくて、そういう品を多くラインナップしました。でも今度は逆に、安いものばかりだと間違われてしまうのではと指摘をいただいたので、一つ大物をリターンにしています。そちらが本来の、代表的な尾張七宝です」
父親の作品だとは記者に言わなかったが、彩七は胸を張りたい気持ちだった。サイトの商品紹介では作者の名前を書いたので、説明欄を読むと彩七の父のものだとわかる。
「基本的に工芸品は、宝石や絵画と同じで高級な嗜好品です。生きていくうえで必ず必要なものではありませんが、見るたびに心を豊かに潤してくれるはずです。プロジェクトの応援をよろしくお願いします」
それからいくつか質問を受けて、一時間ほどで取材は終わった。記事はウェブサイトで三日以内に公開されるそうだ。プロジェクトを開始してから二週間ほどが経っているので、公開は早いほどありがたい。ページをリニューアルして八十万円を達成してから先は、あまり数字が伸びていなかった。記事がカンフル剤になればと期待している。
「疲れた……!」
自宅に戻った彩七は、コートを着たまま梯子をのぼってロフトベッドに倒れ込んだ。
緊張したまま一時間も話し続けたため余計な力が身体に入り、しかもじっと記者を見てまばたきの回数が減っていたため、目の奥や全身が痛んでいた。
「こんなになっちゃうんだ。頭が痛いよう」
彩七は枕を抱えて丸くなった。一対一でもこうなのだ。大勢の前で話す人たちはどれだけ胆力があるのだろう。
しばらくそのまま呻いていると、スマートフォンの着信が鳴った。
スマートフォンが入っている鞄は床にある。いつまでもコートのままベッドで寝ているわけにもいかないので、彩七は梯子をおりてクッションに座り、鞄を開けた。
「秀一くんからメッセージだ」
ふっと肩の力が抜けた。
《今日は取材だって言ってただろ。首尾はどうだった?》
《なんとかなったと思う》
彩七は返事をした。ベッドで休んでいるよりも疲れが癒える気がした。
《彩七のことだから緊張しっぱなしで、取材が終わっても身体がガチガチになってるだろ。マッサージしに行ってやろうか?》
文末にはニヤリとした絵文字がついていた。
見抜かれてる。どうしてわかるのだろうか。
お願いします、と返事をしたら、本当に来てくれるのだろうか。
そんなことを想像して、彩七はフフッと声を漏らした。それだけで心が温まった。
《これからお風呂でセルフマッサージをするから大丈夫です》
《そっか、残念(笑)。最近シフト被らないけど、なにかあったら連絡くれよ》
しばらく彩七はその画面を眺めていた。いつでも相談できる人がいるというだけで心強く、ありがたい。
やっと気力が回復した。彩七は記者に頼まれていた画像を揃えるために、ノートパソコンを取り出して起動した。
それから三日後のお昼時。
彩七は大学のカフェでコーヒーを飲みながら、スマートフォンのアプリを開いた。ほんの数週間前まで不携帯でも不便のなかったスマートフォンを、今では時間が空くたびにチェックしている。
数日前に《取材を受けることになりました!》と彩七が報告したメッセージに、《記事読んだよ!》《真剣さが伝わってきました。応援します》というコメントがついていた。
「あの記事、公開されたんだ」
記者には三日以内くらいだと目安を聞いていたが、はっきりとした日時は知らされていなかった。
取材を受けたウェブサイトのトップページを見ると、新着に彩七の記事が掲載されているのがすぐに見つかった。クリックして記事を開く。
《若手女性職人のジェンダー差別の苦悩と新時代の工芸スタイル》
タイトルを目にして、彩七は眉を寄せた。自分はそんな話をしただろうか。
本文に目を通すと、嫌な予感は的中した。
《大学三年生の美馬坂彩七さん(二十一歳)の実家『美馬坂七宝』は、二百年近く続いている尾張七宝の窯元。彩七さんは大学卒業とともに実家の店に入り職人の道を歩もうとしていたが、窯主である父親に拒絶された。初代から代々、窯は男性が継いできたのだ》
《七宝町には女性の窯主がいない。ここでジェンダーという高い壁がある。女性が足を踏み入れようとしても、そう簡単には受け入れられず、技術を授けてもらえない》
《それでも彩七さんは地元の伝統芸能を世に広げたいと、クラウドファンディングをスタートさせた》
彩七は眩暈がした。
「ひどい……」
事実の中に違和感なく虚構が混ざっている。
いくら地の文での説明だとしても、この記事を読んだ人は彩七が話したと思うだろう。
窯元に入るのを父親に断られたのは事実だが、その理由は縮小する業界で彩七を心配してのことだった。独自の技術を他人に明かさないのも当たり前のこと。
それがすべて、彩七が女性であることが原因のように書かれている。
これだけなら、まだよかったかもしれない。
リターン品についての彩七のコメントが致命的だった。
《手にしてもらいやすい安価な雑貨やアクセサリーを意図的に選びました。日常使いのできる品で間口を広げて、七宝焼を知ってもらうことが最優先だからです》
《芸術性の高い品はどうしても値が張ります。高い技巧を誇った作品も、買い手がつかなければ存在しないのも同じです。高価でも作れば売れるバブルの時代は終わりました。時代に合わせた作品を若い世代が作り上げなければ、伝統工芸の未来はありません》
《――現在、女性の職人が増えている。彩七さんも伝統工芸を牽引する若手の一人となるだろう》
そう記事が締められて、彩七のプロフィールや立ち上げたプロジェクトのリンクが貼ってあった。
決して彩七を落とすような記事ではない。読む人によっては、女性という“弊害”と昔ながらの“老害”を乗り越え、地元の工芸のために闘っている感動物語のように感じるかもしれない。
しかし、彩七の思いとかけ離れていた。すべてが間違いではなく、彩七の言葉が随所にちりばめられているのが余計に気持ち悪かった。
これでは歴代の窯元たちを全否定しているようではないか。
安価な作品で七宝焼の間口を広げたいとは思っていたが、それだけでいいとは一言も言っていない。高い技巧の作品は存在自体に意味がある。
それに、いい作品は時間がかかってもいつか買手がつく。作品のほうが人を選ぶことがあると彩七は思っている。自分にふさわしい主をじっと待っているのだ。
「どうしよう……」
悔しくて、悲しくて、なにより窯元の人たちに申し訳なくて、涙が出てきた。
サイトのページビューのために、彩七の言葉は捻じ曲げられて利用されたのだ。
この記事は地元のみんなに読まれたくない。
本来ならば《インタビューされた記事が掲載されました!》とSNSで報告するべきなのだろうが、恐ろしくてできない。
記事を取り下げてもらえないだろうか。
財布に入れた記者の名刺を取り出そうと鞄に手を入れたが、彩七は動きをとめた。
その前に秀一に相談しよう。
相手はクレームに慣れていそうだ。彩七の要望は叶わず、軽くあしらわれてしまうかもしれない。
秀一に電話をすると、三回でコール音が途切れた。
「彩七からかけてくるなんて珍しいな。どうした」
「突然ごめんね。今、大丈夫?」
「大丈夫じゃない時は電話に出ないことにしてるから、安心していつでもかけてくれ。声が沈んでるけど、なにがあったんだ?」
彩七は息をはいた。秀一の低い声を聞くだけで安心感がある。
「数日前に受けた取材の記事が公開されたんだけど……」
彩七は事情を説明した。秀一はまだ記事を読んでいなかったので、「読んでからかけ直す」といったん電話が切られる。そして数分後に着信音が鳴った。
「確かに、彩七が言いそうもない言葉が混じってるな」
開口一番、秀一は神妙な声でそう言った。
「原稿確認は……、なかったからこうなったんだろうな」
「事前に記事をチェックできたの?」
「普通は相手に見せるものだよ。彩七が一般人だから、その作業の手間を省いたんだろうな。杜撰な仕事をするもんだ。彩七が《あることないこと記者に書かれた》ってSNSで発信したら、それなりにダメージがあるだろうに。記事を書いてやったんだから文句を言うなという傲慢なヤツなのか、脳なしなのか、彩七を相当なめてるのか」
秀一は憤っているようで早口になっている。共感してくれる相手と話すことで、彩七は気持ちが落ちついてきた。まだ湿っていた目元を指先で拭う。
「記事を取り下げてもらいたいんだけど、できるかな」
「消せと言えば消すかもしれないな。でも、一度世に出た記事は別のサイトに転載されたりして、完全に消えない。だったら、きちんと彩七の思いが伝わるように、修正させた方がいい。それでも元のデータはどこかに残るだろうが、野放しにするよりはマシだ」
秀一に、どう修正するのか赤字を入れたものを用意してから、編集部に電話するといいと知恵をもらった。記者の携帯に連絡をするとごまかされたり、対応が遅かったりするという。
「俺が電話しようか? 怒ってる芝居をするの得意だよ」
「自分でするよ。同じようなことがあった時、また秀一くんに頼ることになったら申し訳ないから」
「俺は頼ってくれた方が嬉しいけど」
ここまでくると湿っぽい雰囲気はなくなり、いつもの軽い口調になっていた。
「電話をしたら、一秒でも早く修正しろってせっついたほうがいいぞ」
「そうする。地元のみんなが記事を見る前に直してもらわなきゃ」
「災難だったな。頑張れよ」
電話を切ると、彩七はすぐに赤字を入れた修正原稿を作って編集部に電話をかけた。
電話を受けた女性の編集者は丁寧な対応で、彩七に申し訳ないと謝り、すぐに修正すると約束してくれた。
そして約束通り、三十分以内に彩七が修正したとおりの記事に更新されていた。ひとまず胸をなでおろす。
修正後の記事なら、たくさんの人に拡散したい内容だ。すぐに彩七はSNSでリンク付きで報告した。たくさんの反響があった。
そんな心労を乗り越えたかいがあり、停滞気味だったプロジェクトの支援者が一気に伸びて、百五十万円まで集まった。
期限はあと二十日強、不足金額は二百五十万円。
まだ半分以上も足りないが、絶望的な数字でもない。
やれることを地道に続けるしかない。
記事が公開された翌日の夜。
そろそろ寝ようかとノートパソコンを閉じた時、彩七のスマートフォンが鳴った。視線を向けると、画面に「自宅」と表示されていた。
「はい」
彩七は眠気で少々ぼんやりしながら通話ボタンを押した。
「夜分ごめんなさいね。話したいことがあって」
母親の声だ。『アルコバレーノ』に皿をレンタルする話だろうか。その件は父親と料理長で順調に進んでいると聞いていたのだが。
「お母さん、どうしたの?」
「……最近、いろいろと頑張ってるじゃない」
「うん」
応援の電話だろうか。それにしては、母親のテンションが低い。
「最近インタビューを受けて、記事になっていたわね」
「読んでくれたの?」
「読んだわよ。いいこと言ってるなって思った」
そこで、「おい、母さん」と、父親の声が聞こえてきた。母の近くにいるらしい。
「私はそう思ったんだけどね。神谷さんが……」
彩七の眠気が吹き飛んだ。
また神谷源道だ。
「怒ってるの?」
以前にも、神谷が気分を害しているようだと父親に言われたことがある。
「近いうちに帰ってこれる? やっぱり、ちゃんと神谷さんと話した方がいいと思うの」
母親は申し訳なさそうな声音だ。おそらく、娘のやりたいようにさせてあげたいという親心と、周囲からの圧力の板挟みになっているのだろう。
「……わかった。明後日が日曜日だから、帰るね」
そう約束して電話を切った。
いつの間にか乾いていた喉で空唾をのんだ。体温が一瞬で何度か下がったように感じる。
きっと神谷は、修正前の記事を読んで怒ってしまったのだ。
ならば、その記事は彩七の本意とは違う。きちんと説明すれば納得してくれるはずだ。
それだけではない。むしろ、これはいい機会なのかもしれない。
神谷は七宝町の顔だ。彼が彩七の力になってくれるなら、プロジェクトの成功にぐっと近づくはずだ。秀一も担当者も、三割くらいは知人友人の支援で成り立ってると言っていた。
「神谷さんはきっとわかってくれるはず」
彩七も神谷も、気持ちは同じはずだから。
そう信じて彩七はベッドにもぐりこんだ。冷えた身体を擦りながら、寝付けない長い夜を過ごした。
二日後の日曜日はあいにくの雨だった。名古屋鉄道の二両編成の真っ赤な車両が霧雨にけぶっている。
「わかってたけど、結構かかったな」
スロープを下って七宝駅の改札を出ると、秀一は大きく伸びをした。国分寺駅から七宝駅まで、新幹線ののぞみを挟んで三時間以上かかっていた。
「ごめんね、遠くまで付き合ってもらっちゃって」
「俺がついて行きたいって言ったんだから」
七宝駅はエメラルドグリーンの三角屋根が特徴的な無人駅だ。駅から出るとすぐに住宅地になる。
二人は傘をさして歩き出した。
「雨だからタクシーを使いたいところだけど」
「呼ばないと来ないよ。十五分くらいだから歩こう。これでも数年前にコンビニができて、便利になったんだよ」
国分寺に比べたら駅周辺はなにもないに等しい。
「彩七はここで生まれ育ったんだな。空が広い。晴れてたらよかったのに」
「うん、景色はすごくいいよ」
彩七は田園風景が広がるこの町が好きだ。周辺には用水路も多く、子供の頃は魚を捕って遊ぶこともあった。
二人は人気の少ない細い道を並んで歩く。
秀一が同行することは、昨日の夜に急遽決まった。
アルバイト先で秀一と顔を合わせ、帰り際の控室で地元に戻ることになった事情を話すと、秀一は「俺も行く」と宣言したのだ。「一緒に行こうか?」でも「ついてきて欲しい?」でもなかった。
「そんな、遠いよ」
今までも散々時間と労力をもらっているのだ。これ以上迷惑はかけたくない。
「その神谷源道って職人に、みんな頭が上がらないんだろ? 話を聞いていると、ご両親は当てになる気がしない。その場に絶対的な彩七の味方が必要だ」
どこまでも彩七を思いやった秀一の言葉に、思わず泣いてしまいそうになった。
本当は怒っているという神谷源道に会いに行くのが、たまらなく怖かった。
「わたし、秀一くんにしてもらってばかりだよ。どうやって恩返しすればいいのかわからない」
「そんなのいいよ。やりたくてやってるんだ。それに俺も、このプロジェクトは絶対に成功させなければいけない」
コートを羽織りながら、彩七は不思議そうに秀一を見上げる。
「どうして秀一くんが成功させなきゃいけないの?」
「……うん、まあ、いろいろと」
秀一らしくなく、歯切れが悪かった。それからすぐに翌日の待ち合わせ時間などの話題に移った。
――そんなことが昨日あり、二人はこうして霧雨の牧歌的な景色の中を歩いている。
目的地は、神谷源道の家だ。
しばらくすると、剪定された生け垣が見えてきた。その奥に瓦屋根の日本家屋がある。この辺りは大きな一軒家が多いが、ここは豪邸と呼んで差し支えないだろう。
彩七はメガネを外してケースにしまった。視界がクリアになる。
今日集まるのは彩七を幼いころから知っている者たちなので、目を隠す必要がない。むしろ神谷の前でカラーレンズをつけていようものなら、雷が落ちるに違いない。
重い門扉を開くと、個人宅とは思えない庭園が広がっていた。
「すげえな。七宝職人って儲かるのか」
「お金のことと結びつけないの。神谷さんは特別だよ」
思わずというように呟く秀一を彩七は軽く小突いた。
庭には大きな池があり、苔と高木の緑が写り込んでいる。飛び石を渡り歩き玄関まで来ると、やっと呼び鈴にたどり着いた。
彩七は以前も会合のため父と共に神谷の邸宅に来たことがあるのだが、庭が広すぎて不法侵入をしている気分になった。
約束の十四時に十五分ほど早いが、時間が前後する可能性は伝えてあった。それに傘立を見ると濡れた傘がいくつか入っている。既に役者は揃っていそうだ。
彩七はちらりと秀一を見上げると、彼は軽く頷いた。
わたしは神谷さんの誤解を解きに来たんじゃない。納得してもらったあと、プロジェクトに協力してもらうんだ。
彩七は腹を決めた。
もしプロジェクトが成功すれば、七宝町の窯元の作品を店舗や通販で販売することになる。神谷とはいずれ話し合う必要があった。
思い切って呼び鈴を鳴らすと、内側から足音が近づいてきた。一部の曇りガラスに人影が浮かぶと引き戸が開く。
「彩七ちゃん、あけましておめでとう。そちらの方も遠くまでよお来たな。まあ、ハンサムな男性やね」
着物姿の八十代の女性がにこやかに出迎える。神谷源道の妻だ。髪は黒く染めていて首の後ろで一つにまとめている。
秀一は礼儀正しくあいさつをした。秀一が来ることは彩七の親を通して事前に伝えてある。
コートを脱いだ秀一は、堅苦しくなりすぎないカジュアルスーツを着ている。彩七も膝下の白いシャツワンピースに、Vネックのノーカラージャケットを羽織って、ややフォーマルに寄せていた。
「東京土産です」
彩七が紙袋を渡す。東京駅で購入した老舗の和菓子だった。無難な選択だが、今日の訪問は相手を怒らせているという前提があるので、出だしで波風を立てたくないという思いが強い。
「気ぃ使うわんでもええのに。どうぞ」
妻に促されて玄関に入ると、彩七の身長より高く枝葉を広げた大王松と苔梅に圧倒された。活けられた大きな花器は七宝焼で、その存在は松や梅に負けていない。神谷源道の作品だ。
神谷の有線七宝は精緻を極めた細工で、何度見ても目を奪われる。どれだけの集中力があればこの巨大な花器を仕上げられるのだろうか。彩七は見とれて動きがとまった。
「彩七」
秀一に呼ばれて我に返り、慌てて二人の後に続く。
相当な年月の過ぎた木造家屋は古びてはいるが、よく手入れと清掃がされているようで、廊下は光沢があるほど磨き上げられていた。
通された二十五畳ほどある和室には、予想通り五人揃っていた。右側には六十代の窯主が二人、左側には彩七の両親。彩七の父は四十九歳で、この町の窯元の中では最年少だ。
そして、正面に着物と羽織姿の神谷源道が座していた。
神谷は白髪を後ろになでつけ、同色の髭が顔を覆っている。老眼鏡の奥の瞳は以前よりも瞼が下がっているような気もするが、鋭い眼光は健在だった。とでも八十三歳には見えない。
彩七と秀一は神谷の正面にある座布団に並んで座る。
緊張しながらも、彩七は神谷に挨拶をした。「プロジェクトに協力してくれている箕輪崎秀一くんです」と秀一を紹介する。秀一も続いて挨拶と簡単な自己紹介をした。
「あんた、彩七ちゃんたちがお土産を持ってきてくれたで。お茶を出しましょうか」
「余計な事せんくてええ。下がっとれ」
妻は去り際、彩七に見えるように肩をすくめて見せた。「ヤレヤレやね」と言いたげな表情だ。
「彩七、話は聞いとる」
声量のあるしわがれた声が和室に響いた。
「どういうつもりなんや」
「わたしは、この町の工芸を広めたいと……」
「それであんな、子供のオモチャのようなもんばっか載せたんか。これが七宝でございと得意げに披露される方が迷惑。屈辱だわ」
プロジェクトのページのリターン品のことだろう。
彩七は俯いてスカートを掴んだ。髪が流れて彩七の顔を隠す。
確かに気軽に支援をしてもらえるように安価にしたし、品の種類も日常使いできる雑貨が多いが、それは入り口にすぎないと丁寧に説明文にのせている。それに秀一の指摘もあり、伝統工芸の名にふさわしい父親の作品もリターンに追加済みだ。
そもそもプロジェクトの本来の目的は、人を集めた先にある。
本格的な七宝焼作品を手に取れる店舗を作ること。七宝町の窯元すべての作品を一括管理して知名度も売り上げも上げることで、この町をまた活気づけること。
そこが本流なのだ。
なぜ伝わらないのだろう。書き方が悪かったのか。
彩七は悲しくなった。
それに、神谷に自分の作品を「子供のオモチャ」と言われたこともショックだった。
彩七は職人のはしくれとして、矜持を持って作成している。簡単な作りでも自分なりにデザインに時間をかけて、手にした人がずっと見ていたくなる、もっと欲しくなる、そんな商品に仕上げたつもりだった。
言いたいことはたくさんあるのだが、声を奪われたように言葉が出なかった。
「あの記事も、でら不愉快だわ」
彩七ははっと顔を上げた。やはり修正前の記事を読んでいるのだ。誤解を解かなくてはならない。
「あの内容はわたしの本意ではありません。すぐに修正版に更新されました」
「それも美馬坂さんに聞いて知っとる」
お父さんが話してくれていたんだ。
彩七は視線を送ると、父は軽く首を横に振る。「説明はしたが聞き入れてもらえなかった」と言っているようだ。
「デフレ時代に合わせて安物を作れんジジイはとっとと引退せえ。そんな内容やったな。普段から思ってたから、つい口に出たんやろ」
「違います。わたしは言っていません。考えたこともないことを勝手に書かれたんです」
彩七は強く否定する。ここはしっかりと訂正しなければならない。
「だとしても、読んだもんはそう思わん。言葉に責任をとれんのなら、そんないい加減な取材を受けるべきじゃなかったわ」
「……すみません」
神谷の言う通りだ。取材を受ける際に、原稿チェックの有無や条件を確認するべきだった。取材を受けるのが初めての素人だったから、では言い訳にならない。
「あんたは尾張七宝の名を穢すことばかりしとる。いい加減にしや」
神谷の声が重く胸にのしかかる。
神谷が憤っている理由は彩七の想像の範疇だった。ここからひとつひとつ丁寧に、誤解を解きながら彩七の気持ちを伝えていけばいい。
ここからが彩七の弁解の、そしてプレゼンテーションの時間だ。
さあ、巻き返しの時だ。
……そのタイミングだとわかっている。
しかし、彩七が全力で取り組んできたことすべてを否定され、心が折れかけていた。歯を食いしばって涙をこらえるのに精一杯で、秩序立てて話すことなんてできそうもない。
誰も口を開かなかった。
沈黙が落ちる。
外の深々とした霧雨まで音として聞こえて来そうだった。
部屋にいる両親や窯元の二人も発言しない。神谷と同じ意見なのだろう。
彩七が良かれと思って行動してきたことは、すべて一人よがりだったのだ。
地元の窯元を救おうなんて大それたことができるはずがなかった。おこがましかった。
これからも思いが先走って、また失敗してしまう可能性もある。
このプロジェクトは神谷を、窯主たちを怒らせてまで進めるべきものではない。
彩七は七宝焼が好きだ。これからも作り続けたいと思っている。
それだけなら難しいことではない。
秀一にも一番初めに提案されたではないか。
趣味で作っていれば誰にも迷惑をかけない。
それでいいはずだ。
「わかり、ました……」
俯いたまま彩七は声を絞り出した。華奢な肩も声も震える。
プロジェクトを取り下げます。
そう口にしようとしたとき、隣りで気配が動いた。
「黙って聞いていましたが、ひどいものですね。ビジネスマンとしてもリーダーとしても失格だ。年長者としては恥ずべきレベルです」
秀一が立ち上がっていた。眉を吊り上げ、まっすぐ神谷源道を見下ろしている。
「きちんと彩七のしようとしている趣旨を理解していれば、まずは感謝や労いの言葉が来るはずです。それから間違いがあれば正して、これからの道筋を示せばいい。いままでどんな町おこし事業があったのか存じませんが、一人で町を盛り上げようとしている彼女に対して、小言とダメ出ししかできないんですか。そんなことは誰にでもできる。屈辱だ不愉快だと感情ばかりぶつけて、聞いているこっちが不快です」
突然立ち上がって滝のようにしゃべりだした秀一に驚いて、誰も口を挟まない。彩七も涙で瞳を濡らしたまま、ぽかんと秀一を見上げていた。
「神谷さんの発言で気になったのは、話は『聞いている』と何度か言っていたことです。ウェブの記事は紙媒体より読みにくいかもしれません。それがもしスマホの画面なら、かなり文字が小さい。老眼が進んでいる高齢者には厳しいでしょう。……神谷さん、あなたは彩七の立ち上げたプロジェクトの文章を隅から隅まで、きちんと読みましたか?」
神谷は太い眉をつり上げる。
「読んどらんが、読み上げられたんを聞いた」
「きちんと最後まで聞きましたか? 途中で苛立って遮ったりしていませんよね? 彩七は写真付きで丁寧に解説しているから、相当な分量がありますよ。それにプロジェクトは一度、大きくリニューアルしています。あなたのいう『子供のオモチャ』以外の品も掲載されています。知っていましたか?」
神谷は唇を引き締めてたまま押し黙った。秀一はふっと一方の口角を上げる。
「そんなこともあろうかと、プロジェクトのページと彩七のインタビュー記事、どちらもA三の大きな紙にカラープリントして持ってきました。これくらい字が大きければさすがに読めるでしょう」
秀一は筒状に丸めた十枚以上あるA三の紙を鞄から取り出して、神谷の前に置いた。
「彩七はクラウドファンディングのなんたるかもわからず、その特徴的な目から顔出しを怖がっていたのを克服して写真を掲載し、人見知りなのに町に貢献できると取材を受けたんです。もう少し想像力を働かせて、彼女の気持ちや勇気ある行動を労えなかったのでしょうか」
やっと怒涛のようだった秀一の話が終わった。
秀一は誰かが口を開くのを待っているようだったが、動く気配がないのを察すると、彩七の手を引っ張った。正座していたので、足がしびれてよたついてしまう。
「帰ろう」
「えっ、でも」
「お互い言いたいことは言っただろ。あとは考えるだけだから、頭さえあればどこでもできる。時間をあけて冷静になったほうが頭も冴えるだろうしな」
きちんと話し合ったほうがいい気もしたが、彩七としてもこの空間はなんとも堅苦しく気まずいので、退散していいのなら便乗してしまいたい。
「そうだ、一つだけ確認しなければならないことがあります。これからもプロジェクトを続けてもいいですか?」
彩七の手を引いて出口に向かっていた秀一は、足をとめて振り返った。
「勝手にしやあ。どうせ成功せんわ」
眉間のしわを深める神谷に、秀一は笑みを向ける。
「ありがとうございます」
「あの、いろいろとすみませんでした。よかったら、秀一くんが用意してくれたプリント読んでください。わたしは尾張七宝のためになりたいんです。七宝が大好きだから、何もせずに失いたくないんです。そのための活動なんです」
彩七と秀一は一礼してから部屋を出た。外は霧雨がやんで、雲の隙間から青空が覗き始めている。
風雅な庭園を過ぎて門扉を抜けると、秀一は大きく息をはきだした。
「ザ・職人って感じのジイサンだったな。想像以上に貫禄があったわ」
「神谷さんにあんなに言えるなんてすごいね。わたし、神谷さんの前にいるだけで委縮しちゃって」
「頑固ジジイなら親父で慣れているつもりだったけど、俺もビビッてたよ」
「全然、そうには見えなかった」
「あそこはバシッと伝えておかないといけない場面だったからな。交渉は、多少演技も大事なんだよ」
秀一はニッと笑った。
「方法で多少食い違っていても、伝統を守りたいという気持ちはあのジイサンも彩七も同じなんだから。すぐにわかり合えるよ」
「そうだといいけど……」
神谷はプロジェクトを中止しろとは言わなかった。あくまで黙認であって賛同したわけではなかったが、秀一の言葉によって彩七への態度を軟化させたことは間違いない。
「あの部屋にいた窯元の人たち、一言もしゃべらなかっただろ」
「窯元さんたちの会合は、もっと和気あいあいとしてるんだけどね」
「神谷さんを立ててるのもあると思うけど、彩七が、彩七のご両親が羨ましいのもあるんじゃないかと思うよ」
「うちが羨ましい?」
秀一は頷いた。
「後継者がいる窯元って、彩七のところしかないんだろ? そのほかは、このままいけばなくなる運命なんだ。彩七は親から継ぐことを断られたのに諦めなかった。だから、あの神谷のジイサンがあんなに辛らつな言葉を使ったのは、嫉妬もあったと思うな」
「嫉妬」
想像もしていなかった言葉だ。
しかし、的を射ているかもしれない。
神谷源道は誰もが羨む類い稀な技術を持っている。しかし、残念ながら後継者はいない。神谷が亡くなればそのスキルは消滅するのだ。その焦燥感や無念さは、ほかの誰でもなく神谷が一番強いだろう。
そう考えると、先ほどの集まりで傷ついた心も癒えていく気がした。秀一の言葉は、まるで魔法だった。
「ありがとう。秀一くんがいなかったら、どうなっていたかわらかないよ」
「だから、いいって言ってるのに」
青空の面積が広がってきた。まだ課題は山積だが、彩七の気持ちも晴れやかになってくる。
「あっ、メガネかけなきゃ」
駅に近づいてきた。田舎町とはいえ駅周辺は人が増える。
「今日はもう、メガネをかけなくてもいいだろ」
「でも……」
「旅の恥はかき捨て、そこらの人とはどうせ二度と会わないよ。わざわざ彩七の目について意見してくるヤツがいるはずもないし」
「そうだけど」
「それに、なにかあっても傍に俺がいる」
彩七が見上げると、秀一の頼もしい笑顔があった。
「うん、そうだね」
秀一の笑顔が伝染したように、彩七も笑顔になった。彩七は取り出しかけていたメガネケースから手を離した。
ふと、空が光った気がして視線をあげた。青空に虹がかかっている。カラーレンズメガネをかけていたら、気づかなかったかもしれない。
なんだか、空も応援してくれている気がしてきた。
七宝駅から名古屋鉄道に乗車して二十分ほどで名古屋駅に到着。それから新幹線で東京駅まで約一時間半。
「なにもしてないのに、移動だけでも疲れるよな」
秀一はのぞみの青いシートを軽く倒すと深くもたれた。折りたたんだ長い足が窮屈そうだ。
「往復で七時間くらいかかるもんね。今日は付き合ってくれて本当にありが……」
秀一は彩七の唇を指先で押さえた。
「彩七は礼と謝罪を言い過ぎ」
「ご、ごめん……」
彩七は驚いて瞳を見開くと、真っ赤になってうつむいた。家族以外に唇を触られるなんて初めてだ。こんなことは友達なら普通なのだろうか。
車内販売の声が聞こえてくると、秀一は「ビール飲もうかな」と呟いた。
「秀一くんって、お酒を飲むんだね」
まだ頬を火照らせたまま、彩七は秀一に視線を向ける。
「時々ね。これから彩七に言いたいことがあるから、景気づけに」
言いたいこと?
彩七は小首をかしげた。なぜそれで酒を飲むのだろう。シラフでは言いにくいのだろうか。
秀一はビールとつまみ、そして彩七にソフトドリンクを買ってくれた。時刻は午後四時近くになっており、外は日が落ち始めている。
「俺がいずれ継ぐ会社のこと、ずっと飲食店としか言ってなかっただろ」
秀一はビールを開けて一口飲むと、正面を見たまま話しだした。
秀一の親の会社が判明した日、彩七は箕輪崎コーポレーションを検索してみた。日本料理、中華、イタリアンなど、高価格帯のレストランをチェーン展開していた。主にホテルや地価の高い立地で営業しているので、外食は「ワンコインランチ」がせいぜいの彩七が箕輪崎コーポレーションを知るよしもなかった。
「高校の時、結構ショックなことがあってさ」
彩七は驚いて秀一を凝視してしまう。なんでもそつなくこなす秀一に苦い経験があるとは、正直、興味津々だ。
「高校の時の彼女がさ……。念のために言っておくけど、もうとっくに別れてるし未練もないからな」
秀一は強めに強調した。彩七はコクリと頷く。それより先の話が気になる。
「俺は中学生くらいまでは調子にのってて、結構羽振りのいい生活をしてたんだ。そっちは詳しく言わないけど、黒歴史すぎて」
彩七はぱちぱちと瞬きをする。秀一の黒歴史も知りたい。
「中学までは親が俺にくれたボーナスタイムだったんだな。罠ともいえる。高校生になった途端、働けるようになったんだから欲しいものは自分で稼いで買えと言われて、小遣いがなくなったんだ。よく、一度上がった生活水準を下げるのは難しいって言うだろ。あれを高一で味わった。それまでは親の金で好き放題し過ぎていただけだけど。同じことをしようと思ったら、自分でどれだけ労力が必要なのか、身をもって思い知らされたんだ。そういう作戦だったんだな。おかげで支出の見直しが大変だった。スマホは格安シムに変更したし、サブスクも解除した。金を稼ぐのは大変だって実感したよ」
秀一は忌々しげな表情でビールをあおった。
海外ではお金の価値を教えるために子供のころから株を与えると聞いたことがあるが、秀一の家は独特の教育方針だったのだなあと彩七は思う。
「で、高校生になって彼女ができたんだけど。中高一貫校だったから、その彼女は俺が羽振りが良かったことをどこかで聞いていたみたいなんだよ。俺は男子校だから、別の学校の彼女だったんだけど。当時、男子校と女子高で合コンみたいなのが流行っていて」
そうなんだね、と彩七は相槌を打った。
スーパーマンのように見えていたが、秀一も普通の男の子なんだなあと、不思議な気分になった。助けられて、頼ってばかりいたが、秀一は彩七と同じ年なのだ。
ちなみに彩七は合コンと名のつくものに参加したことがない。大学でもサークルに入っていないので、飲み会に誘われたこともなかった。
「彼女の方から誘われて付き合ったんだけど、普通すぎる、って言われた」
「普通?」
「『大企業の御曹司じゃないの?』『もっと贅沢をさせてくれるかと思った』『これじゃ秀一と付き合ってる意味がない』。このコンボをくらって、彼女と別れた」
つまり、金目当てだったのだ。
「高校生なのに、別れた理由が大人みたい」
「あそこはお嬢様学校だったから」
秀一は苦笑する。
「それから、親のことは隠すことにした。変に期待されても困るしな。俺の所持金は、イコール、バイトで稼いだ金だ。大して持ってない」
「そんなの当たり前だよ」
彩七だって生活するのに精一杯だ。少しお金に余裕がでると、七宝焼の道具を購入したり、稀にちょっと贅沢な外食をしたりする。
「バイトは飲食店の勉強を兼ねてるって彩七に言ったことがあるけどさ、スマホ代を払ったりするためにバイトは必須なんだ。それで、どうせ働くなら学びがありそうな飲食店を選ぼう、って順番なんだよ」
「でも、秀一くんの持ち物って、高級なものばかりだよね」
「中学までは好き放題だったから目が肥えちゃって、コートや靴は好きなブランドがあるんだ。数か月のバイト代を貯めて買ってる。直接肌に触れるインナーも好みがあるんだけど、あとは安物だよ」
「買い物上手なんだね」
そもそも秀一はスタイルがいいので、なにを着ても安物には見えないのかもしれない。
ふむふむと聞いていた彩七は、はたと気づいた。
「結局、秀一くんがわたしに言いたいことってなんだっけ? 彼女にふられたこと?」
「というか……、金がない、こと」
秀一は恥ずかしそうに頬を染めた。
彩七は赤べこのように小さく首を揺らした。「ふうん」という感情しかわかない。
わざわざそれを自分に言いたかったのなら、なにか実のあるコメントをしたほうがいいのだろうか。なにを言えば正解なのか。逆にそわそわしてしまう。
「早めに言っておかないとって思って。彩七がこんなに頑張ってるのに、なんで支援してくれないんだって思われたらイヤじゃん。金の切れ目が縁の切れ目って言うし」
「それは元々お金で繋がっていた縁の場合でしょ」
なるほど。そういうことを心配して、彼女にふられた話を持ち出したのか。
お金がないなんて当たり前なのに、秀一にとっては重要な問題のようだ。
「わたしは秀一くんの家がそんなに裕福だって知らなかったし、たとえお金が有り余っていたって、支援してくれなきゃおかしいなんて思わないよ。秀一くんがクラウドファンディングの仕組みを教えてくれたでしょ。応援したいと思った人に支援してもらうんだって。支援したくなるような魅力的なプロジェクトにしなきゃいけないって」
「俺にとっても応援したい魅力的なプロジェクトになってるよ。でも金がないんだ。年末の海外旅行で預金を使い果たしたんだ」
秀一は頭を抱えた。
「でも、少しは支援してるからな」
秀一は彩七の手を取った。彩七は思わずドキリとしてしまうが、秀一にとっては深い意図はないのだろう。
「ありがとう。無理しないで」
「マジで情けない。旅行に行かなきゃよかった。こういう大事な時に使えないなんて」
「大丈夫、成功するようにもっと頑張るから。また相談にのってね」
秀一がそんなことに気を病んでいるとは思わなかった。それを言ったら、彩七だって自分のプロジェクトをまだ支援していない。そんな余裕資金はないからだ。
酒が入ったせいだろうか。大いに落ち込んでいる秀一の肩を擦って彩七は慰めた。いつもの逆のようで、彩七は新鮮な思いだ。
「彩七、肩貸して」
低い位置からねだるように秀一に見上げられて、また彩七はドキリとする。
「いいよ、酔っちゃったんだね」
秀一の頭が彩七の華奢な肩にのった。加減をしているのだろうか、あまり重たくない。「ちゃんと体重をかけていいよ」とボリュームのある黒髪を軽くなでると、頭の重みが増した。以前の香水とは違う、整髪料の香りがする。
「彩七」
至近距離から目が合って、鼓動が一段と早くなった。
「なに?」
「その目、やっぱ、スゲー綺麗だよ」
囁くようにそう言って、秀一は目を閉じた。
うわ、うわぁっ。
彩七は茹蛸のように顔が真っ赤になった。
さっきからドキドキが止まらない。
秀一くんは酔うとスキンシップが激しくなるのかな。
そう思いながら、静かになった秀一を見下ろす。いつも見上げてばかりいるので、この角度は珍しい。
切れ長の二重の目は閉じていると睫毛が長いのがよくわかる。高い鼻梁の下の程よく厚みある唇は軽く結ばれていた。すっと伸びた首元に、シルバーチェーンが少しだけ見える。
このチェーンは、自分が身に着けているものと同じだ。
秀一くんも、まだペンダントをつけてくれてるんだ。
彩七は服の上から自分のペンダントを指先で押した。
お揃いの、交換したペンダント。
なんだかくすぐったい。
静かになると、今日は一度もSNSをチェックしていなかったことに気がついた。最近は彩七と同じように伝統工芸の職人になろうとする若手ともSNSで繋がって、事務的な作業だけでなく、楽しみながらコメントをチェックできるようになってきた。
秀一を起こさないように鞄からスマートフォンを取り出して画面を開く。
自分と同じようにクラウドファンディングを頑張っている若手職人の進捗を見ると、つい《応援しています》と書き込んでしまう。そして、ほんの少額だが、できるだけ支援をすることにしていた。厳しい状況はみんな一緒だ。
開放しているダイレクトメッセージ欄を見ると、いくつか新着のメッセージが届いていた。
彩七自身や七宝焼についての質問が多いが、これらに関しては先日の記事のURLを伝えるだけで簡略化できるようになったので、非常にありがたい。
読み進めていくと、かしこまったようなメッセージも届いていた。
スクロールしていた指をとめる。
また取材のオファーだ。
文面からすると、先日のウェブの記事を読んで彩七の存在を知ったようだ。
「どうしよう……」
先日はあまりいい思いをしなかった。記者の対応も好ましくなかったし、嘘を書かれた精神的ダメージも少なくなかった。修正原稿に差し替えられたとはいえ、彩七の中では「結果オーライ」では片付けられない出来事だ。
しかし、その後の反響は大きかった。支援も集まったし、SNSのフォロワーも増えた。
今の彩七はなにも知らない素人ではない。秀一が言っていたように、事前にしっかりと条件を確認すれば、前回のようなことは起こらないはずだ。
それに、連絡をしてきた媒体は彩七も聞いたことがあるような気がする……。
「ここは大手だよ、受けたほうがいい」
「秀一くんっ」
彩七が驚いて肩を揺らすと、秀一がのっそりと上体を起こし、両腕を上げて伸びをした。
「わたし起こしちゃった? というか、いつから見てたの?」
「『どうしよう』から」
あまり自覚はなかったが、取材のオファーメッセージを開いた時に呟いたような気がする。
「ここは信用できるってこと?」
「信用できるかは担当者にもよると思うけど、影響力は大きい。あっちはおもしろい記事が作れたらいいんだろうし、こっちは掲載されることで少しでもプロジェクトの宣伝効果を高めたい。利害関係は一致しているんだから、上手く利用してやらないとな」
秀一はニッと笑う。
こいうときの秀一は計算高いというか、とても頼もしい。
「条件を事前確認したほうがいいって言ってたでしょ。たとえば、どういうことを確認するといいのかな」
彩七は学ぶつもりで、既にスマートフォンのメモ機能を開いている。秀一はそうだな、と指の側面で顎をなぞった。
「掲載前に原稿確認をしたい旨がひとつだろ。前回と違って今回のオファーは週刊誌だから難しいかもしれないけど、プロフィール欄や欄外で、プロジェクトページのURLを載せられないかの確認。URLが無理でも、応募締め切りとかプロジェクトの基本情報を掲載できるかどうか。こちらが強気に出られる立場なら、ドンと条件を突き付けて、すべてのまないと取材は受けないと言えるけど、今回はそこまでできないから、要望を伝えるだけで留めたほうがいい」
「要望を伝えたからと言って、全部通るわけじゃないんだね」
「そりゃそうだけど、事前に言うのと言わないのとでは大きく違うよ。取材申請時にはレイアウトが決まっていないこともあるから、URLを載せてほしいという要望があったら『プロフィール欄を作ってあげようかな』とか、記者が取材対象者の要望を叶えようとしてくれる場合がある。まあ、記者とか編集者次第なところがあるけどね」
「秀一くん、詳しすぎ」
「親父の会社の広報でバイトしてたことがある」
「だから本格的なカメラ機材を扱えて、モデル経験まであるんだね」
そう納得しかけて、広報ってそんな仕事だっけ? と首をひねった。
秀一はなんでもそつなくこなすので、頼られてさまざまな仕事を任されたのかもしれないし、自ら経験として参加していたのかもしれない。
「ありがとう。家でゆっくり返信メールの文面を考えることにする」
二人が国分寺駅に到着したころには、すっかり暗くなっていた。
彩七は遠慮したのだが、秀一は彩七をマンションの前まで送ってから帰った。ヘトヘトになっている彩七と同じく秀一も疲れているだろうのに、感謝しかない。
風呂に入ってすぐに眠ってしまいたかったが、彩七は秀一に聞いた話のメモを参考にしながら、オファーのあった記者に返信メールを作った。
それから十日ほどたち、彩七のインタビュー記事が週刊誌に掲載された。この雑誌は同じ記事がウェブサイトにも転載される仕組みで、紙面だけではなくウェブ媒体の記事にもなった。
この反響は大きかった。
この記事を読んだ別の媒体から、また取材のオファーがかかった。まるで連鎖のようだ。
良いのか悪いのかは別として、女子大生が地元の伝統工芸を守るために奮起している、というストーリーがメディアにウケているようだ。
何度かメディアに取り上げられると、大学でも知らない人から声をかけられるようになり、日常が変化したようで居心地が悪かった。
このまま突き進んでいいのだろうか、という漠然とした不安を秀一にメールで相談すると、「遠慮せずに波に乗っとけ。どうせすぐに飽きられる」とシニカルな回答が返ってきた。
なるほど、もっともだ。
プロジェクトが終わるまではなんでも利用するつもりで行動するくらいがちょうどいいのかもしれない。学校で声をかけられたら、「応援よろしくね」と愛想よく返事をすればいいだけなのだ。最近、目を合わせることにも慣れてきた。
なんだか、以前よりも面の皮が厚くなってきている気がする。彩七が望んでいた、脱皮前の兆候だろうか。よい羽化ができるといいが。
新たに取り上げられた記事により、支援者がまた一気に増えた。
プロジェクトを開始してから、三十一日が経過していた。集まった支援金は二百八十万円。
「お願い、もっと伸びて……」
彩七は祈るようにプロジェクトのサイトを見つめる。
締め切りが迫っている。
まだ足りないが、ゴールに手の届かない距離ではない気がする。
もう少し、なにか支援者の心を掴むことができれば……。
残り九日、目標金額まで百二十万円。
