特殊警察ガイアスワット ACT.11 圓藤アニー

徳島市内、国道バイパス。
雨上がりの舗装に、信号の赤と青が鈍く滲んでいた。
ガイアドルフィン(ベースはGRカローラ)の車内では、低いエンジン音だけが途切れずに続いている。
助手席で端末を見ていた飯泉リリが、顔を上げた。
「……静かね」
運転席の後藤田美海は、前を見たまま答える。
「こういう夜は、だいたい何かあります」
信号が青に変わる。
美海がアクセルを踏み足した、その直後だった。
対向車線の白い軽自動車が、ふらりとセンターラインへ寄る。
戻したかと思えば、今度は路肩側へ流れた。
リリの目が細くなる。
「来たわね」
「はみ出してる。速度も安定してない」
「酒か、眠気か……どっちにしても止めます」
美海はミラーを見て、無駄のない動きで車線を変えた。
白い軽の後ろについた瞬間、赤色灯が点る。
「前方の軽自動車。左に寄せて停車してください」
スピーカー越しの声が、濡れた夜道に流れた。
軽自動車は一度だけ不自然に速度を上げ、それから諦めたように減速する。
路肩へ寄って、ぎこちなく止まった。
「エンジン切ってください」
美海が降りながら声をかける。
リリは無線に手を伸ばした。
「ガイアスワットより本部。対象車両停止。これより確認に入ります」
運転席のドアが開く。
出てきたのは五十代くらいの男だった。顔が赤い。視線が据わらない。立っただけで体がわずかに揺れる。夜気の中に酒の匂いがはっきり混じった。
「……何だよ。警察かよ」
リリが前へ出る。
「キー抜いて。こっち」
男は舌打ちしたが、逆らわなかった。
美海はキーを受け取り、アルコール検知器を差し出す。
「深く吸って、そのまま吐いてください」
「面倒くせぇな……」
「吐いて」
男は不満げに息を吹き込んだ。
電子音が鳴る。液晶を見たリリが、表情を変えずに言った。
「基準値超過」
男の顔が歪む。
「はぁ? こんなんで捕まえるのかよ。家、すぐそこなんだぞ。五分だぞ」
「五分で十分よ」
リリの声は低かった。
「人は死ぬ」
男の口が止まる。
「……っ」
美海が一歩だけ距離を詰めた。
「今日は何も起きなかった。それだけです」
男の目が揺れる。
「次もそうとは限らない」
「俺は……そんなつもりじゃ……」
「でしょうね」
美海は男から目を外さない。
「でも、“つもりじゃない”で済まないのが事故です」
男は何か言い返しかけて、言葉を失った。
半歩、後ろへ下がる。美海はその動きを見て、すぐに手首を取った。
「動かないで」
手錠の金属音が短く鳴る。
「酒気帯び運転の現行犯です。詳しい話は署で聞きます」
男はもう抵抗しなかった。
うなだれたまま、ガイアドルフィンの後部座席へ乗せられる。
車が再び走り出してもしばらく誰も喋らなかった。
フロントガラスの向こうを、徳島のネオンだけが流れていく。
やがてリリが窓の外を見たまま言った。
「……こういうのが一番嫌なのよね」
「ええ」
「真月団みたいなのは、まだ分かりやすい。自分が何してるか、あいつらは分かってるから」
美海は前を見たまま頷く。
「こっちは違います」
「本人は“大丈夫”のつもり」
「そのつもりでハンドル握る」
リリは鼻で息を吐いた。
「始末が悪いわ」
少し間を置いて、美海が言う。
「こういう時に分かるんだと思います」
「何が?」
「見逃しちゃいけないものが」
リリは返事をしなかった。
ただ、横顔からいつもの棘が少しだけ薄れていた。
そこで無線が入る。
《本部より各車両。真月団関連、追加情報あり。帰投後、即時共有》
二人の表情が同時に変わる。
車内の空気が、そこで切り替わった。
*
徳島県警・第二庁舎。
時刻は深夜を回っていた。
ガイアドルフィンが地下ガレージへ入り、静かに止まる。
エンジンが止まっても、熱だけはまだ車内に残っている。
「……お疲れ」
先に降りたリリが言う。
「そっちこそです」
美海もドアを閉め、肩を軽く回した。
さっきの男の顔が、まだ頭の隅に残っている。
――そんなつもりじゃない。
ああいう言葉は、たいてい遅れて出てくる。
何かが起きたあとでしか出てこない。
「こういう日のあとで真月団の話は、余計に腹立つのよね」
リリが吐き捨てる。
「分かります」
「向こうは最初から黒い。こっちは自分で白のつもりだから厄介」
「ええ」
二人は並んで庁舎へ入った。
ガイアスワット課。
徳島県警の遊撃特務班。交通機動、特殊犯初動、広域追跡。部門の境目をまたぎながら、どこよりも早く現場へ出る部署だ。
廊下を曲がり、課の前まで来たところで、美海は足を止めた。
「……何かありますね」
この時間にしては人の気配が多い。
中から、普段よりざわついた空気が漏れていた。
リリがドアを開ける。
最初に目に入ったのは、オレンジ色のポニーテールだった。
若い女が、背筋を伸ばして立っている。
上質なジャケット。新品の靴。だが、両手だけがわずかに強張っていた。場慣れしていない人間の立ち方だった。
美海とリリの姿を見た瞬間、その女は勢いよく敬礼する。
「圓藤アニーです! 本日付で、徳島県警ガイアスワット課に配属となりました!」
少しだけ声が裏返る。
課の空気が、一瞬静まった。
横から井上風見が口を挟む。
「中央経由の出向。幹部候補だそうだ」
その一言で、部屋の温度がわずかに変わる。
リリが腕を組んだ。
「へぇ。ずいぶん丁寧なのが来たわね」
視線を向けられたアニーの肩が固くなる。
「い、いえ……その、現場経験はまだほとんど……」
「幹部候補なのに?」
「……はい」
「便利な肩書きね」
淡々とした言い方だった。
だが、試しているのは分かる。
その空気を割ったのは、美海だった。
「まあ、いいじゃないですか」
一歩前へ出る。
「現場は肩書きじゃ回らないですし」
アニーがはっと顔を上げる。
「……後藤田美海先輩、ですよね」
「そうだけど」
「よろしくお願いします!」
深く頭を下げた拍子に、少し体勢を崩す。
リリが小さく息を吐いた。
「危なっかしい」
「す、すみません!」
美海はアニーを見る。
中央からの出向。幹部候補。
そういう札に興味はない。
気になったのは目だった。
現場を知らない目。
だが、逃げ腰の目でもない。
「アニー」
「はい!」
「一つだけ言っとく」
美海の声が少し硬くなる。
「ここ、普通の配属先じゃないよ」
アニーの喉が鳴る。
「机の前だけで済まない。走るし、追うし、普通に危ない」
一拍置く。
「分かってる?」
アニーは唇を引き結んだ。
「……はい」
その返事は理解より、腹を決めるためのものに近かった。
リリが背を向ける。
「幹部候補だろうが何だろうが関係ない。ついてこれなきゃ置いていく」
冷たい言い方だった。
だが、この課では事実だった。
アニーは拳を握る。
(分からない。何をどこまで出来るのかも、まだ全然分からない。でも)
視線を上げる。
そこには、美海がいた。
「……最初は、みんなそんなもんです」
少しだけ笑う。
「明日、一緒にパトロール出ます?」
アニーの表情が変わる。
「……はい!」
さっきより、少しだけ芯のある声だった。
課の白い蛍光灯の下で、そのポニーテールだけが妙に鮮やかに見えた。
ただ、それだけのことが、なぜか美海の記憶に残った。
地下ガレージ。
蛍光灯の白がコンクリートに反射し、熱の抜けきらない車体の匂いとオイルの匂いが混じっている。
整備工具の金属音だけが、乾いた調子で響いていた。
「……来たな」
メカニックの林勝が振り返る。
「お、新人」
その一言で、アニーの背筋がまた伸びた。
「は、はい。圓藤アニーです!」
「硬い硬い。ここじゃ敬礼いらないよ」
林は手を振って、それから顎で前方を示す。
「お前の足だ」
そこにあったのは、低く構えた一台のNDロードスターだった。
鮮やかなオレンジの車体は、ひと目で市販車ではないと分かる。
フロントバンパーには冷却用のダクト。
足回りもノーマルの高さじゃない。
車内にはロールケージ。深いバケット。
最初から何かを追うために作られた車だった。
「……これが……」
アニーが一歩近づく。
「ガイアツナ」
林が言う。
「NDロードスターベース。小さい、軽い、見切れる。追跡で要るもんだけ残して煮詰めた」
ボンネットを軽く叩く。
「軽さは武器だ。でも軽いだけじゃ危ない。だから踏めるようにしてある」
「踏める……軽さ……」
アニーが繰り返す。
後ろから美海の声が入った。
「数字の話だけじゃないってことです」
壁にもたれたまま、ガイアツナを見る。
「この車、雑に速さだけ取りにいくと破綻する。でも、荷重をちゃんと乗せれば返してくる」
アニーが振り向く。
「え……?」
「雑な人には雑に返す車」
美海は一歩近づいた。
「分かりやすいんです。そういうの」
林がキーを放る。
「ほら」
アニーは慌てて受け取った。
「い、今ですか!?」
「乗らなきゃ始まらないだろ」
少し離れたところで、リリが腕を組んで見ている。
「ぶつけたらどうなるか、分かってる?」
「は、はい……!」
「修理費は給料から引くわよ」
「えっ」
「半分は冗談」
「半分は本当なんですか!?」
林が吹き出した。
リリは表情を変えない。
アニーは恐る恐るドアを開ける。
軽い。
想像していたより、ずっと軽い。
シートに身体を沈める。
視点は低く、ハンドルは近い。
ダッシュボードの位置も、フロントガラスの角度も、全部が運転する人間の身体を基準に組まれていた。
「……近い……」
「それが普通」
美海が言う。
「車に乗るんじゃなくて、身体を収めるの」
アニーはキーを見つめる。
手が少し震えていた。
カチッ。
スタータースイッチ。
――ドゥン。
エンジンが目を覚ます。
軽い車体に似合った、鋭い吹け上がり。回転の上がり方に濁りがない。
アニーの目が見開かれる。
「……いい音……」
「だろ」
林が口の端を上げる。
「嘘つかないエンジンだ。雑に踏めば雑に返る」
「アニー」
美海が呼ぶ。
「はい」
「これに乗るってことは、逃げられない側に立つってことだよ」
静かな声だった。
だが、アニーには重かった。
「相手が速かった、怖かったじゃ済まない」
アニーはステアリングを握る。
革の感触が指先に伝わる。
(分からない。現場がどれだけ怖いのかも、この車でどこまで出来るのかも。まだ分からない。でも)
少しだけ、握る力が強くなった。
「……分かりたいです」
その答えに、美海はほんの少しだけ笑う。
リリが背を向ける。
「明日、パトロールに出るわよ」
「はい!」
「その車でついてこられるか、見てあげる」
地下ガレージのシャッターがゆっくり上がる。
外の夜気が細く流れ込んできた。
オレンジの車体が、白い光の下で静かに艶を返す。
まだ未熟なドライバー。
まだ硬い手つき。
まだ現場の匂いも知らない新人。
その夜、アニーは初めて、自分に割り当てられた場所の重さを手のひらで知った。
ガイアツナは、ただの支給車両ではない。
圓藤アニーにとって、それは逃げずに前へ出るための車だった。
The Next Mission
