あと一歩でワールドカップに出られなかったあの日が、日本サッカーを育てた。1994年アメリカワールドカップ――歓喜と悲劇が交差した灼熱の大会
今から遡ること32年前の1994年、アメリカ合衆国。
前年の1993年、日本では待望のJリーグが開幕した。
国立競技場を埋めた大観衆。
色鮮やかなユニフォーム。
テレビに映るスター選手たち。
三浦知良、ラモス瑠偉、井原正巳。
それまで一部の愛好者のものと思われていたサッカーが、一気に日本社会の中心へ躍り出た。
日本サッカーは、これから世界へ向かう。
多くの人が、そう信じていた。
ところが、その熱狂が頂点に達した同じ年、日本代表はアメリカワールドカップへの出場権を、あと数分のところで失った。
いわゆる「ドーハの悲劇」である。
日本が初めて経験した、世界大会を本気で目指した末の敗北だった。
だから1994年のアメリカ大会は、日本人にとって奇妙なワールドカップだった。
憧れの舞台でありながら、日本代表の姿はそこにはない。
世界中のスターが躍動する一方で、日本の選手たちはテレビの外側にいた。
それでも、この大会を見つめた悔しさこそが、その後の日本サッカーを育てたのではないかと思う。
ドーハの悲劇は、本当に「悲劇」だったのか
1993年10月28日。
日本はアメリカワールドカップ・アジア最終予選の最終戦でイラクと対戦した。
勝てば、初のワールドカップ出場が決まる。
日本は2対1とリードしたまま、試合終了を迎えようとしていた。
しかし、終了直前にショートコーナーから同点ゴールを許す。試合は2対2で終わり、日本は最終順位で韓国に逆転され、本大会出場を逃した。[注1]
後年、井原正巳は、この試合を振り返って、チーム内にわずかな「隙」があったと語っている。
まだ何も決まっていないのに、どこかで「イラクには勝てるのではないか」という空気があったという。[注2]
一方、ラモス瑠偉は、選手たちが暑さと連戦で疲弊し、交代を求めていたにもかかわらず、ベンチがその状況を十分に把握できていなかったと振り返る。
そして最後の失点場面では、選手たちの意思統一ができていなかった。
ラモスは後に、ドーハについて「これが日本のサッカーのスタート」とも語っている。[注3]
この二つの証言を重ねると、ドーハは単なる不運ではなかったことが見えてくる。
勝利を意識したことで生まれた隙。
疲労した選手とベンチとの認識のずれ。
試合を終わらせるための経験不足。
極限状態における意思統一の欠如。
悲劇という言葉は、時に原因を運命の中へ隠してしまう。
だが、本当に次へ進むためには、「運が悪かった」で終わらせてはいけない。
なぜ守り切れなかったのか。
なぜ交代や戦術変更が遅れたのか。
なぜ最後の局面で集中が途切れたのか。
敗北を構造として見直すこと。
それが、ドーハを本当の出発点に変えたのではないだろうか。
日本がいない世界大会
1994年のアメリカ大会を、日本の選手たちはどのような気持ちで見ていたのだろう。
自分たちが立つはずだったかもしれない舞台で、世界最高峰の選手たちが戦っている。
そこにあるのは、羨望だけではなかったはずだ。
技術。
判断速度。
身体能力。
試合運び。
勝負どころでの冷静さ。
世界との差を、否応なく見せつけられる大会でもあった。
だが、日本サッカーはドーハで止まらなかった。
三浦知良は1994年夏、当時世界最高峰とされたイタリア・セリエAのジェノアへ移籍した。Jリーグ初代MVPが、日本人選手の可能性を背負って欧州へ渡ったのである。[注4]
ワールドカップに出られなかったから、世界を諦めるのではない。
出られなかったからこそ、世界へ近づこうとする。
カズの挑戦は、ドーハの敗北に対する、もう一つの回答だったように思える。
優勝候補コロンビアの崩壊
大会前、コロンビア代表は優勝候補の一角に挙げられていた。
南米予選ではアルゼンチンを敵地で5対0と破り、技術と創造性を備えたチームとして大きな期待を集めていた。
だが、本大会では初戦でルーマニアに1対3で敗れ、続く開催国アメリカ戦にも1対2で敗北する。
その試合で先制点となったのが、DFアンドレス・エスコバルのオウンゴールだった。
コロンビアはグループ最下位で大会を去った。[注5]
そして帰国後の7月2日、エスコバルはメデジンで銃撃され、命を奪われた。
この事件がオウンゴールへの報復だったと断定することはできない。
事件の動機については、現在も不明確な部分が残っている。
しかし当時のコロンビアサッカー界が、犯罪組織、賭博、暴力、脅迫の影響を受けていたこと、代表チームにも脅迫が向けられていたことは無視できない。[注6]
エスコバルがしたことは、サッカーの試合で一つの判断を誤ったことだけである。
相手のクロスを防ごうとした。
その懸命なプレーが、結果として自陣のゴールへ入った。
それは罪ではない。
スポーツの失敗を、選手個人への憎悪へ変えてはならない。
敗北の責任を、一人の選手へ背負わせてはならない。
まして、その命を奪う理由など、どこにもない。
サッカーは人生に似ていると言われる。
だが、サッカーは人生そのものではない。
勝敗よりも大切なものがある。
選手の生命と尊厳は、結果よりもはるかに重い。
エスコバルの悲劇は、二度と繰り返してはならない。
ロベルト・バッジョという物語
1994年大会を象徴する選手を一人挙げるなら、イタリア代表のロベルト・バッジョだろう。
イタリアはグループリーグから苦戦した。
バッジョ自身も、当初は期待されたほどの輝きを見せられなかった。
だが、決勝トーナメントに入ると、彼は別人のようにチームを救い始める。
決勝トーナメント1回戦のナイジェリア戦。
イタリアは試合終盤まで0対1で敗れていた。しかも一人少ない。
敗退目前の88分、バッジョが同点ゴールを決める。
そして延長戦では、自らPKを沈めて逆転した。
準々決勝のスペイン戦でも決勝ゴール。
準決勝のブルガリア戦では2得点。
バッジョは、決勝トーナメントの3試合で5得点を挙げ、満身創痍のイタリアを決勝まで連れていった。[注7]
華麗な選手というだけではない。
追い詰められた状況で、最後にボールを託される選手だった。
チーム全体が動きを失っても、バッジョなら何かを起こしてくれる。
その期待を背負い、実際に結果を出し続けた。
世界最高の10番とは、最も美しくプレーする者ではない。
最も重い責任を引き受ける者なのだ。
ブラジル対イタリア――最後に残った一本
決勝は、ブラジル対イタリア。
華麗な攻撃サッカーの伝統を持つ両国の対戦だったが、試合は互いの長所を消し合う緊迫した展開となった。
ロマーリオを中心とするブラジル。
バッジョを中心とするイタリア。
両者は90分を戦っても、延長戦を終えても得点できなかった。
ワールドカップ決勝は、PK戦へ突入した。
ブラジルのマルシオ・サントスが失敗する。
イタリアではフランコ・バレージとダニエレ・マッサーロが失敗した。
そしてイタリアが2対3と追う中、最後にバッジョが蹴った。
ボールは、クロスバーの上へ消えた。
ブラジルの4度目の優勝が決まった。[注8]
あまりにも有名な場面である。
しかし、この決勝を「バッジョがPKを外して負けた試合」とだけ記憶するのは正しくない。
イタリアは、バッジョがいなければ決勝にすら到達していなかった。
PK戦でも、バッジョ以前に二人のイタリア選手が失敗している。
最後に蹴った選手の姿は記憶に残りやすい。
だが、サッカーの勝敗は、一人だけによって生まれるものではない。
責任を引き受け続けてきた者に、最後の失敗まで一人で背負わせてはならない。
エスコバルの悲劇と、バッジョの失敗。
深刻さはまったく異なる。
それでも両者は、私たちに同じ問いを投げかけている。
集団の敗北を、一人の選手へ押しつけていないか。
英雄として持ち上げた人間を、一度の失敗で罪人に変えていないか。
スポーツを愛するということは、勝者だけを称えることではない。
敗れた者の尊厳を守ることでもある。
世界への入口となった敗北
1994年のアメリカワールドカップで、日本代表は一試合も戦っていない。
それでもこの大会は、日本サッカーの歴史と切り離せない。
Jリーグが始まり、国内には空前のサッカーブームが生まれた。
だが、世界への扉は開かなかった。
テレビの向こうでは、コロンビアが崩れ、エスコバルが悲劇に見舞われ、バッジョがイタリアを救い続け、最後にPKを外した。
そしてブラジルが、24年ぶりとなる4度目の優勝を果たした。
そこにあったのは、単なるスポーツの祭典ではない。
期待が重圧へ変わる怖さ。
失敗を個人へ押しつける残酷さ。
最後まで責任を背負う者の孤独。
敗北から学び直すことの大切さ。
当時の日本の選手たちは、ピッチの外からそのすべてを見ていたに違いない。
ドーハの悲劇は、日本サッカーにとって終着点ではなかった。
ラモスの言葉を借りるなら、それはスタートだった。
本当の強さとは、負けないことではない。
打ちのめされたという事実から目を背けず、原因を見つめ、もう一度世界を目指すことだ。
1994年、日本はワールドカップに出られなかった。
しかし、出られなかったからこそ、世界の大きさを知った。
あの夏、日本サッカーはアメリカのピッチには立てなかった。
それでも確かに、悔しさを糧にして世界へ向かう最初の一歩を踏み出したからこそ、今の日本代表があるのだから。
注1 日本はイラク戦の終了間際に追いつかれて2対2。最終順位3位となり、本大会出場を逃しました。
注2 井原正巳は後年、イラク戦前の代表に「勝てるのではないか」という隙があったと回想しています。
注3 ラモス瑠偉は、選手の疲労、交代をめぐるベンチとの認識差、最後の局面での意思統一不足を振り返り、ドーハを日本サッカーのスタートと位置づけています。
注4 三浦知良は1994年7月、V川崎からジェノアへ移籍し、セリエAへ挑戦しました。
注5・6 コロンビアは優勝候補と見られながらグループ最下位で敗退。アンドレス・エスコバルはアメリカ戦でオウンゴールを記録し、帰国後に殺害されました。ただし、殺害がオウンゴールへの直接的な報復だったかは証明されておらず、動機には不明確な点があります。
注7 バッジョはナイジェリア戦で2得点、スペイン戦で決勝点、ブルガリア戦で2得点を挙げ、イタリアを決勝へ導きました。
注8 決勝は延長を終えて0対0。PK戦ではブラジルのマルシオ・サントス、イタリアのバレージ、マッサーロ、バッジョが失敗し、ブラジルが3対2で制して4度目の優勝を果たしました。
――あとがき――
当時、サッカー小僧だった自分にとっては今回紹介した1994年の大会は、自分のなかでは一番印象に残っている大会でした。
コロンビアだけでなくドイツやアルゼンチンなどの1990年の大会を盛り上げた強豪も決勝トーナメントまで進むも早々に敗退し、アメリカとイタリアが大躍進など見どころが満載で、衛星放送でリアルタイムで観戦していたのを今でも覚えています。
互いの意地とプライドと持てる全ての力をぶつけ合うスポーツの試合は、予想を上回る大番狂わせやドラマがあるからこそ熱狂できる。
今回の大会でも、どんな大番狂わせが出るのか?誰がMVPに選ばれるのか?どれだけ凄いプレーで沸かせてくれるのか?日本代表が世界の強豪たちとどのように立ち回るのか?
まだワールドカップは始まったばかりですが本当に楽しみです。
しかし、どんな理由であれ、懸命にプレーをしてベストを尽くした選手が責められることがあってはならない。
32年前にピッチの外で起こった痛ましい悲劇はもう二度と繰り返されないことを心から祈ります。
