第二章: 夜の台所で、あなたの秘密に気づいた。
ある土曜日の夜。
長谷川直人は、パソコンの前で編集画面をじっと見つめていた。
ヘッドフォンから流れてくるのは、自分の声。
落ち着いたトーンで語るラジオ配信。
その合間に入る、ゲーム実況の軽い笑い声。
何百回も聞いてきたはずなのに、公開前の最終確認だけは、いつも少しだけ心臓が早くなる。
活動名はNao。
登録者数は500万人。
ラジオ配信にゲーム実況、企業案件。
時にはテレビCMのナレーションまで担当する。
顔を出さない“声の人”。
今や業界で知らない者はいない存在になっていた。
スマホが震えた。
企業からの打ち合わせ確認の通知。
画面には「月曜日 10:00」。
「……また詰め込まれてるな」
小さくため息をついて時計を見る。
針は、もうすぐ午後5時を指そうとしていた。
その瞬間、ふと頭に浮かぶ。
――あの子の、唐揚げと卵焼き。
衣はサクッと軽く、噛めばじゅわっと肉汁が広がる唐揚げ。
優しい甘さがふんわりと口の奥に残る卵焼き。
どちらも、ただの料理じゃない。
食べた瞬間、張りつめていた心がほどけていく、“帰る場所の味”だった。
500万人のリスナーに向けて声を届けながら、
自分の頭の中に浮かぶのは、カウンター越しに料理を出す、ひとりの専門学生の姿。
その光景だけが、不思議と彼の心を休ませてくれる。
「……腹減った」
編集データを保存し、画面を閉じる。
Naoではなく、ただの長谷川直人として――
あの店へ向かうために。
暖簾をくぐると、耳馴染みになってしまった声が迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。いつもので良いですか?」
にこやかに、でも近づきすぎない距離感で微笑む彼女。
媚びてもいないし、突き放しているわけでもない。
必要な言葉だけで、まっすぐに客を迎える。
その絶妙な距離感が、直人にはたまらなく心地よかった。
思い出す。
初めて彼女の唐揚げと卵焼きを食べた日のこと。
外は軽くて、中はふんわり。
甘さと塩気のバランスが完璧で、一口食べただけで胸の奥に染みていった。
――こんな味、久しぶりだ。
あの日の衝撃は、今もちゃんと舌に残っている。
本当なら毎日でも食べたい。
けれど、平日の夕方に来ても、彼女の姿はなかった。
どうしてだろうと気になっていた頃、
彼女が夜間の調理専門学校に通っていると知った。
それからは、平日の昼間に時間が取れると、
昼のシフトに入っている彼女を探しに来るようになった。
彼女の料理は、ただ美味しいだけじゃない。
飾らない、まっすぐな気持ちで作られているのが分かる。
だからこそ、心地いい。
騒がしい日常から、ほんの少しだけ抜け出させてくれる――隠れ家みたいな場所だ。
最近、常連さん――長谷川さんが、平日に来ることが増えた気がする。
ランチのラストオーダーは14時半。
遅くても15時半には店を閉めるのが決まりだ。
いつもは混雑を避けて13時ごろに来る彼が、この日は珍しく14時25分に駆け込んできた。
「ごめんね。今からでも、いつものランチお願いできるかな」
少し息を切らした声。
私は慌てて笑顔を向ける。
「全然大丈夫ですよ」
でも、よく見ると、目の下に少しだけ疲れが滲んでいた。
卵を割り、唐揚げを揚げながら、
(大丈夫かな)と胸の中でそっと気にかける。
料理を出し終え、食後に熱い緑茶を差し出すと、
彼はゆっくりと湯呑みに口をつけて、ほうっと息を吐いた。
「……なんだか、今日はお疲れさまみたいですね」
思わずそう声をかけると、彼は少し照れたように笑った。
「ちょっと忙しくてね。でも――どうしても唐揚げと卵焼きが食べたくて、来ちゃった」
“どうしても”という言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。
思わず、少しだけ視線を逸らしながら言った。
「……私の料理で元気になれるなら、光栄です」
彼は、目を細めてこちらを見つめた。
何か言いかけたような気がしたけれど、
私は恥ずかしくなって、片付けに逃げるように背を向けてしまった。
彼が食べ終わり、時計が15時半に近づいた頃。
オーナーが声をかけてきた。
「美和ちゃん、ここはもういいから学校行ってきな。試験近いんだろ?」
今日は、実技試験前の練習をするため、少し早めに上がらせてもらう予定だった。
「ありがとうございます。……お先に失礼します」
制服から着替え、暖簾をくぐって外に出る。
――そこに、彼がいた。
驚いて立ち止まる私に、彼はいつもの穏やかな声で言う。
「駅まで、一緒に歩こうか」
断る理由なんてなくて、私はこくんと頷いた。
夕暮れの道を、並んで歩く。
胸の奥でドキドキがうるさく鳴っているのに、会話が途切れても不思議と気まずくはならなかった。
駅前の人気店の前で、彼が足を止める。
「ここのシュークリーム、すごく美味しいんだ。……良かったら」
紙袋を差し出され、思わず目が輝く。
「えっ、本当に、いいんですか?」
私が喜ぶのを見て、彼は少しだけ柔らかく笑った。
そして、ふいに私の名前を呼ぶ。
「美和ちゃん」
急に“ちゃん”付けで呼ばれて、心臓が跳ねる。
「いつもありがとう。……勉強も、頑張って」
それだけ言うと、彼は駅とは反対方向へ歩いていった。
わざわざ駅まで送ってくれたこと。
シュークリームをくれたこと。
そして何より――初めて「美和ちゃん」と呼ばれたこと。
頭の処理が追いつかないまま電車に乗り込み、
気づけば危うく乗り過ごすところだった。
机の上には、さっきもらったばかりのシュークリーム。
さすが人気店。
ふわふわの生地に、ほどよい甘さのクリームがとろりと溶けていく。
――でも、それ以上に。
“常連さんからもらった”という事実が、
この1個のシュークリームを、とんでもなく特別なものにしていた。
美味しい。
なのに、胸の奥が少しざわつく。
勉強しなきゃ、とノートは開いたまま。
でも、頭の中はさっきの帰り道のことでいっぱいだった。
名前を知っていたのは、きっとオーナーがいつも
「美和ちゃん」と呼んでいるからだろう。
――それでも、“知っていてくれた”ことが、嬉しかった。
そんなふうにふわふわした気持ちのまま迎えた、次の休憩時間。
「お、Naoの新しい実況上がってる!」 「マジ?音出して!」
教室のあちこちから男子の声が上がる。
スマホから、少し大きめの音量で動画が流れ始めた。
その瞬間――手の中のペンが、するりと落ちた。
……この声。
え?
頭の中が真っ白になる。
何度も聞いたことのある、優しくて落ち着いたトーン。
声の揺れ方も、笑い方も、間の取り方も。
どう聞いても、常連さんにしか思えなかった。
「この人、誰?」
かろうじてそう聞くと、男子がスマホをこちらに向ける。
「え、知らないの?Naoだよ、Nao!
顔出ししない人気実況者。登録者500万!」
画面には、マスク越しに笑う男性のサムネイル。
ラジオ配信にゲーム実況――コメント欄にはファンの歓声が溢れている。
信じたくない気持ちと、
胸の奥がざわざわと騒ぐ感覚が同時に押し寄せてきた。
――まさか。
そんなわけ……ないよね。
その夜。
帰宅してからも、頭からあの声が離れなかった。
結局スマホを手に取り、Naoの動画を再生する。
楽しそうに笑う声。
誰かと談笑する柔らかい空気。
画面の向こう側は、私の知らない世界のはずなのに、
耳だけが勝手に“同じ人”を探してしまう。
そして、何気なくこぼれた一言。
「俺、好きなものしか食べないんだよね」
心臓が、跳ねた。
偏食家――。
彼と、同じ言葉。
偶然、と言い切るには、もう少しだけ情報が揃いすぎている。
動画を閉じると、部屋の中が急に静まり返った。
「……はぁ」
ため息が、ひとつ落ちる。
情報が多すぎて、頭が追いつかない。
もし本当に、彼がNaoだったとしたら。
私はただの専門学生。
彼は、500万人に愛される“画面の向こうの人”。
しかも、コメント欄はハートと好きでいっぱい。
きっと、どこかに特別な誰かがいるのかもしれない。
窓を開けると、夜風がカーテンを揺らした。
遠くで星が、静かに瞬いている。
――胸が、少し痛い。
だって今の私が、1番楽しみにしている時間は、
料理でも、授業でもなくて。
土曜日の夜。
「美味しいね」って、あの人が笑ってくれる
ほんの数分の時間だけなんだから。
