第三章 「雨のカフェで、声に気づいた夜」
土曜日の夜。
外はしとしとと雨が降り、暖簾の向こうがぼんやりと滲んでいた。
店に入ってきた常連さんが、いつものように静かに言った。
「こんばんは」
その声を聞いただけで、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
――やっぱり、Naoさんの声に似ている。
平静を装うように笑った。
「いらっしゃいませ。いつもの、ですね?」
「うん、お願いします」
唐揚げを揚げながら、卵を溶きながら、どうしても頭の中で彼と人気配信者・Naoの声が重なってしまう。
落ち着こうとしても、手の震えが止まらなかった。
そんな私の様子に気づいたのか、彼がそっと尋ねた。
「……なんか、元気ないね?」
心臓が跳ね、慌てて取り繕う。
「えっ……い、いえ。そんなことないですよ」
でも声は少し震えていた。
オーナーが奥から顔を出し、心配そうに言う。
「美和ちゃん、大丈夫? なんか今日は元気ないみたいだよ」
「すみません、大丈夫です。ちょっと寝不足で……」
そう言うのがやっとだった。
オーナーは穏やかに頷く。
「今日は雨だし、忙しくないから早く上がっていいよ」
ありがたくて、情けなくて、胸が少し痛んだ。
常連さんの料理を提供し、片付けをしてから店を出た。
雨粒の落ちる音が、透明なビニール傘を通して近く聞こえる。
――こんなことで動揺してしまうなんて、プロ失格だ。
ため息をつき、夜空を見上げたときだった。
「……美和ちゃん」
驚いて振り向くと、傘をさした彼が立っていた。
「大丈夫? なんか、今日はいつもと違って見えたから」
その優しさに、胸がじんわりと温かくなる。
距離を置こうとすればするほど、心が近づいてしまっていた。
「……暖かいものでも、一緒に飲みに行かない?」
冷たい雨音の中、彼の声だけが不思議なほど鮮明に響いた。
迷いながらも、私は頷いていた。
「……はい、行きます」
傘の下、並んで歩く。
ほんの数歩の距離なのに、やけに遠くて、やけに愛しい。
彼が連れて来てくれたのは、大きな窓がある静かなカフェだった。
外をつたう雨粒が街灯を歪ませ、店内にはボサノバの音がゆったり流れている。
チャイを頼み、両手で温かさを包む。
ひと口飲むと、シナモンの香りがふわりと広がった。
「ここ、俺のお気に入りなんだ」
優しく言う声に、胸が揺れる。
沈黙が流れても、気まずさはなかった。
勇気を振り絞るように、口を開く。
「……あの、よかったら……お名前、聞いてもいいですか?」
彼は少し驚き、照れたように笑った。
「俺、長谷川直人」
――直人。
Nao。
胸の奥がざわめく。偶然だと思いたくても、鼓動は落ち着かなかった。
「ここ、恋人とか友達と来たりするんですか?」
自然を装いながら探るように聞くと、彼は首を振った。
「いや、ほとんど来ないよ。彼女もいないし、人を連れてくるのも今日が初めて」
「え……初めて……?」
「うん。美和ちゃんが最初」
チャイの湯気の向こうで、少し照れた笑顔。
その距離が近いようで遠くて、また胸が温かくなった。
「いつも美味しいご飯作ってくれるから。そのお礼」
さらっと言える大人の余裕。
私はただ、頷くしかなかった。
雨はまだ降り続け、窓の外の灯りがにじんで揺れていた。
翌日。
友人たちと試験勉強をするために集まっていた。
けれど、頭の中はずっと昨日の夜のままだった。
雨のカフェ、直人さんの声、笑顔。
「ねぇ美和、最近なんか雰囲気変わった?」
不意に言われて、心臓が小さく跳ねる。
「え、私が?」
「うん。なんか柔らかくなった。前より女の子っぽいっていうか」
否定しても、頬が熱くなるのが分かった。
恋じゃないはずなのに、名前を呼ばれたあの瞬間を思い出してしまう。
――ほんと、どうしたんだろう、私。
窓の外は快晴だった。
昨日の雨が嘘みたいに晴れていて、眩しさに胸がざわめいた。
一人になった夜、Naoのラジオを流した。
直人さんの声と同じ、落ち着いたトーン。
部屋の空気ごと温かくなるような、不思議な声。
質問コーナーが始まり、リスナーのコメントが読まれる。
『最近好きな食べ物はなんですか?』
何気なく聞き流していたその瞬間――心臓が跳ねた。
『最近ね、行きつけの和食屋さんがあって。そこの唐揚げと卵焼きがめちゃくちゃ好きなんですよ』
呼吸が止まりそうになる。
『毎日食べても飽きないんです。作ってくれてる料理人さんに、ほんと感謝してます』
……私。
スマホを持つ指が震えた。
あの言葉。
あの声。
昨日の雨のカフェの帰り道。
すべてが繋がる。
『良いなー。大将の唐揚げ美味しそう!!』
というコメントに対し、
『おじさんじゃないですよ。……詳しくは秘密ってことで』
照れた声が、昨日の彼の横顔と重なった。
確信した瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
嬉しさと、怖さと、どうしようもない恋心のようなものが一度に押し寄せてきて、息が詰まりそうになる。
スマホを閉じると、部屋は一気に静かになった。
窓の外では、昨日の雨の名残がアスファルトにきらきら反射していた。
その光が、どうしようもなく滲んで見えた。
