第六章: 恋は人を盲目に
体調が戻った月曜日。
制服に袖を通しながら、美和は心臓の音がいつもより大きいことに気づいた。
理由はただひとつ。
――今日は、直人さんが来るかもしれない。
冗談めかして女将さんが言った「お礼はプリンでいいからね」を思い出しながら、駅前の有名店でプリンを買い、お店へ向かった。
「大分良くなりました。ありがとうございました。」
「そう?よかったねぇ。無理しないでよ」
女将さんの声が、妙に優しく聞こえた。
着替えを済ませ、エプロンの紐を結び、前髪を何度も直す。
鏡を見るたびに、“変じゃない?大丈夫?”と心の中がそわそわする。
開店してから数時間たち、暖簾がふわりと揺れた。
「こんにちは」
――来た。
声を聞いただけで、胸がぎゅっと痛くなる。
「いらっしゃいませ。いつもの、でよろしいですか?
……あの、おかげさまで、元気になりました」
自分でも驚くほど緊張していた。
それでも、直人は柔らかい笑みを浮かべて言った。
「よかった。あ、これ……快気祝い」
差し出された小さな箱には、可愛らしいケーキが入っていた。
嬉しさと、照れくささと、胸の奥がきゅっとする感覚が一気に押し寄せる。
「ありがとうございます……!」
唐揚げを揚げる手が、いつもより少し震えていた。
厨房から戻るたびに、直人の視線を感じる――気がする。
もうそれだけで、まともに息ができない。
それでも、いつも通りに仕上げた唐揚げと卵焼きを提供すると、
直人は一口だけで柔らかい表情になった。
「……やっぱり、この味が好きだな」
「ありがとうございます……」
それしか言えなかった。
“好き”と言われているのは料理の味、……料理の味なのに。
でもその言葉だけで胸が跳ねる。
会計を終え、店を出る前に直人はふと言った。
「何かあったら、いつでも連絡して。無理しないでね」
その優しささえ、今は少し息苦しい。
店に戻ると、女将さんが口元を緩めて言った。
「……美和ちゃん、分かりやすいねぇ」
顔から火が出るほど恥ずかしくて、返す言葉もなかった。
恋って、すごい。
こんなに何も手につかなくなるんだ――と、今さら思い知った。
いただいたケーキの箱をそっと開けると、小さな淡い色のクリームがふわりと光を受けていた。
もったいない……と思いながらも、まずは写真を撮る。
それからゆっくりと、スプーンですくって口に入れる。
優しい甘さが広がって、胸の奥までとろりと溶けていく。
――なんだろう。
ケーキまで直人さんみたいな味がする。
机に置いたスマホを見つめながら、さっきの言葉が頭の中で何度もリピートされた。
『何かあったら、いつでも連絡して』
……“いつでも”なんて、そんなの期待しちゃうに決まってる。
でも、実況者さんってすごく忙しそうだ。
直人さんも企画の準備や撮影、収録……きっと常に誰かとやり取りしているだろう。
“暇な時間”なんて想像できない。
そんな人に、私が連絡してもいいのかな。
迷惑じゃないのかな。
何度も考えてしまう。
そして胸の奥で、避けていた疑問がふと浮かんだ。
――いつか、聞ける日が来るのかな。
直人さんがNaoさんなのかって。
最近気づいたばかり。
でも、もし私が“リスナー”だと知って、あっちはどう思うんだろう。
引かれちゃう?
距離を置かれる?
それに――もし告白して、振られたら。
もう、あのお店に来なくなるのかな。
私の唐揚げも、卵焼きも、食べに来てくれなくなるのかな。
そんな未来を考えただけで、胸がぎゅうっと痛んだ。
「……これが恋なのかぁ……」
思わず独り言が漏れる。
窓の外では夜風がカーテンを揺らし、部屋はやけに静かだった。
直人さんは、私のことどう思っているんだろう。
優しいだけ?
危なっかしい年下の女の子扱い?
それとも……少しでも特別に思ってくれてる?
ケーキの箱を両手で包み込みながら、美和はそっと目を閉じた。
「……だって、こんなの期待しちゃうよ」
あんなふうに笑って、
こんな可愛いケーキをくれて、
“いつでも連絡して”なんて言われたら――
胸が勝手に、未来を描いてしまう。
静かな部屋の中で、心臓の音だけがずっと跳ねていた。
