「I want you」と言われた3年後、僕は「無能」と呼ばれた
オンライン面接で、3人から「I want you」と言われた
ある年、海外の会社からヘッドハンティングされた。
オンライン面接で、10人の外国人と話した。そのうち3人から、面接の中でこう言われた。
「I want you.」
緊急事態宣言の最中だった。日本人として、英語で、向こうから3回「君が必要だ」と言われた。
正直、舞い上がった。
早稲田政経卒、外資系メーカーで17カ国の取引経験、英語と日本語の両方で交渉できる人間。「APAC責任者」というタイトルがついた。年収はそれまでの1.4倍になった。
僕の能力が、ようやく正当な値段で評価されている。 そう思った。
入社して、3年後、僕は「無能」と言われていた
同じ会社、同じ仕事、同じ人間。 評価する側が変わっただけで、評価が真逆になった。
組織の中で、評価される側ではなく、評価する側のほうが先に変わるという事実。 それを、誰も教えてくれない。
入社前から、知っていたことと、知らなかったこと
入社前から知っていたことがひとつある。
従業員13,000人の会社で、日本人は僕一人だった。これは面接の段階で説明されていた。パキスタン、バングラデシュ、スリランカの人たちが大半を占める組織。「APAC責任者」という肩書きは華々しく聞こえるけど、実態は一人支店。それを納得した上で、入社した。
毎週のオンライン会議で、僕は唯一の日本人として座っていた。英語でカナダ本社とやりとりし、英語で南アジアの工場と交渉し、日本語で日本の取引先と話す。2つの言語と、3つの文化圏を跨ぐ毎日が、僕の仕事だった。それは覚悟して入った。
入社前に知らなかったことは、別にある。3つあった。
ひとつ。サイズが合わなかった。
入社して2週間後、本社からサンプルが届いた。 手に取った瞬間、嫌な予感がした。 このサイズは、日本では合わない。
入社2週間で、それが分かった。 でも、もう入っていた。
「商品は良い。でも、サイズが違う」と、現場で何度も言われた。
ここで、構造の話になる。
日本市場に合うサイズの商品を作ろうとすれば、開発投資が要る。 でも、本社から見ると、日本市場の売上は小さい。オポチュニティも小さい。 投資判断としては、ペイしない。
そこから、典型的なデッドロックが始まる。 日本サイズを作らないから、売れない。 売れないから、日本市場のオポチュニティは小さいまま。 オポチュニティが小さいから、開発投資が下りない。 卵が先か、鶏が先か。
本社の判断は、合理的だった。投資せずに、既存ラインナップで売る。 売れなかったとき、その市場の責任者の能力の問題として処理される。
売れない構造は、僕が入社する前からそこに置かれていた。構造そのものを動かす権限は、僕にはなかった。
でも、本社にはそれが伝わらない。 「日本人が言い訳をしている」と聞こえてしまう。
ふたつ。比較対象が、新興市場だった。
僕の業績は毎四半期、本社で他の地域と並べて評価された。 比較されていたのは欧米や東アジアの先進市場ではない。南米やアフリカといった、新興市場だった。 これらの市場では、価格が合えば売れる。日本市場は逆で、規格、品質保証、納期、書類のすべてを満たさないと商談は始まらない。 売り方の構造がまったく違う市場を、同じ物差しで並べて評価される。 そこで僕の数字は、見栄えがしない数字になった。
みっつ。CEO交代で、僕は「退職に追い込むプログラム」の対象になった。
入社時の経営陣は、もういなかった。退職や別の会社に移っていた。
新しいCEOにとって、僕は「前経営陣が無理に取った高給の日本人」だった。
入社2年目の終わりに、業績レビューが行われた。僕の成約率は0.5%と算出された。「お前の能力不足だ」と告げられた。
その数字は商品のサイズと比較対象の選び方から来ていた。でも、もう聞いてもらえなくなっていた。
物差しのほうが動いていた
ここで、ひとつ立ち止まって書きたいことがある。
僕がこの3年で学んだ、たぶん一番大事なことだ。
入社1年目、前経営陣は僕をこう評価していた。 「日本市場の文化的特殊性を理解した上で、長期的な関係構築をできる稀少な人材」 「英語と日本語を使い分けながら、カナダ本社、南アジアの工場、日本の取引先のあいだを行き来できる」
入社3年目、新経営陣は僕をこう評価した。 「成約率0.5%。新興市場と比較して圧倒的に低い」 「指標を達成できない人材」
僕は、何も変わっていない。 能力も、人格も、努力量も、まったく同じ人間だ。
同じ人間に、別の物差しを当てると、別の数字が出る。 当然のことのはずなのに、評価される側は、自分が「変わった」ような錯覚に陥る。
でも、本当は違う。 自分が変わったのではない。 物差しのほうが動いている。
これに気づくまでに、僕はずいぶん時間がかかった。
「自分はもう力がないのではないか」 「あの面接で評価されたのは、まぐれだったのではないか」 「3人が『I want you』と言ってくれたのは、社交辞令だったのではないか」
僕は毎晩、それを考えていた。動いたのは僕じゃないのに、僕が動いたと思い込んでいた。
オンライン会議の画面の向こうで詰められる毎日
そこから、半年が続いた。
オンライン会議の画面の向こうで、外国人の役員に英語で責められる毎日。
僕は反論できた。データもあった。でも、評価する側が決めた結論を、覆す力はなかった。説明すればするほど「言い訳をする日本人」の像を強化した。
物差しが動いた後の説明は、機能しない。 あの半年、僕がやっていたのは、動いた後の物差しに、動く前の言葉で話しかけることだった。 だから、何も届かなかった。
レイオフ通知が来た日
レイオフ通知が来た日のことは、あまり覚えていない。
通知から解雇までは、40日あった。 無職になる日は、まだ来ていない。 でも、その40日が、一番きつかった。
40代後半、子どもは保育園と小学校。住宅ローンがある。妻には、まだ事情を全部話していなかった。
一番怖かったのは、保育園だった。
職を失うと、保育園の在籍要件を満たせなくなる可能性があった。子どもの居場所が消えるかもしれない、という事実が、夜中に何度も頭をよぎった。 失業保険でも退職金でもない。子どもが明日、いつもの場所に行けなくなる。その可能性が、夜の中で何時間も回り続ける。
しかも、僕の中には、もうひとつ別の不安が居座っていた。
「無能」と言われ続けた半年が、僕の中に染み込んでいた。 ヘッドハンティングされたときの僕と、今の僕は、客観的には何も変わっていない。能力も、経験も、英語力も、同じ。でも、半年間「お前は能力不足だ」と言われ続けた中身は、別人の感覚を持つようになっていた。
あのオンライン面接で「I want you」と言ってくれた人たちは、今の僕を見ても同じことを言ってくれるのか。 僕は、それが、本気で分からなくなっていた。
動いた
それでも、動いた。
職務経歴書を更新した。エージェントに連絡した。面接を受けた。
最初の1社は、正論で殴り合って落ちた。「成約率0.5%という数字は、貴方の責任ではないですか」と聞かれ、サイズと比較対象の話を説明したら、「言い訳が多い」と判定された。面接官のロジックがおかしいと思って、つい反論した。「その物差し、結果と相関しないと思います」と。 落ちた。 正しさは、必ずしも勝たない。
これは、最初の1社だけの話だ。 そのあと受けた面接は、全部、通った。
説明の仕方をひとつだけ変えた。 「市場が悪かった、商品が悪かった」では、事実でも「責任を取らない人間」に聞こえる。 だから、こう言うようにした。 「結果を出せませんでした。学んだことが2つあります。商品のサイズが市場と合っていなかったことを、入社前にもっと検証できたはずです。比較対象の物差しが本社内でどう設定されているか、入社後もっと早く介入できたはずです」
事実は同じだ。 でも、自分の責任のレイヤーから語り直しただけで、面接の空気が変わった。
その後、2社からオファーレターをもらった。 ひとつは、ベルギーの安全靴メーカーのカントリーマネージャー。 もうひとつは、今いる会社。
ベルギーの会社のオファーは、条件としてはとても良かった。 でも、その安全靴は、日本人の足の形には合っていなかった。 前の会社と同じことが起きるとわかっていたから、断った。 物差しが動く前提で、自分から動く側に回ることを覚えていた。
今いる会社を選んだ。 オファーレターを開いたとき、僕は一人で泣いた。
持ち直したのは、自分の力じゃなかった
ここから先は、正直に書く。
僕は、もう一度、他者評価で持ち直した。
40日の中で、複数の会社の面接官が、僕を見てくれた。 最初の1社で落ちた直後、僕は半分壊れていた。入社前の面接では10人中3人から「I want you」と言われた人間が、今は1社目で落ちる。やっぱり僕は、本当に無能になっていたのかもしれない。 そう思った夜があった。
でも、2社目で通った。 3社目で「貴方の経歴、本当に綺麗ですね」と言われた。 4社目で「うちで、新しい市場を立ち上げてもらえませんか」と言われた。 そして、2社からオファーが出た。
僕は、面接を通じて、他者にもう一度I want youと言ってもらった。 それで、持ち直した。
「他人の評価に依存するな」「自分で自分を肯定できる人間になれ」というのが、最近の正解とされている。 でも、本当のところはこうだ。
入社前と同じで何も変わっていない自分を、他者がもう一度認めてくれたから、僕は前に進めた。
自己肯定感だけで、あの40日を抜けたのではない。 他者の物差しが、僕をもう一度測り直してくれた。 その測り直しが、ずっと動き続けていた物差しを、ようやく止めてくれた。
妻に、まだ話していない
僕は今も、これを妻に話していない。
妻は、僕の転職を、こう見ている。
「あなた、転職するたびにイキイキしてるね」
イキイキはしていない。もう一度泣くのが嫌だっただけだ。
でも、これも、たぶん言わないままにする。「イキイキしている」と思ってくれているなら、その認識のほうが、家族にとっては平和だ。
僕の中だけに置いておくものが、いくつかある。レイオフ通知の日のこと。40日の不眠。保育園の在籍要件を計算した夜。最初の1社で落ちた直後の半壊。オファーレターを見て泣いたこと。
これは、書かないままで終わらせることもできた。
それでも、書いている
でも、書いている。
40代後半でレイオフ通知を受けて、家族と保育園と住宅ローンを抱えて、それでも次の場所を見つけた。これは、特別な話じゃない。同じ目に遭っている人は、たぶんたくさんいる。
僕がこの記事で伝えたいのは、自分の苦労話ではない。 あの40日を抜けたあと、僕の中に残ったものがいくつかある。
ひとつは、物差しについての見方だ。
CEOが交代する。経営方針が変わる。投資家の要求が変わる。為替が動く。そのたびに、組織の物差しが動く。同じ仕事をしている同じ人間に、別の数字が貼り付く。 だから、誰かに評価された言葉を、丸ごと信じない癖がついた。「I want you」も「無能」も、その時の物差しが出した言葉でしかない。同じ人間なんだから、どちらに振れても、それは僕じゃない。
もうひとつ。 動いた後の物差しに話しかけても、届かない。次の物差しがある場所を、探したほうがいい。
最後にひとつ、いちばん書いておきたいことがある。
自己肯定だけでは、人は持ち直せない。 半年「無能」と言われ続けた人間は、自分の中から自信を取り戻すのが難しい。 他者の物差しに、もう一度測り直されることが必要だった。 これは、依存ではなく、修復だった。
レイオフから2年経った今
入社から3年後にレイオフ通知を受けた。 そこから2年経った今、僕は今の会社で働いている。
朝3時に起きて、ロードバイクに乗って、英語のシャドーイングをして、毎日noteを書いている。
肩書きはあのときの「APAC責任者」より下がった。でも、仕事の中身は、肩書きには収まらない範囲を行き来している。
たぶん今のほうが、自分の仕事をしている感覚がある。 測ってもらう物差しを、組織だけに預けていないからだ。
note の数字。シャドーイングの累積時間。自転車のパワーデータ。毎日の記録。 それぞれが別々の物差しで、僕を測っている。
仕事の評価が下がった日でも、自転車のパワーは出る。 note の反応が薄い週でも、シャドーイングのテキストは進む。 ひとつの物差しが動いても、別の物差しが残っている。
だから、もう、夜中に保育園のことを考えなくていい。
あの3年は、今の僕の中で
「I want you」と言われたあとに「無能」と言われた経験は、今の僕の中で、意外と静かに座っている。
許したわけじゃない。忘れたわけでもない。 ただ、そこにあるけど、邪魔をしなくなった。
時々、商談の前に、少しだけ思い出す。 相手の物差しが、何でできているか。 それは、相手の組織のどこから来ているか。 その物差しは、いつ動くのか。
組織の中で「無能」と言われた経験のある人へ。
たぶん、あなたは無能じゃない。 あなたが変わったのではなく、物差しのほうが動いただけだ。
そして、もし今、自分一人で持ち直そうとして苦しいなら、それは普通のことだ。 壊れた物差しは、自分一人では直しにくい。 別の場所で、別の物差しに、もう一度測ってもらっていい。 それは依存ではなく、修復だ。
物差しが動いたことのあるあなたは、いずれ、物差しが動く前提で世界を見られるようになる。 それは、動いたことのない人には、見えない景色だ。
僕は、それだけは、書いておきたかった。
