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カフェマチルダの事件簿ー《ゼリー》

「あらあら、お久しぶり」
カウンター内でタブレットを見ていた祖母が声を上げた。
祖母と同じくらいの年代の男性、大きな目鼻立ちで中肉中背だが、顔も体つきも“しっかりしてる”と言いたくなる、特に体つきが“しっかり”していて、大きい人がいる!という印象の男性だった。といっても威圧感はない、むしろスウッと周りに溶け込める術を知ってるような男性だった。
「こんな洒落た店にジジイが来てしまって申し訳ないね」
「何をおっしゃるの、座って、どうぞどうぞ」
とカウンターの席を勧める。
水を出した真千子に
「真千子、こちらは植辰さん。昔よくいらしてくださったの」
と祖母の蘭子は言う。老人は大きな目を見開き
「ああ、この娘さんが、あの嬢ちゃんか?うちの孫の嫁になる」
ええ!なになに!?
老人は昔お孫さんと一緒に度々モーニングに来てくれたと言う。とても綺麗な青年で
「ほら、あの子みたいマキトくん」
K-popで大人気グループの日本人メンバーの名前を出した。マキトは蘭子が特に“推してる”アイドルだ。
「そうだ、マキトくんは植辰さんのお孫さんに似てるんだわ」
「うちのカミさんもそんなこと言ってたわ、TVで踊ってる子で孫の若い頃にそっくりなのがいるって」
あるとき、そのイケメンのお孫さんと植辰がモーニングを取っていると、たまたま遊びに来ていた真千子がそのテーブルに行き
「あたしマチコ、真千子ちゃん」
と挨拶したのだと言う。イケメン孫は、穏やかに対応してお膝に乗せてくれたという。
「可愛い。マチコちゃんが大きくなったらお兄ちゃんと結婚する?」
「いいよお」
と真千子は彼に抱きついたのだそうだ。蘭子がすみませんと謝って真千子を抱き上げて引き取ったが、そのときもイケメン孫は
「いえいえ」
と鷹揚に笑っていたそうだ。
真千子はびっくりした。
記憶にない。
自分は心得たわきまえた子供だと、ずっと言われてたし、そう思ってきた。料理屋を営む実家でも、以前は祖父母の喫茶店だったこの店でも。
我慢していたとかでなく普通に子供らしかったはずだが、そういう、お店に来るお客さんには礼儀正しくする、馴れ馴れしい態度はこちらから取らない、リミッターを外すのは客側からだ、ということを始めから知ってる子供だったーと、思っていた。
「二歳になったばっかの頃だからねえ、覚えてないよねえ」
と言って蘭子は笑う、老人は真千子をしげしげと見たが不快な感じはなかった。ただどう返答すればいいのか分からず、真千子は気になることを質問する。それでその(イケメンな)お孫さんは?
「北陸に修行に行って、そこの社長に気に入られて、娘さんと結婚したの、あっちに住んどる、今はひ孫が四人おるよ。
あんときは高校行かずにワシに弟子入りするってついっとったんだ。どうなることかと思ったけど、どうにかなったよ」
と植辰は言った。
「あらまあ、じゃあ、あのときのお孫さんは、…十代?」
「そう十六…だったかな、高校行ってなかったからね」
「そう、ずいぶん大人っぽかったのねえ、背が高かったし…青年ではなくて少年だったんだ。本当はそんなにお若い方だったんだもん、この子も好きになっちゃたのね」
「そうそう、14、5歳の歳の差だから…大きくなったらお嫁さんも、ちょいと珍しくはあるけど、ないことはなかったんだよ」
あはははと笑い合ってる。だから全く記憶にございません。

「それでね、今、困ったことがあるんだよ。ワシじゃなくて、お客さんが困ってて、そしたら…」
なんだか蘭子さんの顔が浮かんじゃってねえ、と植辰は来店したのだそうだ。
「久しぶりだし、洒落た店構えになって気後れしたけど、蘭子さんもマスターも、今も現役で、店に行けば会えるって知ってたんだ…。」
店にコーヒーだけ飲みに行って、忙しそうなら、上手いコーヒー飲めたと思って帰ればいいって、来たんだ。そしたら蘭子さんが覚えててくれて、助かったと言う。
「それで、いったい何があったんですか」
静かにうんうんと話を聞いていた蘭子が植辰に言う。
「むかーしからのお得意さんで、エンバル公園の近くの、藤屋敷って呼ばれとるお屋敷があるの、そこの御当主さんが亡くなってね。」
県出身の富豪、円原達之助がかつて別邸の庭園としていたのを死後、碧部市に寄贈し、その後周辺の土地が足され、市民に解放された公園になっている。庭園の他、木製の遊具や芝生広場もあり、碧部市民なら誰でも知っている、一度は行ったことのある公園だ。
正式な名称は円原庭園記念公園だが、市民の多くはエンバル公園と言っている。
周囲は、北側は碧部市街地と県内の商業地を結ぶ国道と山間部方面に向かう国道が交差して開けているが、公園の裏手と呼ばれる南側は、今でこそ高速道路のインターチェンジにも近く、以前は寂しかった県道にも店舗も並ぶが、元々は田んぼと低い山ばかりの土地だった。
しかし、そういえば公園の南端に位置する低い山の裾近くに大きな日本家屋があった、公園の一部だと思ってたら10年くらい前に改築して今風の小さめな家になった、といっても前の家に比しての意味で、普通に立派な家屋だ。敷地は相変わらず広い。公園の東側に接して国道から県道を結ぶ道路を利用する際に、なんとはなしにその家屋を目にしていた。藤屋敷とは、どうやらそこのことらしい。

そこの奥様が2年近く前に亡くなって、つい先だってにご当主も亡くなったのだという。
「まだお若かかったけど…蘭子さんより若かったんじゃないかなあ、あんまり長生きされないお宅でね…。
こういうご時世だし、親族だけの小さなご葬儀で、昔ならワシらのような出入りの職人も駆けつけるけど、今はウチも代替わりして、跡をやってくれてるモンもご葬儀には行っとらん。ワシは先代さんや先先代さんにも可愛がってもらって…。
気になってなあ…。気になってお線香だけでも上げさせてもらいたくて、伺ったんだよ。そしたら…」
娘さんが感謝して出迎えてくれ、ちょうど良かったと相談をされたという。

藤屋敷とあだ名で呼ばれる谷藤(タニフジ)家には大きな藤棚がある、あだ名される所以だろう。以前は巨石を置き松や花木の配置された凝った庭があった。父母は、これからは世話が楽なようにと、簡素な庭に作り替えた、そのとき藤棚も小さくして、ずいぶんと楽になったのだが。
庭の世話は心配ない、母さん楽してくれよと言っていた矢先に母はなくなってしまった。
父は、母のために簡素な庭に変えたのにと気を落として、そのあたりから静かに弱っていってのだろう。一人暮らしを笑って楽しむと工夫をしていたが。
父が亡くなり家を引き継ぐために帰ってきた。相続の手続きはプロに頼めるとして、父たちが個人的な繋がりで貸していた物件への対応や、家の世話は自分でやらねばならない。残された藤棚の世話も。
藤棚の下に蓋が出来るお砂場を置き、伽奈を遊ばせる、折りたたみの椅子を置くと快適ではある。しかし防虫処理やらを考えると憂鬱で、落ち葉の掃除も葉を落とし切るまでは毎日だ。
家を離れていた頃も、台風のたびに藤棚が壊れて道路や公園にでも悪さをしたらと心配だった。
藤の蔓が絡まり、憂鬱に感じる。
父も母もこの藤棚を持て余すとき、誇りに思うときさまざまだった。
藤はこの家に絡みつく。自分にも絡みついている気がする。藤棚を処分したい。しかし、父母や祖父母が大切にしてきたものを、とも思う。しかし…。
実佳子はぐるぐると考え続けてしまう。
伽奈がお昼寝している間にやった方がいいことはたくさんあるのに。
いっそ自分も、少し眠った方がいいのかもしれない、実佳子は時計を見た、2:30。年が明けて気温は冷たいが日差しは柔らかい、冬の日差しが眠気を誘う。葉を落として蔓ばかりの網模様のような影を窓ごしにぼんやりと眺める。
しかし、眠ってしまう前にお仏壇の花を確認して水を取り替えておこう。4時には父の会社員時代のご友人達が来る。せっかく来ていただくのに仏壇の花が萎れていたりしたらガッカリされるだろう。見苦しい花は外しておこう。お茶菓子は幸いある、日持ちのいい焼き菓子を買っておいて良かった。伽奈のおやつにもなるし、しばらくは来客にも出せる菓子を用意しておく方がいいだろう、それにしても藤棚をどうしよう、藤が子に、家に絡んで…。

結局、実佳子は昼寝を取らなかった。椅子にかけたまま一瞬寝落ちして、そしたらスッキリした。
父の友人が訪問してくる前の隙間時間に部屋をざっと片付け、トイレをチェックして、お茶がすぐに出せるように準備をした、今のうちに夕食のお野菜も刻んでおこうか?すると伽奈が起きてきたので、温かいお茶を飲ませて、おやつはきゅうりスティックを食べさせた、ぽーりぽりと適当な歌を歌っていると、予定通りお客さんが来た。
父の友人達は、父の好物だったアラレ菓子をお供えしてくれ、お線香だけあげさせてくださいの言葉通り、静かに帰って行った。ちょっと拍子抜けした。

夕食のあと、キッチンをざっと片付けて、タブレットでパパと通話する伽奈に加わる
「ママ、大丈夫かな?パパはご飯を食べています。ひとりぼっちだけど、大好きなカラーいご飯食べてまーす」
陽気な声がする
「辛いご飯?カレー?」
「麻婆丼、近くの中華屋さんでテイクアウト〜」
「マーボードンマーボードン」
伽奈がはしゃぐ
「あのね、今度の土日にそっちに帰って、次の月曜から一旦本社に帰って、一週間くらいで引き継ぎが済んだら、本格的にそっちに帰ります〜、だからもう少し伽奈と二人で頑張ってね。」
「ええ、ホントに?ホントにそれでいいの?」
「いいの、いいの、おじさんとも相談は済んでいるし、もう二週間くらい頑張ってくれ。パパも頑張りまーす。伽奈、ママの言うこと聞いて元気元気でお利口さんにするんだぞお、じゃあお風呂に入っておやすみなさーい」
「じゃあね〜」
いつものやり取りで通信は切れた。
「パパ帰って来る?」
伽奈が聞く。
「パパはね、今度の土日にいっかい帰って来るって、だからカレンダーに丸をつけよう」
そう言って、大きなマス目のカレンダーに印をつける。これでパパいつ帰る?の質問から逃げられる、いつ帰る?が出たらカレンダーを見てねと言えばいい。
「さあ、お風呂に入ろう、パジャマを出して〜」
今日も一日長かった。あとはお風呂に入って髪を乾かしたら、やっと眠れる。実佳子は最近、寝室に横になるときが一番幸せなのだ。

翌朝、家電(イエデン)がなった、ナンバーディスプレイを確認すると「植辰」。庭師さんだ。
出てみると、昔、庭師さんに来てくれていたおじいさんがお線香をあげさせて欲しいという、お忙しいなら遠慮する、ご都合の良いときに、時間は取らせない。
ここで忙しいのでとかお気持ちだけでといえば、断われただろう。植辰はその後も厄介な態度を取る人物ではない。しかし植辰の声が、何かが、実佳子の気持ちに響いた。
午前中の10時に来てもらうことになった。
「ちょうどよかったんです、植辰さんに相談したい事があって…」
と言った。

「それでね、立派な藤棚なんだが、処分したいような、申し訳ないようなって迷っておられてな。
お兄さんがいるんだが、大学進学で家を出たきり。優秀な人で、ご両親もこんな田舎に埋もれることはないって、大企業の研究所に送り出したらしい。
娘さん(実佳子さん)もできる人でね、谷藤さんちは明治の終わりあたりの当主が会社を興してて…、株式会社で、今は経営しているわけじゃないけど。
でも、そこには入らずに東京に本社のある大企業で働いていた。
で結婚して、ご主人もいずれ谷藤の家に入る約束で結婚して、お子さんが生まれて2年くらいの間に、ご両親がなくなってしまった。
今はご主人に単身赴任の形を取ってもらって、谷藤の家に娘さんと二人でいる。夫さんはあと二週間ほどで今の勤め先を引き上げて谷藤さんちの会社に入るんだそうだ。
で、藤棚さ。藤棚をどうしようって毎日考えてるっていうんだ。ワシは植木屋で庭師だから、切れって言われたら切るし、残すっていうなら手入れ法だってなんだって教えるよ。でも、どうしましょうって言われても、わからないよ」
それでなんだか街灯(マチアカリ)さんに相談したくなってね…。それで、来てくれたのだそうだ。

街灯(マチアカリ)は祖父母が営んでいた喫茶店だ。真千子が数年前にカフェにリニューアルしてカフェマチルダになった。喫茶店時代の人気メニューを残し、真千子が焼くキッシュやサンドイッチ、焼き菓子などをテイクアウト出来る。
祖父母に負担のない範囲で手伝ってもらっている。
祖父母との交流を目当てに来店してくれるお客様がこうしてたまに現れる。
蘭子は真千子を見て
「お話を伺うだけなら私たちで聞くこともできるけど、ここは一ノ瀬さんにお願いするのがいいんじゃないかしら」
と言った。

盆や暮れ正月は特に忙しい実家の料亭から、夏休みなど長期休暇にしばしば滞在したこの店内で、祖母はときどきタロットカードをめくって客と話していた。
祖母は勘が良いらしく、ちょっとしたアドバイスがトラブルを解決に繋がることがしばしばあったらしい。
「もともと特別な力はないの。ただ話を聞いて、それで気がついた事を言ったら、いくつかトラブルが解消したことがあって」
と、祖母は言う。今でもときどき相談されることがある。そういう役目も真千子に引き継いだというが、真千子は話を聞くのはともかく、トラブルや悩みを解決できる力などない。
しかし真千子には不思議と情報が集まって、しかるべき相手にそれを繋いで、それで解決に繋がる運があるようだ。
そのしかるべき相手が、多くの場合、メンテナンスアドバイザー一ノ瀬だった。レジの下の引き出しにメンテナンスアドバイザー一ノ瀬のリーフレットが入っている。コミカルなイラストにスッキリしたフォントが並んでいる。
それを見せながら、一ノ瀬の仕事について説明した。
「文字通りメンテナンスの相談に乗る人です。
大手のハウスメーカーさんならコーディネーターがやってくれるようなリフォームのプランとか。
家のどっかの軋みの原因を探るとか。物音の原因の特定とか。
具体的な施工が必要な場合は業者さんを紹介してくれる、本人がやるのはお掃除が多いそうです。
お祓いとか縁起がどうこうって話が持ち込まれる場合もあるそうで、その場合は、掃除とメンテナンスが99%解決に繋がるって考え方の人です。
お話を伺うと、その娘さんは何か藤に因縁めいた気持ちを抱えていらっしゃるようにも感じます。
そういうお気持ちを納得できる形に変えてくれる人だなって、私は思ってるんです」
植辰は驚いたように蘭子を見た。奇妙なこだわりを納得できる形に変える、それが植辰が蘭子に抱いている印象だ、なぜ相談を受けて植辰自身が迷ってしまったとき蘭子のことを思い出したのか、今気づいた。
植辰は一ノ瀬に相談したいと言い出した。
「えっと、この人は相談料が発生するんです、このリーフレットをそのお嬢さんに渡して…」
「それくらいの費用ならワシが持つ、先代さん、もう先先代さんなのか、あの方にはお世話になったんだ、孫の修行先もあの人が世話してくれた、力になってくれたんだ、恩返しがしたいよ」

二日前、お仏壇に手を合わせに来てくれた植辰に藤棚について相談すると、植辰は一度、藤棚の様子を見てみましょうと言った。
「もしかすると木の様子で判断出来るかもしれません」
だがその日は伽奈を図書館と児童館に連れて行こうとお約束していた、植辰も後日の方が都合がいいと言う、では明後日と約束した。
すると昨日、植辰から、もう一人、私のアドバイザーを連れて行くと連絡があった。
アドバイザー?植辰さんのアドバイザー?なんのことだろうと思ったが、わかりましたと伝えた。
植辰と現れたのは、夫と同じくらいと思われる年恰好の男性だった。落ち着いた様子で、渡された名刺にはメンテナンスアドバイザーとある。同時に手土産?の紙袋を渡された
「私の事務所の近くのカフェ店主さんから預かった新商品の試作品だそうです。失礼かと思いましたが、お力を貸していただけないでしょうか?」
このゼリーをベースにアレンジしたいという、アナタの知り合いの女性や子供さんに何かアドバイスをもらえないかな?と試作品を渡されたという。
名刺と紙袋を同時に渡されて実佳子は少し驚いた。
ひとあし早く到着していた植辰がいる藤棚に案内する。
鍵を開けておいた窓からLDKに入り紙袋を冷蔵庫に入れる。
「それなーに」
LDKで待っていた伽奈が、興味を示す。
「ゼリーだよ〜」
一ノ瀬が意外にもよく通る声で藤棚の下から声をかけてきた。
「ゼリー食べたい」
仕方ないのでコートを着せ、ゼリーを一つ持たせて藤棚の下の椅子に腰掛けさせた。
「一人で食べられる?」
うんと頷く、ビニール袋からとりだしたプラスチック製のスプーンを渡すと、伽奈は一人で透明なピンクのゼリーを食べ始めた、目を細めて植辰と一ノ瀬がその様子を見る、実佳子はゼリーが今の伽奈にちょうどいいサイズだと気づいた。
「アセロラのゼリーだそうですよ」
一ノ瀬が説明した。
「おいくつですか」
「去年の暮れに二歳になりました」
「大変だ」
一ノ瀬は暖かい口調で静かに言う。
植辰は藤の木の元を見て藤棚の状態をチェックした。
「古い藤棚だけど木は更新されているし、棚もこまめに手入れされてるねえ。個人のお宅でこんな立派な藤棚は見かけません、大変なものです」
「これは何年くらい経っているんですか?」
一ノ瀬が藤棚を見上げて尋ねる
「100年…以上かもしれません、戦前からあるそうですから」
実佳子は答える
「もちろん同じ木がずっとってわけではないし、大きさも、その時々の木の状態に合わせて藤棚の位置や大きさが変わったりしてます」
「ウチの若いのが、藤棚の整理をさせてもらいました。以前はこの倍ありましたね」
植辰が言い、実佳子は頷く。一ノ瀬は
「素晴らしいですね。でも、…でもこの藤棚は伐採した方がいいと思います」
といった。実佳子はええっと驚きの声を上げる。
「とても立派で素晴らしい藤棚ですが、今現在はもうご家族の負担でしかない…藤棚は撤去なさるのがいいですよ。
失礼ですが、谷藤さんがキャパオーバーになる前に、生活の負担を減らす“べき”です。
100年以上も家と共にあった藤棚をと、迷っておられるのはわかります。でも少なくともお嬢さんが小学生になるまでは、藤棚とは離れましょう。」
実佳子は驚いた状態で固まった。伽奈の
「ママ…」
という声で我に返る。
「ああ、ゼリー美味しかった…?伽奈、ママはお話があるからちょっと待っててね。お部屋に戻る?お部屋があったかいよ」
「ここにいるの」
小首を傾げて伽奈が言う。
「伽奈ちゃん。伽奈ちゃんは藤の花見たことあるかなあ?」
一ノ瀬が屈んで伽奈に話しかけた
「あるよお、すごーく綺麗なの」
「そっか。綺麗だよねえ、藤の花。伽奈ちゃんが藤の花よりもっと好きなのは、ママでしょお〜」
しょお〜と上がり調子で聞く、伽奈は椅子の上でキャラキャラと笑い、そうだっよーと答えた。
一ノ瀬は立ち上がって実佳子に、ねえっと言うような表情を見せた
「ご主人がお帰りになって、藤棚をやはり残そうと結論なさるなら、残されればいいって思うんです。
今すぐでなくていい、でも藤棚は撤去するって決めたらいい…。
お嬢さんをとても大事に育ててらっしゃる、そして家の管理や手続きなどのお仕事も、やることは多い。
藤棚は一旦は撤去なさるのがいいと思う。
藤の花を楽しみたいなら挿木で更新するとか、鉢植えで苗木を楽しむとか方法はあります。」
実佳子は、落ち着いてくると同時に気持ちが晴れる思いがした。そうだ、なんでそんな簡単なことに迷っていたのだろう。
「植辰さん、藤の伐採や藤棚の撤去は素人には難しいですか?」
一ノ瀬の質問に
「伐採は難しくない、藤棚の撤去は、難しいというよりも、面倒だね、でもやれないわけじゃないよ、面倒だけど」
「だそうです、ご自分でなさるのが大変なら、植辰さんに頼まれてもいいし、僕から他の業者を紹介もできます。もちろん谷藤さんご自身で選んだ方に頼まれるのもいい」
「ひとつ僕から提案です。あの藤の蔓でリースやオブジェを作ったらどうでしょうか、今ひとつ作らせてもらっていいですか?植辰さん、この蔓切ってください。」
「おうよ」
植辰は大きな鋏で直径2cmほどの蔓を切った。一ノ瀬はそれをくるくる巻きリースにした。ねっというような表情で実佳子に見せる。
「こんな残し方もありますよ」

慌てて結論を出すことはない、また園芸のことで相談があるなら植辰に、その他のメンテナンス等の相談は
「よろしければ、私にご連絡ください」
と言って二人は帰って行った。

実佳子はとても気が楽になった。
「伽奈、ゼリーをママも食べていい?ママも食べたくなっちゃった」
「いいよいいよ、ママも食べなよ」
二人でリビングに戻り、冷蔵庫を開ける。ゼリーはソーダで作ったもの、アセロラで作ったものがあった。ソーダのゼリーは二つ、アセロラは一つ残っている。伽奈にどっち?と聞くとママと一緒と言うので、ソーダを一個ずつ食べた。ぷるうんとスプーンの上でゼリーは弾み、キラキラしてる。口にすると思っていたより、ずっと美味しいと思った。

二週間後、植辰はコーヒーを飲みにきて、今年の藤の花が終わったら、藤棚を撤去することになったよと蘭子に報告した。その場合の仕事の依頼が植辰に来ているそうだ。
「まだちょっと先の話だけどね。真千子ちゃん、いい人を紹介してくれてありがとう、あの人は気持ちのいい、面白い人だね」
あれから、一ノ瀬は植辰に庭木や庭の仕事の相談がある場合は連絡したいと言っているそうだ。
一ノ瀬は
「今回は乱暴な仕事をしてしまいましたが、植辰さんの信頼が厚かったので、上手く行ったんです」
と言っていた。本当はもっとじっくりと話を聞いたりすべきだったと思ってるが、子育てや実家の引き継ぎなどでクライアントは疲れ切っていた、早急に、あの場合は丁寧さよりスピード感を持ってズバッと結論を出すことにしたのだと言う。
「植辰さんのお人柄と長年培った信頼のおかげで、僕みたいな新参者の意見も受け止めてもらえたんですよ、それから」
真千子さんのゼリーがお助けアイテムでしたよと付け加える、何のことかはわからないけど
「お役に立てたなら良かった」
と言っておいた。

ときどき肌寒い日もあるけど、上着は軽いものを選びたい季節、カフェマチルダに親子三人の家族連れが来た。
それ自体は珍しいことでもないが、何か整った印象がある、つまりは垢抜けてオシャレなのだ。
つい注目してしまう。色白でショートヘアの母親は薄紫のシンプルなワンピースに白いカーディガンを羽織りスニーカー、小さい娘さんも青みがかったピンクのTシャツに同じ色合いのブルゾン、母親似で抜けるような白い肌だ、白っぽいスパッツをはいてる、父親も娘と同じようなTシャツにブルゾンの組み合わせでチノパンを履いている。もしかすると全部ユニクロの製品なのかもなあとも思う、なんだかポスターを連想してしまう親子だった。
オーダーは両親はアイスコーヒー、モーニングタイムなのでパンにジャムと卵、ヨーグルトのセット。娘さんは子供用オレンジジュースのセット、コーンフレークとヨーグルトフルーツソースに小さなプリン、ソファ席に父親と娘、向かいに母親が座る。
いいの?と聞く母親に、父親がいいって大丈夫と席に着く、女の子が嬉しげにジュースを飲みプリンを食べるのを父親が手慣れた様子で世話を焼く。
母親は落ち着いたというようにゆったりした動作でアイスコーヒーを飲んでいた。
真千子は客席を見ていた。すると娘さんが唐突に父親に抱きついて甘えた様子を見せる、父親は背中を優しくポンポンしていた。
「二歳くらいかねえ、真千子が植辰さんのお孫さんに抱きついていたのを思い出すよ」
蘭子が小さな声で楽しげに言う。

真千子は笑って聞きつつも、あんな風に好きを衒いなく全身で表現できる時代があるのだと思った。
弁えていたと言われた自分にも、その瞬間の好意を全身で示した時代があったのだ。
我慢してはいなかった、不満などなかった、でもそんな態度は取らないものといつしか知った…そういう賢い自分も、自分は小さな誇りに思っていた。同時に、感情のままに好意を示した幼児だったときがあったのが切ないような気がする。
自分は恵まれていた。
恵まれた暮らしの中で、弁えた子供でいられた。
あの小さな女の子も、恵まれたお利口さんになっていくのだろう。そういう子供は、弁えるということを自然に学ぶ。それはやっぱり
「恵まれていたな」
他に言いようがない。

支払いの際、白いカーディガンの女性は什器を眺め、キッシュ美味しそうだなーと呟きつつ、籠に盛られたジャムクッキーを手に取り、これもお願いしますと言った、そして
「ゼリーはないんですか?」
と聞いてきた
「ああ、ゼリーは…試作品で、試行錯誤しているところです」
真千子は答える
「私、こちらのゼリーの試作品をいただいたことがあるんですよ。メンテナンスアドバイザーの一ノ瀬さんから渡してもらって。
アレンジアイデアを考えて欲しいって渡されたんです」
ええ!真千子は驚いて一瞬ポカンとしてしまった
「季節のお花のゼリーなんてどうでしょうか?春は桜で、5月は…藤…。ずうっと考えていました。お伝えしたかったんです。」
「ああそれ!素敵ですねえ、検討してみます」
また来てくださいねと言って、真千子はその鮮やかな一家を見送った…なんというかそつがない。
一ノ瀬にゼリーを渡したのは一度だけ、植辰と共に藤屋敷に行く朝だ。自分の応援が伝わっていた、そして返ってきた。
「どうしたの?なんかすごく嬉しそう」
蘭子が声を掛けてきた、アルバイトの三崎もうんうんと頷いている。
「嬉しいよ、このなんでもない日常が」
歌の文句のように答える。
ゼリーの試作をしよう、アレンジアイデアももらったし、今度は自分が宿題をやっておかねば。
真千子はあれこれと考えながら、カフェの仕事に戻ったのだった。




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