見出し画像

興味のない映画を2時間見たら、2年分の旅が全部つながった 〜用意されたメニュー表の外側に出たら、社会の「呪い」が解けはじめた話

こんにちは、 タナカミノルです。

今日は、お気に入りの映画を 偶然見つけた話をします。

おすすめでもなく、 お役立ちでもなく、 お気に入り。

約1ヶ月前から始めた妻との世界一周旅行の途中、シンガポールからドバイへ向かうエミレーツ航空の機内で上映されていた、数少ない日本映画の一つです。字幕はアラビア語。

全く事前情報もなく、興味のあるジャンルでもない。 途中で眠ってもいいやと、とりあえず再生した感じです。

内容は、主人公を演じる役者が何人も入れ替わりながら走馬灯のように淡々と進んでいく、ある親子の半生記。 火薬も暴力もセックスもない田舎の日常風景から始まり、大した緊張やカタルシスもないまま、ただ流されるように成長していく主人公。

私は何度か寝落ちしながらも、結局その度に何度も巻き戻して、なぜか最後まで見てしまった。

見終わった後、昨年の世界一周旅でもずっと引っかかっていたことに、何かの像が結ばれる手応えがあった。

その後、ドバイ、エジプト、スペイン、コロンビアなどを経てつい先日、ボリビアのウユニ塩湖の夜空を見上げた時に、いろいろなことが全部つながった気がした。

今日はその話をします。

1万字を超える長い記事なので、 旅行気分に浸りたい時に お気に入りのハーブティーか、 コーヒーを片手にどうぞ。
すぐ読めない場合は「♡(スキ)」を押して保存しておいてください。

ーーーーーーーーーー

─ 目次 ─
■娯楽の変遷が隠している、もうひとつの話
■ふたつの世界──同じものを見て、まるで違う景色が見える
 ├ 世界史の視点:ルクソール遺跡と4000種のジャガイモ
 ├ 個人的な生活の視点:160名のクライアントと「メニュー表」
 └ 世界情勢の視点:ラトビアのバス停と分断
■国際線の機内で映画を見るということ
■映画「ぼくが生きてる、ふたつの世界」
■ウユニ塩湖の天の川と、暗黒の星座
■社会は、静かに私たちを「呪う」 ・私自身の「ふたつの世界」
■タイパも再現性もない「一回性の体験」
■「不安」と「美しさ」は、同時に存在している

ーーーーーーーーーー


娯楽の変遷が隠している、もうひとつの話

映画はかつて、娯楽の王様でした。 映画から、テレビ、そしてインターネットへ。

これ、「メディアの主役が交代しただけ」と思ってしまうと、大事なことを見落とす。 実際ここで起きたのはブームの交代ではなく構造の変化です。

映画館では、集まった街の人々全員が同じスクリーンを見上げていた。 テレビでは、家族が同じ番組を見ていた。 スマホでは、全員が「自分だけの世界」を下を向いて覗き込んでいる。

つまり「みんなが同じものを見ている世界」から「一人一人が完全に違うものを見ている世界」への移行。

結果、何が起きているかというと── 同じ地球に住み、同じ言語を話しているのに、隣に座っている人と「完全に違う世界」を生きている

私は旅先でも、ビジネスの現場でも、この「分断」を繰り返し感じます。


ふたつの世界──同じものを見て、まるで違う景色が見える

私は今、期限切れの迫っていたマイルを使って、妻と世界一周旅行をしています。 昨年は、自宅を出てから帰宅するまでの約5ヶ月間で、夏の北半球で21カ国を周りました。 今年は1月に自宅を出発して、季節が逆の南半球を中心に2周目の旅を始めています。帰宅予定は11月。

旅の中で繰り返し感じるのが、この「ふたつの世界」の存在です。

なまじ名前がついていたり、目で見て触れたりするから、私たちは「みんな同じものを見ている」と思い込む。 でも、人によっては全く違う景色を見ている。

同時に、「自分自身」という確固たるものがあると思い込んでいると、その「自分」すらも常に揺らいでいることを見落としてしまう。

どこに意識を向けるかによって、自分が揺らぐ。 自分が揺らげば、そこから見える世界も全く違うものになる。

いったい私たちが生きている「ふたつの世界」とは何なのか?

ここで映画の話からは少し脱線して、私自身の体験を3つの角度からシェアします。 もし大切な人と一緒に世界を旅したら、あなたにはどんな揺らぎが起きるか── 少し想像しながら読んでみてください。

世界史の視点

ルクソール。見上げれば4000年前の石柱が、まだ立っている。

有名なギザのピラミッドのあるカイロから飛行機で約1時間。 エジプトのルクソールで感じたのは、ラムセス2世の圧倒的な「敗北感」でした。

ラムセス2世といえば、古代エジプト最大のファラオです。 60年以上も君臨し、100人以上の子供を残し、巨大な神殿を全土に造りまくった「絶対権力」の象徴。

それほどの栄華を極めたのに、彼が眠る地で感じたのは、存在感でも迫力でも勝利ですらなく、敗北感。

あの土地は一神教の始まりの場所であり、平地の農業による「所有と拡大」の文化の発祥地です。 紀元前2500年頃のギザのピラミッドは「目立つから埋蔵品が全て盗まれた」。 だから1000年以上後のルクソールでは、王墓を地下深くに隠した。 機密を守るために、王墓作りに携わった職人は完成後に全員殺された。

それでも、見事に盗掘された。

それだけじゃない。 遺跡を歩いていて時々見かける「歯抜け」になっている部分は、現地ガイドによると「ここはイタリアに」「ここはイギリスに」「ここはフランスに」あるという。

あっぱれ、現代の盗掘王。 他国から文化を奪って博物館に並べる列強の姿が、ラムセス2世の執念と重なって見えた。

壁画に繰り返し描かれているのは「捧げ物をする姿」。 搾取を正当化するための装置としての宗教と美術。

面白いのは、信仰の対象が「お金(中央銀行制度)」という一神教に変わった現代でも、その文化が生きていること。

空港に到着してUberで呼んだタクシーに荷物を積んで、いざ出発というタイミングで「アプリをキャンセルしろ。そして現金で2倍払え」と言われた。 荷物を降ろしてまた別の車を探すコストを考えて、私はそのまま従いました。

興味深いのは、別にそのドライバーが悪質な人には見えないこと。 それはごく自然な手続きのように感じられたこと。 まるで私たちが銀行手続きでの長い待ち時間や毎年の確定申告を当たり前のように受け入れてるように。

4000年の歴史を持つ「所有と搾取の構造」が、スマホアプリの時代にも平然と動いている。 怒るどころか、むしろ感心してしまった。

一方、ペルーのアンデス山脈ではまるで逆の感覚だった。

聖なる谷の円形段々畑(モライ遺跡)。段ごとに標高が変わり、異なる品種を同時に試す実験場だった。

山岳民族は約4000種類のジャガイモを育てている。 平地の帝国から見れば非効率の極みです。

でも、単一品種に依存する平地の農業は、たった1つの疫病や冷害で全滅する。 4000種類あれば、どれかは生き残る。 これは「反脆弱性」そのものです。

ピンチを回避するために備えるでもなく(ベストプラクティス)、 ピンチを許容して鍛えるでもなく(レジリエンス)、 ピンチそのものを機会と捉える「反脆弱性」。

役人や専門家が語る「想定外」とは、私には、自らの知的傲慢さの告白にしか聞こえない。 勝手な想定を押し付けてきたことへの反省や、それによって得ていた旨味を恥じる気配もない。

この「帝国に依存しない」あり方は、現代のペルー社会にもつながっている。 ペルーは地下経済(インフォーマル経済)の割合が異様に高い。 政府の中央管理を通さず、生産者同士の直接取引や、独自のコミュニティ通貨による経済圏が当たり前のように成立している。

余談だけれど、日本はウクライナと並んで、地下経済の割合が極端に低い国として上位を独走している。

効率を追求する「所有と拡大の文明」と、非効率に見えるけれど決して全滅しない「分散と多様性の文明」。

旧ソ連領のバルト三国が大国に翻弄されながらも静かに文化を守り続けたのは、アンデスの山岳民族に通じるものがあると感じた。

一方で、「所有と拡大」の成れの果てはどうなるか。 ルクソールの延長線上にあるのが、産業革命の地・マンチェスターです。

昨年私が訪れたマンチェスターは、町中がホームレスの匂いに溢れていた。

マンチェスター。この穏やかな日曜に、街の匂いは写らない。
なかなか戻らない私を探しに、妻がホテルから出てきた時の写真。

昨年訪問した時に日曜の公園で日向ぼっこをしていると、
・私の前には、数百名の「移民反対」集会が
・私の後ろには、数百名の「移民反対に反対する」集会が
・私の横には、数百名の警官とメディア関係者が
様々な肌の色や衣装の人がいる。

でも、必ず同じもの同士が群れていて、決して混じり合ってはいない。 それは明確な「分断」の景色でした。

妻は、マンチェスターではホテルからほとんど出なかった。 でも、ペルーに着いた途端、すぐに「ここにはまた来たい」と再訪の意思を示しました。

同じ「世界」を旅しているのに、見えてくるのは全く違う「ふたつの世界」。 どっちが正しいとか優れているとかじゃなく、両方がそれぞれの正義を信じて同時に存在しているという事実が興味深い。

個人的な生活の視点

私は2014年にセミナー講師を辞めて以来、いつでもどこでも聞けるオーディオ教材の制作と販売をしている。

海外に拠点を移したことをきっかけに、基本的に「時間と場所を合わせる必要がある仕事」は排除した。 同じ話を何度も繰り返すのが嫌だった、というのもある。

正確な数字は追っていないが、最初の10年間でのべ5000人くらいの方々が私のオーディオ教材で学び、今でも毎日、必ず何通かは感謝のメールが届く。

一方で、オーディオ教材を学んだ方向けに、不定期でオンライン・ライブのクラスも募集している。 現在、40万円以上の受講料を払って月に1、2度のワークショップに参加しているクライアントが160名いる。(※『生成AI時代のリベラルアーツ』のアーカイブ視聴者なども含む)

要するに、表には顔を出さないし、SNSも滅多に更新しないけれど、仕事はしていて、全員の名前は正確に覚えきれないくらいの人々と遠隔で深く関わっている。

同時に、私自身の日常はというと、たいてい妻と2人きりだ。 読書をして、文章を書き、リュック一つで埃っぽい街を歩き回る、風来坊のような世界を生きている。

そして、私が言いたい「ふたつの世界」は、この160名の中にあるわけじゃない。

ワクチンの是非を議論したいわけではないけれど、ひとつの事実として書いておくと── 国民の8割が打ったmRNAワクチンを、私のクライアントのほとんどは打っていない。 2022年に新宿で対面のライブセミナーをやった時、集まった140名のほとんどはマスクすら着けていなかった。

これはどちらが「正しい/間違い」の話ではなく、「どの情報を信じ、どう行動するか」が、世間一般とこの160名で全く違うという構造の話だ

つまり、世間一般のほうに「ふたつの世界」がある。

「用意されたメニュー表の中から、いいものを選びたい」という世界と、 「メニュー表にないものを、自分で作りたい」という世界。

前者は「おすすめ」「お役立ち」を求める。 後者は「お気に入り」を探している。

この160名は、後者の世界にいる人たちだ。 少なくとも、そちら側に行こうとしている人たち。

彼ら・彼女らは、私のクラスを受講しながらも、一歩外へ出れば、まったく違う判断基準で動いている人々と生活を共にしている。 同じ電車に乗り、同じ職場で働きながら、まさに「2つの世界」を同時に生きていると言えるかもしれない。

世界情勢の視点

踏み込んだ話になります。 でも、私のメルマガやnoteを読みに来る人は踏み込んだ話が嫌いじゃないはずなので書きます。

ある世界線では、「反ワクチンは陰謀論」であり、「トランプやプーチンは独裁者」として処理される。 少なくとも、数年前の主要メディアではそうだった。

もう一つの世界線では、「mRNAワクチンの安全性に疑問を呈する医師が続々と出てきている」し、「大英帝国から続く植民地主義が本当に終わるのか」が真面目な学術的テーマとして議論されている。

誤解のないよう強調しておくと、どっちが正しいと言いたいわけじゃない。 少なくとも私は、唯一の真理以外を「異端」として排除するつもりはない。

ただ面白いなと思うのは、同じニュースを見ても、見えている世界がまるで違う人たちが、同じカフェで隣に座ってコーヒーを飲んだり、満員電車でそれぞれのスマホ画面を凝視しているという、構造的な事実です。

これはキャリアの話にも出てくる。

「起業は危険。公務員が安心」と信じている人と、「政府依存こそ危険。起業は大前提」と考えている人が、同じマンションに住んでいる。 「用意されたメニュー表の中から、コスパのいいものを選ぶ自由が欲しい」人と、「メニュー表にない、独自の体験や価値を自分自身で生み出したい」人が、同じ会議室にいる。

何度も繰り返しますが、どっちが正しいかという話じゃない。 自分がどちらの世界にいるかに気づいているかどうか。 自分の世界以外の存在に気づいているか。 私が旅先で何度も感じているのは、その一点です。

海外といえば「英語」と思っている人がほとんどの国に生まれると、インターネットのアクセス制限がある中国やロシアは「別世界」だし、南米やアフリカは、そもそも「海外」の範疇にすら入っていません。

昨年、バルト三国のヴィリニュス(リトアニア)から長距離バスで移動してリガ(ラトビア)に着いたとき、現地のおじさんが私に熱心に話しかけてきたことがありました。

後から分かったのは、1945年から1980年代前半にラトビアで生まれた人々は、ソ連時代の教育を受けたためロシア語しか話せない。当然、英語も全く通じない。

私はGoogle翻訳片手になんとか意思疎通しようとしつつ、アプリの操作に手間取っている間にも、おじさんには奥さんらしき人から何度も電話がかかってきていた。

そこへ英語が話せる若者が加わって、通訳してくれた内容によると、おじさんはこういうことを知りたがっていたのでした。

「Googleは使えても、ここに仕事はないぞ。お前は何しにきたんだ?」

全く言葉が通じないのに、諦めずに話しかけてくる高齢者には、別の日にもリガで遭遇しました。 海外では旅行者への物乞いに出会うことも多いので警戒していたけれど、純粋に「時間効率」や「必要性」に関係なく、高齢者が好奇心をむき出しにしてくるのは、心地よい驚きでした。

そしてこの景色は、おそらく日本人が「海外」という言葉で想像する世界には含まれていない。

もはや「国連」や「G7(先進国首脳会議)」が何の求心力も持たなくなった今、地球の総人口から見れば、私たちはすごく狭い世界に生きていると言える。


国際線の機内で映画を見るということ

ここで、最初の話に戻ります。 巨大な世界の話から、機内の小さなモニターへのズームイン。

機内で映画を見る体験には、3つの特徴がある。

その1:前提情報がない。 予告編もレビューも、SNSの評判も見ていない。アルゴリズムのおすすめでもない。 聞いたことのある役者が出てるかどうか、くらいしか先入観もなく、ただそこにあったから再生ボタンを押す。

その2:逃げ場がない。 映画館と違っていつでも巻き戻せるけれど、長時間のフライト中、他にやることがない。 だから、普段なら最初の10分で止めるような映画でも、最後まで見届けてしまう。

その3:「既存の興味」からはみ出す。 GoogleもYouTubeもNetflixも、私たちの「過去の行動」に基づいてレコメンドしてくる。 つまり「すでに知っている世界(用意されたメニュー表)」の延長線上しか提案してこない。

でも、機内の映画リストは違う。

この「既存の興味やメリットからはみ出した時間」にこそ、普段のアルゴリズムでは絶対に出会えないバグ(発見)が隠れている。

かつてテレビが王様だった時代に、「深夜放送のC級映画」をタイトルすら分からず最後まで見て、夜更かししてしまった時に感じたような特別な視聴体験。

私はそれを、国際線の機内で何度もした。 テレビの深夜放送で見たC級映画が、翌朝になっても頭から離れない。 そういう体験は、アルゴリズムの「おすすめ」からは決して生まれない。

今回、私がたまたま再生したのは、英語とアラビア語の字幕がついた日本語音声の映画だった。 タイトルは、『ぼくが生きてる、ふたつの世界』。


映画「ぼくが生きてる、ふたつの世界」

呉美保監督、吉沢亮主演。2024年公開。 原作は、五十嵐大さんの自伝的エッセイ。 結婚と出産を挟んだ監督の9年ぶりの復帰作であり、日本映画批評家大賞で作品賞を含む4冠を獲得している。

主人公は、宮城県の港町で生まれた五十嵐大。 彼の両親は、ふたりとも耳が聞こえない。ろう者だ。

彼は「コーダ」──CODA(Children of Deaf Adults)。 耳の聞こえない親を持つ、聞こえる子ども。

幼い頃、母の「通訳」をすることは彼にとって「ふつう」だった。 鮮魚屋で母の代わりに注文する。「えらいね」と褒められる。嬉しかった。

でも、その役割が固定化されて、当たり前になって、思春期を迎えると──母の存在そのものが疎ましくなる。 心を持て余したまま20歳になり、逃げるように東京へ出る。

ここで、2重の「ふたつの世界」が交差する。

ひとつは、地方から上京した人間が生きる2つの世界線。 故郷と東京。どちらにも完全には属せない。

もうひとつは、聞こえる世界と聞こえない世界のあいだに立つ、コーダの2つの世界線。 手話の世界と音声の世界。どちらも自分のものなのに、どちらにも居場所がない。

この映画は、「コーダの特殊な物語」では終わらない。

親が疎ましかった思春期。 自分のルーツ(地元)を恥じた時期。 「ごめん」と言いたくて、言えなくて、何年も経ってしまった後悔。

故郷の福岡から就職で上京して何年も帰省も連絡もしなかった私にはある。

逆に、東京23区生まれの妻にはないので、長渕剛の「とんぼ」も、くるりの「東京」も、フジファブリックの「茜色の夕日」も椎名林檎の「正しい街」も、結婚10年の海外生活でようやくその味わい方が伝わった。

ずっと同じ場所にいると見えない世界。 大切なものから離れてみたからわかる世界。

あなたはどうだろう。


ウユニ塩湖の天の川と、暗黒の星座

音声の世界と、無音の世界。 光の当たる場所と、影の場所。

この「ふたつの世界」のコントラストを、私はつい先日、ボリビアのウユニ塩湖でまざまざと見せつけられた。

ウユニ塩湖、新月の夜。足元にも頭上と同じ星空がある。

鏡張りの天空が見える雨季の新月を狙って訪れたウユニの夜空には、圧倒的な天の川が広がっていた。

直前のペルーの聖なる谷ウルバンバで、なぜか今見なければと思って全話見たばかりのアニメがある。 『チ。─地球の運動について─』だ。 「天動説」という社会の常識の中で、異端とされた「地動説」の真理に命を懸ける人々の姿を描いた作品。 タイトルの「チ。」は、大地のチ、血のチ、知識のチ。

ウユニの空で、私は人生で初めて「南十字星」を見た。 だが、私の目をさらに奪ったのは、そのすぐ隣にある不気味なほどの「暗闇」だった。

「コールサック(石炭袋)」と呼ばれる暗黒星雲。 星が密集してまばゆく輝く天の川の中に、光を完全に飲み込む漆黒の「穴」がぽっかりと空いている。

光り輝く星の世界と、光が届かない暗黒の世界。 ここにも明確な「ふたつの世界」があった。

面白いのはここからだ。

西洋の天文学は「光る星」をつないで星座を作った。 しかし、インカをはじめとするアンデスの先住民たちは違った。 彼らは、天の川の「暗闇(コールサックなどの黒い部分)」をつないで、リャマやキツネといった星座を見出した。

光だけを見る文化と、そのスキマの空間(闇)を見る文化。
同じ夜空を見上げていたのに、見えていたものがまるで違う。


社会は、静かに私たちを「呪う」

私たちが「ふたつの世界」の片方しか見えなくなるのは、偶然じゃない。

『チ。』から私が受け取ったのは、「天動説が間違いで地動説が正解」という単純な話ではない。 私たちは「自分が所属する世界の常識フィルターを通してしか、ものを見ることができない」という、極めてシンプルな事実だ。 思考も感情も、長年過ごした環境とセットになった習慣や「内省言語」に縛られている。

ルクソールの壁画に描かれた「捧げ物をする姿」と、Uberのタクシーで「2倍払え」と言われた瞬間が、私の中では同じ線上にある。 4000年前の「搾取の構造」と、いまの「用意されたメニュー表の中から選ばされている構造」は、根っこが同じだ。

「いい大学→いい会社→安心」という物語は、20年前ならそこそこ機能した。 でも今、ホワイトカラーの失業率は上がり、ブルーカラーの所得は逆に上がりつつある。生成AIが「知的労働」を置き換え始めている。

環境が変われば、「機能する物語」も変わる。

アンデスの4000種のジャガイモが教えてくれるのは、単一の「正解」に依存するほうがよほど脆いということ。 そしてアンデスの暗黒星雲が教えてくれるのは、光り輝く星ばかりを追っていると、そこにあるはずの巨大な暗闇や想像力のスペースの存在に気づけなくなるということ。

私たちが「用意されたメニュー表」の中から選ぶことに慣れきっていると、メニューの外側が存在すること自体に気づけなくなる。

私はそれを、勝手に「呪い」と呼んでいる。


私自身の「ふたつの世界」

私自身の話をする。

無職で無一文(しかも借金)になったことが2回ある。 引きこもりの時期は、高校時代から数えると10年以上だ。

20年前、就職面接で面接官の指摘に反論して自分をアピールしていると「やんわりと断ってるのにいい大人が気づかないんですか」と逆上されたことがある。 起業後にはバスに乗っていて、このまま崖から落ちないかなと思ったこともある。 店のレジを目の前に、強盗すればいいんじゃないかと、真面目に考えたこともある。

あの頃の私は、世間の光り輝くメニュー表に載っているどの選択肢にも、手が届かなかった。 いま、私は「メニュー表にないものを作る」世界にいる。

この2つの世界を行き来した経験があるから、映画の中で主人公が「聞こえる世界」と「聞こえない世界」のあいだで引き裂かれる苦しみが、他人事じゃなかった。

映画の終盤、母と息子が電車の中で手話ではしゃぐシーンがある。 母が息子に「手話で話してくれてありがとう」と伝える。

この瞬間、聞こえる世界と聞こえない世界の境界線が溶ける。 「ふたつの世界」が、ひとつになる。

『チ。』の登場人物たちも同じだった。 天動説の世界に住みながら、地動説の真理に気づいてしまった。気づいたら、もう知らないふりはできない。 でも、その「知ってしまった苦しみ」の先にしか、世界は動かない。

映画の主人公も、聞こえる世界に逃げ込もうとした。でも最後には、聞こえない世界との接点こそが自分のアイデンティティだと気づく。

私も、「持たざる者」の世界から「メニュー表にないものを作る」世界に移った。 でも、あの時期の痛みがなければ、いまの視点は持てなかった。

なまじ成功体験があると、変化に鈍感になる。
「持たざる者」であることは、逆に最大の強みになることがある。

ただ、ひとつだけ誤解してほしくないことがある。 「メニュー表の外側」を選んだからといって、もうひとつの世界を完全に切り捨てるわけじゃない。別の星に移住するわけじゃない。

これからも同じ満員電車に乗り、同じスーパーで買い物をし、同じように税金を払う。 メニュー表の世界と「共存」していく。

でも、頭の中のOSが違う。

社会の「呪い」に気づいた上で、あえてその世界を泳ぎながら、自分の軸足はしっかりと「外側」にも置いておく。 映画の主人公が、聞こえる世界の騒がしさの中で働きながら、母との無音の世界を自分だけの宝物として抱きしめたように。

どちらの世界も、生きる。 その上で、どちらの世界を自分の「本拠地」にするかを選ぶ。

ペルーの4000種のジャガイモと同じで、「複数の世界」を自分の中に持っていること自体が、単一の正解しか持たない帝国には真似できない強靭さになる。


タイパも再現性もない「一回性の体験」

冒頭で、今日はお気に入りの映画の話をすると書いた。

機内の小さなスクリーンで、たまたま再生した映画。ラトビアのバス停で、言葉も通じないのに話しかけてきた高齢者との時間。アンデスの夜空を見上げて、暗闇のなかに星座を見出した先人たち。そして、映画の中で描かれた、すれ違ってばかりの不器用な親子の関係。

これらに共通しているのは、「タイパ(時間効率)」も「再現性」もないということだ。 アルゴリズムが弾き出した「正解」でもなければ、誰かが用意した「おすすめ」でもない。 ただそこに生じた、一回きりの体験。

私がこの記事で書いているのは、「おすすめの映画」の紹介じゃない。 「おすすめ」じゃなく、「お気に入り」。 メリットでは測れない、私だけの一回性の体験の記録だ。

旅も、親子関係も、あえて振りかぶっていえば人生も同じだと思う。 量や効率で他者と比較するものじゃなく、自分だけの、ずっと残る手ざわりがあるかどうか。


「不安」と「美しさ」は、同時に存在している

いま、世界を見て何を感じるだろうか。

「不安やカオス」だろうか。 それとも「希望や美しさ」だろうか。

私は正直、両方だ。 そしておそらく、あなたも両方だ。 それでいい。

不安もカオスも、希望も美しさも、同時に存在している。 南十字星の輝きもコールサックの漆黒も、どちらも本物。 メニュー表の中から選ぶ生き方も、メニュー表にない一回性の体験を重ねる生き方も、どちらもひとつの生き方。

私が旅先で、そしてこの映画体験から受け取ったのは、自分がどちらの世界に住んでいるかに気づいていることの面白さ。 そして、もうひとつの世界が存在することを知っていることの豊かさ。

知っていれば、必要な時に行き来できる。 映画の主人公がそうだったように。 『チ。』の研究者たちが、次の世代に「知」をつないだように。

映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』は、現在Netflixなどで視聴可能だ。 もし見るなら、予告編もレビューも見ずに再生するのがいい。 前提情報がないほうが、この映画は深く刺さるように思う。

機内の小さなスクリーンという偶然がなければ、私はこの体験に出会えなかった。 あなたがこの記事に出会ったのも、何かの偶然かもしれない。

『チ。』もまだ見ていないのなら、事前情報なしでOPとEDの曲もスキップせずに見ることをお勧めする。 すでに完結していて、全25話がNetflixで視聴できる。

私たちは、見えていない世界を旅できる。
そして私たちは、暗闇にも星座を描ける。

それでは、また。 ありがとうございました。

タナカミノル


追伸:

アンデス山脈を越えて、私は今チリのサンティアゴにいる。 『アミ 小さな宇宙人』の作者、エンリケ・バリオスが生まれた街だ。 ここに2週間ほど滞在する間に、この記事を仕上げることにした。

ウユニの夜空で、もうひとつ忘れられないことがある。

誰もが知っているオリオン座。普段は4つの星で囲まれた中に、3つの星が並んで見えるだけ。 でもあの夜は、その星と星の間の「ただの暗い空間」に、何百もの恒星がびっしりと見えた。

天の川の恒星には、それぞれ惑星がある。 あの光の一つ一つが、太陽系のような世界を持っている。 見えていなかっただけで、最初からそこにあった。

ラパスとウユニ(ボリビア)はちょうどカーニバルの最中だった。 西洋が太陽暦で管理する世界の外側で、太陰暦で天体や自然と同調しながら踊り続ける人たちがいる。

栄華を極めたはずの欧米の現状を見てきた後だと、合理性だけで作られた社会の底の浅さが際立つ。

アニメ『チ。』で描かれる「知の継承」──命を懸けて次の世代に真理をつなぐ姿は、私がメルマガを書き続ける動機のひとつと重なるものがある。 言語化されていないもの、あえて除外されているもの。そこに本当に面白いものがある。

私のメールマガジンの読者には、100億円以上の資産を持つ人もいれば、生活保護を受けている方もいる。会社の社長もいれば、休職中だったり、学生や育児真っ最中のママもいる。

社会構造的にはバラバラなのに、なぜか同じ文章を読んで「あ、これ自分の話だ」と感じてくれる。 それは「ふたつの世界」のどちら側にいるかではなく、「2つの世界があることに気づいている」という共通点なんだと思う。

もし映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』が気になったら、予告編もレビューも見ずに。私がそうだったように。

感想や、あなた自身の「ふたつの世界」の話を聞かせてもらえると嬉しい。

タナカミノル 1975年福岡県生まれ。海外移住した2014年よりセミナー講師業を辞め、オーディオ教材の制作・販売に専念。のべ5000名以上が受講。現在は妻と世界一周旅行をしながら、160名のクライアントとオンラインで活動中。SNSはほぼ更新しない。メルマガが本拠地。 詳しいプロフィールと経歴はこちら →
 http://willpower-trade.com/archives/2226


いいなと思ったら応援しよう!