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また、会えるかな

<あらすじ>
  世界は文明が進んでいるオモテとウラに分かれていた。ある時、行き来ができないはずの世界を1人の少年が渡ってしまう。この話はウラの住人であり世界を渡った宗一郎と、路地裏で倒れていた彼を救ったオモテの住人、朝陽の物語である。2人は共に過ごしながら宗一郎が帰れる方法を模索していく。だが、そんな2人には沢山の困難が待ち構えていた。ある事情で追い詰められた朝陽の両親の葛藤を知った宗一郎。彼は苦渋の選択を迫られることになる。そして宗一郎が世界を渡ったことには意味があり、大きな由縁があった。
 様々な人の思惑に翻弄されながらも2人は互いを想い、それぞれの決断をする。その決断により辿り着いた結末は…。


〈また、会えるかな〉

 その世界にはオモテとウラがあった。オモテは文明が進み、寿命も誰もが150年前程生きられる時代だと言われている世界だった。ウラはオモテに比べて文明が遅れており、寿命も50年程の世界であった。それぞれの世界に生きる彼らは、もう一つの世界があることを互いに知らない。知る必要がないし、その方法もないからだ。だから当然、もう一つの世界に行く方法もない。それがこの世界の理だ。しかし、ある時それは突然に破られた。1人の少年によって。
 彼は世界を渡った。渡ってしまった。原因は分からない。本来ならば管理者である私が、彼を元の世界へと引き戻さなければならない。しかし、どうしても好奇心を抑えることができなかった私は、彼を戻さずにもう一つの世界に留まらせることにした。これは互いの世界にどのような影響を及ぼすのだろうか。二つの世界がどんな方向に転がっても面白いのだろう。良い方向に行くも、悪い方向に行くも、私はどうでも良い。何か起きてしまったなら、調整すれば良いのだから。間に合わなくなったとしても、壊してもう一度作り直せば良い。
 そう、これはほんの気まぐれ。私のちょっとした暇つぶしである。ただ今は目の前で始まる、一つの物語を楽しむことにしよう。


 ドサリ
 1人の少年がどこからか現れ、路地裏に倒れた。その音に誰も気が付くことなく、大通りを通り過ぎていく。その少年は表通りを行く若者やサラリーマンとは違う、少し奇妙な格好をしていた。もし表の通りで倒れたとしても、何かの撮影かと思われ、見て見ぬ振りをされていたかもしれない。梅雨時期といっても、日の当たらない路地裏は薄ら寒く、完全に日が落ちたころには秋のような寒さになっていた。その冷たさは少年の身体をじわじわと冷やしていった。


 「最悪だ…」
 バイトが終わったことで上がっていた気分は、外に出た途端に急降下した。雨が降っていたからだ。気分転換と雨宿りも兼ねて、走って近場のコンビニに入った。
 傘とアイスを買って店の端にあるイートインコーナーで一息つく。寒い日にアイスを食べるなんて馬鹿だろ、と以前学校の友人に笑われたことがある。でも寒い中で冷たい物を食べると結構美味く感じるのだ。寒くなるけど。いつもなら電車に乗っているか、もう家に着いている頃かな。軽くため息をつく。バイト先が家に近いっていいよな。予定時間から少し遅れて家を出ても、余裕で間に合う。なんて、くだらないことを考える。それもこれも全部雨のせいだ。疲れたな、と頭の中で呟いて何気なく外を見る。そのときだった。向かいの路地裏の暗がりで何かが動いた気がした。
「猫…か?」
何故か無性に気になって残りのアイスを口に放り込み、外に出た。傘の端から雨粒が吹き込み、少し冷たい。猫は大丈夫だろうか。寒いし、もしかしたら風邪をひいているかも。路地裏を覗き込むと、そこにいたのは猫ではなく、倒れている人だった。俺はこの人の頭を猫と見間違えたようだ。顔は暗くてよく分からないけど、多分男の子だろう。その小さな体にしては大きくて、変な生地の上着を羽織っている。
「えーっと、大丈夫ですか?」
しゃがんで揺すってみても反応はなく、ピクリとも動かない。雨のせいもあるかもしれないけれど、冷たい気がする。まさか…!嫌な予感がして傘と鞄を放り出した。考えたくもないことが浮かぶ度に、そんなはずがない!と打ち消す。きっと大丈夫、大丈夫だ、と焦りを一生懸命に抑えながら少し震える手で男の子を仰向けにし、初めて顔を見た。
「俺と同い年くらいか?なんだ、この格好。薄い上着じゃなかったのかよ。この服、どうなってんだ?」
格好に向けていた意識を逸らし、急いで胸元に耳を当ててみる。心臓は…動いている。口元に耳を近づける。うん、息もちゃんとしている。とりあえず生きてはいるみたいだ。はぁーっと体中の空気を吐き出す勢いで長いため息をつくと、いつの間にか強張っていた身体中の力が抜けて、へたり込んだ。そのときお尻が水に浸かってしまってすごく冷たかったが、もう全身濡れてしまっているので気にしない。
 それにしても彼は意識を失っているだけなのだろうか。彼について何か分かるものをと思い、探してみたが何もなかった。分かったことといえば、顔以外にも腕や脚に怪我があることだ。もしかしたら服の下にもあるのかもしれない。何をしたらこんなにボロボロになるのだろう。もしかしたら彼は何かから逃げてきたのかもしれない。彼から聞かないことには何もわからない。何にせよこのままにするのは危険だ。とりあえず俺の家に連れて帰ろう。怪我もしているし、手当てだけでもしてあげないと。俺の家なら安全なはずだし、大丈夫だろう。俺は、彼を背負うと自宅へと急いだ。
 30分程かけて家の付近まで来たとき、目の端に赤い十字が見えた。病院だ。いつもより高く、そして圧をかけるように立っている気がする。何かを責めているように__あ、そうだ、救急車だ。ああ、俺はなんて馬鹿だろう。まず救急車を呼ぶべきだった!今さら後悔しても、もう遅い。何が「とりあえず家に連れて帰るか」だ!もしこの子が何か重たい病気だったらどうしよう。冷静に対処できていると思っていたが、救急車が思いつかないほどパニックになっていたらしい。そもそも何かから逃げている、だなんて現実味の無いことを考えている時点でそうだろう。それに、もしかしたら彼自身が危険な人かもしれなかったのだ。
 何にせよ、間に合わなかった、なんてことはありませんように。そう願いながら俺は彼を背負い直して、病院に駆け込んだのだった。


 日の出と共に目を覚ます。いつもなら顔を洗うまではっきりしない意識も、今日は晴れ渡った青空のように澄み切っている。それどころか、起きてからずっと口元が緩んでいる。明日は私が待ちに待った日だ。尊敬する父が大事にしている商社を受け継ぐ日を夢見て、そのための教育を小さな頃からずっと受けてきた。そして遂に昨日、成人の儀に際して父から私が商社を継いでも良いという許可が出た。そして、明日継承の儀が行われることになったのだ。今日はそのための買い出しや、これからお世話になる方、これまでお世話になった方を招く準備の日。とても忙しいだろうが、今まで夢に見てきた事が実現するのだ。忙しさなんて少しも気にならない。それどころか、忙しくなればなるほど楽しいだろう。昨日からずっとそのことで頭がいっぱいで、落ち着かない。早く起きてしまったことも仕方がないだろう。家族が起きてくるまで庭園を眺めて心を落ち着かせることにした。そこで何故か既視感を覚えた。私は不思議に思いながら縁側に座った。
 朝食後は皆でとても忙しく動き回っていた。仕立て直しを依頼した明日の正装を受け取るために、弟妹たちと城下町まで行くことになった。衣装を受け取り、帰りに継承の儀後の宴で出す料理の材料を揃える。荷車から溢れるほどの荷物になってしまったので、私が荷車を押し、弟妹たちは溢れた荷物を分け合って持った。途中、末の妹の凛にねだられて手を繋ぐことになり、次男の宗治郎に荷車を任せた。皆で昨日の成人の儀の話をしながら家路を歩く。家が見えてきたとき、また既視感を覚えた。今度は既視感に加え、大きな恐怖心にも襲われた。私はなにが、怖いのだろう。頭が、これ以上進んでは駄目だ!凛の手を離せ!私に誰も近づけるな!と叫んでいる。周辺を見渡すが、危険そうなものは何もない。何が危険なのだ。私に何かあるのか。商人は勘をも大切にしなければならない。それが父からの教えだ。不自然にならないように首飾りをわざと落として、立ち止まった。
「お兄ちゃん?どうしたの?」
凛が不思議そうにこちらを見る。幸い他の弟妹達は話に夢中なのか、気が付かずに進んでいる。ごめんね、凛。私にもよくわからないのです。そう思いながら凛に微笑みかける。
「どうやら首飾りを落としたみたいです。皆と先に行っていてください」
凛は元気よく頷き、宗治郎達の元へと走って行った。よし、これで凛を遠ざけることができた。首飾りを拾おうとしゃがみ込んで手に取った瞬間、悪寒が足元から全身に駆け抜けた。今から何か恐ろしい事が起こる。そう確信できるほどの恐怖感。弟妹達には勘付かれないよう、何事もなかったかのように再び首飾りをつける。その手は震え、氷のように冷たいのに汗で湿っていた。大きく深呼吸をして身体中に空気を行き渡らせ、何が起こっても良いように覚悟を決めながらゆっくりと立ちあがる。立ち上がれたことに少し安心して顔を上げると、眩しく温かな日差しの下で弟妹達が楽しそうに話している。何故かもう大丈夫、気にしすぎだ、そう感じて警戒を緩めてしまった。気がついたら一歩踏み出してしまったのだ。
ズルッ
踵が地に着いた瞬間に、地面は水をたっぷりと含んだ泥のように柔らかくなり、足を掬われた。気を抜くとすぐにでも転んでしまいそうなほどにぬかるんでいる。思わずまたしゃがむ。その時、凛が私の元に戻って来て楽しそうにしゃがんでいる私の手を掴み、立ち上がらせようと引っ張った。他の弟妹たちも「早く〜!」と笑いながら言っている。その足元はいつもの硬い地面だ。なぜ、なんで、どうして…あ!
 雷に打たれたような衝撃が来て、頭の中に様々な背景が流れる。あぁ、思い出した。これは既視感なんてものじゃない。実際に体験したのだ。この後は確か…。もしかしたらこの時間は神様がくれた好機なのかもしれない。そう自覚したと同時に、足が地面に飲み込まれていく感覚が伝わってくる。この沼から抜け出せないことは、一度経験した自分が1番わかっている。もう時間がない。少し遠くにいる弟妹達に手招きをする。
「皆、おいで」
皆が返事をしながら私の周りに集まる。
「皆、静かに聞きなさい。私には行かねばならぬところができたようです。宗治郎、私の代わりに商社を頼みます。一緒に教育を受けてきたのだからできるでしょう?父にとっても、私にとっても大事な店です。貴方はしっかりとした賢い子だ。自信を持って遊馬商社を引っ張っていってください。伊玖磨、凛。貴方達は旅も商人もしたい、と言っていましたね。2人で遊馬商社専属の旅商人は如何です?いつも笑顔で元気いっぱいの凛と、頭の回転が速くて、交渉などが得意な伊玖磨で組めば、きっと世界一の旅商人になれますよ。乙葉、いつも伊玖磨と凛を見ていてくれてありがとう。貴方は商社を支えたいといつも努力していましたね。きっとその努力が報われる日が来るでしょう」
ここまで皆が口を挟めないように一息に言う。ああ、もう肩まで沈んでしまった。まだ伝えたいことがあるのに。弟妹達は目を丸くして立ち尽くしている。凛に至っては涙目だ。これはただの夢かもしれない。実際には伝わっていないのかもしれない。それでもあと少し、もう少しだけだから。
「父上と母上に伝えてください。貴方達の元に産まれる事ができて良かった、と。それから、これは家族全員に。必ず帰ってきます。だから、」
それまでどうか、お元気で。そう続けようと思っていたのだが、それは叶わなかった。段々と息ができなくなり、意識が遠ざかっていった。

 眩しくて、少しずつ目を開く。随分と寝ていたような気がする。外に目を走らせると、お天道様が空の真上にいることに気づく。寝坊した。急いで起きあがろうとするも、うまく起き上がれず、頭が枕に逆戻りした。そして、気づく。私が寝ているのは、いつもの硬くて薄い敷布団ではないと。なんだ、この柔らかな敷布団は!しかも真っ白で、地面と離れている。掛け布団も薄いものではなく布製で分厚いのに、軽い。枕だって硬い物ではなく、頭を包み込んでくれるほどに柔らかい。上を見るといつも見ている木の天井ではなく、真っ白な天井だった。しかも細長いものがくっついている。あれはなんだろう。よく見ようとゆっくりと慎重に起き上がる。その際にふと腕に
違和感を感じた。見ると透明の管が腕に刺さっていた。その管の先には透明の液体が入った袋に続いている。悲鳴をあげそうになった口を咄嗟に手で抑える。あの液体は毒なのだろうか。よく見ると着ているものも違う。肌触りが良く、着心地も良い。絶対に高価なものだ。此処のご主人は大富豪なのだろう。反対側を向くと外ツ国の数字と何か線が書かれたモノがピッピッと音を立てながら動いていた。ここは外ツ国なのだろうか。少し気味が悪く思い、布団から降りてふらふらとしながら硝子がはめられた窓に向かう。管に途中引っ張られたのでそこで立ち止まり、背伸びをしてなんとか外を見た。
 外には四角い大きな建物が建ち並び、陽の光を反射させている。よく見ると壁面は貴重で高価なはずの硝子で覆われている。下を見ると地面は遥か遠くにあり、馬よりも速く走っているであろう謎のイキモノがいた。あれは何だ!此処は何処だ!何故私の腕に管が刺さっている!次々と入ってくる目の前の情報に頭が追いつかない。気を緩めればすぐにでも叫び出しそうだった。混乱以上に恐怖が強かったのだ。見たことがないものばかりの見知らぬ部屋。知っている人もいない。それどころか誰1人としてこの部屋にはいなかった。どこを見ても高価そうなものばかり。壊した時のことを考えると迂闊に触れることさえもできない。窓があっても管が刺さっているせいであまり動き回れない。つまり逃げ出せない。もし逃げ出せたとして、外もよくわからないものばかりだ。此処は私の住む町ではない。何処に向かったら良いのかも、外にどのような人がいるのかも分からない。もしかしたら此処にいた方が安全なのかもしれない。
 それにしても、私は何故ここにいるのだろう。よもや位の高い方々の不興を買ってしまったのだろうか。罪を、犯したのだろうか。こんなときに父がいてくれたなら私の背を叩き、「何を弱気になっている。商人たるもの、いつでも冷静に状況判断をしなさい」と喝を入れてくれたのだろう。母がいたなら、「もっと自分に自信を持ちなさい。きっと宗一郎なら大丈夫ですよ」と鼓舞してくれるのだろう。弟妹達がいたなら、私は彼らを心配させまいと長男として、兄として自分を律し、奮い立たせる事ができたのであろう。だがしかし、彼らはいない。私1人だ。誰か、誰か、誰か!今感じているのは、大きな恐怖と心細さだけだった。
 外から足音がする。驚きと恐怖で足がすくむ。冷や汗が頬を流れ、息が乱れる。普段は聞こえない心ノ臓が耳元で大きく鳴っている。
 ガラッと音がして見慣れぬ白い着物を着た男が入ってきた。その男は私を見ると目を見開き一瞬固まったが、すぐに眉を下げて微笑んだ。柔らかく、優しい笑みだ。とてもじゃないが人を拐かす人には見えない。
「目が覚めたんですね、良かった。でも君は1週間ほど眠り続けていたのですから、急に立ち上がってはいけませんよ。どこか体に異常はありませんか?」
体に異常はありませんか、だと?うまく体は動かないし、管は刺さっている。異常しかないだろう。よもやこの男が私を此処に連れて来て、体をこんな風にしたのか。だからそんなにも平然としているのか。
「__っ、!」
「誰です?此処は何処なのですか?私に何をしたのです!」そう、言ったはずだった。でも実際に出てきたのは声ではなく息だった。声が、出ない。声も奪われてしまったのか。身体中の血の気が一気に引くのが分かった。男は察した顔をすると、部屋の隅にある細長い何かから透明の液体を出し、持っていた白いモノに入れて私に近づいてきた。
「ああ、すみません。1週間も寝たきりでしたからね。水です。どうぞ」
警戒心を隠さずに、それでも無理矢理飲まされても困るので、そっと受け取る。毒の可能性を考慮し、液体をよく観察する。色はなく透明。今まで嗅いだことのない匂いがうっすらとする。匂いが少し気になったが、特に体に害はないだろう。喉が渇いていたので結局、一気に飲み干してしまった。水を全て飲み終わった頃を見計らって、男が声をかけてきた。
「君は砂山市の路地裏で倒れていたらしいのですが…そのことで君に聞きたい事がいくつかあります。答えていただけますか?」
この人は害がない気がする。此処にいる時点で十分怪しいのだが、でも、多分良い人だ。そう思い、頷く。勘を大切にしろ、という父からの教えもあるので、信じてみることにした。腕に管を刺している事から完全に信頼することはできないが、この人の問いには正直に答えても問題はないだろう。これで信用に値する人ではなかった場合、自分がまだまだだった、という事だ。それにしても、スナヤマシとはなんだろう。
「まず君の名前と年齢を聞いても良いですか?私は柳田と言います。貴方の担当医です」 
「私は、遊馬宗一郎と申します。年齢は15です」
声が出た。良かった、どうやら声は奪われていなかったらしい。
 その後は柳田先生からの沢山の質問に答えたり、逆に私からも質問をしたり、その他にも幾つか話をした。終わった頃には日が傾いていた。広い部屋の中、べっととかいうらしい布団の上で得られた情報を整理する。分かったことといえば、私がいるのは病院という医者が沢山いる施設だということだ。私に刺している透明の管は点滴といって、寝ている間の栄養をこれで養っていてたらしい。スナヤマシというのも、藩や町みたいな存在のようだ。ここは技術や世間のありようが、私のいたところと随分と異なるようだ。ここは私のいた世界ではない。漠然と理解した。家族にはもう会えないかもしれない。それでも弟妹達に必ず帰ると約束した。だから私は帰らなければならない。しかし、どう帰ればいい?どうやって此処に来たのかも分からないのに。そもそも、私はどうやって此処に来たのだろう。そんな事をぐるぐると考えていたからだろう。
ガラッ
「こんにちはー。あ、本当に起きてる」
人が来たことに気が付かなかった。私と同い年か少し年下くらいだろう。随分と背が高く、外ツ国の人々のような格好をしている。
「貴方は…」
「俺は近藤朝陽。よろしく。路地裏で冷たくなって倒れていた時は焦ったよ。ほんとに、無事で良かった!そういえば君の名前は?」
この人が私のことを助けてくれたようだ。そういえば、柳田先生が言っていた。私が今でもそのままであったら、命が危なかったと。そんな私を救ってくれた彼は命の恩人だ。恩人に名乗らない、なんていう選択肢は私には無い。掛け布団を退かし、べっとの上で正座をする。そして両手の指先をつき、頭を下げた。
「近藤様、私を助けてくださってありがとうございました。私は遊馬宗一郎と申します。お礼は必ずやさせていただきます」
今はただ他の雑念は投げ捨てて恩人へ、心からの感謝を。彼に救われていなかったら、弟妹達との約束を守る以前の問題だった。「帰ってくる」は死んで仏となってからではなく、生身で生きて帰る事が絶対条件なのだから。頭上から焦ったような声が聞こえる。
「土下座!?様!?恩人!?大袈裟だって!…とりあえずさ、顔をあげてよ」
あまりにも優しい声だったので思わず顔を上げる。近藤様は穏やかな笑みを浮かべていた。
「どういたしまして。…でもさ?命の恩人は言い過ぎだと思うよ。俺、君を病院まで運んだだけだし。頭を下げるほどじゃないって。そんなことより!『近藤様』じゃなくて、『朝陽』って呼んでよ。俺も『宗一郎』って呼ぶからさ!『朝陽さん』も禁止ね。これがお礼って言うことでどう?」
私が「さん」で呼ぼうとしていたことを読まれたのだろうか。さん付けも禁止されてしまった。
「…分かりました。ですが!お礼はちゃんとさせてください。呼び方くらいではお礼になりませんので」
すると朝陽が「しー」と言って口元に人差し指を当てたので、まだ言いたいことがあったのだが思わず黙ってしまった。私が不満なことが伝わったのか朝陽は眉を下げ、「お礼になるんだけどなぁ」と言い、困ったような顔をした。しかしすぐに閃いた、とでもいうように「あ」と言った。そして朝陽は緊張している面持ちで私を見る。
「ねえ、宗一郎はさ、どこに住んでいるの?」
ぎゅっと心ノ臓が掴まれた気分になった。私はこの問いに関する正しい答えを持ち合わせていない。住んでいる場所なんてあるはずがない。家族が此処にはいないのだから。この地に私の居場所は無い。この病院から出てしまえば私は一文無しの、家のない浪人となってしまう。せっかく朝陽に助けられたのに家族に会うことも、それどころか元の世界に戻ることさえもできないまま野垂れ死んでしまうのだろう。本当のことを正直に話すか?私はもしかしたら違う世界の人かもしれません、と?いや、言ったら頭がおかしい人と思われて終わりだろう。記憶がないと言うか?そちらの方が現実味があるが、私が騙し続ける事ができる自信がない。ただでさえ、命の恩人に嘘をつくと言うだけでも心苦しいのに。それに加えて家族のことを忘れたふりをするだと?そんなの無理に決まっている。今この世界で会えないのなら、尚更。なら、なんと言えばいい?朝陽は良い人だ。見ず知らずの私を助けてくれた。信頼や信用以前に大きな貸しが、恩がある。取り敢えず言ってみたらどうか、そして朝陽に助けて貰えば良い。もし信じてもらえなくても、冗談だと言って誤魔化せば良い、と言う甘い悪魔の囁きが頭の隅から聞こえる。商人が、しかも商社の頭領が、そんな甘い考えでどうするんだ。そう諌める声も聞こえる。でも、この何もかもが進んでいるこの地には、私の商社はない。だから今の私は何者でもない、ただの遊馬宗一郎なのだ。だから、良いだろうか。ああ、心細いなんて、怖いだなんて、情け無い。私は成人の儀を通過した、もう大人だろう?自分の不甲斐なさに苛立ちが募り、膝の上で強く握りしめた拳を睨むように見たときだった。頭の上に何かが乗った。少し硬く、大きくて温かい。安心する。…父上?いるはずがないのに、懐かしい頭の感触に、そう思わずにはいられなかった。顔を上げると心配そうな顔をした朝陽が隣にいた。すると一気に硬い感触は消え、大きくて温かい感触だけが残った。父上の手よりも、柔らかい。何故父と重ねてしまったのだろうか。
「大丈夫?具合悪くなっちゃった?」
上っ面だけの心配ではない、本気で心配している、そんな優しい目だった。なんて温かい人なのだろう。ぎこちないその撫で方は、幼い頃に父に頭を撫でられた記憶を呼び起こした。そうか、撫で方が似ていたのか。弟妹が産まれてからは撫でられることは無くなってしまったがその分、沢山褒めてくれていた。少し不器用な面もある優しい父と朝陽がほんの少しだけ重なって見えた。だから朝陽の手を父の手と感じたのかもしれない。
「朝陽、私は、此処とは違う世界から来たのだと思います。なので、恐らく帰る場所はありません」
言うつもりではなかった言葉が、口からするりと滑り落ちる。私は今、何を言った?完全に無意識だったため、自分の言った事が信じられずに狼狽える。恐る恐る朝陽の顔見ると、彼は目と口を大きく開いて呆けていた。そりゃあ、そうだろう。いきなりそんなことを言われたら、誰だってそうなる。謝ろう、そう思った時。朝陽が下を向き、大きく息を吐いた。思わず肩が飛び跳ねる。顔を上げた朝陽の目には懐疑の念が浮かんで…いなかった。それどころか澄んだ瞳をしている。息を呑む。では、彼はいったい何を言うのだ。ゆっくりと口が開かれる。唾を飲み込み、緩んでいた拳にまた力を入れる。
「すげぇ!だから宗一郎の服がどこの服なのか調べても、なかなか見つからなかったんだ!全く見たことない服だから気になってたんだよね〜。違う世界か〜そりゃあ見つからないわけだ!なんか納得だわ。そうだ!宗一郎、帰る場所がないんだったら、俺の家に来ない?」
朝陽は笑っている。こんなにも非現実的な話をしたのに。服、服かあ。確かに全然違う。でも、これだけで納得する理由に足り得るのだろうか。しかし私は本当のことを言ったまで。だからまあ、信じてくれるのは嬉しい。だが、納得するだけでなく出会ったばかりの者を家に招こうとするなど、彼の警戒心を疑ってしまう。それ以前に、私はこれ以上恩人に迷惑をかけたくない。丁重にお断りさせていただこう。
「すみませんが、お断りします。私はこれ以上、あなたに迷惑をかけたくない」
断った時は悲しそうな顔をしていたが、「迷惑をかけたくない」という言葉を聞いた瞬間に顔を顰めた。
「俺、迷惑だったら家に来る?なんて言ったりしないよ。俺さ、今広い家で一人で暮らしてるから、話す相手いなくてつまんないんだよ。だから宗一郎の帰る家が無いなら、一緒に暮らそう?それでお前の世界のこととか、家族のこと、聞かせてくれよ!今度こそ、これがお礼ってことで!」
したり顔で笑う彼は、なんだかとても温かかった。知り合ったばかりの私に、堂々と「一緒に暮らそう」と言いきってしまうなんて。私が危険人物かもしれないのに。他人だというのに。しかも「お礼」に使ってしまうなんて…これでは断れないじゃないか。全く似ていないはずなのに、凛の笑顔と重なって見えた。眩しい、なぁ。私は結局、優しく温かい陽だまりのような笑顔を浮かべる彼には敵わないのだった。


 ぱっちりと目が覚める。目覚まし時計を見るとまだ5時だった。いつもよりも1時間早く起きてしまった。今日は学校が休みである土曜日。いつもなら金曜日は夜更かしをして、土曜日はゆっくりと起きるところだが、昨日は今日のために夜更かしはせずに寝た。今日は、宗一郎が退院する日。つまり、俺の家に宗一郎が来る日。見舞いに行った一昨日、病室に行く前に医者から宗一郎は名前と年齢以外覚えていない、つまり記憶喪失の状態だ、と説明を受けた。その時に思いついたのが、一緒に暮らすということ。本人の意思が1番大事だから、医者にはその時点では言わなかった。が、無事宗一郎と一緒に住む約束ができた。あの後、面会時間ギリギリまで宗一郎の話を聞いていた。宗一郎は遊馬商社というところの跡取りだったらしい。妙に落ち着いているわけだ。宗一郎の世界のことも聞いた。彼の世界はこの世界よりも技術が進んでいないらしい。スマホやテレビ、パソコンの話をしたが、それらは全部無いらしく伝わらなかった。信じられなかった。俺だったら絶対にその世界で生きていけない。それから驚くことに、なんと宗一郎は俺より3つ年が下だった。しかも、もう成人しているらしい。同い年か年上かと思っていた。まさか年下だとは思わなかった。俺が18歳だと言うと、宗一郎は目をこぼれ落ちそうなほど見開き、呆然としていた。
「歳下ではなかったのですね…」
そう小さく呟いていたことは、聞かなかったことにする。宗一郎が大人すぎるのだ。別に、気にしてなどいない。
 とにかく、今日から家に人が増えるのだ。両親は普段から家にいないので、今までずっと1人だった。つまらなかった。…寂しかった。今では、それなりに楽しく暮らせてるし、もう慣れたけど。だから、人と暮らすことが楽しみで仕方がない。どんな毎日になるんだろう。
 だいぶ余裕を持って行ったつもりだったのに、病院に着くと宗一郎が本を読みながら、入口付近のベンチで座って待っていた。急いで駆け寄る。足音で気づいたのか、宗一郎はこちらを見て手を挙げた。
「おはよう!もしかしてすごい待たせた?ごめんね。…その本、違う世界のものなのに読めるの?」
「私が早く病室を出てしまっただけなので大丈夫ですよ。これは本ではなく写真集です。お医者様がくださったのですよ。この世界の文字は私の世界の文字と少し似ていますが、所々違うところがあったり、見たことのない形の文字があったりするので、完全には読めません。朝陽、この後この世界の文字や文化のことを教えていただけませんか?」
「別に良いけど…俺もこの世界の文化とかはそんな詳しく無いよ?有名なものを少し齧っている程度だし。文字だってまだわからないものもあるし。だから、答えられないものもあるからね?」
「大丈夫ですよ。朝陽はこの世界について私よりも沢山知っているでしょう?その分だけで十分です」
宗一郎は綺麗に口角を上げて微笑んだ。初めて会った日からずっと宗一郎の微笑んでいる顔しか見ていない気がする。流石に世界の話をしていた時は真面目な顔をしていたが。何だかこのまま宗一郎が消えてしまいそうな気がして、思わず宗一郎の手を握った。宗一郎が繋がれた手を見ながら、キョトンとした顔で俺の名前を呼んだ。
「何でもない!早く行こっ!」
 俺たちは家に帰る前に買い物をすることにした。宗一郎はこの街の様子が珍しいのか、目が忙しなく動いている。道が土ではなくコンクリートであることに「歩きやすい!これなら凛が小石に躓いて転ぶこともないだろうに…」と言ってすごく驚いていた。車や自転車が近くを通るたびに、肩が大きく飛び上がっていたのは少し面白かった。俺は宗一郎が気になったように見えたものは、どんなものなのかの説明や名前を教えた。買い食いもしたり、服や日用品を買ったりもした。移動販売車でクレープを買ったときに、かぶりついて食べるのだと教えると、宗一郎は戸惑いながらも口を小さく開いて食べたので、鼻や頬に沢山クリームがついてしまっていた。教えたところと全く違う場所を拭ったので思わず笑ってしまうと、そっぽを向いて拗ねてしまった。いつも大人びている宗一郎が年相応の顔に見えて、少し安心したのは秘密だ。宗一郎はお団子やおはぎ、わらび餅とかは知っているのに、チョコレートやクレープのようなカタカナの食べ物をほとんど知らなかった。ほとんど、というのはカステラやビスケットは分かったのだ。でも、高貴な人が食べるものだから食べたことがないと言っていた。俺たちがいつでも食べられるものが、宗一郎の世界では金持ちしか食べられないのか。それなら今が食べられる良い機会だ、と沢山お菓子を買うと宗一郎は緊張した面持ちになった。
「そんなに菓子を買うのですか?大丈夫ですか?先程も沢山買っていましたし…もしかして朝陽は高貴なところのご子息では…」
「違うって!俺は普通の家生まれ。宗一郎の世界で言う庶民とか平民くらいだよ。この世界のお菓子は安いから気軽に買えるんだよ。お金に関しては大丈夫!バイトの給料入ったばかりだしね」
宗一郎は目を丸くさせた。バイトについて説明しながら考える。この世界での当たり前が、宗一郎の世界では当たり前じゃない。不思議だよなあ。違う世界だから当たり前のことなのかもしれないけど、同じ物や食料があるのにその価値が随分と違う。宗一郎の世界はどんなところなのかな。この前病室で聞いたことだけでは足りない。もっと宗一郎自身と、こいつの世界のことが知りたい。家に帰ったら絶対に聞こう。
 俺が暮らすマンションに着くと、宗一郎は今まで以上に興奮していた。「木造ではないのか!?この家の素材はなんだ!?何故こんなにも高いのに、倒れてこない!?朝陽、本当に貴方は貴族ではないのですよね?」
あ、敬語が外れた。マンションによほどびっくりしたのか、俺の肩を掴んで思いっきり揺らしている。それに今までで1番大きな声だ。このままでいさせてあげたいが、いかんせん近所の人からの視線も大分集まってきてしまった。そろそろ中に入ったほうがいいだろう。そう思い、まだ喋っている宗一郎の背を押した。俺のマンションはカードが鍵になっていて、かざしたらエントランスへ入れる。宗一郎はドアがガラスだったこと、自動で開いたことに驚いたみたいだ。今度は驚きすぎて声も出ないのか目を見開き、口を半開きの状態で固まっている。すぐに動きだすだろうと予想して先にエントランス内に入ったのだが、宗一郎はなかなか動き出さなかった。ドアも閉まりかけていたので戻って腕を引いてやった。嫌がられるかと思っていたけれど、意外なことに宗一郎はされるがままだった。その後も俺のやる事なす事の全てを食い入るように見てきて、いつも通りに動けばいいのに、普段の何気ない動作をすることに、柄にもなく緊張してしまった。
 家に上がると流石に落ち着いたようで、後ろがだんだんと静かになった。隠れるように息を吐く。大勢からのあの視線は、流石の俺も少し緊張した。いつのまにか少しどんよりとした空気を背負っている宗一郎にお茶を出そうと思い、先にリビングへと向かわせる。リビングに入った時、宗一郎がさっきの倍くらいの重い空気を背負ってソファーで落ち込んでいた。思わず苦笑がこぼれ落ちる。冷静になって今までを振り返り、前回病院で会った時に宗一郎が何回も言っていた「商人たるものいつでも冷静に状況判断を」ができなかったから、落ち込んでいるのだろう。落ち込んでいるところをあまり見られたくないだろうから、静かにお茶を出したら退散するつもりだった。それなのに、湯呑みを置いたときに音が鳴ってしまい、静かな部屋にその音が響き渡る。何故かわからないけれど、しまった、と思った。宗一郎の顔がゆっくりと上がる。目が合った。初めて会った時に見たような、まっすぐとした強い意志のあるものではなく、少し薄暗い色を載せた濁った目をしている。気まずい空気が流れる中、何かしなければ、と空回りした自分が頭の中で走り回る。そんな中出た言葉は、
「お茶、よかったら飲んで。疲れてるかも、と思って」
だった。もっと何かあっただろうと慌てるも、もう遅い。宗一郎は俺を見つめると、
「ありがとうございます」
と言って湯呑みを手に取り、眉を下げて誤魔化すように笑った。
「取り乱してしまいましたね。すみません」
宗一郎の申し訳なさが滲み出る瞳の奥には、焦りと何か黒いモノが渦巻いている気がした。
「別の世界から来たんだから、取り乱すのも無理ないって」
思わず自分が放った言葉は、不思議なくらいすとんと胸に落ちた。そう、宗一郎は別の世界から来た。俺よりも年下の子どもがたった1人で。宗一郎は寂しいはずなのに、不安でたまらないはずなのに、どんな時でも自分を律し続けている。どこか焦っていた心が、海へと還る川のように穏やかに、そしてゆっくりと落ち着いていく。焦りから抜け落ちていた情報が次々と流れ込んでくる。ああ、宗一郎について分かってきた気がする。冷静そうに見えているだけで、実際はそうじゃない。宗一郎は、俺が思っている以上に混乱している。そして、その状態でいることに多分、本人も気がついていない。こんなときに他人の俺がいたら、自分と向き合うことはできないだろう。病院から出た今、またこの世界の新しい部分を見てきたのだから。1人で考える時間も必要なはずだ。お茶を飲んでる間は静かにしていよう。お茶の水面をじっと見つめている宗一郎の姿は、冷静に状況を整理しているように見えた。でもそんなのは勘違いだった。宗一郎は俯くと、
「これでは、商社統領失格、だな…」
そう、呟くように言っていた。
「俺はそう思わないけどね」
宗一郎は「え、」と言ってこっちを見た。そのぽかんとした顔はいつもの大人っぽい顔ではなくて、宗一郎は俺の年下なんだと実感させる、年相応の顔をしていた。宗一郎が考えたことだ。もう一つの世界のことについて俺は全く知らないし、考え方もわからない。だから否定するつもりはないし、口出しするつもりもない。でも、これだけは言わせてもらいたい。
「自分のいた世界とは違う世界に来たんでしょ?そんな状況だったら誰でも混乱するって!俺だったらスマホがないって分かった時点で詰んでるね。俺の生活はスマホがあるから成り立ってることも多いからね。もう絶望して動けなくなる。でも宗一郎は俺の家に来た。動かないほうが安全かもしれないのに。外は危険かもしれないのに。動き出せただけでも十分すごいと思うよ。しかも冷静に状況判断もしようとしてる。だから詳しくない俺が言うのも何だけど、商社の頭としては充分なんじゃない?…でもさ?俺は正直、宗一郎が取り乱すことと『商社の統領』っていうのは、今関係ないんじゃないの?って思ってる。改めて突きつけるようで申し訳ないけど、ここは宗一郎がいた世界じゃない。それにお前の世界では15歳が成人でも、20歳で成人のこの世界ではまだ子供だよ。18の俺だってまだ成人できない子供。だから俺よりも年下の宗一郎はもっと、もーっと子供なの!今はさ、どうしたら元の世界に戻れるのかを考えようよ。今宗一郎の世界での立場を気にすることよりも、そっちの方が絶対大事だって!大丈夫!絶対に帰れるよ。俺も帰る方法探すの手伝うからさ!」
生憎、宗一郎が帰れる方法の心当たりは、全くと言っていいほどない。でも、帰ろうと言った手前、不安にはさせたくない。だから、寂しいはずなのに強がっているこいつが安心できるように、笑った。帰ると言いながらも心のどこかで帰れないと思っている宗一郎。そんな思いを笑い飛ばせるように、少しでも希望を与えられるように、おもいっきり笑ってやった。でもこんな自信満々な感じで言っておいて、宗一郎を元の世界に帰せなかったらどうしよう。内心、冷や汗が止まらない。でも、どうしても伝えたかったんだ。宗一郎はすごい奴なんだと。俺はずっと味方でいようと思っているし、どんなことでも手を貸すつもりだってことを。
ポチャンッ
宗一郎の手にある湯呑みから、水が跳ねる音がした。そこには、下を向いて静かに涙を流す宗一郎がいた。瞬きもせずに流し続けている。どうしよう、泣かせてしまった。まさか泣くとは思わなかった。何がいけなかった?どうすればいい?もしかして嫌だったのかな?そんな中、さっきとは比べ物にならないくらい、小さく震えた声が聞こえた。
「あいたい…」
喉から搾り出したかのような、ほんとに、本当に小さく、今にも消えてしまいそうなほどか細い声。切なくて、聞いているだけでこちらまで泣きそうになる声。
「みんなに…会いたいです」
「うん。絶対に会おう。会うために、帰ろう。一緒に、方法を探そう」
宗一郎にちゃんと届くように、さっきよりも力強く、ゆっくり、はっきりと言葉を紡ぐ。宗一郎は涙を拭うと、顔を上げた。
「はい。よろしく、お願いします」
俺の目をまっすぐと見るその目には、先ほどまでの危うさが無くなり、初めて会った時のように優しくて、強く芯のある光が灯っていた。何があっても、俺は宗一郎が元の世界に帰れるための手助けをしよう。そう、心の中で強く決めた。


 朝陽が連れて行ってくれた場所は見たことのないものばかりで、心躍った。たまに外ツ国から来た高級菓子が沢山並べてあった。貴族へ売るために取り扱うことはあったが、量は少なかった。だからこんなにも多くの高級菓子があることは滅多にない。大袈裟ではなく、本当に心ノ臓が止まってしまいそうな気分になった。だから朝陽の家に行く時も、十分に身構えていたはずだった。しかし十二分に身構えておかなければならなかったようだ。だって、想像もしていなかったんだ。まさか家が、木ではないもので出来ているなんて。しかも朝陽の家はとても高さがあった。今までの街並みを見てきて分かったはずなのに。いや、想像できるはずがないだろう。どうして庶民だと言っていた彼が、こんなに大きな家に住んでいると思える?そうだ、初めて会った時に朝陽が言っていた。この世界には私の世界ほどはっきりとした身分制度は無い、と。中に入ると硝子に囲まれた小さな部屋があった。隅にある箱のようなものに、朝日が何かをかざすと、触れていないのに硝子の襖が開いた。もう驚きすぎて声も出ない。朝陽がこちらを見て笑いながら、慣れたように独りでに開いた襖をくぐる。いつまでも動かないことに痺れを切らしたのか、朝陽が私の腕を引いた。手を離されたら衝撃で動けなくなる気がした私は、されるがままにしていた。壁についていたものを押した後、鉄でできた襖が開き、狭い部屋へと入った。キィーンという、ずっと聴き続けていると頭がおかしくなってしまいそうな程高い音が鳴っており、臓器が全て浮き上がるような浮遊感があった。この音や感覚は何なのかを朝陽に尋ねてみても、彼は何も感じないと言う。この小さな部屋は「えれべーたー」という物らしく、階段を登らなくても上の階へと登ることができるらしい。急にあの音と感覚が止まったかと思うと、また鉄の襖は開いた。朝陽が動き出したので急いで後を追う。そこには狭い通路があり、沢山の金属のようなものでできた物が壁に埋められていた。
「俺が住んでいるのはマンションって言う、人が大勢住める建物なんだよ」
1つの壁に埋まった物の前に立ち、小さな縦の線の溝に小さく薄い板を差し込み下に滑らせた。すると鍵が開いたような音がした。それは扉だったらしい。朝陽は扉を開けた。
 家に上がると流石に落ち着き、先ほどまでの自分を思い出す。取り乱してしまったことを恥ずかしく思い、項垂れてしまった。朝陽は気まずそうにしながらもお茶を出してくれた。私はこの重苦しくなってしまった空気に気付き誤魔化すように微笑み、礼を言って茶を受け取った。
「取り乱してしまいましたね。すみません」
「別の世界から来たんだから、取り乱すのも無理ないって」
朝陽に気を使わせてしまったな。彼は笑っている。しかし、私は知っている。興奮しすぎて気にもとめなかったが、このまんしょんに着くまでの間、沢山の人たちからの視線が集まっていたことを。そして朝陽はそれに気付くと、私が気にしないように視線から隠していたことを。そして私はそれに気付いていながらも、甘えてしまった。きっとその好奇の目から出る圧は、彼も嫌だっただろうに。商人たる者、いついかなる時も常に冷静に、正確な状況判断を。そう、父から教わっていただろう。この世界に来てから、取り乱してばかりだ。上手く自分を取り繕うことができない。遊馬商社の跡取りが、遊馬家の長男が、こんなこともできずにいてどうする。今の私は弟たちに顔向けができない。私を信用し、遊馬商社の未来に期待をして契約に応じてくださった方々にも申し訳がない。今の私は本当に情けない。これでは商社統領失格だな。父が私に期待してくれていた。弟妹たちが私に憧れ、私を目指してくれた。母が、支えてくれていた。そんな彼らがそばにいないだけで、私はこんなにも弱いのか。「寂しい」と言う感情は本当に厄介だ。そう自分の情けなさに打ちのめされていた時だった。
「俺はそう思わないけどね」
突然の声に驚いて顔を上げると、私の気持ちを見透かしているかのようにこちらを見つめる朝陽がいた。弟たちを感じさせる、純粋でまっすぐなその瞳はとても眩しく感じる。
「自分のいた世界とは違う世界に来たんでしょ?そんな状況だったら誰でも混乱するって。宗一郎は俺の家に来た。動かないほうが安全かもしれないのに。外は危険かもしれないのに。動き出せただけでも十分すごいと思うよ。商社の頭として、充分だと思う!…でもさ、宗一郎が取り乱すことと『商社の統領』っていうのは今関係ないんじゃないの?って思う。今はさ、どうやったら宗一郎が自分の世界に戻れるかを考えようよ。絶対に今宗一郎の世界での立場を気にするよりも、そっちの方が重要だって!宗一郎は、絶対に帰れるよ。俺も帰る方法探すの手伝うからさ!」
そう言って笑う朝陽は、いつもよりほんの少し大人びていて、名前の通り、夜明けの世界を温かく照らす朝日のようだった。ああ、本当に眩しい。朝陽はあの子たちに本当によく似ている。そして何故だか父にも。胸が、苦しくなる。お願いです。そんな顔で笑わないで。縋りたくなる。「帰れる」なんて、言わないでおくれ。期待、してしまうじゃないか。絶対に帰れるって思ってしまう。ふと、気づく。弟妹たちに絶対に帰ると約束しておきながら、自分が帰れると全く思っていなかったことに。病院では必ず帰る、とあんなにも意気込んでいたのに、いつのまにか諦めてしまっていた。何かが音を立てて崩れ落ちていく。ああ、ほら、一生懸命に凍らせていたものが溶け出してきたじゃないか。ああ、ああ、ああ!___会いたい。今すぐに、帰りたい。寂しい。なんで、私がこんな目に。私が何をしたと言うのだ。ただ私は、家族と共に過ごしていたかっただけだ。ただ、いつも通りで、それでも少しだけいつもと違うはずだった明日を、迎えたかっただけだ。そんな、当たり前に来るはずだったものが、何故今の私には無い?私は望んではいけないとでも言うのか。私の、何がいけなかった?宗治郎、乙葉、伊玖磨、凛、父上、母上。みんなに、会いたいです。別の世界でたった1人でいるのは、寒くて凍え死んでしまいそうだ。…あれ?手が温かい。私の手を誰かが包んでいる。顔を上げると真剣な目をしながらも、穏やかな笑みを浮かべて私を見る朝陽がいた。
「絶対に会おう。会うために、帰ろう。一緒に、方法を探そう」
1人ではないと、この世界にも私には味方がいると、そう、教えてくれている気がした。霧が晴れていくように頭の中がすっきりしていく。こんな素性のわからぬ怪しい奴に無条件で慈悲を、温かさを分け与えてくれるなんて。本当に貴方はすごいな。まだ彼と出会って少ししか経っていないのに、たくさん彼に救われた。そして、今も。私はいつのまにか流れていた涙を強く拭った。
「はい。よろしく、お願いします」
この瞬間から朝陽は私の太陽となった。


 あれから俺たちは沢山のことを話し合った。病院の時よりもお互いの世界について詳しく教えあったり、いろんな物の説明もした。それから、2人で住んでいく上でのルールも決めた。宗一郎は病院に行く以外で外に出る場合は俺が同伴すること。お互い何かあったら直ぐに言うこと。思ったことや感じたことがあったら遠慮せずに言うこと。朝ごはんと夜ごはんはどんな時でも一緒に食べること。他にもたくさんあるが、あとは細かなことばかりだ。話が終わった時にはもう深夜で、日にちを跨いでいた。その次の日には宗一郎の日用品をまた買いに行った。前の日に買えなかった大きめのものをたくさん買った。あとは写真集と本も。写真集をカゴに入れた時、とても目を輝かせていたから写真が好きなのかもしれない。撮ることも好きになるかも。そのうちカメラも必要になるかもな。そして小学1年生から宗一郎と同じくらいの年齢の中学3年生までの勉強ドリルも買った。どのくらいの学力があるのか分からないというのもあるが、俺が学校に行っている間に暇にさせてしまうのは嫌だった。ということで、おやつも追加でたくさん買った。そうしたら宗一郎にお金の無駄遣いだ、自分のためにこんなに使わないでくれ、と怒られてしまった。でも俺は後悔していないし、なんなら続けようと思っている。これはけっして宗一郎のためではなく、自分のためだ。この世界の美味しいものをたくさん知ってもらいたい、という自己満足のため。でも怒られるのは嫌なので、これからは買う量を少しにしよう。
 そしてその次の日である今日、俺は学校にいる。正直、家に残してきた宗一郎が気になってしょうがない。家を出た時もなかなか外に出なかったり、家に戻ったりを繰り返していると宗一郎にうざがられてしまい、「私は大丈夫ですので、早く行ってください!」とまで言われた。宗一郎がしっかり者なのは知ってる。でも、俺は一昨日のあの表情を、目を見てしまった。1人にするのは、やっぱり心配だった。1人は、寂しくて、辛い。俺はそれを知っている。例えどんなに大人っぽくとも、宗一郎は俺より年下の子どもなのだ。しかもあいつは家族に愛され、いつも一緒にいたという。あの温かさを当たり前のように受け取っていたあいつにはあの寒さは絶対に苦しいはずだ。それを知っているからこそ、余計にそばにいてやりたかった。せめて今、宗一郎にスマホさえあれば…昨日の買い物で宗一郎のスマホを買うことはできた。が、届くのは来週らしい。もっと早くに買っておけばよかった。宗一郎が目を覚ました日に買っておけば、もう少し早くに届いただろうに。ああ、学校に着いたばかりなのに、もう家に帰りたい。
「宗一郎、どうしてるかな?大丈夫かなぁ…」
「ソウイチロウ?誰だ、それ。珍しい名前だな」
後ろからいきなり声をかけられて、肩が大きく揺れた。後ろを向くといつメンの1人であり、幼馴染でもある颯がいた。その後ろには他の友人もいる。今はホームルーム中じゃなかったっけ?なんで立って…そうか。考えているうちにホームルームはいつのまにか終わっていたらしい。それよりも。やばい、声に出ていた。颯は何も言わずに俺を見ている。聞かれたらどうしよう。どうやって誤魔化そう。
「まあ、いいけど。柄にもなく黄昏てるところ申し訳ないけど、移動遅れるぞ?1限、移動教室な?」
颯がため息をついて教室から出る。いつもだったら「教えろよ〜」とか言って、うざい程付き纏ってくるのに、今回は平気だった。移動教室のおかげだろうか。その問題の移動教室の1限には颯を追って走って行ったことで、ギリギリ間に合った。そのまま俺は意識を切り替えて授業を受けた。ふとした瞬間に、これを知ったら宗一郎はどんな反応するのだろうか、と考えるものもあって、その時はあいつに説明できるようにといつもより集中して受けられていたと思う。
 お昼休み。いつものメンバーでご飯を食べていると、普段より弁当の味がすごく薄いことに気がついた。やばい、宗一郎のお弁当を持ってきてしまった。一昨日、一緒に夕飯を食べていた時に分かったことがある。宗一郎の世界は薄味が普通だということだ。俺がいつも通り作ったものや、お惣菜は味が濃いと驚いていた。病院食は薄味でちょうど良い味付けだったらしい。俺は味が濃い方が好きなので、お弁当を薄味といつもの味のものを二種類作ったのだが…容器を間違えてしまった。宗一郎、ごめん。お昼といえば昨日、面白いことがあった。いろんなものを食べられるように、とバイキングのあるレストランにしたら、そこでソフトクリーム機があったのだ。2人でやってみようってなったから、まずは数回だけどやったことのある俺がやった。するとお店のような、とはいえないけどなかなかに綺麗なソフトクリームができたと思う。宗一郎の時は最初は順調だったけれど、途中から怪しくなってきて最後には器の壁に寄りかかるような感じになった。それでも宗一郎は俺に「できました!」と嬉しそうに見せてきていた。あんまりにも誇らしげに笑うものだから、思わず頭を撫でてしまった。その時弟がいるってこんな感じなのかな、なんて思っていたのは秘密だ。トッピングでは俺はあんこと抹茶をかけて白玉をのせ、宗一郎は色で気になったらしいキウイソースと、白玉を食べた時につけていたきなこをかけていた。俺のはもちろん美味しかったし、宗一郎のも意外と美味しかった。宗一郎のおかげで、新たな発見が出来た。まあ、作った本人からしたら口に合わなかったみたいで、微妙な顔をして食べていたが。最終的にソフトクリームは交換して食べた。俺のはお気に召したらしく、幸せそうに食べていた。表情の差が大きかったこともあり、あの時の顔はどちらも本当に面白かった。頑張ってこらえていたはずなのに、流石は商人。笑いを堪えているのがバレてしまった。そして、前と同じく宗一郎は拗ねてしまったのであった。
 あの時の顔を思い出して、思わず笑ってしまった。そこでいつの間にか友人が静かになっていることに気づいた。みんなの視線が俺に集まっている。「な、何?そんなに見つめてきて。話はちゃんと聞いてたよ?シュウが大田センセーに呼び出されたって話だろ?」
確かに昨日のことを思い出していて、いつもより話は聞いていなかった。でも完全に聞いてなかったわけじゃない。しかしみんなが言いたかったことはそんなことではないらしい。その証拠に俺を見つめる目は怪訝そうだ。なんだよ〜と言っていつものように笑ってみるが、背中では冷や汗が垂れていた。シュウが何か言おうとして、颯が遮った。
「朝陽がなんかニヤニヤしてるなって話してたんだよ。彼女でもできたのか?」
「できてねーよ!」
ほっとしている自分に知らんふりをして、いつものノリを急いで作り上げる。いつもの騒がしさが戻って来たところでシュウを一瞥する。普段のシュウはマイペースで我が道を行くタイプだ。それのせいでよく先生に呼び出されている。そんな奴ではあるのだが、周りを全く見ていないように見えて意外とそんなことはなく、時たま鋭いことを言う。普段は鳴りを潜めている、逃がさないと伝えてくる透き通る目。俺の奥底にいる臆病な自分を見透かされているみたいで、その目をするときのシュウは苦手だ。シュウが何を言おうとしていたのか少し気になる気もするが、あの目をしているシュウから言われることを聞かないで済んだことにほっとしている自分もいた。とりあえず今は止めてくれた颯に感謝しておくことにしよう。
 帰りのホームルームも終わり、颯と並んで帰っていた。その頃には朝のことも昼のこともすっかり忘れていた。ぷつりと会話が途切れて俺たちの間に沈黙が流れた。宗一郎のことで頭いっぱいだったが、この時間のおかげで少し冷静さを取り戻すことができた。そこでふと何か違和感を持った。いつもならお互いに話しながら帰るのに、今日は一方的に俺が話していただけだった気がする。家に早く帰りたいという思いで頭がいっぱいになり過ぎて、凄い勢いで話していたのかもしれない。いや、それなら颯が「落ち着けよ」とでも言って俺を落ち着かせるはず。颯の顔を盗み見る。うん、やっぱり、颯の様子がおかしい。話しかけても返ってくる返事は「ああ」「うん」「そうだな」の3パターンだけ。しかも、少し遅れたテンポで返ってくる。これでおかしくないという方が無理だろう。
「…なあ、颯?」
肩を突き意識をこちらに向けさせる。ようやく颯は思考の海から顔をあげ、俺を見た。
「…うん?何?」
「お前、今日は変だぞ。特に午後くらいから。なんかあったの?」
「あー、うん。考え事、してたんだ」
「考え事?」と颯の言葉を繰り返すと颯は「ああ」と言って考え込み、次の瞬間には俺をジィっと見つめてきた。なんなんだ?颯が少し躊躇った後、そっと口を開く。
「今日の朝から、少し思ってたけど」
颯は顔を上げると俺に一瞬だけ視線を移し、歩くスピードを落とした。なんだろう、嫌な予感がする。
「今日の朝陽は、どこかおかしかった」
颯がはっきりとした口調で言う。心臓がドクンと大きな音をたてて止まった気がした。身体中の血の気がサーと引いていく。後から颯が小さな声で「って考えていただけ」と顔を背けながら言っていたけれど、その言葉は頭に入ってこなかった。そうだった。朝のやつ、聞かれてたんだった。何も言ってこないから、意識していないと思っていた。それどころか、もう忘れているかと思っていたのに。何か聞かれたらどうしよう。小さい頃からずっと一緒にいる幼馴染だ。こいつ相手に嘘をつける気がしない。気まずい沈黙の中、俺たちは歩き続けた。颯が次に何を口にするのかで頭がいっぱいになっていた俺は、いつのまにかマンションのエントランスを通り過ぎていたことに気が付かずに、颯の後ろを歩いていた。そして今、エレベーターのボタンを押した颯が体ごとこちらを振り向き、射抜くような視線を向けている。
「朝陽、お前また1人で何か抱え込もうとしているな?」
俺の目をまっすぐと見る颯の瞳は、本当のことを言うまでは動かない、と言っているようだった。多分颯に宗一郎のことを伝えても、利用して何かするということはないだろう。それどころか、手伝うと言ってきそうだ。正直、颯がいてくれると結構良い戦力になるとは思う。でも、もしかしたら危険なこともあるかもしれない。エレベーターに乗り込む颯の後ろ姿を見ながら考える。少し迷ったが、もうこうなってしまっては仕方がない。俺はいつものように笑って口を開いた。
「何も?今日小さい頃の夢を見て、その頃を思い出していただけだよ」
そう言って俺もエレベーターに乗る。一応嘘は言っていない。本当に小さい頃の夢を見た。その当時を思い出して、少しセンチメンタルにもなっていた。宗一郎を見たら吹っ飛んだけど。俺は昔から颯に嘘はつけない。だからこそ、颯が聞きたい真実とは違う事実を言った。俺は嘘がつけないから。だから颯、俺に騙されて。それが伝わったのか、黙って俺を見つめていた颯はため息をついた。
「言わないんだな。もういいよ。何かしら大事な理由があるんだろう?お前は俺に無意味な嘘はつかないからな。でも何かあったら言えよ?いつでも話聞くから」
俺の幼馴染様は、なかなか黙って騙されてくれないらしい。でもこいつは、踏み込んでいいラインといけないラインがわかっている。引き際もちゃんと察せる。そこが颯の長所であり短所だ。そして俺は、俺と宗一郎、そして颯のためにそこを付け込ませてもらう。
「うん、ごめん。あと、ありがとう」
「いつか話す」とは言わなかった。話すつもりは微塵もなかったから。少しでも宗一郎を危険に晒す可能性がある選択は、したくない。丁度エレベーターがチンと言って、扉が開いた。
「じゃあ、また明日な!」
無言で突っ立っている颯といるのは気まずいので、そう言って急いで降りた。しかし後を追うように颯が降りてきて腕を掴まれてしまった。その反動で少し後ろへとよろめく。
「うぉ!びっくりしたー。なんだよ、まだ何かあるのか?」
「朝陽、夢の話は本当のことだろう?どんな夢を見たんだ?」
ああ、やらかした。宗一郎のことを話さないようにと思って、必死になり過ぎていた。そうだ、颯は俺の小さい頃の話が地雷だった。まあ、色々世話になったし、迷惑もかけた自覚もある。だから、仕方ないとも思わなくはないが…それにしても、こいつは過保護すぎる。
「本当にただの小さい頃の夢だよ。別におかしなことじゃないだろ?」
「ただのって、お前…大丈夫か?」
颯が過激な反応するのには理由がある。俺が小さかった頃、まあ、今もそうなのだが、家に両親がいる日があまりなかった。同じフロアに住んでいた颯がよく遊びにきて、寂しがり屋で泣き虫だった俺が1人きりにならないようにしてくれていた。だから小さい頃の俺にとって颯は兄のような存在で、よく頼っていた。俺は正直、親を家族とは思っていない。だから両親についてどう思っているか聞かれたら、「俺を産んだ人。それ以上でも以下でもなく、特に何とも思っていない」と俺は答えるだろう。だって、そりゃあ1年に1回会えるかどうかの頻度だ。全く会えていないのだから、ほぼ他人と一緒だろう。昔はもう少し会えていた気がする。まあ、とにかく、赤の他人だ。俺だってもう1人で泣いている子どもじゃない。それでも、こいつの中ではあの頃の俺で止まっているんだろう。
「颯。俺はもう、小さくて泣き虫なガキじゃない。俺だって成長してる。今はお前や、お前の母さんの助けがなくても生きていける。今はあいつらのこと、何とも思ってねぇし。そんなに心配しなくても、大丈夫だ」
固まった颯に向かって、少し表情を緩める。
「まあ、でも心配してくれてありがとう。じゃ、また」
そう言って颯の腕を外して今度こそ、颯と別れた。


 「ただいま」
呟くように言いながら家に入る。そういえば、「ただいま」は颯のお母さんに教わったんだっけ。他にも「行ってきます」「いただきます」「ご馳走様」、全部教わった。1人で暮らしている間も必ず言うように言われていた挨拶。平日の夕飯、休日の昼食と夕飯は颯の家で食べさせてくれた。その時間がいつも楽しみだったのを覚えている。昔を思い出していると、リビングに続く扉の奥の方から小走りの足音がした。そして勢いよく扉が開き、宗一郎が笑顔で出てきた。
「朝陽、おかえりなさい!」
友人と軽くこの挨拶をすることはあった。だからこの挨拶は知っている。でも、今宗一郎に言われた「おかえりなさい」は、初めて聞いた気がした。友人と軽くする挨拶とはまた違う、あったかくて、優しくて、ほっとする感じがする。そっか、これが「家」なんだ。「家族」なんだ。分かってる。俺たちは家族じゃない。ただの同居人だ。だけど、このときは本当にそう感じたんだ。優しい笑顔で出迎えてくれる「家族」。それはなんて幸せなことなんだろう。ああ、毎日当たり前のように味わっているであろう友人たちが羨ましい。俺はこの幸せを噛み締めながらさっきの呟きとは違い、はっきりとした声で言った。
「うん。ただいま、宗一郎」
リビングへ向かう宗一郎を見て、漠然と思う。俺は、いつまでこの幸せを味わえるのか、と。宗一郎はいつか帰ってしまう。そうしたら俺は、また1人だけの生活に戻ってしまう。まだ2人の生活を始めて少ししか経ってないのに、もうこの生活を手放すのが怖くなっている。いや、だめだ。宗一郎を元の世界に、「家族」のもとに帰さなくては。この生活は、少しの間見ることができる夢。夢はいつか覚めないといけない。温まった心はいつのまにか冷めていた。
「夕餉を作ってみたのですが…食べてくださいますか?」
「夕餉…は確か夕食の事だよな。ありがとな!楽しみだ!」
 宗一郎が作った夕飯は、意外なことに知っている料理が多かった。もちろん知らない料理も少しあったが、食べたことがない味で面白かった。そしてやっぱり、見たことのある料理はいつもより薄味だった。
 朝の4時。いつもはもっと遅くに起きるのに、今日は目が覚めてしまった。多分宗一郎に合わせて早く寝たからだろう。8時に寝るなんて小学生以来初めてだ。隣を見ると宗一郎が寝ている。まだ部屋の準備ができていないから、俺の部屋で寝てもらっているのだ。宗一郎は寝相がいいんだな。布団が全然乱れていない。じっと見て起こしても悪いからと、リビングに向かう。暇つぶしも兼ねてスマホを見ると、病院からメールが来ていた。
『遊馬さんの様子は如何ですか?記憶の状態や、心身の面で何か変わったことはありませんでしたか?    柳田』
担当医の名前、柳田って言うんだ。知らなかった。様子は、どうだろう。この数日の間は特に何もなかったように思う。
『特に問題はないと思います。記憶はまだ名前以外思い出せていないみたいです。』
そもそも記憶なんて失ってないが。ちょうど柳田先生も見ていたのだろう。すぐに返信が来た。
『分かりました。ありがとうございます。ところで、3日後の受診のことなのですが__』
その時柳田先生とした約束を思い出した。記憶が戻るまで宗一郎を引き取りたい、親の許可もとったと言った俺に、先生が条件をつけたのだ。
「確かに外にいた方が、刺激を強く受けて思い出せるかもしれませんね。ですが、家族の方も探しているはずです。なので、1週間です。1週間で思い出すことが何もなければ、警察に捜査依頼をだしましょう。とりあえず今は、治療の一環として源さんのお宅で過ごしていただきます。1週間後にまたお越しください」
もし、本当に宗一郎が違う世界から来ているならば、警察が捜査をしても宗一郎の身元は分からないし、家族、ましてや親戚なんて見つかることはないだろう。そうすれば宗一郎はうまくいけば新しい戸籍がもらえるはず。そして、俺はこのままあいつと暮らせるだろう。本当に上手くいけば、の話だけれど。もしかしたら親のサインがいるかもしれない。ずっと俺だけで対応するだなんて難しいだろう。今のこの状況は両親には話していない。これからも両親とは関わらずに事を進められることがベストだ。俺があの人達と話したくないということもあるけど、宗一郎のことを知っている人がなるべく少ない方がいいからというのが、主な理由だ。ほとんど家に帰ってこないし、話す必要はないと思っていたが、俺は高校生で未成年。そして宗一郎はさらに年下で中学生くらいの子ども。何かをするには、どうしても保護者の同意が必要だ。そこで頼りになる大人や親戚がいたらよかったけれど、あいにくそんな人たちは周りにいない。…いや、1人いる。颯のお母さんだ。あの人なら信用できる人だって分かっている。でも颯には話さないと決めた手前、お願いすることはできない。それに小さい頃から本当に世話になった。これ以上迷惑はかけたくない。これを言ったら親子揃って「迷惑じゃない!」って言ってくるんだろうな。思わず笑みが零れる。幸い、大きく状況が動くまでまだ時間は沢山ある。警察の捜査中も宗一郎はきっとうちにいるだろう。そのときに2人で考えればいい。
 ついに3日が経ってしまった。宗一郎のことについて1週間で分かったことを柳田先生に伝えた。今は宗一郎への質問タイムなので、俺は待合室で待っている。宗一郎とは事前に言っていい情報とそうではない情報を決めてある。話せないことばかりだったが、それでいい。記憶喪失ということになっているから違和感はないはず。それに、無理に答えてギリギリを攻めるより、よっぽど安全だ。今俺たちが話した情報は、警察の方にも伝わっていくのだろう。
 また1週間の期間が設けられた。今度は身元や親族が分かった時点で、宗一郎は家を出ていくらしい。見つかるはずがない。分かっているはずなのに、見つかったらどうしよう、と考えている自分がいる。だって、宗一郎がこの世界の住人の可能性も無くはないのだから。見つかったら、何が問題なんだ?良いじゃないか。宗一郎は家族のもとに帰れる。そして、俺の家からいなくなり、俺は一人暮らしに、いつも通りに戻る。ただ、それだけ。今日の昼食へと頭を切り替えながら宗一郎と共に病院を出る。今度はどんなものを食べてもらおうかなあ。そう考えると萎れていた気持ちが、どんどん元気になった。
「宗一郎はどんな物が食べたい気分?」
「そうですね。冷たいものなどでしょうか。爽やかな気分になるものが食べたいです」
「爽やかな気分になるもの…うーん、サッパリ系かなぁ。そうだ!冷やし中華っていう料理があるんだけど__」
やっといつもの調子を取り戻してきたときだった。
「あれぇ、朝陽?」
いつも学校で聞いている、気の抜けるような声。ただ今だけは、その声を聞いてドクンッと心臓が跳ね上がり、凍りついた。今は1番聞きたくなかった声。俺が苦手なヤツの声。普段の作り笑いの裏にある歪みを見破り、「おれ」を見つけてくれたであろうヤツの声。最近ずっと、何よりも警戒していた声。後ろを振り向きたくない。そう思うのに、体が勝手に後ろを向く。目を瞑ろうとしてもできない。ああ、目が、合ってしまった。もう遅いだろうけど、さりげなく宗一郎を後ろに隠す。
「シュウ!偶然だなぁ!どうしてここに?」
俺の顔はいつもの笑顔の仮面をつけて、声は勝手にいつもの調子で話し出す。慣れって恐ろしい。でも、おかげで動揺したことは多分悟られていないだろう。シュウは相変わらず何を考えているか読み取れない目をして笑っている。やっぱりシュウのこの瞳は怖い。
「オレはねぇ、母さんからのだる〜い任務を遂行してたんだぁ。つまりお使いだね!今はその帰り。朝陽は?」
「そうなんだ。偉いじゃん。俺は病院」
シュウの瞳の奥が少しずつ怪しげな光を帯び始めた。いやな汗が背中を滑り落ちる。
「へぇ〜。それより、さ」
シュウが瞳をキラリと瞬かせながら近づいてくる。下がろうとするも、後ろには宗一郎がいるためできない。ゴクリ、と無い唾を掻き集めて飲み込む。この少しの間が何よりも怖い。
「その子は?この前兄妹はいないって言ってたよね?」
やっぱり。いくらこの世界の服を着ていたって、雰囲気とかはなんとなく違和感がある。勘の鋭く、しかも好奇心旺盛なこいつが見逃すはずがないのだ。どうしよう、どうしよう、どうしよう!そうやってシュウへの問いにどう返すかを考えている間に、シュウはいつのまにか俺を少し通り越し、宗一郎の前まできて目を合わせていた。
「ねぇ、君はどこから来たの?もしかして、朝陽の親戚の子?不思議な髪型をしているね!」
どんどん宗一郎に近づいていく。シュウに気圧されたのか、宗一郎は半歩後ろに下がると俺の服の裾を掴んだ。宗一郎の目が俺に助けを求めている。宗一郎を守らなきゃ。それだけで頭がいっぱいになった。シュウと宗一郎の間に壁を作るように、体を滑り込ませる。シュウが少しだけ目を見開いたのが見えた気がした。
「そうそう!シュウよく分かったな!こいつ親戚の子でさ、一昨日くらいからうちで一緒に暮らしてんだよ。今日はこいつがちょっと調子悪くなったから病院に来たんだ。悪化すると良くないから、俺らはもう行くな!じゃ、またな!」
一息で言って宗一郎の腕を掴み、その場から早足で離れる。それがシュウの好奇心を煽る行為だと冷静だったら気がつけていたし、そんなことはしなかった。でも、シュウから早く逃げることで頭がいっぱいになっていた俺は、そこまで考えが回らなかった。だからシュウが新しいおもちゃを見つけた小さな子どものように、瞳を輝かせて俺らを見ていたことにも気が付くことができなかった。
 結局、昼食は家でホットケーキを作ることになった。宗一郎はやっぱり初めて食べたらしい。ナイフとフォークの使い方を教えるとすぐに覚えて、目を輝かせながら食べていた。普段から丁寧な動きをしているからか、どこかの国のお貴族様みたいでとても綺麗だった。どうやら宗一郎はお気に召したようで、沢山作ったはずなのにすぐになくなってしまった。宗一郎の美味しそうに食べている姿を見ていたら、さっきまで感じていた怖さや焦りはいつのまにか和らいでいた。頬張っていたホットケーキを飲み込んでから、話を切り出す。
「宗一郎。今警察が宗一郎の身元調査をしている。もしこの世界で宗一郎が住んでいたのなら、ほぼ確実に家族が見つかる。でも宗一郎は多分、違う世界の人だ。だからこの身元調査はほとんど意味がない、と思う。あるとしても宗一郎がこの世界の人じゃないってことを証明できるくらいかな。で、身元が見つからなかった時に考えられるのは施設に入れられること、俺と住むこと、何かしら住む場所が与えられてそこで一人暮らしをすること、だと思うんだ」
宗一郎は『家族が見つかる』という言葉に反応した。家族に会いたいんだろうな。生憎、俺はみんなが言う『家族』は分からない。親は子を愛し、子の幸せを願う。子は親を慕い、親孝行する。多分それが「普通」。でも、俺の家のカタチはそうじゃない。だから家族に会いたい、家に帰りたいと願う宗一郎の気持ちが理解できない。分からないから、理解して宗一郎の気持ちに寄り添ってあげたくても、できない。
 俺が話を一旦区切ると、宗一郎は考え込んでいた。宗一郎は今、家族が見つかる可能性に縋っているのだろうか。それとも、見つからなかった場合を考えているのかな。もしかしたら俺の家から出ていってしまうのかも。でも、宗一郎の家族が見つからなかったとして、その時、俺と一緒にいてくれるのなら、いや、そうじゃなくても。
「宗一郎の家族が見つからなかった場合、俺と一緒に住むにしても住まないにしても、俺と宗一郎の関係を聞かれたときは親戚って言おう。もうシュウにそう言っちゃったし」
俺はやっぱり子どもで、こうすることでしか宗一郎を守れないから。それに俺はそんなに頭が良くないから、こんな方法しか思いつかない。ああ、くそ、悔しいな。
「もし宗一郎の家族が見つかったら、その時はその時で話し合って決めよう。でもさ、こんなこと言うの悪いけど、宗一郎は明らかにこの世界の『普通』からかけ離れた雰囲気を持っている、、と思う。浮世離れって言うのかな。絶対とは言わないけど、家族は見つからないと思う。だから、あんまり期待しない方がいい。とりあえず今は誰かに俺との関係を聞かれたら親戚って答えてね。俺もそう言うから」
「…分かりました。ありがとう、ございます…」
一気に宗一郎の周りの空気が暗くなった。ごめんね。酷いこと言って。でも期待して見つからなかったら、宗一郎はすごく傷つくのだろう。同じ「傷つく」でも、今少し傷ついて期待しない方が痛みは軽いはず。それに見つかった時の喜びは2倍だと思うんだ。
 2日後。もうすぐ夏休みなので、今日から学校は短縮授業だ。宗一郎を一日中家に置いて行くのは心配だったので少し、いや、かなり嬉しい。しかも学校にいる時間が少ないということは、シュウや颯と顔を合わせる時間が少なくなるということ。少し安心する。帰ったら一緒に遊びに行こう、と宗一郎と約束して家を出る。
「行ってきます!」
「どうぞお気をつけて。…楽しみにしていますね」
あ、また挨拶に返事が返ってきた。胸の辺りがほわっと温かくなる。
「わかった!楽しみにしてて!」
なんだかむず痒いな。いつもより気分が良い。なんだか背中に羽が生えた気分だ。家に帰った後に楽しみがあるというのは、案外いいものなのかもしれない。
「朝陽!」
振り返ると颯がいた。出会ってしまったなら、仕方がない。流れで一緒に行くことになった。お互いに話さないまま数分が過ぎる。こんな瞬間は今まで何回もあったし、その時はなんとも思わなかった。それどころか心地がいいと思ってたから、結構お気に入りの瞬間だったはずなのに。気まずい。何か聞かれるかもしれないと思うと、すごく怖い。なんだか胃がキリキリする。苦しい。学校まであと半分というところまで来た時、急に颯が立ち止まった。少し後ろを歩いていた俺はその背中に顔をぶつけてしまった。勢いよくぶつけた鼻の頭を抑えながら顔を上げる。
「いってぇな…おい、急に止まるなって!危ねぇじゃ--」
「あのさ!」
俺の言葉を遮って颯が言いながら振り返る。その顔は痛いのを我慢しているように見えて、思わず固まってしまった。そんな俺を見て颯は下手くそな笑顔を浮かべた。なんで、そんな泣きそうな目をしてんのに、無理して笑ってるんだよ。…いや、そんな顔をさせているのは俺、か。
「そんな顔すんなよ。俺はもう何も聞かないって。もういいって言っただろ。俺は、お前の悩みの力になれればって思って、言っただけ。思い詰めた顔をしたり、心ここに在らず、みたいな感じだったから…。何か危険なことに巻き込まれて、1人で抱え込んでるんじゃないかって心配しただけだよ。幼馴染にそんな警戒されると流石にきついって」
颯の声は段々と弱々しい声になった。最後の絞り出されたような声にいつの間にか下がっていた顔を上げると、颯が怒ったような、泣いているような、そんな顔で俺を見ていた。そうだ、颯は無理に聞き出すような奴ではない。この前シュウに会ってから、冷静になれていなかったみたいだ。こんなんだから、いつまでも颯に心配されるんだ。完全に自業自得じゃないか。そして今度は、いつも心配してくれている颯自身を傷つけてしまった。
「別に警戒なんてしてないし。考え事してただけだって。…でも、ごめん。ありがとう。俺は、大丈夫だ。思い詰めてもいないし、危険なことにも頭を突っ込まないし、突っ込んでもいないよ」
何か答えないと、と思って出てきた言葉は嘘の言葉で。慌てて自分の本心を言う。でも結局は約束できないことも口走ってしまった。なんで、こう、俺は余計なことしか言えないんだろう。
「そうか。なら良いけど」
そう言って颯はまた歩き出した。ので、俺も続こうとしたらまた颯が止まった。また顔をぶつけてしまった。
「言ってくれるのを待つって決めたから、聞かない。でも隠されてることを分かってて、その上に様子がおかしいところを見るとさ、見てるこっちまで辛くなるし、流石に何か言いたくなるんだよ。こっちはすごい気になるのを我慢して、何も気にしてないふりしてるんだよ。ハイテンションになれとは言わないから、せめていつも通りでいてくれ。俺に隠すって決めたんなら、ちゃんと隠し通せ。心配しなくて大丈夫だって言うなら、心配させないような行動しろ。先に今言っておく。絶対に覚えておけ。俺はどんな時でも、お前が何も話してくれなくても、求められたら全力で手を貸す。俺はずっと、待ってる。だから1人で全て背負う前に、手遅れになる前に、頼ってくれ。じゃないと俺は朝陽が助けを求めていても、気づいてやることもできなければ、助けることもできない」
しーん。漫画だったらそう書かれているんだろう。それくらい俺たちの間は静かだった。俺は颯の言葉に何も返さなかった。返せなかった。何か言いたいはずなのに、喉のあたりで詰まって、うまく言葉が出てこない。
「長いこと喋りすぎたな。ほら、走るぞ。ホームルームに間に合わなくなる」
空気を無理やり変えるように颯が少し声を張り上げて言い、俺を置いて走り出す。時計を見るとホームルームが始まる10分前だった。走りたくないと言いたいところだが、ここから学校まで歩いていては間に合わない。慌てて俺も走り出す。颯とは微妙に気まずいままだった。
 ホームルーム終了後、シュウが俺の元に1人でやってきた。
「朝陽〜。お前にどうしても聞きたいことがあるから、この後少し時間くれない?」
「え?あ、うん。予定があるから早めに終わるならいいけど。珍しいな、シュウがそんなこと言うなんて。真剣な話?」
「…まあね〜大丈夫!すぐ終わるよ」
そう答えたシュウの目は肉食獣のようだった。後半の言葉を口に出す時、いつもと様子が違うことに気がついた。正直、この時の俺は颯のことで頭がいっぱいでシュウに宗一郎を見られていたことをすっかり忘れていた。
 放課後。颯には先に帰ってもらい、シュウの後ろをついていく。シュウの足は学校の屋上に向かっていた。本来、屋上は立ち入り禁止の場所だ。鍵は一応かかっているけれど、壊れてつけ外しが簡単になっているから無意味だ。俺らは周りの奴らのようにイイ子じゃないから、静かなところで話したい時や愚痴を言いたい時、たまーに使っていた。あとはこんな風に、他のいつメンに話しているところを見られたくない時とか、話を聞かれたくない時。みんなイイ子だから、屋上には基本的に人はいない。そして何気にここまでくるのは面倒なので、いつメンの奴らもあまり来ない。流石にここまで来れば冷静にもなれるし、察する。シュウの聞きたいことは宗一郎についてだ。何も考えずに返事をした数十分前の俺を呪いたい。俺だって、人のことを観察していないわけじゃない。俺が冷静を欠いたまま離れた時点で、シュウが興味を持たないわけがないのだ。
 屋上に着くまでの間にどんな質問をしてくるか予想して、その答えを考える。しかし、予想に反して実際は全く関係ない話だった。シュウは気になったことは答えがないと納得しない。だから、確かに今までも沢山質問をしてくることはあった。でもそれは屋上のような特別な場所じゃなくて、教室のような普通の場所だ。だから身構えていたのに。警戒しているのも馬鹿馬鹿しく思えて、いつのまにか気を緩めていた。そのタイミングをシュウは待っていたのかもしれない。今まで続いていたテンポの良い会話が途切れ、気の緩んだ俺をじっと見つめた後に切り込んできた。
「あのさー、この前病院前で一緒にいた子、本当に親戚なの?オレに見られたとき、すごく焦ってたじゃん。あんなに急いで帰っちゃってさ〜?あの子、なんかあるの?」
やっぱり、このことについて聞きたかったんだ。動揺したことがバレないようにゆっくりと息を吸い、わざと大きなため息を吐いた。
「いや?親戚だよ。遠縁だけどな。ただアイツが具合悪そうだったから、早く帰りたかっただけだって。お前話長いからこりゃあ、帰るのが遅くなる!って思ってよ」
俺は、上手く笑顔を浮かべられているだろうか。シュウが頬を膨らませた。
「えー、オレそんなに長話しないのに〜」
「いや、あれは絶対話が長くなってたね。それで?真剣な話ってこれ?他に用は?」
シュウは口元だけに笑みを浮かべながら、俺の目をじっと見つめて黙っている。正直、俺は人と目を合わせるのは苦手だ。目には本性が浮かび上がるから。相手がどう感じているのかを確認するための、一方的な盗み見は平気だし、よく使うけれど、目を合わせることはあんまりないから慣れていない。でもこういう時、目を逸らしてはいけないということだけは知っている。逆にこの眼を見せるのだ。俺は嘘をついていないことを信じさせるために。何十秒、いや何分こうして向き合っていただろう。シュウはため息をつき、肩をすくめた。
「ない!わざわざ屋上まで来たのにごめんね〜?用事があるんでしょ?結構時間も経っちゃったしぃ、さー、帰ろー!」
「待って、今何時?」
シュウが腕時計を見る。
「えーっと、丁度1時ぴったりだよ?」
まずい。ホームルームが終わり、シュウに質問があると言われたのは11時半頃。そこから1時間以上経っている。シュウとは長い間話していたらしい。宗一郎には1時に帰ると伝えてしまった。そして今日はただ家に帰って終わりではない。宗一郎と遊びに行くのだ。昨日の夜に誘った時、宗一郎は嬉しいと照れたように、笑いながら言ってくれた。それに今朝だって楽しみだと言っていた。だから今日は、絶対に楽しませようって思っていたのに。今から帰ったら1時半頃。最悪だ。大遅刻だ。1時間はあるし、と思ってシュウについていかなければよかった。今更後悔しても、もう遅い。今できることはなるべく早く帰って、宗一郎に謝ることだ。
「シュウ!鍵頼んだ!時間ねぇから帰る!」
「はーい!頼まれましたぁ」
全速力で階段を降りて、学校を出る。ここから頑張って走って帰ったら15分くらいか。どれくらいのペースが1番早く家に辿り着けるか。なんて考えながら走る。結局「頑張って走る」という気合い頼みな結論しか出なかったが。ローファーで走るのはきついな。初めて知った。今までも走ったことはあったけれどそんな長距離じゃなかったし、こんなに全速力でもなかった。マンションについてからもエレベーターを待っている時間さえ惜しく感じて階段を駆け上がった。
「ただいま!遅れてごめん!」
急いで家に入ると、宗一郎がくすくすと笑いながら出迎えてくれた。
「朝陽、おかえりなさい。そんな慌てなくとも大丈夫ですよ。ああ、汗がすごいですね、走って帰ってきてくださったのですか?」
「だって、俺、楽しみにしてて…なのに遅れて…ごめん」
「私は気にしていませんよ。さあ、私はお茶を淹れてくるので、着替えでもしていてください。お茶を飲んで落ち着いてから行きましょう?」
宗一郎は俺の背中を押しながら、俺の部屋へと押し込んだ。なんだか宗一郎が俺より年上みたいだ。俺の方が3歳も上なのに。それを宗一郎に伝えてみたら、「実際、4人の弟妹たちの兄ですからね」と綺麗な笑顔で言って俺の部屋から出ていった。本当に宗一郎は家族が好きなんだなあ。兄弟、か…いいなあ。そんな小さな呟きが口から溢れ落ちた。その言葉は小さな声だったはずなのに、やけに部屋に響いた気がして落ち着かなかった。気を紛らわせるように俺は乱暴に着替えを取り出し、先程の言葉に続いて顔を出そうとした感情を無理やり押さえ込むように、1番上までポロシャツのボタンを閉めた。
 宗一郎が入れてくれたお茶を飲んで外に出る。まず一目散にバイト先の近くにある携帯ショップに向かった。ようやく宗一郎のスマホが届いたのだ。これでいつでも宗一郎と連絡が取れる。スマホを受けとり、近くのカフェに入る。俺が家であまり使わないこともあり、宗一郎は今日スマホと初めての対面だ。適当に注文をして箱からスマホを取り出し、宗一郎の前に置く。宗一郎は不思議そうな顔でスマホを手に取り、いろんな角度から眺めた。
「それはスマホ、正式名称は…ま、いっか。とりあえず、それは遠くに居ても会話ができる道具だよ。他にもアプリっていうのを入れれば写真が撮れたり、調べ物ができたり、ゲームをしたり、本を読んだりもできる。」
そう言うと、宗一郎の目がカッと開いた。そしてスマホを置き机に手をつくと、ガタッと音を鳴らして前のめりに立ち上がった。
「この薄く小さな板でですか!?嘘、でしょう?本も読めると言いましたか?この中にどのようにして本を入れると言うのです?明らかに本の方が大きいでしょう?」
しかも本なんて高級品…あ、この世界では高級品じゃないのか…。そう、小さく呟き続ける宗一郎は敬語だったりタメ口だったりと、口調が定まっていない。見ていて、とても面白い。家ならいつまでも見ていたいが、残念ながらここはカフェだ。こうなると予想して多少騒がしいところを選んだとはいえ、ここまで大声を出してしまうとどうしても視線が集まってしまう。うん、そろそろ止めよう。
「はいはい、スマホのすごーい技術に驚いたのは分かったから。とりあえず頼んだもの来たし、食べない?俺、腹減ってるんだけど」
俺の言葉で我に返ったのか、宗一郎の顔が真っ赤に染まる。ようやく自分の世界に入り込んでいたことに気がついたみたいだ。
「す、すみません!そうですね!食べましょう!、、いただきます」
慌てたように座って深呼吸をした宗一郎は、しっかりと手を合わせてはっきりとした声で言った。こういう細かな所作は本当に丁寧で、思わず見惚れてしまう。頼んだサンドイッチに齧り付きながら考える。例えばそう、良家の坊っちゃんとか、昔のドラマみたいな…。ふとそこまで思った時に、何か違和感を感じた。一瞬だけど、何かがひらけたような、豆電球がチカッと光ったような。…そうか、わかった。宗一郎は昔の人みたいなんだ。テレビや教科書で見る昔の同じくらいの子どもは、みんな大人っぽい。宗一郎もそうだ。俺よりも年下なのに、落ち着きも余裕もあって大人のように感じる。ということは、宗一郎は過去から来たのか?いや、でも初めて会った時の格好は歴史の教科書や昔の時代を題材にしたドラマでも見たことがなかった。しかも喋り方も現代とは違っている気がする。それに対し、宗一郎には言葉が通じる。たまにこっちの言葉が伝わらないことがあるけれど、違う世界から来たのなら当たり前だろう。でも、似たような格好はある気がする。例えば浴衣とかのお祭りで着るようなもの。そういえば、歴史の授業で習った人間は最初から道具を使い、生活をしていた。では、どうやってその道具を生み出したのだろう。いきなり人間が生まれてすぐに道具ができるはずがない。その道具が作られるためには、それを作り出した最初の人がいるはずだ。例えば電気を作ったという偉人や、飛行機を作り出した偉人。彼らだって様々な研究をして、たくさん試した結果、今の便利なものがある。そう、何か作るためにはその前に長い月日をかけて研究をしたり、何度も試して改良する必要がある。新しいものを作る時に一発で思い通りのものができるはずがない。しかも、その時代にはもう法律があった。法律が生まれるには何か原因や理由がある。それが生まれるに至った物語があるはずだ。だから俺の習っている歴史よりも、もっと前の時代があるはずだ。世界の始まりは本当にあの歴史通りなのか。世界には歴史に惹かれ、新たな答えを探し続けている探求家や、研究者たちがいる。そんな彼らが何もない時代の痕跡を1つも見つけられないはずがない。それなのに見つからない。1つは見つかってもいいはずなのに。まるで隠されているみたいだ。そこまで考えていた時だった。何故か急に意識が遠のいた。頭がぼんやりとしてくる。何も、考えられない。考えたくない。
「朝陽?」
意識がハッと覚醒する。
「なに?どうしたの?」
「それは私が聞きたいです。先程まで勢いよく食べていたのに、いきなり停止して固まってしまうのですから。何かあったのかと心配するでしょう」
呆れたとでもいうように俺を見た後、ため息をついた。俺は謝りながら、先程まで考えていたことを考える。さっき俺は、何について考えていたのだろう。確か宗一郎を見て何か感じたはず。それで、その後何かを考えた。何かを思った。それは多分俺の中でとても大切なことだ。思い出したい。でも靄がかかったかのように何も思い出せない。何か掴めそうなのに何もこの手にとらえることができない。もどかしく思いながらサンドイッチの最後の一口を口にする。うん、美味しい。考え事をしながらではなく、ちゃんと味わって食べたかった。そう思っているうちに俺は、思い出そうとしていたことも忘れていった。


 朝陽と“かふぇ”を出た後、公園という誰もが自由に使える広場に来た。
「俺ちょっとバイト先に寄ってくるから、ここで待っててもらってもいい?それとも、一緒に来る?」
「いえ、ここで待ちます
「りょーかい!じゃあ、待ってて!」
小さくなっていく朝陽の背中を眺めながら、椅子に座る。背もたれに背中を預けて瞼を閉じ、深く息を吸う。ここの空気は重苦しい、と思う。息がしづらい。多分私にはここの空気が合わないのだろう。早く帰りたいものだ。これから私はどうなるのだろう。何を、すれば良いのだろう。私は何故世界を渡ったのだろう。今日、朝陽が学校に行っている間にもずっと考えていた。でもやはり、答えは見つからなかった。心当たりが一つもないのだ。
「お隣、失礼しますね」
急に人の声がしたので瞼を開き、隣を向くと初老の男性がいた。タレ目でとても優しそうな人だ。声も優しく耳にすっと入ってくる、聞き心地の良い声だった。
「ええ、どうぞ」
少し端に寄りながら答える。
「すまないね、ありがとう」
そう言いながら男性は私の隣に座った。そしていつのまにか、男性と世間話をしていた。彼はとても博識だった。私が知らないだけでこの世界では常識なのかもしれない。しかし、私にとって新しい視点や価値観を持つ彼の話は本当に面白かった。
「一つ君の意見を聞きたいことがある。例えば、とんでもない天才が生まれたとする。彼は普通なら100年、200年以上の時をかけて進むはずだった世界の技術を、たったの10年くらいで進めてしまうんだ。そして彼が生まれた国の技術が発展しすぎたせいで、その技術を奪おうと世界は争いだし、世界大戦が始まった。人類が、世界が滅ぶほど激しい戦いだ。そんな未来が決まっているとき、君ならその天才をどうする?」
意味がわからなかった。今までの話とは全く違う類いの話だったから。ただ彼が私の意見を求めているということだけは分かる。沢山の興味深い話をしてくれた礼に、彼が満足してくれるような答えを出したい。100年単位の技術を進める天才。そんな人がいたら、いったいどんな人なんだろうか。どんな話をするのだろう。自分が近い未来、世界が滅ぶかもしれないほどの大戦を呼ぶ原因を作ると分かったら、その天才はどんな反応をするのだろう。私はその天才をどうするのだろう。多分、私だったら
「私は技術が進むことは良いことだと思うのです。世界が滅ぶというのは困りますけどね。大切な人達と会えなくなってしまうのですから。なのでもし、その天才と呼ばれるような方が産まれた時、私はその方に未来で起こることを全て伝えると思います。信じてもらえなくとも、伝え続けます。そして悲惨な未来を迎えずに技術を進化させる方法を共に考えます。もし一緒に考えることができず、争いが起こるというならば私が直接世界に対して訴えましょう。幸い私には伝手があります。もしその伝手さえ使えないというならば、私が直接上の方々に話をつけましょう。貴方の話から推測するに、その方の国は進んだ技術を独占していたのでしょう。それならば技術を広めれば良いのです。そうしたら特別ではなくなり、誰もが欲しがることは無くなります。技術が発展することで私達はもっと先の景色を見ることができるはずです。私は最近、それを身をもって感じました。いえ、今も感じ続けています。なので私は技術を進めること自体を止めることは致しません」
彼は私の話を最後まで静かに聴いていてくれた。
「そうなんだね。もう一つ、聞いても良いかい?もし、君と出会う前に違う者がその天才を狙い、どこかに閉じ込めたり…そうだね、最悪殺したとする。それを起こした者は『このままでは世界が滅んでしまう。それならば大勢を守るために1人を排除すれば良い。これは必要な犠牲であり、必要悪なのだ』と言い張る。さて、どう思う?」
大勢のために1人が犠牲になる。この考え方については理解できるし、納得もできる。私は世界の技術を進めることを重視したが、その方は確実に世界を守ることができる方法を選んだのだろう。ただそれだけなのに、成そうとする事はこんなにも違うのか。
「私にはその方が正しいのかは分かりません。しかし、大勢のために少数を、という考え方は理解できます。国や世界を確実に維持することができる方法である、ということもわかっています。その方の考えを否定はしません。何かを守るための一つの方法ですからね。ですが、排除する必要は無いと思うのです。技術を生み出すことを止めるならまだしも、その方自身の人生を無きものにするのは違うと思うのです。少なくとも私は、無実な誰かの人生を踏み躙ったうえで成り立つ幸せはいりません。必ず排除以外に方法があるはずです。ですので、その方の方法のみ、否定させていただきます」
すると何か彼は呟いた後、目尻を下げて微笑んだ。
「何かを守るため、か。…そうか、ありがとう」
そう言うと満足したのか、大きく息を吐くと彼はすっと立ち上がった。
「私はこれで失礼するよ。興味深い話だった。私もようやくアレの成したことを少しは理解できた気がするよ。君の名前を教えてもらっても良いかい?」
「遊馬、宗一郎です。貴方は?」
「私かい?そうだね、私は…管という。よろしく頼むよ。宗一郎君、こんな老いぼれの話を聞いてくれてありがとう」
そう言うとカンさんはゆっくりと遠ざかっていった。不思議な方だ。「アレの成したこと」か…。“アレ”とはなんだろう?成したこと?よもや先ほどの問いは例えではなく、すでに起きたことだというのか?それならば話に出てきた方は、技術を進めるかもしれない天才という彼は、“アレ”にすでに何かされてしまったのだろうか。もしかして…。管さんの言葉の意味を読み解こうとすればする程、その天才に起こったであろうことが恐ろしい答えへと辿り着いてしまい寒気が駆け上がってくる。もしかしたら、本当に例え話かもしれない。私が想像するような人はいないかもしれない。思い込みで決めつけてはいけない。母からの教えだ。そう分かっていても、寒気はおさまらない。この思考の歯車をどうにか止めようとしていると声が聞こえてきた。
「おーい、宗一郎!」
朝陽だ。声のする方へ顔を向けると、朝陽がこちらへと走ってきていた。強張っていた身体がほぐれていく。ああ、やはり朝陽は私の太陽だ。漠然とそう思った。
「朝陽、おかえりなさい」
「遅くてごめんな。ちょっと店長と次のシフト、えっと、働く日と時間について話しててさ。店長の話が長かったんだよ」
「そうなんですね。私は丈夫ですよ」
話し相手がいたので。でもそれは言わないことにする。出会って少ししか経っていないのに、朝陽は少し私に対して過保護だから。それに私自身、知らない方と話すことが良いことばかりでないことは知っている。昔凛がしゃがみ込んでいる人に声をかけて、拐かされそうになったことがあるから。そういえばあの後凛ではなく伊玖磨が私の背中にしがみついてき、大泣きしていた。多分隣にいた凛が目の前でいきなり拐かされそうになったことが怖かったのだろう。それに家族想いな子だから、咄嗟に動けなかった自分が嫌だったのかもしれない。
「宗一郎、具合悪いの?少し、顔色が悪い気がする。大丈夫?」
朝陽に突然問いかけられる。心配そうにしている朝陽に笑みを向け、立ち上がる。
「ええ、大丈夫です。少し疲れてしまっただけですよ。さあ、帰りましょう」
こうして私たちは朝陽の家へと帰った。私は帰っている間や家に着いた後も、何故だか管さんとした会話が頭にこびりついて離れなかった。


 宗一郎と買い物に行った日から1ヶ月が経ち、夏休みの中盤になった。この1ヶ月の間に宗一郎と2回病院に行った。1回目はちょうど夏休み初日だった。警察の調査の結果が知らされた。宗一郎の身元はわからなかったらしい。そこから2週間もう一度調査したのだが、やっぱり分からなかった。初めからあるとは思っていなかったが、これで宗一郎がこの世界の人ではないことが証明された。横にいた宗一郎を見ると分かっていたのだろう、顔色は変わっていなかった。しかし、膝の上に添えられていた手は拳を作っていて、少し震えていた。多分、違う世界だと頭では分かっていても、またこの世界で家族と会えることを期待してしまっていたのだろう。だから期待しない方がいいって言ったのに。でも仕方ない、か。宗一郎は家族のことが何よりも大切で、大好きで、家族にまた会うことは何にも代え難い、宗一郎の今の願いだから。それが分かっているのに、宗一郎の身元が証明されなかったことに安心し、まだ一緒にいられることを喜ぶ自分に気づき、そんな自分がいることにがっかりした。俺は宗一郎が無事に自分の世界へと戻る方法を見つけた時、素直に喜んで心の底から祝福し、笑って送り出せるのだろうか。ずっと1人きりだった広い家に来た存在は、俺にとってあまりにも大きく、あまりにも温か過ぎた。
 2回目の病院から1週間が経ち、夏休みも終盤に入り始めた頃、3回目の病院に行った。宗一郎の健康診断をして、一通り異常がないことを確認すると、警察を交えて宗一郎の今後について話をした。そして3日後に市役所に来るように言われた。宗一郎の戸籍を作るらしい。俺の家に迎えるのならば両親も戸籍を作る時に必要だと言われた。未成年だかららしい。奴らに連絡しなければならない。初めて未成年であることに苛立ちを感じた。その日の夜、両親と電話した。俺からかける電話。小さい頃によく電話をかけては、今忙しい、と言われて切られ続けるうちに、いつの間にか自分からかけなくなっていた。出てくれるだろうか、なんて柄にもなく緊張しながら始めに母、最後に父に電話をかけた。
『どうしたの?貴方から電話なんて珍しい』
母が驚いたように言った。ちょうどかけた時は一段落ついて落ち着いた頃だったんだろう。記憶にある声よりも、だいぶ柔らかい声だった。緊張がほぐれて少し要件が切り出しやすくなった。
『なんだ?今、忙しいんだ。簡潔に話しなさい』
父は小さい頃から変わらない、早口で低く、威圧感のある声で言った。ほぐれていた緊張がぶり返し、背中にナイフを当てられているかのような錯覚を覚えた。冷や汗が止まらない。湧き上がる震えを拳を握ることでなんとか抑えた。
 大きく深呼吸をする。さあ、要件を話そう。
「頼みがある。1人、俺の弟として引き取りたい人がいる。でも引き取るためには俺だけじゃだめなんだ。成人した大人がいる。あんたが忙しいのはわかってる。だから、少しの時間でいい、3日後に一度帰ってきてくれないか?急なのは分かってる!それでも、3日後じゃなきゃ、だめなんだ!だから、お願い、します」
スマホの向こう側は静かだ。はやく、答えてくれ。ドクン、ドクンと心臓の音が耳元で大きく聞こえる。手が氷のように冷たくなっていく。母は大きく息を吸い、父は大きく息を吐いた。次に、どんな答えが来る?答えは___
「     」
俺は通話を切ると詰めていた息を思いっきり吐き出し、その場にへたり込んだ。
 3日後。俺たちはいつもより少しだけ早起きをして身支度と家の掃除をした。それよりも、宗一郎がさっきから落ち着かない。
「宗一郎。そんなにソワソワするなって。こっちまで緊張してくる」
「なんて事を言うのですか。逆ですよ。貴方、昨日から落ち着きがないじゃあありませんか。その緊張が私に移っただけです。…緊張するに決まっているでしょう。今日は、朝陽の御両親がいらっしゃるのですから。一番初めの対面はとても大事なのです。今日で御両親の私に対する印象が決まってしまうかもしれないのですよ?緊張するな、と言う方が無茶でしょう。…けれど取り乱し過ぎましたね、すみません。そういえば、朝陽は御両親に会えるのは嬉しくないのですか?緊張もあるのでしょうが、顔が強張っていますよ」
図星だ。ばれていたのか、と唇を噛む。昨日から妙に落ち着かないのも、俺が両親に会うことが嬉しくない事も。
「さすが、だな。うまく隠してたはずなんだけど」
「商人を舐めないで下さい。商人の勘と観察眼は凄いのですよ?なにせ、幼き頃から鍛えていますからね!」
それに、朝陽は分かりやすいほうだと思いますよ。と言われて少し凹んだ。それにしても、商人ってすごいんだな。小さい頃から鍛えれば勘って身につくんだ。
「…へぇ〜」
そう返した時だった。
ピンポーン
突然家に鳴り響いた音に俺と宗一郎の肩がビクつく。ああ、震えが出てきちまった。こんな、いきなり来るからだ。これくらいの時間に来いって指定したの自分だけど。時間、忘れてた。いや、時計を見ないようにしていた。床についているお尻が浮いてくれない。立ち上がれない。宗一郎はそんな俺の様子を見ると、口を引き締めて立ち上がった。
「私が、出てきますね」
それを聞いた瞬間にさっきまで動けなかったのはなんなんだと言いたくなるほど、すっと立ち上がれた。この時に思っていたのは“行かせちゃだめ”、ただ、それだけ。
「いいよ、俺が出る。宗一郎はお茶の準備してもらっていい?」
宗一郎は心配そうに俺を見た後に頷くとキッチンへ消えていった。会いたくないと言う重い足を引き摺るように歩いて、どうにか玄関まで着いた。ドアスコープを覗いてみると2人はいた。何か話している。あ、父がため息を吐いている。早くドアを開けなくては。ドアを開けると、父が顰めっ面して立っていた。
「私はお前に何と教えた?」
その言葉と共に蘇るのは小さな頃の記憶。大好きだった優しい両親が消え、広いこの家で1人で過ごすことが増えた頃。早くから与えられた携帯に父から帰ってくるということと、鍵を忘れてしまったので開けて欲しい、という連絡があった。父に褒めてもらおう、喜んでもらおう、と幼いながらに頑張って考えた結果出てきたものが、父へおにぎりを作ることだった。一生懸命作って父の部屋にお皿に乗った不恰好な形をしたおにぎりと共にちょっとした手紙を添えて置き、使ったものの片付けをしていた時、インターホンの音が鳴り響いた。父が帰ってきたのだと思い、完璧な状態で迎えたかった俺は片付けを優先させてしまった。残りが少なかったとはいえ、少し時間がかかってしまった。うちのドアはオートロック式だ。だから鍵を持っていない父は、俺がドアを開ける以外に家に入る方法は無い。片付けた後だったけれど、急いで開けたつもりだった。
『おかえり!』
そう言って開けた先にいたのは、顔を顰めた父だった。
『私がインターホンを鳴らしてから随分と時間がかかっていたな。何をしていた?』
『おうちのお片付けしてたんだ』
父が大きなため息を吐いた。
『片付けなんてどうでもいい。そんなもの中断して開けるべきだ。もし、私がお客様を連れていたらどうする。もし暑い日や寒い日だったら?待たせることは失礼だ。その他のことに関してもそう。自分のことを優先するのではなく、他人の事を優先しなさい』
そして父はただいまも言わずに俺の真横を通り過ぎ、自分の部屋へと篭った。結局その日も、その次の日も褒めてもらうことはできなかった。「自分のことを優先するのではなく、他人の事を優先しなさい」小さい頃から言われ続けたこと。初めて言われたのは、ちょうど今日のようにインターホンがなったあの日だ。そして今日、あの日のように俺が動けなかったほんの少し時間ロスがあった。まあ、言われるかもしれない、とは思ってた。
「…『自分のことではなく、他人を優先する』でしょう?ちゃんと覚えてますよ、ずっと小さい頃から言われ続けたんだから。それから、今日はどうも」
俺の言葉に父の眉間に皺がよった。
「分かっているのなら行動しなさい。それから、ちゃんと全て言葉にしなさい。『どうも』ではなく、『来てくださりありがとうございます』だろう。そんなんだから、あんな高校に入ったんだ」
今、俺の通ってる学校は関係ない。しかも、「あんな」なんて言っているが偏差値60は超えているそんなに悪くない学校だ。まあ、父が望んでいるのは偏差値70越えの私立学校だったから、父からしたら偏差値60の公立学校は「あんな」学校なのだろう。
「学校は関係ない。俺は後悔していない。あんな堅っ苦しい学校はごめんだ。…とりあえず上がって。宗一郎がお茶を用意してくれているから」
そこで母に挨拶していないこと気がつき、流れるようにしてから2人を家にあげた。廊下のドアを開けるとリビングでは宗一郎がお茶と少しのお菓子を用意してくれていた。宗一郎に駆け寄り話しかける。
「宗一郎、ありがとう」
「どういたしまして」
宗一郎は柔らかく微笑むとすぐにスッと表情を消し、俺よりも1、2歩前に出た。
「あなた方が朝陽殿のご両親ですね。お初にお目にかかります。私は遊馬宗一郎と申します。記憶喪失故、名前しか申しあげることが出来ませぬことをお許し下さい。本日は私のために貴重なお時間を割いていただき、誠に有難うございます。以後、お見知り置き頂けると幸いです」
宗一郎は背筋を伸ばし、初めて出会った日のような口調で両親に挨拶をした。真っ直ぐに両親を見つめる瞳、堂々とした態度、ハキハキとした強く芯のある声。実際は年下で背も低いのに、今の宗一郎は俺よりも大人のようで、大きな背中をしている。やっぱり宗一郎は、凄い。母は微笑みの仮面を被った表情を変えなかったが、父は感心したように少し声の混じった息を吐いた。
「君は息子と同い年かな?すごくしっかりしているね。君のご両親はさぞかし誇らしいだろう。羨ましくなってしまうくらいだ。会えないのが残念だよ」
「あ、ありがとうございます。私は朝陽殿より3つ歳が下の、15歳です」
父が、宗一郎を褒めた。褒めた!?信じられない。俺が最後に褒められたのはいつだったか…。確か完全に今の両親になる3日前くらいだ。そういえば、あの時は父だけでなく母も褒めてくれた。2人で沢山褒めてくれた。まるで、これが最後だとでも言うように。そうか、宗一郎みたいな子が良かったのか。宗一郎の両親が羨ましいだって。分かっていたけれど、俺は父の期待には応えられていなかったらしい。期待されてるかすら、怪しいものだ。
「君を歓迎しよう。こんなにもできた息子ができるなら大歓迎だ」
俺はできた息子ではない、のか。いや、これも分かりきっていたことだ。期待されていない息子はできた息子とはいえないだろう。そもそも、こんな父にどう思われていたってどうでも良いだろう。その筈なのに、少し、ほんの少しだけ、苦しかった。
 その後4人でお茶を飲みながらこれからのことを少し話した。そして市役所に行き、宗一郎の新たな戸籍を作り、宗一郎は晴れて『近藤宗一郎』となった。宗一郎が弟になったことに喜んでいる自分がいることには知らんふりをして、近藤姓になったことが嫌ではないかと小さな声で聞いてみた。
「正直なところ、複雑です。ですが、私が近藤姓を持ったからといって、私が遊馬家の長男、遊馬宗一郎だという事実は変わりませんから。それに、ここは違う世界。偽名と割り切って仕舞えば大丈夫ですよ」
澄ました顔で答える宗一郎の手元を見ると、小さな拳を作って震わせていた。我慢、してるんだ。割り切って仕舞えば大丈夫、ねえ。全然大丈夫じゃないんじゃん。俺を気遣ってそう言ったのだろう。でも、それが宗一郎と俺の間に超えられない一線をつくられた気がして、とても悲しかった。
「さて、時間だから私たちはそろそろ行くよ。宗一郎君、この子をよろしく頼むよ」
頭に小さな重みが加わった。温かい。父の手だった。驚きで声が出ない。宗一郎は何かに気付いたのか、一瞬だけ目を大きく見開いたが、すぐに綺麗な笑みを浮かべなおしていた。
「…はい。1つ、お2人にお願いをしてもよろしいでしょうか?」
父が俺の頭から手を離し、宗一郎に笑いかけた。
「何かな?」
「別日に一度、お2人と私の3人でお話をさせていただけないでしょうか?少しの時間ですので」
「構わないよ。明後日には海外に戻ってしまうから、明日になるかな?百合も良いだろう?」
「ええ、私も明日が良いわ。宗一郎君も構わないかしら?」
「はい。ありがとうございます」
俺が帰ってきてほしいと頼んだ時はあんなにも渋ったのに、宗一郎の時はそんなにもすんなりオーケーを出すのか。これじゃあ本当の親子は…まあ、いいけど。
「朝陽」
「…何」
「お金は振り込んでおく。足りなくなったら連絡しなさい。私をガッカリさせてくれるなよ」
「…」
「『はい』だろう?はぁ、返事もできんのか」
その言葉に返事もせずに黙ったままでいると、父が大きくため息をついた。「もういい。私は行く」
父は早足でこの場を去っていった。母は何か言いたげに俺を見た後、自分の右の手のひらを見つめてため息をつき、父の後を追うように去って行った。なんとなく2人の背中を見えなくなるまで目で追っていた。ふいに袖を引っ張られた。宗一郎だ。
「朝陽、帰りましょう」
「うん、そうだね。帰ろう」
 市役所から家までの中間地点くらいを通過した頃。それまで無言だった宗一郎が口を開いた。
「朝陽。お聞きしたいことがあります。ご両親は昔から今のような様子だったのですか?」
心臓が大きな音を立てた、気がした。昔からじゃない。前の両親と今の両親は真逆だった。
「朝陽、前の両親と今の両親ってどういうことですか?前の両親とはどのような方だったのでしょうか」
声に出ていたらしい。宗一郎が肩を掴んできた。何を慌ててるんだろう。
「俺が6歳ぐらいまでは、そこらにいるような優しい両親だったんだよ。仕事が忙しくてあんまり家にいないのは変わらないけどね。でも今よりは帰ってきていたし、帰ってきた日は沢山遊んでくれたんだ。まあ、遊びに行く約束しても破られることがほとんどだったから、当時の俺はすごい拗ねてたけどね。だけど7歳くらいになった頃かな。段々と2人が変わり始めた。笑いかけてくれなくなった。褒めてくれなくなった。『完璧』を求めるようになった。怒られることが増えた。最初はなんでか分からなくてビクビクしてたけど、頑張って慣れたんだ。せっかく慣れ始めていたのに、8歳の誕生日の日にね家に帰ったら優しい2人がいたんだ。誕生日用のケーキとプレゼントを用意して。久しぶりの優しい両親。嬉しかったよ。そのおかげなのかな、次の日からまた冷たくされたとき、この両親と優しい両親は別人なんだって割り切って考えることができたんだ。あんなに優しい俺の両親が、こんな風に俺に冷たくするはずがないってね」
「朝陽…」
宗一郎の瞳に同情の色が浮かび始めている。あーあ、俺、この瞳嫌いなんだ。中途半端な善意や同情心が、1番面倒くさい。それでいて、1番残酷だ。優しくしてくれて、救ってくれるかもと希望を持たせておいて、中途半端なところで掴んでいる手を振り払って救いの手は離れて行く。結局は最後までは救けてくれない。『人を助けた』自分に満足して、1番救けてほしい時にはその手は伸ばされていない。宗一郎がそんな奴じゃないって知ってる。いや、そう信じてる。だけど宗一郎からそんな言葉を聞いた時には、俺は壊れちまいそうだ。だからまた宗一郎が口を開く前に俺が割り込んだ。
「今ではちゃんと分かってるよ。別人じゃ無いって。あん時もわかってた。でもそうでもしなきゃ、いつかまた優しい両親が帰ってくるって信じてなきゃ、耐えられそうになかったんだよ。今だって…いや、なんでも無い。もうこの話はおしまいな!そういえば!宗一郎の戸籍もできたことだし、学校とか行かなきゃだよな!ちょうど夏休みだし、今のうちに手続きしておく?」
「朝陽」
「ん?何?」
「…いえ、なんでもありません」
宗一郎は心配そうに俺を見つめていたが、すぐに眉を下げて微笑んだ。
「そろそろ、帰りましょうか。お言葉に甘えて学舎の件、お願いしてもよろしいですか?」
「任せとけ!」
「帰ろう」と言ったのは宗一郎なのに、全然動かない。いつ動き出すのかと思って見ているとまた、名前を呼ばれた。
「もー、さっきからなんだよ」
「私は別の世界の者です。以前持っていた地位も権力もコネも、今は何一つ使うことはできません。なので私に出来ることは限りがあります。役に立てぬ時もあるでしょう。ですが、この身がある限り出来ることは少なからずあります」
そんなの分かってる。それで宗一郎が悩んでることも。そして俺に迷惑をかけてる、と思い込んで勝手に申し訳なく思っていることも。俺は、宗一郎と暮らせている今が楽しいのに。俺がそう思っていることに気がついたのか、宗一郎はもじもじとしながら慌てて言葉を繋げた。
「あの、つまり、何が言いたいのかと申しますと…頼って下さい。想いを胸の内に秘めるのではなく、私に話してください。愚痴の捌け口にしていただいても構いません。幸い、私には朝陽のその想いを話す相手はいませんからね。これは同情でも偽善でも正義感でもありません。私の我儘です。貴方をもっと知りたい私の、貴方へ恩返しをしたい私の、自己満足です。貴方が私に頼れと、力になると仰ってくださったように、私も朝陽の力になりたい。だから1人で抱え込まないでくださいませんか?貴方のこと、もっと教えてください」
そういう純粋な善意が嫌なんだ。だって、宗一郎は元の世界を見つけたら、俺の隣からいなくなるじゃないか。宗一郎なんか、嫌いだ。
「ありがとう。善処するよ」
宗一郎を置いて、歩き始める。少しすると後ろから足音がした。その足音を待たずに、それどころか少し歩くペースを早くした。ぼやけた世界と、頬をくすぐりながらまっすぐと滑り落ちるモノは無視した。
 次の日、宗一郎は朝早くから家を出て行った。あいつらに会うために。何か変なことを吹き込まれないといいけど。そんな不安を抱えながらも、俺は今悩んでいる。なぜなら、暇だからだ。宗一郎がいないからやることがない。料理をしようにも朝食後に夕飯どころか明日の昼の分まで作ってしまった。掃除も終わったし、課題だって内容が発表されてからすぐに学校で片付けてしまった。ゲームもテレビも今は気分じゃない。宗一郎が帰れる方法を探そうにも1人だとあまり進まないので却下。宗一郎がいたほうがその時の様子とかを確認しながらできるし。こんな感じで昼食を食べた後はもう暇で暇で仕方がない。どうしようか、と考えながらもゴロゴロしているとスマホから着信音が鳴った。特にかけてきた人が誰かも見ずに電話に出る。
「はい、もしもし?」
『あ、近藤?今暇?』
バイト先の先輩だ。あんまりこの先輩のこと好きじゃないんだよな。最悪だ。遊びの誘いとかだったら正直、だるい。誰も見ていないのに、口の端を上げる。“いつもの”俺が完成だ。
「…塚本さんじゃないっすか!暇ですけど…何かあったんすか?」
『俺これからシフトが入ってるんだけど予定が入っちゃってさ、お前変わってくんね?2時から6時なんだけど』
ナイスタイミング。今は1時20分。時間的にも全然間に合う。行けるな。よし、これで暇じゃなくなる!初めて先輩に感謝した。
「良いっすよ!その代わり〜俺が変わってほしい日ができたら変わってくださいよ〜?」
『その日が空いてたらな!』
先輩が笑いながら言う。普段ならついイラっときてしまうところだが、今日は祝福の鐘の音に聞こえる。何時間でも聞けそうだ。…いや、流石に無理だな。後30分くらいならなんとか聞けるだろう。とりあえず午後の予定は決まった。宗一郎にバイトが入ったことと帰宅時間をメールで伝えて家を出た。ついでに歩きながらシフトが変わったことを、店長に電話で報告をする。担当が変わったことを店長は聞いていなかったらしい。まあ、変わったのはついさっきだったから俺が先か、先輩が先かだったのだろう。電車に乗ったと同時にスマホが震えた。シュウからのメールだった。
『今暇?今みんなと偶然会って、このまま遊ぼうって話になったんだけど、朝陽も遊ばない?颯もいるよ〜親戚の子がまだいるなら一緒に来ても良いし!』
タイミング悪。もっと早く言ってくれれば、そっちに行ったのに。遊びだったら颯との気まずい雰囲気も上手く有耶無耶になったかもしれないのに。もう店長に電話して電車乗っちゃったし、そもそも、引き受けたことを今更やっぱり無理です、だなんて言えないし。
『悪い、これからバイト。もっと早く言ってくれれば良かったのに。そうしたら行けたんだけど』
『いや、流石に無理あるって笑。ついさっき会ったって言ったじゃん。ま〜ドンマイ!バイトがんば〜』
いつも通りだ。俺はシュウとも若干気まずいと感じているのだが、シュウはどうなのだろう。
 バイト中は余計なことを考えないようにいつも以上に働いた。飲食店だからこの時間帯は忙しいし、ちょうど良かった。3時半頃、客足が落ち着いてきて、カウンターで一息ついていた頃だった。
カランカラン
ドアが開いた合図が鳴る。急いで下げていた顔を上げて笑顔を作る。
「いらっしゃいま、せ…!?」
入り口にいる5人組に驚き、思わずマニュアルの言葉が途切れ、固まってしまった。店に入ってきたのはシュウと颯を含めたいつメンのみんなだった。何で、ここに?バイトをしていることは言っていたが、どこで働いているかまでは言っていなかったはず。
「あ、朝陽!えっへへ〜。バイトで遊べないって言うから来ちゃった!びっくりした?」
シュウが笑いながら近づいてくる。悪戯が成功した時の顔だ。いつもならその顔にイラッとしているところだが、今は驚きすぎて気にならなかった。
「ああ、びっくりした…。どうしてここに?俺どこでバイトしてるか言ってなかったよね?」
そう聞くとシュウはニヤニヤしだし、その奥にいる颯が気まずそうに顔を逸らした。あ、何となく分かった。
「実はなんと情報提供者がいまして〜。知ってそうだったから、颯から聞き出した!!」
やっぱり。確かに颯には愚痴を聞いてもらう時に話していた気がする。シュウは人から何かを聞き出すのが上手い。颯はそれに引っかかったのだろう。颯を見つめるとゆっくりと目を合わせてきて、『ごめん』と口を動かし伝えてきたので、『大丈夫』と返す。学校の校則は自由な方なので、バイトは校則的には全く問題ない。ただなんとなく言っていなかっただけなのだ。決していつメン、特にシュウがふざけて俺のバイト先に来そうなのが簡単に想像できて嫌だったからではない。だから別にバレても…平気だった。無理やり動揺を抑え、みんなを席に誘導して注文を聞く。ドリンクバーを頼んできたから、こいつら絶対長居する気だ。厨房に下がって注文されたメニューを伝えていく。ここからは暫く厨房で皿洗いなので少し気が楽だ。
 5時半頃。厨房からホールに変わり、店内を動き回ると案内した覚えがある席から賑やかな声が聞こえた。目を向けると5人組がいる。まだいたのかよ。幸い上がりまであと30分だ。それまで他人のふりをしようと決めて、その席から遠ざかっておいた。夕方頃だからだろうか、客足も増え始めた。ホールの人数も俺を合わせて3人だったのが今では5人に増えている。
ポーン
呼び鈴の音が聞こえた。表示された番号は0。この番号が示すのはレジだ。他のホールのやつを見るとみんな忙しそうだった。つまり手が空いているのは自分だけ。お客様を待たせるわけにはいかないので、大きな声で返事をして急いで向かう。
「お待たせいたしっ…ました」
デジャヴを感じる。目の前にはニヤニヤしたシュウを含めた3人と、苦笑する颯含めた2人がいた。
「お会計、お願いしま〜す!」
しかし俺は動じないぞ。店員スマイルを顔に貼り付ける。5つの吹き出す音が聞こえたが無視だ。決してムカついてなどいない。口の端がヒクつくのもきっと気のせいだ。
「合計11760円になります。…お客様?大丈夫ですか?」
また吹き出す音が聞こえる。もう笑いたきゃ笑うがいい。
「一万、千、七百、六十円に、なります!」
笑顔を深めて、ゆっくり、はっきり伝える。ようやく5人は金を払った。シュウがドアノブに手を掛け、振り返る。
「あ、そういえばさ、朝陽何時までバイトなの?」
「そろそろ終わるけど、何?」
「なにも?ただ、まだ長いんだったら優し〜いオレが差し入れでもしてあげようかなって思っただけ。お疲れ〜じゃね〜」
みんなが店を出て行く。何となくぼーっとみんなが出て行った扉を見つめた。
「近藤君。交代の子が来たから少し早いけど上がって良いよ」
店長にそう言われたので、返事をしてそのまま挨拶をする。スタッフルームで着替えて宗一郎に連絡するとすぐに返信が来た。
『私も先ほど終わりました。今帰宅途中です。』
『今どこにいる?』
『先日行ったかふえを通り過ぎたところです。』
あ、カフェがちゃんと変換できてない。思わずクスッと笑ってしまう。でも、よくよく考えてみるとすごいよな。今までスマホどころか携帯まで使い方を知らなかった宗一郎だけど、今では近所のおばあちゃんよりも使いこなしている。まだカタカナの変換は苦手みたいだけど。…それにしてもこの前のカフェの近くにいる、かぁ。両親と宗一郎は随分と近くで話してたんだな。
『じゃあこの前の公園で合流して一緒に帰ろっか』
『分かりました』
急いで店を出て公園に向かう。外に出た時に一瞬、夏には似合わない寒気を感じたような気がしたが、素通りしてしまった。公園に着くと既に宗一郎がベンチに座っていた。何だか少し表情が暗い気がする。顔色も少し悪いような。
「宗一郎!…なんか暗くない?どうかしたの?」
「朝陽…いえ、何も、ありませんよ。何でも、ないのです。…朝陽、っ、いえ、お疲れ様でした」
宗一郎の言葉がいつもより歯切れ悪い。絶対に何かあった。アイツらに何を言われた?なんで苦しそうに笑うの?なんで、話そうとしてくれない?なんで1人で抱え込もうとする?…なんか、颯の気持ちがわかった気がする。明らかに様子がおかしいのに言ってもらえないって、辛い。苦しい。何もわからず力になれない自分が、もどかしい。多分あの日の俺のように聞き出しても答えてくれないのだろう。ここで問いただすのは得策じゃない。
「…コンビニ、行ってもいい?」
「こんびに、ですか?」
「お店だよ。食べ物とか漫画とか、道具も売ってる。24時間開いてる店のこと」
「この世界にはそのような便利な店があるのですね!」
いつもならそんな宗一郎の反応に笑うところだけど、今は無理だ。だって宗一郎、いつもはそんな驚き方じゃない。笑ってる。驚いてるのは本当だろうけど、いつもなら笑うのではなくテンションが爆上がりするはずなんだ。その後冷静になって自分の状況に気づいて、「取り乱しました」と顔を金魚みたいに真っ赤にするんだ。だからそんな繕うような反応されると余計隠そうとしているのが分かってしまって、辛い。何の反応もない俺に不安に思ったのか、宗一郎が俺の名を呼んだけど、無視した。コンビニに着くとカフェ・オ・レとアイスティーを買い、イートインコーナーで宗一郎と隣同士で座る。アイスティーを差し出すと、宗一郎は大人しく受け取って飲み始めた。辛そうな顔をしている。…そんな顔させたいわけじゃない。あいつらに何か変なことを吹き込まれたんじゃないかという不安と、話してくれないことへの苛立ちを勝手に持っているだけだ。分かってる、これはただの八つ当たりだ。なんとなく顔を上げて外を眺める。向かいの路地裏がやけに気になった。デジャヴを感じる。ああ、そういえば宗一郎を初めて見つけたのはあそこだった。
「ねぇ、宗一郎」
俺がいきなり声をかけたことに驚いたのか、アイスティーを喉の音を立てて飲み、咽せた。
「!は、はい!なんでしょう?」
元気な返事に思わず笑ってしまった。それを見た宗一郎を纏っていた張り詰めた空気が柔らかくなった。怖らがらせていたのかも、申し訳ない。
「宗一郎が倒れていた場所、この近くなんだ。行ってみる?」
むしろ何で今まで行かなかったんだろう。家の周りを探すよりも1番手掛かりがあるかもしれなかったのに。宗一郎の目が大きく見開かれた。本当は何で今まであそこに行かなかったのかなんて、わかってる。でも、それを自覚したくなかった俺は全力で知らんふりをした。
「行きたいです。連れて行ってください!」
宗一郎は噛み付くように、思いっきり顔を近づけて言った。その瞳の奥は期待と不安からかゆらゆらと揺れていた。でもそれと同じくらい、好奇心の光が瞬いている。今までに見たことの無い顔だ。早く、提案してやればよかったな。カフェ・オ・レを急いで飲み終え、コンビニを出る
「朝陽、朝陽!その、私がいた場所はどこなのですか?」
コンビニを出たと同時に、待ちきれずに先に出ていた宗一郎が詰め寄ってくる。心なしか犬の耳と尻尾が見える気がする。
「ん、すぐそこだって。ちゃんと案内するから落ち着きなって。ほら、行くよ」
今の宗一郎は歩きを覚えたばかりの小さな子どもみたいだ。目を離せばすぐにでもどこかに行きそうだった。離れないように宗一郎の手を取り、引っ張りながら案内する。横断歩道を渡って向かいの道を少し歩けばもう着く。路地裏の前に来てみるとコンビニから見た時にも感じたが、やっぱり、前に来た時よりも薄暗い気がする。夕方だからか?
「ここだよ。危ないかもしれないし、一応俺が先に奥の方まで見てくるよ」「そんな!私が行きます!いえ、行かせてください!」
宗一郎が今どんなことを思っているか分かった気がする。『もしかしたら帰れるかもしれない』だ。だって俺もその可能性を考えたから。でも、行かせたくない。もしかしたら何か危ない奴がいるかもしれないし。
「だーめ!俺が行く。宗一郎が『安全に帰るため』だよ」
俺は酷いやつだ。だって『安全に帰るため』と言う言葉を言えば、宗一郎は納得できていなくても、そんな感情は置いておいて頷くことを分かって使ったのだから。視線が突き刺さる。その瞳は澄んでいて酷く冴えていた。
「…そういえば、宗一郎が倒れていた場所はここだよ。道路の方に頭を向けてうつ伏せで倒れていたんだ。もしかしたら何かあるかもしれない。宗一郎はこの辺りを確認しておいてくれる?俺が見ても宗一郎の物かどうか分からないし」
「…分かりました。お気をつけて」
路地裏に足を踏み入れた時、気のせいかもしれない、でも少し空気が変わった気がした。足早に奥の方に向かう。奥には小さな祠があった。中を覗き込んでみると狐の置物がある。宗一郎がここに来たのはやっぱり神様の力とかだったりするのだろうか。あれ?そういえばこんな暗い路地裏の中でどうして祠の中が見えたのだろう。もう一度祠の中を覗き込んでみる。
バチッ
急いで祠から遠ざかる。狐の置物と目が、合った…?気のせいかもしれない。身体中が恐怖で震えていた。とにかく今すぐこの場から離れたくて、急いで宗一郎がいたところに戻った。宗一郎は俺の顔を見るなり勢いよく立ち上がって、俺の頬に片手を当てた。もう片方の手は俺の右手を握っている。夏にこんなことを思うのは変かもしれないけど、宗一郎の手は温かかった。宗一郎の顔を見ると、顔いっぱいに『心配だ』と書かれていた。
「朝陽?何かあったのですか⁉顔が真っ青ですよ?手もとても冷たいですし…」
「宗一郎…。大丈夫だよ。小さな祠があったんだ。ただそれだけ、なんだけど…情けないことに、それを見てちょっと気味悪く思ちゃって、ビビっただけだよ。…それよりもさ!宗一郎は何か見つけた?」
「ええ、見つけたことには見つけましたよ。ですが!その話は後ほどしましょう。何か感じたのなら、その祠には何かあるのかもしれません。もう一度見に行きませんか?勿論、私も共に行きます」
宗一郎にじっと見つめられる。口元には自身ありげな微笑みを浮かべ、瞳は「決して譲りません」と言っていた。意外とこいつは意志が固い、頑固者である。商人だからとかあるのかな
「…はあ。あーもう!仕方ないな。そう言われたら断れないの分かってて言ってるんでしょ」
そう言うと宗一郎は困ったように笑った。
「はい、すみません。ですが先程朝陽も同じようなことを私にしたでしょう?お互い様だですよ」
「バレてたか。宗一郎には敵わないなあ」
「商人を甘く見ないでください、と何度も申したはずなんですがねぇ」
そんなふうに話しながら一緒に奥の方まで戻る。怖いので宗一郎に数歩先に歩いてもらった。年上の威厳?そんなものはもとから無いようなものなので、今更だ。さっき感じたような寒気がないことに安心する。1人だったのがいけなかったのかもしれない。ふと急に宗一郎の足が止まった。
「朝陽、奥には、小さな祠が、あったのですよね?」
確認するようにゆっくりと聞いてくる。
「ん?そう、だけど?もしかして祠じゃなかった?」
ただ単に俺が薄暗い路地裏にビビって見間違えたのか?うわ、何それ、恥ずかしい。宗一郎の顔を見てみると、顔色が少しずつ悪くなっていた。何かあったのかと思い、俺も見てみようとしてみたが、祠らしきものがあった場所は宗一郎が丁度被っていて見えなかった。そこには何があるのだろう。
「宗一郎?何があるの?」
「…です」
「何?聞こえないよ」
「何も、無いのです。朝陽が言っていた祠も、それらしきものも!」
そう言いながら宗一郎は俺に見せるように、前を譲った。確かにそこには何も無かった。建っていたであろう場所に手を添えてみても、足を置いてみても、何も感じなかった。「きつねにつままれる」とはこういうことか、処理の追いつかない頭でそう思った。
「…戻ろっか」
心配そうに俺を見る宗一郎の手を取り、表通り側に戻っていく。2人とも無言だった。
「え、」
表通りがはっきり見えた頃、商店街だろうか、瓦屋根の建物が並ぶ街並みに宗一郎を初めて見た時のような格好の人たちが賑わっているところが見えた気がした。ありえない。この先は車が沢山走り、向かいにはコンビニが見えるはずだ。目を擦りもう一度見ると、いつも通りの見たことのある景色が戻ってきた。疲れているのだろうか。
「朝陽?何かありましたか?」
「へ?ああ、いや、何でもない。そういえばさ、宗一郎が見つけた物って何だったの?」
宗一郎はじっと眉を顰めて俺を見つめた後、ため息を吐いて上着のポケットに手を入れた。
「首飾りとお金を見つけました。これらは…あの日、私が持っていたものです」
そう言って俺の前に両手を出した。両手の皿に乗っていたのは中心に白い勾玉、その両サイドに赤と青の小さな水晶のようなものがあるネックレスと、持ち上げるとジャラジャラと音が鳴る巾着だった。巾着の中からお金と言っていたものを取り出す。それは銅のようなものでできていた。5円玉や50円玉のように円の真ん中に穴が空いていて、そこに紐を通して束にしてある。まるでコインの蛇だ。蛇の頭とお尻の部分には金のコインがある。頭の金のコインの表には『飛竜乗運』、裏には『物吉大社』と言う文字があり、尻の方の金のコインの表には『商売繁盛』、裏には頭のコインと同じで『物吉大社』と書いてある。
「物吉大社…?」
喉に魚の小骨が刺さった時のような引っ掛かりを覚えた。何か聞いたことがある気がする。戸惑っている俺の様子には気が付かずに、宗一郎が口を開いた。
「その金の硬貨はお金ではないのですよ。使えないことはないんですけどね。これは商人が持っていることが多い硬貨でして、商人にとって御守りみたいなものです。神社で神主に文字を彫っていただくのですよ。片方は持っている商人の皆共通して『商売繁盛』、もう一つには家族やお世話になっている人から一人前になった証として、成人の儀で貰うものです」
宗一郎がドヤ顔をしながら解説をしてくれる。普段はあまり見られない、年相応な顔だ。学校の友達がやってきたらイラッとするのに、宗一郎がするとしない。むしろ、安心するというか、嬉しくなるというか。不思議だ。
「へえ!そうなんだ。じゃあ、金のやつに挟まれてる銅っぽいのがお金?」
「そうですよ。『銅銭』というものです。大体の物はその銅銭で買うことができます。少し値を張る物は『銀銭』という銀貨を使います。さらに高い物を買う時は『金銭』という金貨や、『小判』という金でできた平たいお金を使うのです。銅銭や銀銭、金銭は中心に穴が空いているのでばら撒いたり失くしたりしないために紐で纏めておくのが一般的です。盗まれることを警戒して、という理由もありますね。小判や金銭は銅銭や銀銭より大きい上に高価なので持ち歩くことはほとんどないです。持っている人も少ないですしね」
「へぇ、結構この世界のお金と違うんだ。ほら、これ、こっちの世界のお金」
財布から小銭とお札を取り出して宗一郎に見せる。宗一郎はお金を見て目を見開きながら、おそるおそる受け取った。そういえば、いつも一緒に買い物に行ったら会計のときは宗一郎に買った物を袋に入れてもらっていたから、こっちの世界のお金を見たことなかったかもしれない。
「紙もお金となっているのですか!?あまり嵩張らないですし、持ち歩きやすそうですね。硬貨も軽いですね…」
宗一郎の目が輝いている。ぶつぶつと他にも何か言っていたが聞こえなかった。お金の話だし、商人魂が疼くのだろうか。ぶつぶつ言っている間も、宗一郎は銅銭と小銭の重さを何回も比べるように持ち上げていた。確かに宗一郎がさっき言っていた通り、宗一郎の世界のお金はこっちの世界の小銭に比べて重かった。だから小銭の軽さに感動しているのだろう。
「ねね、宗一郎。この首飾りは?」
宗一郎は静かに首飾りを見つめた。その瞳は凪のように穏やかだ。巾着の中に銅銭を入れ、俺に小銭を返した後、首飾りを俺から受け取り胸の前でぎゅっと握って、目を瞑った。
「これも…御守りのようなものです。父上から頂いたのですよ。とても大事なものでしたので、手元に戻ってきて良かったです。安心しました」
ふわりと宗一郎が笑った。笑っているはずなのに、泣いているように見える
のは何故だろう。首飾りを持つ手が少し震えているからだろうか。こっちまで泣きたい気持ちになる
「そっか。良かったね、大事なものが帰ってきて。もしかしたら元の世界に戻る手掛かりにもなるかもしれないし」
「はい!」
宗一郎は本当に嬉しそうに笑った。そうやってしんみりとした空気が流れていた時だった。表通りから来ていた光が遮られて暗くなった。
「へぇ、そういうこと。やっぱり親戚じゃないんじゃん。朝陽の嘘つき〜」
ドックン!と大きく心臓が跳ねた。ずっと警戒していたはずの声。振り向きたくないと言う体に鞭を打って、声の方へと振り向く。
「まあ、しょうがないか。別世界の人だ、なんて説明できないもんね〜多分急に言われたらオレも信じないだろうーし!」
そいつはいつも通りの笑顔を浮かべている。でも、いつも以上に読めない笑顔だ。もう帰ったはずだろう?何で、いるんだ。
「シュウ…」
「やあ、朝陽。さっきぶりだね〜」
「なんで、何でお前いるんだよ。もう帰ったんじゃ、」
「うん?ああ、買い物してたんだ〜。これから帰るつもりだったんだよ?でも朝陽が路地裏で誰かといるのが見えちゃってさ〜」
えへへと笑うシュウ。蛇に睨まれたカエルの気分だ。笑顔で細くなっていた目が開かれた。
「路地裏でコソコソとしているのを見たらさ〜…何してるのかな〜って気になるじゃん?」
口元の笑みは崩さず、でもさっきの明るい声とは打って変わって低い声で、探る瞳を少しも隠さずに俺の顔を覗き込んできた。思わず喉が鳴る。耳元で心臓の音が大きく鳴る。
「ねえ、詳しく話、聞かせてよ」
肩に手を置かれ、耳元で話しかけられる。その口調はいつもの間延びが鳴りを潜めていた。いつもの声色もどこか遠くの方へ旅に出ている。思わず固まってしまう。こいつは、誰だ。
「やあ、久しぶりだねぇ。えーっと、ソーイチロー?だっけ?元気になったぁ?」
そういえばこの前病院で会った時、宗一郎の具合が悪かったから来たって言ったな。
「ま、あれも嘘だったんだろうけど」
ぼそっとシュウが言う。ゾワっと全身に鳥肌が立った。何、こいつ。前々から思っていたけど、怖い。宗一郎はこの状況をまだ飲み込めていないのか、顔中にハテナを浮かべていた。
「は、はい。げ、元気です?ご心配、ありがとうございます」
「そっか!よかったぁ〜」
シュウはニパッと笑った。その作られた幼い笑顔に気付いたのか、それとも何か違和感を持ったのか、宗一郎は俺の顔を見た後読めない笑顔を浮かべた。さすが商人。シュウもそれに気がついたのだろう。人懐っこい笑顔を早々に捨て、綺麗な笑顔を浮かべる。
「で?教えてくれないの?キミ達のヒミツ、知っちゃったよ?」
『もう誤魔化せないよ?』と言外に伝えてくるシュウに、もう逃げることも躱すこともできないと悟った。
「…俺たちが話したとして、お前は話を聞いてどうするの?誰かに話す?」
シュウはきょとんとした後、気まずそうに後頭部に手を当てた。
「え?何もしないけど。朝陽が何か隠してるのがわかって、好奇心から探ってただけだし。だから特に何かしようとは思ってないよ。ホントに!」
一気に肩の力が抜けた。そうだ、そういえばこういう奴だった。普段からよく考えず、好奇心だけで動く。本能で動く人懐っこい野生児みたいなものだ。それが先生たちに良い面でも悪い面でも目をつけられる理由だ。ただ、今のシュウはよく分からない。普段からよく読めないやつだが、今は顔に仮面をつけて、その上から布を被せているみたいに全く読めない。きっとこいつも俺みたいに分厚い仮面があるタイプで、本性は今のような鋭く射抜く目をするやつなんだろう。シュウのこの言葉は、嘘じゃない。勘だから根拠はないけど、そう感じた。
「じゃあ、『宗一郎が元の世界に戻る方法を探すのを手伝って』って言ったら、協力してくれるのか?」
「当たり前じゃん」
「なんで?」
「だって、こんな面白そうなことに協力しない方が損でしょ!」
確かに、この事はシュウの好奇心をめちゃくちゃ刺激するだろう。全身の力が抜ける。何だよ。
「めっちゃ警戒していた俺がバカみたいじゃん…」
もっと早くシュウに話して協力して貰えば良かった。思わず顔が下がる。そうしたら両親の手を借りずに済んだかもしれないのに。額に何かが当たった感覚とパチンという音、そして少しの痛みが来た。顔を上げるとシュウがニヤニヤしている。
「朝陽は正しいと思うよ?異世界から来ました、なんていきなり言われて信じる人はいないって」
「じゃあ何でお前は信じたんだよ」
「『たまたま』聞こえてきた会話で、真面目そうに話していたから?しかも証拠あるしね。流石に俺も屋上で聞いた時に言われたら、『あ、躱された〜』ってなると思うよ?」
そう言ってシュウは宗一郎の手首にかかっている銅銭が入った巾着を見ていた。
「で?教えてくれるってことでオッケー?」
宗一郎と顔を合わせて頷く。仲間が増えるのは宗一郎の事情を隠すためにも、帰る方法を探すためにもありがたいことだ。それにシュウはみんなと違った視点からよくものを見るから、俺たちが気づけなかった物にも気づけるかもしれない。敵にいると1番厄介かもしれない危険人物だが、味方になるとこれ以上ないくらい頼もしい。敵に回す理由も、断る選択肢も無い。だって教えなかったら、敵には回らないだろうがずっと付き纏われ、最終的には
結局情報を奪われるだろう。シュウはそういうやつだ。生憎、そんなことにまで気を回す余裕は、こっちにはない。
「ああ、全部話すよ。俺らにもわかってないことの方が多いから、気になることだらけの話だと思う。だから質問されても答えられることは殆どないと思えよ。本当に情報が無いんだ」
「だろうね。2人の様子見てれば大体察しがつく」
こういう時のシュウの察しの良さには助かる。まだ今は完全に味方とはいえない。この話で完全にこっちに引き込まなければ。誰かに宗一郎のことを話されたら、たまったものじゃない。近くの公園に場所を移し、俺は約2ヶ月前に起こったことをなるべく細かく話した。話していながら思う。多分この2ヶ月間は今までに生きてきた短い人生の中で1番濃い時間を過ごしていた。多分今までの半年、いや1年分くらいの濃さがあっただろう。
「———で、たった今、お前に話を聞かれてバレた。これで話は終わり!質問は?」
「特にないかな。…なるほどね」
シュウはそう言ったっきり黙り込んだ。多分情報を整理しているんだろう。いつも騒がしいやつが静かになると、途端に怖くなるのは何故だろう。やっぱり信じられない、と言われるだろうか。宗一郎も不安そうにシュウを見ている。今にも切れそうな糸がピンッと俺たちの間に張り巡らされた気がした。その全てを握っているのはシュウだ。俺たちは少しの衝撃で切られてしまうかもしれないこの糸を切らさないために、動けない。喋れない。
「ね、ソーイチロー。お金、見せてよ」
「は、はい!どうぞ」
シュウは、渡された巾着袋から銅銭を取り出して、1枚1枚じっくりと見た。そしてスマホで写真を撮り、宗一郎にお金を返した。そして近くのベンチに座り、タブレットを鞄から取り出して高速で指を動かし始めた。宗一郎が少しずつ近づいてきて、小声で話しかけてきた。
「朝陽、朝陽。彼の方は何をしているのでしょう?」
「さあ?俺にもわかんねぇ」
傾き始めていた日が完全に沈み、公園にある人工の灯りが灯った。俺らは丁度灯りが届かない位置にいるため周りは真っ暗だが、ベンチに座っているシュウは明かりで照らされている。まるで名探偵が推理をする時みたいだ。暫くするとシュウは顔を上げた。真顔で俺たちを見ている。作り笑顔とはいえいつも笑っている奴が真顔でいるのは怖い。と思っていたら、急にニコッと微笑んできた。うわっ鳥肌たった。
「うん、話は本当みたいだね。調べてみてもさっきのお金を使っている国や地域はないし、昔でも使われていない。マジの異世界人じゃん。あはっ。面白い。ここまで俺の好奇心を唆るものは初めてだよ!」
シュウは立ち上がって宗一郎の目の前まで来た。
「改めまして。百鬼秀でーす。よろしく〜」
「遊馬宗一郎といいます。今は朝陽の弟、『近藤宗一郎』として生活をしています。よろしくお願いします」
こうして俺たちには恐ろしくも頼もしい、1人の協力者ができた。
「宗一郎、ねぇ。ほんと、珍しい名前だよね〜。偽の戸籍を作るなら名前も変えちゃえばよかったのに」
シュウが俺に小声で言った。
「最初はそうしようと思ったんだよ。…でも、完全に名前が変わっちゃうのは可哀想だろ?」
「ふーん。優しいね?」
「やめろ、気持ち悪い。それから近い。いい加減離れろ」
そう言いながらシュウを突き放す。シュウは「え〜ひどいなぁ」と言いながら笑っている。そういえば、いつのまにか本性は鳴りを潜めている。
「朝陽、秀殿、何かあったのですか?」
「何でもないよ〜!それよりもさぁ、秀『殿』ってやめない?なんか堅っ苦しいからヤダな〜?オレ、宗一郎と仲良くしたいな〜?」
シュウはそう言いながら、宗一郎の元へと駆け寄っていく。
「え!いや、しかし!」
「え〜!オレが『殿』呼びヤダって言ってんだからいーじゃん!」
2人がじゃれあっているところを眺める。宗一郎は仲間が増えたと喜んでいるようだ。でも、俺はシュウを協力者としては認めたが、信用したわけじゃない。話をすんなりと信じて、さらにはすぐに素の口調や態度を出すというのは早すぎる気がする。何か巧んでいるように思えてならない。それに、シュウは「気になるから」という好奇心だけで動く変人だ。他に何か唆られることができて宗一郎のことを話さないといけない、なんてことがあった時、話さない確証なんてない。宗一郎は自分の事情を知る人が増えることに安心しているはずだ。笑顔で過ごしてほしい俺としては、笑顔になる瞬間が増えるのならそれで良いと思っている。だから宗一郎の分まで俺が警戒することにした。俺の方がシュウのことは知っているから、少しは対策もしやすいだろう。俺は何があっても宗一郎を元の世界に帰すと、宗一郎が家に来た日に俺自身に誓った。小さな針が刺さったような痛みが胸に広がったけど、知らんふりをした。
 シュウと別れて俺たちは駅から歩いて家に帰っていた。
「事情を知る人が増えて良かったです。これで朝陽の負担が少しは減りますから」
薄々分かっていたけど、やっぱり宗一郎は俺の負担になっていると感じていたらしい。負担じゃない、もっと頼ってほしい、とずっと態度や言動で伝えていたつもりだったんだけど…ちゃんとストレートに言わないと伝わらないのか…。
「俺、負担に思ったことなんてないよ。むしろ楽しんでるし。一人暮らしの頃より、今の方が充実してる気がするしな!ていうか俺からしたらさ、宗一郎には今よりもっと頼ってほしいって思ってるんだけど?」
宗一郎はきょとんとして俺を見た。
「十分頼ってますよ?」
「もっとだよ!我儘だって言ってほしいし!宗一郎は聞き分けが良すぎだよ!」
「もっと、ですか。朝陽は倒れていた私を救けてくれて、さらにこの世界での居場所も用意してくれて、しかも一緒に帰る方法まで探してくれている。私にはそれだけで感謝の気持ちでいっぱいなのです。これ以上我儘なんて言ってしまったら罰が当たってしまいますよ。それに、私の世界では15歳はもう成人、大人なのです。いつまでも幼子のままではいられませんよ」
宗一郎は聞き分けの悪い子どもを諭すように言った。ここは宗一郎の世界じゃない。だから、この世界ではまだ子供でいいのに。むしろ子どもでいてほしい。もっと我儘、言ってほしいのに。もっと頼ってほしいのに。もっと宗一郎のために何かしてあげたいのに。もっと近づきたいのに、近づこうとしたら宗一郎はどんどん遠くへと遠ざかっていく。こうしていつか宗一郎はいなくなってしまうんだ。そうしたら俺はまたあの家で1人。誰もいない家を想像して寒くなり、思わず足を止めてしまう。
「朝陽?」
何だか最近こんなことが多いな。自分の情けなさに涙が出そうだ。年上の威厳なんてとっくのとうにないって分かっているけど、それでも俺には頼りない年上なりにプライドがある。いつ宗一郎がいなくなるのか分からないんだから、今一緒にいる時間を大切にしよう。
「なんでもないよ」
顔を上げて心配させてしまった宗一郎に微笑む。そうしたら宗一郎も微笑んだ。ふと宗一郎の後ろが目に飛び込んできた。そこには10年前にあった震災が原因で作り直された、とても大きくて綺麗な鳥居がある。その神額には神社名が書かれていた。物吉神社…ん?『物吉』?なんだか聞いたことが…ああ、宗一郎が持っていた金のコインに刻まれてた文字だ。どこか知っている気がしたのは、毎日登校の時やバイトに行く時に視界の隅に入っていたからか。なぜだろう、すごい惹かれる。俺の勘が、「あそこには何かある」って言っている。
「宗一郎。明日、あの神社に行こう。何かある気がする」
気づいたら口から滑り落ちていた。宗一郎は俺の視線を辿って鳥居を見つけると一瞬だけ目を見開いた。
「そうですね、行きましょう」
 次の日。夏休みも残り1週間をきってしまった。昨日は疲れたのでゆっくり起きた…なんていうわけでもなく、宗一郎から神社に行くのは早朝が良いと言われたので昨日は準備してからすぐに寝て、今まで以上に早起きをした。
 朝食を食べ終わった後は、宗一郎の提案で身を清めるために朝風呂に入り、家を出た。お陰で眠すぎて閉じかけていた目もバッチリと覚めた。物吉神社はすぐ近くにあるのですぐに着いた。昨日は暗くてあまり見えなかった鳥居の細かいところも、その奥にある階段やもう一つの鳥居、そしてその奥ににある社まで見える。今まで素通りして来た鳥居だけど、じっくり見てみると何だか神秘的なものを感じてくるから不思議だ。
「ここが物吉大社…」
宗一郎が固い声で呟いた。
「いや、物吉『神社』だよ。まあ、どっちでも…良いのかはわかんないけど。しかもまだここ社より少し遠い入り口の方だよ?どこに緊張するところがあるのさ」
そう言うと宗一郎は眉を下げて笑った。
「すみません。私の世界では、鳥居から神の領域、つまり神域という考え方なのです。一歩先に足を踏み出せば神の住む地に足を踏み入れる。そう思うとどうでしょう?緊張、するでしょう?その上、別世界の神の領域へとお邪魔するなんて…緊張しか感じませんよ」
「宗一郎の世界は信仰心が高いんだなぁ」
「この世界の人々は低いのですか?」
「うーん。人によるけどね。高い人もいるし低い人もいる。全く無い人も。でも、宗一郎ぐらい高い人は珍しいかもね。ちなみに俺はない。あ、でも最近は少し信じ始めてるかな。こんなことが今起きてるし」
「そうなんですね」
宗一郎は不思議そうに言った。一緒に大きな鳥居の前でお辞儀をして鳥居の真ん中ではなく、端っこの方から入り、階段も端の方を登る。宗一郎曰く、「真ん中は神様の通り道」らしい。だから人間は端の方を歩くのだとか。
 階段を上がりきった先にはもう1つ、さっきのものより一回りくらい小さい鳥居が立っていた。その神額に書かれているのは『物吉〇〇』。物吉の後の文字は汚れからか、何か書かれているのは分かっても読むことはできなかった。多分「神社」だと思う。まさか宗一郎の世界と同じ「大社」では無いだろう。宗一郎に倣って一礼して鳥居をくぐる。フワリと金木犀の香りがした。まだ開花時期じゃないはずなのに、何でだろ。金木犀の花があるのかと思って境内を見回していた時だった。社から少し離れた位置にポツンと立っている小さな祠が目に飛び込んできた。
「あれ?あの祠って…」
見覚えがありすぎる。ブワッと足元から寒気が駆け上がった。ほぼ衝動的に祠へと駆け寄り、しゃがみ込んで中までよく見る。すると後ろから宗一郎が小走りで近づいて来た。
「その祠がどうかいたしましたか?」
「俺、この祠知ってる。昨日路地裏で見た祠だ」
「昨日、あの場所で…?何を言っているのです、祠が動くはずがないでしょう。…と言いたいところですが、その顔を見るに冗談とかではなさそうですね。本当ですか?本当にこの祠でしたか?」
「ああ、絶対これだ。中にいる狐まで記憶の中のものと一緒なんだよ。これで違う祠だって言われたら俺、もう自分の目を信じられない」
「それほどですか。…もしかしたら朝陽は此処の神様に招かれていたのかもしれませんね。となると、今日此処に来たことも偶然ではないのかもしれません」
「そんなことある?」
「私の世界では珍しいことではありませんでした。神隠しや、お告げ等はよくありましたので。私は今の所ありませんが、今この世界にいることこそが神様から与えられた何かだと思うのです。と、いうことで。此処の神様に挨拶をしましょう!」
宗一郎は勢いよく立ち上がって手を引いて俺を立ち上がらせた後、社の方へと俺の背中を押した。お賽銭を入れて2礼2拍手1礼をする。その時隣から3回柏手の音が聞こえた。思わず神様への挨拶を途中に、宗一郎に話しかけた。
「この世界は2礼2拍手1礼が一般的なんだけど、宗一郎の世界の参拝方法はどうなの?」
宗一郎は俺の言葉を無視して祈り続け、少しすると合わせていた手を解き顔を上げた。
「私の世界では3拝3拍手1拝をします。私の世界では3柱の神様がいると考えられています。その3柱の神様一人一人へと礼をするのです。2礼ということは、この世界は2柱なのでしょうか?」
「さあ?そこまでは知らないけど…そうだ、今日はこの後歴史資料館に行こうよ。そうしたらこの世界の昔のこともわかるし、もしかしたら昔にも違う世界から来た人がいるって話があるかもしれないし!」
「そうですね。私もこの世界のこと、知りたいです」
「じゃあ、決まりな!」
次に行く場所が決まったところで改めて手を合わせ、途中だった神様への挨拶をする。ついでに願い事も。
“宗一郎が無事に元の世界に帰れますように”
合わせていた手を離す。よし、これで、大丈夫。宗一郎は元の世界に帰れる。家族に、会える。これで良いはずなのに、胸が痛んだ気がした。その後、俺達はこの後の予定を立てながらお揃いの御守りを買って、境内を出た。
 「嘘、でしょう…」
宗一郎の驚きを含んだ声が静かな資料館に響き渡る。俺達は今歴史資料館にいる。神社から一度家に帰ったのは良いものの、お昼を食べるにはまだ早い時間だったから、お昼を食べる前に何か1つのコーナーを見てからお昼を食べることになった。そこで選んだのが2ヶ月ごとにテーマが変わるコーナーだ。ちなみに今のテーマは丁度宗教や神社についてだった。そこでは俺が住んでいる国は何を信仰しているのかを書かれた資料があった。資料といっても神話だったのだけれど。まだ宗一郎は完全には文字が読めないので、俺が読み上げた。そこの資料に出て来た3人の神様の名前を聞いた途端に宗一郎は目を見開き、零れ出た言葉が先ほどの言葉だ。
「この神様達の名前、知ってるの?」
宗一郎は勢いよく俺の方に顔を向けた。
「知っているも何も、私が先ほど話した3人の神様ですよ!!」
小さい声で叫ぶという器用なことをした後、すぐに考え込んでいるのか、顔が下がった宗一郎に思わず苦笑する。
「何故、異なる世界に同じ名前の神が…?そもそも同じ名の神社があることも…。もしかして、私の世界は…」
ハッと宗一郎が顔を上げた。
「何か分かったの?」
「恐らく。昼餉の際に話しますね。今はもう少しだけ、此処の資料を見させて下さい」
その真剣な顔されたら今話せ、なんて言えないか。しょうがないなぁ。思わず笑みがこぼれ落ちる。宗一郎の邪魔しないよう、好奇心が湧き上がって今にも溢れそうな気持ちにそっと蓋をした。
 それから俺達はそのコーナーに1時間くらいいた。まだあまりお腹も空いていなかったのでそのまま違うコーナーも見ることになった。そして結局お昼を食べず最後まで資料館にいた。約6時間半程、長い専門的な言葉や難しい漢字やらをずっと読み上げるのは流石に疲れたし、何よりお腹すいた。だけど宗一郎はそんなことないらしく、すごい集中力でいろんな資料を見ている。そう、“見ている”。俺が読み上げた内容を途中から何処からか取り出した小さなノートにメモをとり始め、後からそのメモと睨めっこしているのだ。時折俺が読み上げた資料や展示されている物とメモを交互に見ている。好きなだけそうさせてあげたいけど、今の時間は16時。朝ごはんを食べたのは朝の4時半頃。もう12時間もご飯を食べていない。流石にお腹の限界だ。
「宗一郎。集中してるとこ悪いんだけどさ、そろそろ行かない?ご飯食べようよ。俺、もうお腹空きすぎて倒れそう。限界」
腕を上げ、腕時計を指差しながら言う。宗一郎は俺の言葉を聞いて、パチッパチッと瞬きをした。漫画だったら周りに星が出てきていただろう。そしてまだ意識がこっちに戻って来ていないのか、ぼんやりとしている瞳でじいっと俺を見つめ、腕時計に視線を移した。段々と俺の言葉の意味を飲み込めて来たのだろう。段々と瞳に光が宿り、宗一郎は肩を飛び上がらせて腰を90度くらいに折った。
「!もうこんな時間でしたか!すみません、夢中になってしまって…」
そんな宗一郎に笑いそうになったのを堪えて、お辞儀をやめさせる。
「朝陽、ありがとうございました。おかげでたくさん見ることができて、満足しました。」
そう言う宗一郎の瞳は「まだ此処にいたい」と俺に訴えかけている。ほんと、宗一郎はなかなかわがままを言ってくれないよなあ。まあ、態度に出てくるようになっただけでも良くなった方か。
「いいよ。満足できたならよかった。俺もなかなか来ない場所だったから来られてよかったよ。まだ見足りないなら明日もここに来る?」
そう提案すると、宗一郎の目が輝き出した。
「いいのですか?」
「言ったでしょ?もっと我儘言ってほしいって」
「ありがとうございます!本当はもう少しだけ、見たかったのです」
宗一郎は恥ずかしそうに顔を赤くしながらも、力の抜けたような笑みを浮かべた。
 夕方。家に帰って昼食兼夕食を食べた。その時に宗一郎が思いついたことについて聞けた。
「私は別の世界から来たのではないのかもしれません」
「…え?どうゆうこと?」
宗一郎は口に出す言葉を選んでいるのか、口をもごもごと動かした。俺は静かに次の言葉を待つ。
「私は異なる世界ではなく、異なる時代からきたのではないかと考えたのです。この世界には同じ名を持つ神様や神社が存在します。そして先程いた資料館でも幾つか私の世界にあった物、もしくは似たものがあったのです」
なるほど、確かにこの前食べた宗一郎が作った料理の中に、俺の世界にあるものがあった。偶然だと言われてしまえばその通りかもしれない。だけど納得できる答えだ。
「ちょっと待ってて」
俺は自分の部屋に戻って歴史の教科書を持ってきた。俺の記憶の中には宗一郎が着ていた服を着ていた人が生活している時代なんてない。初めて見た服だった。でも年号とかが判れば昔の人だと言う証明ができる。ふと思う。もし、本当に宗一郎が昔の人だったら、そうしたら本当の歴史がわかるんだ。新しい発見になる。少しワクワクし始めている自分に苦笑しながらリビングへと戻る。
「宗一郎の世界には年号ってある?」
「ありますよ。※※です」
年号の部分だけノイズがかかったように聞こえない。
「ごめん、もう一回」
「※※です」
やっぱり、年号の部分だけ声が聞こえない。
「宗一郎。年号を言っているときだけ、お前の声が聞こえない。ちゃんと、言ってる?」
「ええ。言っていますよ。※※!※※!…どうですか!?」
大声で言ったんだろう。少し声が枯れてる。でも、やっぱり
「分からない。聞こえないよ…」
「そんな!」
「俺がこの教科書に載っている元号を言っていくから、もしあったら言って?」
「分かりました」
新しい順にどんどん読み上げていく。ついに1番最後まで言う。その間宗一郎は一度も声を上げなかった。
「どうだった?」
宗一郎は項垂れながら首を横に振った。
「じゃ、じゃあ、西暦は?今この世界は、1701年だよ。宗一郎は?」
俺の言葉に宗一郎は呆然とした。宗一郎の世界の西暦を言おうとしたのか口を開いたが、声が出てこない。まるで、言葉にすることを戸惑っているようだった。
「私の世界は、、、1732年です」
「え?じゃ、じゃあ、宗一郎の世界はこの世界の未来ってこと?」
「それはあり得ません!このような素晴らしい技術があったならば記録に残っているはずです。しかし私の世界にはそれらしき跡も、本も、ありません。それに100年以上ならまだしも、たったの31年で私の世界のような状態になるとは思えない。…やはり異なる世界のようですね」
「結構良い線を行っていると思ったのですが…」と宗一郎が項垂れる。
「どんまい。まあ、とりあえず学校に行き始めたらシュウにも相談してみるよ」
事情を知る仲間になったとはいえ、あまりシュウを宗一郎に会わせたくない。
「はい、よろしくお願いします」
この後はお風呂に入って夜更かしすることもなく、すぐに寝た。
 夢を見た。そこは俺の住んでいる街とは違ってビルのような高い建物はなく、老舗の店のような木製の低い建物がずらっと立ち並んでいた。この場所…路地裏から一瞬だけ見えた景色に似ている気がする。周りにいる人々もこの前見えた人たちと同じような服装だ。このままだと自分の格好が浮いてしまいそうだ、と自分の格好を見ると、俺も周りの人たちと同じような格好をしていた。
「まいどっ!」
その声に振り向くと、買い物をしていると思われる女性が店員であろう人に何かを渡していた。チャリンと音がしたから多分お金だろう。街をよく見ながら奥の方へと歩いていく。賑やかな街並みを少し抜け、山が見えてきた時だった。
「おーい!そこの兄ちゃん!物吉様のところに行くのかい?そんなら1つ頼まれてくれないか?」
顎髭がよく似合う30代後半〜40代くらいの超明るくて元気なおじさんがいた。簪を沢山並べているから、簪屋さんなんだろう。
「え、俺?」
「おうよ!」
俺で合っていたらしい。しかし物吉様って誰だろう。適当に歩いていただけなんだけど。
「えっと…物吉様って誰、ですか?」
「あんれぇ。知らんでここにいるのかい?さては兄ちゃん、他所から来たな?それにその口調、いいとこの坊ちゃんだろう!んで、その口調に慣れてないところをみるにイタズラ坊主か!」
「あはは。まあ、そんなところ、です」
いや、良いとこの坊ちゃんではないけど。おじさんのノリにのせられて敬語が外れそうなだけだから、イタズラ坊主ってわけでもないし。「そうかいそうかい!まあ、楽な口調でいてくれや!」と明るく笑い飛ばしているこの人は、おじさんっていうよりおっさんって呼ぶ方がが似合ってる気がする。おっさんは笑いながらも『物吉様』について説明してくれた。
「あの山の山頂には物吉大社があってな、物吉様っつう神様がいるんでさぁ。幸福の神様って有名でな、他所の領からも人が来るくらいすげぇ神様なんだよ!てっきり兄ちゃんも物吉大社に行こうとしてたんじゃないのかと思っていたんだが…もしかしてなんも知らんできたのかい?」
『物吉大社』?物吉大社って、宗一郎の世界の…。もしかしてここは宗一郎の世界?気がついたところが物吉大社の近くだったのは昨日物吉神社に行ったから、その神様が宗一郎の世界を夢に出してくれたとか?とりあえず、行くべき場所は決まった。
「おっさん。その、物吉大社ってどうやって行けばいい?」
「このまま真っ直ぐいきゃあ、森の入り口に鳥居がある。山全体が物吉様の神域っつうことだな!そいで、そのまま山を登って山頂に行けば着くんだよ。沢山の人が登っとる山だから、歩きやすくなってるところがあるはずだ。そこを歩いていけばいい。楽に行けるだろうよ。くれぐれも物吉様の失礼になることはするなよ」
「分かった。おっさん、ありがとな!…そういえば頼み事って?」
「おお、そうだった!物吉大社の神主様に頼まれごとをされていてな。それが終わったから届けに行こうと思っていたんだが、腰を痛めちまってよ。だから神主様に代わりに届けて欲しいんだ。頼まれてくれないか?」
そう言っておっさんは奥の方から風呂敷に包まれた物を「これなんだけどよ」と言って俺へと差し出した。
「おっさんには物吉様について教えて貰ったしな、頼まれやるよ!」
そう言って風呂敷を受け取る。
「お、兄ちゃん随分親切じゃねえか!恩に着るぜ!」
とりあえずこの夢が終わる前に早く行かないと。届け物もしないといけないし。届け物を落とさないように小走りで山まで向かった。
 山の入り口の鳥居についた。すごく、大きい。神額には『物吉大社』と書いてある。宗一郎にあの日習ったように鳥居の前で一度一礼をしてから中に入る。目の前には沢山の人が通ったことによって踏み固められたんだろう、少し歩きやすそうになっている場所があった。これがあのおっさんが言っていた「歩きやすいところ」だろう。そういえば山登りなんていつぶりだろう。中学校の修学旅行以来か。でもこんながっつりではなかった気がする。もしかしたらしっかりとした山登りは初めてかもしれない。夢だから疲れないとかいう特典ないかな。登る前から山頂に辿り着けるか少し不安になった。
 1時間くらい歩いた気がする。夢だから疲れなかった…なんて事はなく、慣れない服、そして靴だか下駄だか…みたいなもののせいで、余計に登りづらい。この下駄のような靴は平べったくて衝撃をあんまり吸収してくれないから、地面の感触が直に来る。それだけでも疲れるってのに、吸収されない衝撃が疲れを上乗せさせてくる。今まで履いていた靴の凄さを知った気がする。靴が恋しい。それにこの服だって。薄い割には汗を吸収した後すぐ乾かないから、気持ち悪い。速乾性って大事。こんなにリアルな夢じゃなくてよかったんだけど。心の中で文句を言いながら登っていると、前から人が来た。宗一郎と同い年か、それよりも年下くらいの男の子だった。この世界の人は年齢不詳すぎて分からない。
「こんにちは。物吉大社ですか?」
話しかけてきた。ちょうど良い。こっちも聞きたいことがあった。
「はい。1つ聞きたいんですけど、山頂までまだ距離ありますか?」
そう言うとその男の子はクスクスと笑った。なんかこの笑顔宗一郎に似ている気がする。
「もう少しですよ。初めてきた方ですか?随分と疲れているようですね。帰りは楽ですから、辛いのは後少しですよ。頑張ってください。…あの、僕からも一つお伺いしてもよろしいですか?」
「良いですよ」
「遊馬宗一郎という名前の者を知りませんか?」
心臓がジャンプした気がした。ここはどう返すべきだろう。この世界にはいないことを俺は知っている。どこにいるのかも知っている。言ってもいいかなと少し揺らいだけど、いくら夢の中とはいえ、本当のことは言ってはいけない気がした。
「…聞いたことないな」
「ありがとうございます。突然すみません」
「その人、どうかしたんですか?」
「兄、なんです…実は何日も前から行方不明なのです。突然消えてしまったて…。物怪の仕業かと思い、退魔師や陰陽師、神主様にも見て貰ったのですが、どうやら物怪の仕業ではないらしく…。しかし人ならざる者の力の気配はするから、もしかしたら何処かに飛ばされたのかもしれない、と言われたのです。ですので他所の方には見かけたら聞くようにしているのですよ」
なんとなくそんな気がしていたけど、やっぱり宗一郎の弟だったのか。宗一郎の弟…確か宗治郎と伊玖磨、だったか。宗一郎と年齢近そうだし、多分宗治郎、かな。
「何でよそ者だとわかったの?」
宗一郎の弟だと分かって気が緩んだのか、敬語が旅に出た。まずかったりするかな、と宗治郎(仮)の様子を見てみると気にしていなさそうだった。
「この土地に住んでいるものは皆、この山を登り慣れていますからね。慣れていなさそうな方は大体病み上がりの方か、他所の方なのですよ。それに、明らかに見たことのない顔でしたし」
「なるほどね。…君のお兄さんが君たちのもとに無事帰ってくるといいね。もしかしたら家に帰ったらいるんじゃないかな…なんてね」
俺、最低だな。何が『無事帰ってくるといいね』だよ。何が『帰ったらいるかも』だよ。帰る方法まだわかっていないくせに。せめて宗一郎が無事なことを教えてあげればいいのに。それでも宗治郎(仮)は嬉しそうに、柔らかい笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます。実は僕もそのうちひょっこり帰ってくるのでは、と思っているのですよ。不思議なことに、行方不明になった数日後くらいに兄が夢に出てきて、『絶対に帰ってくる』と言っていたんですよ。しかもその夢、家族皆見たのですよ。これは信じるしかないでしょう?心配ではありますが、絶対に兄は帰ってくると信じているので、不安はないのです」
嘘だ。不安じゃないならどうしてそんなに拳に力を込めてるんだよ。それに目の下も、隠しているのかもしれないけど、うっすらとクマがある。多分宗一郎が心配で眠れていないのだろう。こうやって辛い時も笑うところ、宗一郎にそっくりだ。でも分かるよ。そう信じていないと、辛くて、悲しくて、寂しいんだよな。
「そっか。…教えてくれてありがとう。俺、もうそろそろ行くよ」
「はい。長々と話してしまってすみません」
「いや、いい休憩になったよ」
宗治郎(仮)と別れて静かな山に1人になった。大きく息を吸う。神様が住んでいる山だからか、それとも山の中だからか、空気がすごく澄んでいる、気がする。そういえば町の方も空気がすごく軽かったような…。俺の住んでる世界の空気が汚いからかもしれない。山頂まであと少しか。よし、頑張ろう。途中に丁度いい木の棒を見つけたので杖代わりにしながら、どうにか山頂付近の鳥居に辿り着いた。俺の世界にある、物吉の後に何が書かれていたかわからなかった神額の鳥居とよく似ている。まあこっちの方が新しい感じするけど。神額には先ほどの鳥居と同じく『物吉大社』と書いてある。あの読めない部分には『大社』って書いてあったのかな。何となく鳥居の柱に、杖代わりにしていた木の棒で星マークを書いていた。何で、と聞かれたら分からない、と答えるだろう。本当に何となく、というより気づいたら書いていたんだ。罰当たりなことを、と宗一郎がいたら怒るのだろう。ごめんなさいの意も込めたお辞儀して鳥居をくぐる。そして近くにあった手水舎で手を洗うと、手のひらに痛みを感じた。見てみるとそこには切り傷があった。多分さっき星を書いたときに切ってしまったんだろう。境内は山頂だから狭いと予想していたんだけど、中は意外と広かった。社の方に目を向けると神主であろう人が掃除をしていた。あ、届け物。
「こんにちは。ここの神主さんでしょうか?」
声をかけるとその人は掃除していた手を止め、顔を上げた。
「はい、そうですよ。何か御用ですか?」
「これ、届け物です」
風呂敷を見て分かったのか顔を上下に動かした。
「ああ、よかった。そろそろ必要になる頃なので取りに行こうとしていたのですよ。わざわざありがとうございます」
「いえ、ここに来るついでだったんで、気にしないでください。では。」
そう言って神主から離れて境内を歩く。社の横の直線上に祠があった。もしかして。獲物を狙う肉食動物のようにゆっくりと静かに祠に近づく。
「やっぱり」
記憶にあるものよりも一回りか二回りほど大きいが、路地裏や物吉神社で見た祠と同じものだった。宗一郎の世界にあるのはおかしい。だって俺たちは別の世界の住人のはずで、タイムトラベルではないはずだ。そこまで考えて、ふと思う。これは夢だからでは、と。夢ならば、あってもおかしくない。社の方へと戻る。あれ、社は俺の世界のものと大分違う。俺の世界のは他の神社と同じような社なのに、この世界のものは社の柱の金具や所々の装飾、屋根が金色で、木の部分が白い。雰囲気に当てられたのかもしれないけど、神秘的に感じるというか、すごい力を感じる気がする。お金は持っていないので賽銭箱には何も入れられないけど、とりあえず本坪鈴を鳴らし、宗一郎に言われた三礼三拍手一礼をする。一礼を終え頭を上げたとき、ふわりと風が頬を撫でた。閉じていた目蓋を開くと、俺は目を覚ました。
 見慣れた天井だ。時計を見るとまだ4時半だった。でも昨日も同じ時間に起きたおかげか、それとも昨日の夜早く寝たおかげか全く眠くない。今日はゆっくり起きる予定だったんだけどなあ。起きてしまったものはしょうがない。朝ごはんの準備をしよう。タオルケットを退かすと手のひらに痛みを感じた。見るとそこには見覚えのある切り傷があった。夢の中で作ったはずの切り傷だ。何で?夢だったはずなのに…。もしかして、あれは夢じゃなくて現実?いや、もしかしたら、たまたま寝ている間に同じところを引っ掻いて傷ができたのかもしれない。そう、偶然夢と同じところに傷が…。少し無理があったが、強引に自分を納得させた。
 宗一郎は6時頃に起きてきた。随分早起きだなと思っていたら、先に起きて朝食を作ろうとしていたらしい。でも俺が先に起きていた上に朝食を作り終えていたから不満そうにしていた。ゆっくりご飯を食べて着替え、掃除や洗濯も終わらせて。もう何もすることがなくなると、宗一郎がソワソワとし始めた。早く資料館に行きたいんだろう。笑ったら拗ねてしまうかもしれないから頑張って堪える。
「もうすることも無くなったし、資料館、行こっか」
笑いをどうにか治めて言うと宗一郎は「はい!」と年相応の良い笑顔で元気よく返事をした。治めていた笑いがまた爆発しそうになった。
「ああ、そうだ。資料館に行く前にもう一回物吉神社に行きたいんだけど、良いかな?」
宗一郎は不思議そうな顔をしながらも頷いてくれた。
 物吉神社に着いた。少し長い階段を登りながら考える。宗一郎の世界と比べると、この神社は山頂にはないけど、高い位置にある。それに昔はここの土地も山だったらしい。近くの山の噴火やら、土砂崩れやら、いろんな自然現象と人の手によって平らな土地になった。それも踏まえて考えると、この神社も山頂にあったのかもしれない。
「あれ?朝陽、見てください。昨日このような痕ありましたっけ?」
いつの間にか着いていたらしい。宗一郎が見つめているのは鳥居の柱だ。嫌な予感がする。宗一郎が指差す先を見る。そこには所々線が塞がっているが、星型のマークがあった。昨日はなかった。間違いない。俺が夢でつけたものだ。じゃあこの手のひらの傷も、寝ているときに偶然ついた傷じゃなくて、あっちで着いたものということか。俺は本当に本物の宗一郎の世界に行ったのか。何で宗一郎じゃなくて俺?社で神様に挨拶しながらも、俺の頭はそのことでいっぱいだった。
 物吉神社に行ったあとは歴史資料館だ。昨日は興味がなさすぎてただ読み上げるだけだったけど、今日は俺も言葉をちゃんと読み込み、頭の中のメモに書き込んだ。資料たちを見て、宗一郎がこの世界をあの世界の未来だと思うのも仕方がないと思った。資料の昔の町の様子は俺が見てきたあの世界を少し発展させたらこうなるだろう、と思えるようなものだった。残っている物だって何となくあの世界にあった物の面影がある。それに、俺が傷を付けた鳥居。あの鳥居は綺麗だったのに、この世界の傷がついていた鳥居は古くて色も褪せ、ほぼ木の色だった。それに俺が付けたであろう傷も消えかかっていた。今より昔の時代だったと言われれば全て納得できること。でも実際は、宗一郎の元号もなければ西暦だって俺の時代よりも少し未来。何か関わりがあると、共通点があると分かったのに、スタート地点から何も進んでいない。それがとてももどかしい。昨日以上に必死に俺の言葉を聞く宗一郎は、俺よりももっとこの気持ちを抱えているんだろう。
 「何も、分かりませんでした」
資料館を出てから一度も口を開かなかった宗一郎が家に足を踏み入れた瞬間に玄関で崩れ落ち、身体中から絞り出してようやく出したような声で、とても苦しそうに言った。元気を出してもらいたいと思ったとき、思い出したのは夢で会った宗治郎(仮)だった。
「…俺さ、夢見たんだ。多分、宗一郎の世界の。物吉大社に行ったんだよ。物吉大社に行くときにさ、宗一郎の弟に会ったんだよ。多分宗治郎、クンだと思う」
宗一郎が顔を上げて俺の顔を見つめる。相当悔しかったのだろう、宗一郎は涙目だった。しゃがんで宗一郎と目の高さを合わせて夢の内容を話した。ちゃんと本当のことだという証拠として神社の柱の星型の傷のことや、手のひらの傷のことも話した。
「絶対に帰ってくるって信じてるんだってさ。消えた数日後に宗一郎が『絶対帰ってくる』って言う夢を家族全員が見たんだって。だから心配はしてるけど不安には思っていないって。夢の中の話だけど妙に現実感があったんだ。だから宗一郎の家族は本当にそう思ってるんじゃないかな。だからそんなに焦らないでさ、大きな怪我なく確実に帰れる道を探そうよ。急いだせいで何かを見落としても仕方がないしね。」
宗一郎の瞳がきらりと瞬いた。その口元には笑みが浮かんでいる。
「それはきっと宗治郎ですね。そう、ですか…。私の言葉はちゃんと皆に届いていたのですね。よかった、ほんとうに、よかった…。確かに、私は少し焦りすぎていたようですね。ですが信じてくれているのなら、なおさら早く帰らねば、と思ってしまうのです。しかし、そうですね、もう少し慎重に動いてみます。朝陽、ありがとうございます」
焦らず、は難しそうだ。でも宗一郎らしいなとも思う。
 次の日。学校開始まで残り3日。宗一郎は俺の母校であり、今俺が通っている高校に近い中学校になった。俺の高校は長期休みが長い。だから中学校はもう始まっているはず。夏休み明けに合わせて通わせてあげたかったが、まあバタバタしていたし仕方がないだろう。早速電話をすると無事入学させてもらえることになり、手続きのために3日後に中学校に行くことになった。そこで問題になるのが「どこから来たか」だ。入学時期に合わせられればよかったけれど、あいにく入学式は半年ほど前だ。この時期の入学となると転校しかない。そこで「隣の県から引っ越してきた源宗一郎、15歳。両親が亡くなったため、遠縁の親戚である源家に引き取られた」という設定にした。隣の県なら方言というものがないから宗一郎の話し方でも違和感はないし、こんな感じの事情があれば教員から質問されたときに説明が楽だろう。それに宗一郎が「遊馬」と名字を書き間違えても大丈夫だ。遠縁であれば俺たちが全く似ていないことに違和感を持たせないし、俺が宗一郎について答えられないことがあったら言い訳にも使える。過去が重くなってしまった気がするけど、宗一郎が大人びている理由に多分使えるだろう。
 3日が経ち、中学校に行った。久しぶりに会う先生もいて懐かしくなる。必要な書類を書いたり、買うべきものの説明や買うことができる場所を教えてもらう。俺の使っていた制服を使ってもらおうと思っていたのだけれど、宗一郎の身長では俺の制服は大きかったのだ。その時のショックを受けた宗一郎の顔は少し面白かった。これで宗一郎は来週からこの中学校に通うことが正式に決まった。残り半年ほどしか過ごせる時間はないが、宗一郎には学校生活を楽しんで欲しいな。その半年の間にいなくなってしまうかもしれないけど。懐かしい先生たちと少し世間話で颯のことを話しているときにふと思った。誰にも宗一郎のことを話すつもりがなかったからこそした、いつか話すという約束を思い出したのだ。やばい。シュウに話してしまった。いや、シュウに話したことは何も問題ない。颯より先に話したことが問題なのだ。バレたら、今までで1番怒るかもしれない。それのせいで仲違いとか笑えない。困る。おせっかい焼きでたまにウザい時もあるが、大事な幼馴染だ。気をつけるべきことが増えてしまったことに気づき、明日から学校が始まるという残酷な事実に俺の胃が悲鳴をあげた。
 今日から学校が始まる。行きたくない。そう思ってなかなかベッドから出ないでいると、部屋のドアがノックされた。宗一郎が起こしに来たのだ。それも無視する。今日は体調が悪いことにして休んでしまおう、そう思ってタオルケットを頭までかぶっていりとバン!という音の後に足音が聞こえた。体を石にする。足音が近づいてくる。勢いのある風と共に少しの涼しさがくる。
「朝陽!今日は学校に行く日なのでしょう!早く起きてください!学校に遅れてしまいますよ!朝餉もお弁当もせっかく作ったのに冷めてしまいます…」
最初の方は大きな声だったのに、どんどん萎んでいく。流石に年下に起こされて、しかもご飯もお弁当も作ってもらってしまっては起きないわけにはいかない。悲しませてしまうのはもっての外だ。のそのそと起き上がる。
「おはよう、宗一郎。ご飯とお弁当作ってくれたの?ありがとう」
ご飯を食べて急いで家を出る。宗一郎がご飯とお弁当の用意をしてくれたおかげで、いつもより少し遅く起きたのにいつも通りどころか10分くらい早く家を出られた。ご飯はすごく美味しかった。この前よりも好きな味だった気がする。宗一郎の前にあったものをこっそり摘んでみたら薄味だったので、多分俺用と宗一郎用をそれぞれ用意したのだろう。宗一郎はやっぱりすごい。いつもより早く家を出られたからか、颯に会わずに学校に着いた。そのことにほっとしながら教室に入る。いつもはクラスメイトで賑わう教室も10分早いと数人しかいない。クラスメイトに挨拶をし、最後にもうすでにいたシュウに挨拶をする。
「おはよう〜いつもより早いねぇ」
「まあな」
人数が少ない今こそが、宗一郎関係のことを話すチャンスだろう。シュウの前の席に座る。
「なあ、相談、っていうか聞きたいことがある」
「え〜、オレに真面目な話ぃ?めっずらしいじゃん。なぁに?」
「宗一郎の世界についてだ」
顔を寄せ、声を潜めて言う。俺の言葉を聞いた瞬間にシュウの目が鋭くなった。一瞬ビビってしまったが仕方ないだろう。この世界と宗一郎の世界の共通点とおかしな点を伝え、タイムトラベルかと思ったがそうではないらしいことも話した。その間シュウはずっと顎に手をやり考え込んでいた。
「…なあ、シュウはどう思う。本当に全くこの世界と関係ない世界だと思うか?」
「なんとも言えない、かな。全く関係ない世界って言うには共通点がありすぎる。でも、タイムトラベルだとしたら矛盾点も多い。…ああ、でも1つ、可能性があるものがある。ただこれは漫画とかアニメ、SF小説でしか聞いたことない」
「今起きてること自体が漫画っぽいだろ。言えよ」
シュウが鼻で笑った。
「漫画って!そうだね、違いない。…『パラレルワールド』だよ」
「ぱられる…何だって?」
「パラレルワールドだよ。知らない?言い換えると『並行世界』。世界においてある時点から分岐し、分岐前の世界と並行に連なる世界のこと。異世界や別次元とは違って同じ次元にある世界」
「知らねぇな。ある時点?同じ次元?…お前の説明、難しすぎ。もっと簡単に説明して」
すると「タイムトラベルは知っててパラレルワールドは知らないとか、マジかよ…」とシュウがため息を吐いた。知らなくて悪かったな。タイムトラベルはそれを題材にしたドラマが有名になったから知ってるけど、パラレルワールドの方は無いから知らないんだよ。アニメも高校生になってから見ていないし。
「しょうがない。理解力が無い朝陽クンのために、優しいオレがもっと優しい説明をしてやろう!例えば上にある蛍光灯が今、落ちてきたとする。そしたら俺と朝陽は大怪我するだろ?そうしたら入院だ。それが今のこの世界。ただ、もし俺たちが落ちそうになっている蛍光灯に気がついてこの場から離れた場合、大怪我をすることはない。そして、大怪我をしないから入院することなくいつも通りの日常を過ごすだろう。これがこの世界とは違う、宗一郎の世界。蛍光灯が落ちた瞬間が『ある時点』。その後の結末が分岐した世界。過去は同じなのに、ある時点から未来が違うんだよ。簡単に言うと『もしも』の世界だ。つまり異世界とは違う。どっちかと言うとタイムトラベルと似た感じ?ほら、過去は同じだし」
「なるほど…?」
分かったような分からないような…。まあ、なんとなくだけど、わかった気がする。
「なんの話だ?」
急に俺とシュウ以外の声が聞こえた。声の聞こえた方を向く。そこには颯がいた。時計を見ると、俺が教室に入った時から10分が経っていた。
「お、おはよう、颯」
「ああ、朝陽おはよう。今日は早かったんだな。秀もおはよう」
「うん、おはよう〜」
「で、なんの話だ?秀と朝陽が朝から話しているなんて珍しい」
「ん〜?パラレルワールドの説明をしてただけだよ〜。ねー聞いてよぉ!朝陽ってばタイムトラベルはわかるのに、パラレルワールドのことは知らなかったんだって〜!」
シュウが馬鹿にしたように、颯は哀れそうに俺を見る。
「んだよ。高校生になってからテレビ見てねぇんだから仕方ねぇだろ」
「中学の時は流行りのアニメとかは俺が教えてたけど、今は教えてないしな。まさかテレビを見なくなっているとは…また教えてやろうか?」
颯が笑いながら言ってくる。絶対俺の反応を見て遊んでいる顔だ。確かに中学の時は颯の教えのおかげで友達と話せたのもある。でも今は自分でバイト先の話とかで話題を作れるようになったから、必要ないと思っていたのだ。
「いい。余計なお世話」
「にしても、なんでそんな話してたんだ?」
「あーそれね〜そういっ、いった!!!!!」
『宗一郎』と言おうとしている気配を察知し、急いで秀の背中を押した。その衝撃で机に顔をぶつけた音が聞こえたけど、そんな気がしただけだから気にしない。
「バイトの先輩とそんな話になってさ!カッコつけて知ってるふりしたんだけど、分かんなかったからシュウに聞いたんだよ。な!シュウ!!」
急いで言葉を繋ぐ。そして混乱しているところを利用して、シュウを頷かせた。
「へ?うん」
納得したのかどうかはよくわからないが、颯は「そうか」と言うと自分の席に戻った。
「何すんのさ!顔、ちょー痛いんだけど!」
ぐいっと袖を引かれ、シュウに先程の行動を訴えられる。
「それはごめん。…颯は宗一郎のこと何も知らないんだよ。颯の前では話さないでくれ」
そう言うとシュウは3回ほど瞬きをした。
「は?え、話してないの?」
シュウの問いかけに頷く。3秒くらい静かな時間が流れ、シュウが吹き出した。
「マジ?朝陽のことだから絶対颯に話してると思ってた…俺に話しておいて颯に話していないなんて…あっははは!颯、カワイソー!ああ、いいね!こういうの!面白い、面白いよ!颯がこのことを知ったらどうなるんだろうね?知った時の反応が楽しみだよ!」
シュウが椅子をガタンッと音を立てて立ち上がった。その顔には狂気を孕んだ笑顔が浮かんでいる。俺は努めて冷静に、小声で呟いた。
「颯には今まで散々世話になったんだ。危険かもしれないのに、こんな何もわかっていないことに颯を巻き込めるわけがない。だから絶対に話すなよ」
もっと他にも理由はある。けど、これも本心だ。俺の言葉を聞いてシュウは興醒めだ、とでも言うように俺をみた後、つまらなそうな顔をして椅子に座り直した。
「はいはい。分かったよ」
シュウの言葉を聞いて俺も自分の席に向かう。それにしてもパラレルワールドか…。多分1番答えに近い気がする。宗一郎にいい報告ができるな。今日は始業式なので授業はなし。あと2時間もすれば帰れる。早く帰りたくて仕方がない。ホームルームが始まるまであと10分。俺は机の上に腕を組んでその上に頭を乗せ、10分間の昼寝を始めた。だから気がつかなかったんだ。
「なあ、秀。聞きたいことがある」
颯が俺が席についたと同時に立ち上がり、シュウの元に行っていたなんて。
 「ただいま…」
「お帰りなさい。朝陽大丈夫ですか?とても疲れているように見えますが」
あれから時間が過ぎるのがとても遅かった。早く帰って宗一郎に伝えたい。その思いが秒針が進むごとに大きくなり、もう家に着いた時には疲れ果てていた。でももう家に着いた。ようやく伝えることができる!
「よしっ!うん、もう大丈夫!宗一郎に伝えたいことがあるんだ!シュウに言ってみたら、もしかしたら宗一郎の世界は『パラレルワールド』かもしれないって!」
俺の勢いに押されたのか、宗一郎はフリーズしていた。そしてようやく俺の言ったことを飲み込めたのかゆっくりと起動し始める。
「ぱられるわぁるど、ですか?わぁるど、とは『世界』という意味でしたね。朝陽、『ぱられる』の意味は何ですか?ぱられるわーるどとはどのようなものなのでしょう」
「もう英語覚えたの?すごいね」
「数学や国語は簡単に理解できましたし、社会や理科もとても興味深かったものですからすぐに終わってしまって…なので英語に手を出してみたのです。私の世界の外ツ国の言葉と似ているように感じます。こちらも大変興味深いものですね」
宗一郎の学習意欲が凄すぎて怖い。数学なんて少しチャレンジってことで俺が高校1年の時のものも置いておいてみたのに。それも終わったのか。優秀過ぎる。
「パラレルってのは『平行』という意味。つまりパラレルワールドっていうのは、」
「平行世界…」
「そゆこと。シュウが言うには…」
そして俺はシュウから聞いた話をそのまま話した。
「成程…」
宗一郎はあの説明でも分かったらしい。やっぱりすごいな。
 「行ってきます!!」
宗一郎と俺の声が揃う。9月も中盤に入ってきて猛暑は終わり、過ごしやすい気温になってきた。今日は宗一郎が中学校に通い始める日。今日からは途中までは一緒に行くことができる。少しワクワクとしながら家を出る。でもそのワクワクはすぐに萎んだ。マンションのエントランスをちょうど出た時、後ろから俺を呼ぶ声が聞こえた。一気に心臓が全力疾走を始めた。何とか笑顔を浮かべて挨拶をする。
「おはよう。颯」
「ああ、おはよう」
そう返すと颯の視線はすぐに宗一郎の方へと向いた。
「ところで…その子は?」
宗一郎の設定はもうできている。今は聞かれても大丈夫だ。俺は笑って堂々と言った。
「こいつは宗一郎。遠い親戚の子でな。両親が亡くなったらしくてな。いろいろあってうちに来たんだよ。今は俺の弟なんだ!」
そう言うと宗一郎が一歩前に出てお辞儀をした。
「あ…近藤、宗一郎と申します。お見知り置きくださると幸いです」
「随分大人っぽいな。俺は京極颯だ。よろしく。朝陽のこと、頼む」
「はい。頼まれました」
「俺の方が年上なんだけど。頼むな!そして頼まれるな!」
宗一郎と颯がじっと俺を見つめてくる。そして2人は顔を見合わせ、ふっと笑った。
「そうですね、すみません」
「よかったな、朝陽。兄か弟が欲しいって言っていただろ。夢、叶ったじゃないか」
「誤魔化したな。ていうか、それいつの話だよ」
「小さな頃だよ。朝陽、『隠し事』はこの子か?」
『隠し事』。多分いつか話すと言ったことだろう。
「そう。本当にうちで引き取るか分からなかったから言わなかったんだ」
「…そうか」
颯は読めない顔でそう言った。まあまあ掠っているから、嘘ではない。でもこれで本当のことは余計に言い辛くなったな。元々言うつもり無かったけど。心の中で小さく「ごめん」と颯に謝った。暫く3人で並んで歩く。久しぶりに颯と気まずくならずに歩けた気がする。宗一郎効果だろう
「宗一郎、学校、ついて行こうか?」
「いえ、大丈夫です」
「授業日初日から学校をサボるつもりか」
俺の問いかけに宗一郎と颯の声が被る。いや、でも1人で行かせるの心配だし、何かあったら大変だし…と粘ってみる。すると颯と宗一郎が同時に動き出した。
「颯殿」
「ああ。宗一郎君、俺のことは朝陽のように気軽に呼んでもらって構わない」
「では颯さんとお呼びしますね」
何か会話をしながら颯が俺の後ろに回り込み腕をしっかりと掴んだ。前には宗一郎がいて、良い笑顔を浮かべながら仁王立ちをしている。
「朝陽、学ぶことは大事なことなのです。貴方自身の目に見えない財産になりますからね。一つ一つが意味のないことに思えたとしても、いずれ役に立つ時があるはずです。故に学業を怠るなど言語道断。さあ、朝陽?沢山学んできてくださいね!」
「颯さん。朝陽をお願いします。では、行って参ります」
「ああ、任せろ」
なぜこの2人はさっき会ったばかりのはずなのに、こんなにも息ぴったりなのだろう。颯の答えを聞いた宗一郎は俺たちに一礼して、学校の方面へと消えていく。慌てて小さくなっていく宗一郎の背中に向かって声をかける。
「宗一郎!行ってらっしゃい!」
聞こえたのか宗一郎は一度立ち止まり、手を振ってくれた。宗一郎が消えても見ていたら颯に脇腹を突かれた。
「ほら、朝陽、俺たちも行くぞ」
「…うん」
俺は颯に引きずられながらそう言った。年下に説教されるなんて…俺、かっこわるい。
 午後7時。もう帰ってきても良い時間なのに、宗一郎が帰ってこない。帰宅部の俺の方が早く帰ってくることは予想していたから、別に家に宗一郎がいなくても驚かなかった。しかしこの時間になってくると、流石に心配になってくる。友達ができて話が盛り上がっているのだろうか。それにしても部活に入っていない宗一郎が帰ってこない時間にしては遅すぎる。もしかして道に迷ってる?いや、記憶力のいい宗一郎が覚えられないはずがない。迷っていないとは思うが、一応心配なので迎えに行くことにした。生温い風に心地よさを感じながら、中学校の通学路を辿っていく。見つけた。宗一郎は通学路の脇にある公園のベンチにスマホを握りしめて座っていた。公園に入り、俯いている宗一郎に話しかける。
「宗一郎!そんなところで何してんだ?1人?友達とかは?ほら、1人なら帰るぞ」
「朝陽…」
宗一郎はゆっくりと顔を上げ、俺を見た。酷く顔色が悪い。
「何かあった?学校で何かされたの?」
そう問いかけると宗一郎は肩をびくつかせた。そしてそれを誤魔化す様に力のない笑みを浮かべた。
「学校はとても楽しかったです。良い人ばかりでした。何もないですよ。少し疲れてしまっただけです。朝陽が心配するようなことはけしてないです」
嘘だ。絶対何かあった。それが分かっているのに俺は何も言えなかった。必死で隠してるのが分かったからだ。それこそ俺が颯に宗一郎のことを隠している時みたいに。俺たちは一言も話すことなく帰った。今まで宗一郎と過ごしていて無言の時間というものはあったが、こんなにも居心地の悪い無言は初めてだった。俺は無理やり聞き出さなかったことを数週間後に後悔するとは知らずに、呑気に寝たのだった。
 2週間後。宗一郎は学校で俺は高校設立記念日のため休みだった日。家でテレビを見ていた時、着信音が聞こえた。どうせバイト先の人か学校のやつだろうと思い、誰からか確認せずに電話に出た。
「もしもーし」
『なんだ、その腑抜けた声は』
その呆れた様な声に急いで姿勢を正し、テレビを消した。耳をスマホから離して誰からの電話かを確認する。スマホ画面に表示されたのは「父親」。画面の向こう側からため息を吐く音が聞こえる。思わず体がびくついてしまった。まずい、説教が長くなる。
『まあいい。この前日本で滞在した際に使用したホテルに間違えて私の荷物を送ってしまってね。今週の土曜日の午後1時頃に着くらしい。だから受け取っておいてくれ。軽いものだから1人で行きなさい。余計に人数がいては他のお客様の邪魔になる』
今日は機嫌がいいらしい。怒られもせず、しかも俺に頼み事をした。その声も口調もいつもより優しい感じがする。
「分かった」
『ありがとう。頼んだぞ』
その言葉と共に電話が切られる。
「え?」
父が、お礼を言った?「頼んだ」って、言った。俺に。電話越しにいる父の顔は穏やかに微笑んでいるのでは、と思えるほどに優しい声で。昔の大好きだった父さんが頭に蘇り、さっきの父の声と重なる。あれは、父さんだ。じわじわと目が熱くなる。
「ただいま戻りました」
宗一郎の声にその熱は一気に冷めた。父さんだ?何でそう思ったのかと混乱する。
「おかえり、宗一郎。あ。あのさ、明後日一緒に…」
そこまで言って言葉が途切れる。父は軽いものだから1人で来なさいと言っていた。宗一郎は荷物をリビングの隅に置いて俺の方を見た。
「なんでしょう?」
「明後日の昼頃に行かなきゃいけない場所ができたから、お昼は先に食べてて欲しい。それか少し遅い昼ごはんにしよう。どっちがいい?」
そう言うと宗一郎は少し考え込み俺に背を向けた。
「…その日は少し遅く起きて朝餉と昼餉を同じ時間に食べるのはどうでしょう。そうだ、ご飯の前に少し周りを歩きませんか?」
宗一郎が人の顔を見ないで話すなんて珍しい。なんだか少し様子がおかしい気がする。公園で見た宗一郎が何故か脳裏にチラついた。
「いいね、そうしよう」
そこで着替えが終わったのか、宗一郎はこちらに振り向きながら返事をした。
 土曜日。約束した通り、俺たちは遅い時間に起きて外に出た。いつもよりゆっくりマンションの周辺を歩いていたら最終的に物吉神社にたどり着き、社の縁側に並んで座った。
「いきなりどうしたの?この周辺を歩きたいなんて。何か気になることでもあった?」
「いえ?ただ、こんな日もあっていいのでは、と思ったのです。以前歩いた時は何か手掛かりがないか、ということに頭がいっぱいでこの街をしっかりと見ていなかったなと思いまして」
そう答える宗一郎に笑いが溢れる。
「何それ。いつでも見れるんだから、わざわざ今日じゃなくてもいいのに。学校の登下校の途中でもできるでしょう?まぁ、楽しいし、別にいいんだけどさ」
宗一郎が俺を見つめる。その瞳は俺に何かを伝えようとしているが、残念ながら俺には受け取ることができなかった。それが分かったのか宗一郎は目の力を緩めると困ったように笑った。
「今日がよかったのですよ。どうしても」
「えー?なんで?」
「ふふ、内緒です」
「…宗一郎?」
なんでだろう、宗一郎が泣いている気がした。こんなにも優しく微笑んでいるのに。
「何でしょう?」
「ううん、何でもない」
「そうですか。…そろそろ帰りましょうか」
「そうだね」
俺は星型の傷がついている鳥居に向かうと、いつのまにか宗一郎が横にいないことに気がついた。後ろを振り向くと宗一郎は何かを手に持って社の前に突っ立っていた。
「宗一郎?」
宗一郎は何かから目線を上げ、俺を見た。その口元には綺麗な笑みが浮かんでいる。
「朝陽。私、貴方にお手紙を書いたのです。必ず、明日読んでくださいね」
手紙だったらしい。便箋には『源朝陽様へ』と書かれている。お手本のように綺麗な字だ。いきなり手紙なんて、どうしたんだろう。
「分かった。…今じゃダメなの?」
「だめです。明日にしてください」
このやり取りは家に着くまで続いた。結局手紙は宗一郎が言う通りに、見ることなく自分の部屋の机の上に置くことにした。
 お昼を食べて家を出る。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
早く帰りたくて走って駅まで行ったおかげか、昨日調べていた電車の一本前に乗れた。あの父親は微妙に遠いホテルをとっていたらしい。走っても駅から20分もかかってしまった。フロントで荷物を受け取る。荷物は小さく、大きなカバンで来たがもう少し小さくてもよかったみたいだ。受け取った報告を父にしてホテルを出て、電車に乗った。1号車の1番ドアに寄りかかる。俺が電車に乗る時はいつもここだ。端の方だからか、いつも人が少ない。それがお気に入りの理由の一つである。
「朝陽?」
家の最寄り駅の1つ前の駅に停車したとき、外の景色を見ていると誰かに声をかけられた。颯だ。この間宗一郎の存在が知られたから、もう気まずくはない。
「颯じゃん。やっほー」
そのまま颯は俺の正面まできた。そのまま少し世間話をする。
「あ、そういえば」
電車がまた動き出したところで颯がおもむろに持っていた鞄を漁った。出てきた手は小さな紙袋を持っていた。
「はい、これ。誕生日おめでとう」
「へ?」
「今日は朝陽の誕生日だろう?」
スマホを取り出し日付を見る。確かに俺の誕生日の日だ。いろいろと忙しくてここ数日カレンダーを見ることがなかったから気が付かなかった。
「あり、がと」
恐る恐る手を伸ばし、プレゼントを受け取る。中を見てみると定期ケースが入っていた。俺の定期入れがボロボロなの知ってたのか、と少しびっくりする。早速貰った定期入れにカードを移す。そうしている間に駅に着いたので、一緒に降りた。
「なあ、朝陽?」
話がちょうど途切れたとき、颯に名前を呼ばれた。
「んー?」
「宗一郎君の帰る方法は見つかったのか?」
「それがさー全く見つからなく…て…え?はやて、なんで…」
自然に言われ過ぎて気が付かなかった。違和感がなさすぎたんだ。颯は宗一郎が違う世界の人だと知らないはず。今から誤魔化せるだろうか。颯は黙って俺を見ている。
「なに、言ってるんだよ。帰る方法?はは、何それ、あいつの帰る家は俺ん家だろ?おかしなこと言うなよ〜」
颯が俺を射抜くように見ながら、ゆっくり口を開いた。
「俺に嘘、ついたんだな」
肩が震える。流石に誤魔化されてくれなかったか。
「何で、」
知ってるの。そう言ったら嘘をついていたことを認めてしまう。颯は俺が言いたいことを察したのか、口を開く。
「秀に聞いたんだ」
シュウが?やっぱりあいつは信用ならない奴だったんだ!あいつにだけは知られちゃだめだった!
「勘違いしているようだが…俺が聞き出したんだよ。最初聞いた時は教えてくれなかった。自分でお前に聞けってな。約束だから話せないって。俺が宗一郎君のことを知った時に秀と話して聞いたんだ。宗一郎君がこの世界の人じゃないと知ったのもたまたま」
シュウが言わなかった?じゃあ、颯が知ったのは俺のミス、か…。シュウはちゃんと約束守ってくれていたんだな。信用していなかったことを申し訳なく思った。これはもう、言い訳はできない。
「ごめん。信じてもらえないと思ったんだ。この話は突拍子がなさすぎるから」
「つまり、俺は信用してもらえなかったってことか?秀は信用できて、俺はできないと?」
その声は何も載せない、『無』だった。直感的に悟る。これは、まずい。
「違う!絶対シュウよりも颯の方が信用してる!シュウにバレたのは想定外だったんだ!もう誤魔化せなかった。だから、」
「話した?」
颯に遮られ、言葉が詰まる。
「それなら、知られたときに話してくれればよかったんだ。お前は俺への嘘だけは下手だ。嘘か本当かなんて、お前の顔を見ればすぐにわかる。それに、前に言ったはずだ。俺はどんな時でも求められたら全力で手を貸すって。俺はずっと待ってるから、1人で全て背負う前に頼ってくれって。…今じゃないのか?お前の様子を見るに、秀に知られるのは嫌だったんだろう?宗一郎君の帰る方法もわかっていないんだろう?言ってくれれば俺は手を貸したさ。絶対な。お前は俺を信頼してないって分かった。…少しも役に立たないかもしれない。それでも、話して欲しかった。お前に、頼って欲しかったよ」
颯が俺の横を通り過ぎる。止めなきゃ、そう思って手を伸ばすも颯の手を掴むことはなかった。俺が躊躇したからだ。颯に最低なことをした俺が、引き止めていいのか?止めて何を言う?「助けてください」って?きっと甘えてたんだ。颯は俺が何をしても笑って許してくれるって。でもその身勝手な思い込みが颯を傷つけた。今更気づいたってもう遅い。でも、せめて謝りたい。そう思って追いかけようとするも、足は道に貼り付いていて動かすことができなかった。
「ごめん。…ごめん、」
もう遠くなった颯の背中に向かって、小さな声で言った。
 颯がだいぶ見えなくなってから、俺はやっと動けた。結局俺は、颯に謝って拒絶されることが怖かったんだ。俺は自分のことしか考えられない、最低なやつなんだ。自己嫌悪でどうにかなりそうになりながら、家まで帰った。ドアを開ける。
パァン!
クラッカーの音が家に鳴り響いた。
「え、なに?」
俺は次に聞こえた声にビックリした。その声は宗一郎ではなく、
「誕生日おめでとう、朝陽!!」
「は?なんで…」
煙を吐いているクラッカーを手に持ち、優しい笑顔を浮かべる両親だった。もう今日は何が何だかわからない。
「父、さん?母、さん?」
「なあに?」
これは現実か?もしかしてショックを受けすぎて、こんな夢を見ているのか?そうだ、これは夢だ。だって、だって両親が俺に向かってこんなにも優しく笑って、温かい瞳で見るわけがないんだから。2人は俺に近づき、抱きしめた。
「19歳、おめでとう。大好きだよ」
やめてくれ。今の俺にその優しさは、辛い。いつもみたいに冷たい方がいい。何でこんな時に限ってそんなことを…。息が詰まり、目が熱くなる。
「どうしたの、朝陽?大丈夫?どこか痛いの?」
俺の涙を母さんが掬ってくれる。
「ううん。なんでもない。なんでもないよ」
父さんと母さんに腕を回し、精一杯力を込めた。すると両親も抱きしめ返してくれる。ああ、なんて幸せな夢なんだろう。優しい温かさに包まれ、俺の意識は闇へと溶けていった。
 食器が洗われる音と、誰かに頭を撫でられる感覚で意識が覚醒した。
「おはよう。夜なんだけどね。お父さんが夕飯を作ってくれたけど、食べる?それとも先にお風呂に入る?」
その声を聞きながら時計を見る。時計は8時ちょうどだった。夜ということは日は跨いでないんだろう。何でこいつが家にいる?もしかしてさっきのは夢じゃなくて、現実?「すごい寝癖」と笑いながら俺の頭に伸ばす手を弾いた。
「朝陽?」
「何で、あんたら家にいるんだよ。海外にいたんじゃなかったのかよ」
「仕事が落ち着いたから帰ってきたんだ」
そう言いながら父がこっちに来た。
「この前帰ってきたばっかりじゃんか!」
「今度はこっちで仕事ができるようになったのよ。これからはちゃんと家族みんなで暮らせるの」
母が嬉しそうに笑う。小さい頃に見ていた優しい母さんの顔がチラつく。何だよ、今更。きもちわるい。その態度も、その口調も。
「いまさら、家族面かよ。今までずっとほったらかしにしていたくせに。この家に1人、置いていったくせに!これのどこが家族だって?今の俺の家族は宗一郎だけだ!」
そこまで言って気づく。そういえば宗一郎は?急いでソファから立ち上がり、まず宗一郎の部屋へと急いで向かった。その際後ろで父が俺を呼ぶ声が聞こえたが無視した。その後家中の部屋を探した。どこの部屋にもいない。妙な焦りだけが募っていく。最後に俺の部屋をのぞいた。そこにも宗一郎はいなかった。そこで机の上にある便箋が目が入った。宗一郎には明日になるまで見るなと言っていたけど、別にいいだろう。ごめん、宗一郎。約束破るわ。心の中で謝りながら便箋から手紙を取り出した。
『前略源朝陽様
 朝陽と過ごした日々はとても楽しかったです。今までありがとうございました。いきなりのことですし、聞きたいこともあるでしょう。私も伝えたいことがあります。実際に会って話をしましょう。確か明日は三連休ということで休日ですよね。明日の午前十一時に朝陽がスマホをくださったカフェにてお待ちしております。』
どういうことだ。宗一郎がこの家からいなくなる、ということか?何で?
「朝陽、ごめんなさい」
後ろから母の声が聞こえる。涙声だ。足音が二つあったから父もいるのだろう。何に対しての謝罪なんだろう。もしかして今宗一郎がこの家のどこにもいないのは、こいつらのせいか。
「言い訳にしかならないかもしれないけど、私たちは、」
「今、そんなのを聞いてる場合じゃないんだよ。あんたら、宗一郎をどこにやった」
母の言葉を遮り聞く。母が何を言おうとしたかなんて、大体想像がつく。答えろ、という意味も込めて両親を見る。父は拳を握り、何かを耐えているような顔をしていた。母は口元に手をやり、泣いていた。何であんたが泣いてるんだよ。自業自得だろ。父がそんな母の背中を摩り、俺の目をまっすぐと見た。
「私たちは何もしていないよ」
父が答える。私たち『は』ねぇ。
「じゃあ、誰が、どこに連れていったか、は知ってるんだ」
両親の肩が震えた。もう、我慢できない。父の胸ぐらを掴む。
「知ってるんだろ!?教えろよ!!宗一郎は今、どこにいる!誰が宗一郎を連れていった!」
「…宗一郎君は明月のものに連れて行かれた。今は明月家にいるはずだ」
明月…?もしかして明月財閥の“明月”か?そんな、まさかな。
「何で?」
2人とも黙ってしまった。それがさらに俺を苛立たせる。
「答えろ!!」
「…本家なんだ。私たちは本家には逆らえない」
「どうゆうこと?」
両親によると「近藤」というのは母方の名字らしく、父の名字は「明月」で、家の慣わしが嫌で家を出てきたらしい。暫くは静かに過ごせていた2人だったけれど、俺が生まれたことでその静かな暮らしは終わりを告げた。俺が男だったからだ。明月家は嫡男が家を継ぐという古い考えを持っていて、本家の方では男児が生まれなかったらしい。つまり、跡継ぎがいないということ。女児はいたから婿養子を迎えればいいだけの話なのに、養子を取るという話で決まってしまい、明月はまず分家から血眼になって探した。両親は跡取りの男児がいないことは知らなかったものの、考え方は理解していたので必死に俺を隠した。でも財閥の情報網には敵わなかった。何処から知ったのか、両親を拉致して俺を引き渡すように命令されたらしい。逆らったら何をされるかわからない。警察にいっても明月財閥の権力により握り潰される可能性の方が高い。そこで両親は源家を明月の分家とし、俺を優秀な跡継ぎとして育てることを提案した。それに当主は了承し、契約を交わした。契約の主な内容は3つ。1つ、俺が優秀に育っているということがわかるよう、証拠を定期的に送ること。2つ、俺が20歳になったら当主にするため、どのような事情があろうと速やかに明月に引き渡すこと。3つ、俺を育てる際に自分たちが両親だと教えないこと。そして、当主とその妻が俺の両親だと教えること。それは「源朝陽が明月家の養子であり、両親はあくまで教育係である」ということを忘れるな、という当主からの遠回しなメッセージだった。両親は我が子と一緒にいられるのなら、と最初はその条件を呑むつもりだったらしい。だから契約もできたし、無事家に帰ることができた。でも俺が初めて母を「まま」と呼んだ時、母は否定しようとしてできなかった。この子は自分がお腹を痛めて産んだ子なのに、自分が本当の母親なのに、と。それから両親は明月家に抵抗することを決意した。本家にはいつも通り成長の様子の報告をし、その裏で“普通”の家族として過ごした。それが崩れたのは俺が7歳になった時。そう、両親の様子が変わっていった時だ。俺が誕生日だった日に両親は当主に呼び出された。たまたま、明月の者が俺が両親を「ぱぱ」「まま」と呼んで一緒に買い物をしているところを見かけたらしい。それを知った当主が激怒して呼び出したのだ。施設に預けろと命令を出したが両親が必死に謝り、俺が20歳になるまでは教育係でいさせて欲しいと頼み込んだらしい。当主は最後のチャンスを与え、もう一度俺を育てることを許可した。「冷たく接し、厳しく躾けるように」という条件が追加で。しかも監視もついている。当主は両親が冷たく接し、厳しく育てることで冷静かつ冷徹な判断もできるようになるということと、後から当主たちが優しくすることで手懐けよう、という考えがあったらしい。監視がついてしまえば今までのように過ごすことができない。でもそれしか一緒にいる方法がないのだ、仕方がない。そう自身に言い聞かせ、両親はその条件に頷いた。いきなり冷たく、そして厳しくするのは無理だと判断した両親は少しずつ俺から距離を取ることにした。少しでも両親の報告と監視の報告に違いがあれば給料が減ったり、クレジットカードが一定期間使えなくなる等の嫌がらせが起きたらしい。そして俺が7歳の誕生日。せめて誕生日くらいはちゃんと祝いたいと思った両親は、監視の人と取引をした。大金を払い、1日だけ監視の人に監視をしないよう頼んだのだ。そして2人は『両親』として一日中俺の誕生日を祝い、次の日からは『教育係』に戻った。しかし3日後に当主に呼び出されてしまう。監視の人が裏切ったのだ。その理由は「面白そうだから」。監視役はお金を受け取り、取引をしておいて、面白そうだからという個人的な理由だけで当主に告げ口をしたのだ。その結果、父は単身赴任が多い会社に異動になり、やがて海外の方の会社の社長の地位を当主に押し付けられた。母は世界各地を飛び回る会社の社長の秘書の任を任された。他の人から見たら大出世だろう。喜ばしいことだと、誰もが羨むかもしれない。だけど両親にとっては枷が増えただけだった。仕事が増え、父には秘書、母には社長という明月の人間による監視者がいる。家に帰れば俺に会えはするが、家には盗聴器があり息子を甘やかすことはできない。常に監視されている状況と、俺に嫌われていくことは両親の精神を少しずつ、でも確実にすり減らしていた。俺が13歳の年。限界を感じてきていた2人はあることを決意した。俺にできる限りの全てを注ぎ込んで、少しでも高学歴を残しどこでも就職できるようにしよう、ということだった。「優秀に」ということは明月の目的と似ているかもしれないが、両親にとっては全く違うものだった。2人は俺が20歳になった時明月に俺を渡さないことを決意したからだ。この高学歴は俺が社会に出た時の就職に困らないため、だけでなく完全に1人でもちゃんと生きていけるようにするためだった。この時2人は俺が20歳になった時に自分たちがいることを視野に入れていなかった。そうして準備を進め、整ってきていて俺が18歳になった時。転機が訪れた。宗一郎がうちに来て、近藤の養子になった。そこで父が話を切った。俺が目で続きを促すと、父はため息を吐き、また口を開いた。
「私たちが死なずに朝陽とちゃんと『家族』として暮らせる、1つの方法に思い至った」
なんか、嫌な予感がする。
「…その方法は?」
「宗一郎君を代わりに明月へと送り込む、だ」
父は顔色を少しも変えずに言った。
「幸い、顔合わせのときに少しはどんな子かを知ることができた。明月が望むような優秀な子だった。だからいけると思ったんだ。初めて会った日のうちに当主と会い、宗一郎君のことを話して、宗一郎君でもいいのではと提案したんだ。だが当主になるために教育をされていると思っている本家は、朝陽を変わらずに求めた。だから次の日に宗一郎君と話した時に事情を簡単に説明して当主に合わせ、約1時間ほど当主と2人きりで話をしてもらったんだ。当主は満足そうに部屋から出てきたよ。そして私を見るなり『次の跡継ぎは彼で良い』と言ったんだ。でも私は宗一郎君に身代わりにさせようとしていることは話していなかったから、宗一郎君にカフェで改めて事情を話した。そして約2週間前、明月の方から連絡が入った。今日の午後1時に宗一郎君を引き渡すよう命令が来た。朝陽の件で私たちのところに置くのは信用ならなかったのかもしれないね」
「何だよ、それ。宗一郎が、俺の身代わりだと!?ふざけんな!あいつには…!」
帰る場所があるのに!そう続けようとしたが、声には出さなかった。両親は宗一郎のことを知らない。だからこそ、こんなことが起こったのだろう。だからといって、もし過去に戻れたとしても俺は絶対に両親には話さないだろう。知る人は少ないほうがいいのだから。ただ行き場のない言葉に余計苛立つ。
「もういい!」
離すタイミングを失っていた胸ぐらを父を突き飛ばしながら離し、自分の部屋に駆け込んだ。ああ、くそ。最悪な誕生日だ。


「身勝手な願いだと分かっている。でも、これ以外方法が無いんだ。頼む、朝陽の代わりに明月の養子になってくれ!」
朝陽について聞こうと思い、約束した話し合いは明月という大きな屋敷の当主との茶会が行われた。待ち合わせ場所に行くと「話す前に合わせたい人がいる」と言われ、明月の家へと案内されたからだ。当主だと言う明月殿の話はとても興味深く、彼の理念なども理解できた。全てに賛同できるかと言われたら頷けはしないが、私の世界でもよくある考え方だった。しかし、男児がいないからと親なき子ではなく、親のいる子どもから当人の了承もなしに養子にしようとするのは如何なものか。話が終わると明月殿は朝陽のお父上—豊殿に『次に跡継ぎは彼で良い』と仰った。お二人の話が飲み込めなかった私は屋敷を出てすぐに御両親を問いつめた。そしてかふぇにて、事情を聞かされた。それは私が知りたかったものの答えにもなった。朝陽のためを思って御両親は自分の気持ちを抑え、物理的にも精神的にも距離をとり、本家からの大きな圧力がある中で、できる限りの抵抗をした。私の世界で本家と分家の上下関係はいやというほど見てきた。だから上に逆らうことがどんなに恐ろしく、厳しいことなのかも分かっているつもりだ。これは子を想う親の愛情があったからこそ成せたことだろう。しかし、それはどんな理由があれど親の事情で行われたこと。私が朝陽より先に御両親に出会っていたなら、この方たちの行動や朝陽を想う姿に心打たれ、なんて尊く素晴らしい愛情なのだろう、と感激していたかもしれない。この「身代わり」の話にも無条件で頷いていただろう。帰る方法を探すには地位があるほうが円滑に進むこともあるし、情報も集まりやすいだろう。もし帰れなかったとしても利点の方が多いだろうから。
「貴方方の朝陽を想う気持ちはよくわかりました。…本家の方々には逆らえないのでしょう?行きますよ、明月家へ。元々、引き取ってもらった身ですから。それに、朝陽の幸せの役に立てるのなら、本望です。彼は私の恩人ですから」
でも私は朝陽と先に出会った。朝陽は一見何も考えず、直感や勢い、そして持ち前の明るさで物事を乗り切っているように見える。しかし実際は周りの人をよく見て考えている。特に人の表情と声色をよく見ている。そしてそれを悟らせない。自分が何を考えているのかさえ綺麗に隠してしまう。それは朝陽のご両親の変化が関係しているのだろう。優しかった両親がいきなり厳しくなったのは、怖かっただろう。急に冷たくされたのは、寂しかっただろう。嫌われたかもしれないと不安になっただろう。大好きだった両親を嫌いになっていくのは辛かっただろう。私が朝陽のご両親に笑顔を向けられていた時、特に褒められた時に迷子の幼子のような目をしてこちらを見ていれば、いやでも気づいてしまう。朝陽は嫌いだ何だと言っておきながら、本当はまだどこかで期待している。かつての両親が帰って来ることを。だから、考えてしまうのだ。幼かったとはいえ、距離を置く前に何か少しでも話していたら今と違っていたかもしれない、と。
「本当かい!?ありがとう、本当に、ありがとう…!」
お二人が泣き出してしまった。目の前の彼らが追い詰められていて、その上で必死になって出した答えが今なのだと分かっている。でも、どうしても思ってしまうのだ。本当にこの方法しかなかったのだろうか、と。
 話が終わり、ばいとを終えた朝陽と合流することになった。確かあの公園は朝陽のばいと先に近いところだったはず。待たせてしまうかもしれない、そう思い急いで公園に向かったのだが、朝陽はいなかった。この間管さんと話したベンチに座り、今日の出来事を思い返した。朝陽は両親に愛されていることを、多分知らない。朝陽は私を代償に得る幸せの日々を喜ぶとは思えない。きっと私のことを聞いたら身代わりにしたご両親に怒り、それを受け入れた私に怒り、今までご両親のことも私のことも察せなかった自分に怒るのだろう。また以前の両親と暮らせることを喜ぶ自分に見て見ぬふりをして。気にしても仕方ないことは分かっている。だって、
「悔しい、なあ」
私が朝陽や源家の皆にできることは何もないのだから。
「こんにちは」
声をかけられ、顔を上げると管さんがいた。
「管さん…。こんにちは」
隣に管さんが座る。「随分と浮かない顔をしているね。どうしたんだい?」
「これから大事な人に降りかかるであろうことをわかっているのに、何もできない自分のことが情けないと思いまして…」
「そうなのか。…そうだ、君にこれをあげよう」
管さんはそう言うと上着のぽけっとなる場所からお守りを取り出し、私へと差し出した。何処となく見覚えがあるような…
「これは?」
受け取りながら聞く。
「見ての通り、御守りだよ。知っているかな?物吉大社のお守りでね。あらゆる邪気を祓い、願いを叶えてくれるんだ。寝る時に枕元に置くといい。効果は私が保証しよう」
「ありがとうございます。…ん?『大社』?」
神社ではなく大社。この呼び方は私の世界のものだ。なぜ管さんが…。見つめていると菅さんは被っていた帽子の鍔を少しあげて私を見た。
「年寄りってのは何でも知っているものなのさ」
そんなことないと思うのだが…いや、この世界の御老人はそうなのかもしれない。
「それでは、私は行くとしようかな。散歩の途中だったものでね」
そう言うと管さんはゆっくりと立ち上がり、去っていった。
 静かな公園の流れる時はゆっくりに感じる。考え事をしているのなら尚更。手元にある御守りを見る。物吉大社の御守り。願いを叶えてくれる御守り。私の願いは家族のもとに戻ること。それが変わることはない。しかし明月の養子になると決まった今、一つの懸念点ができた。私が元の世界に戻ったとき、明月の養子はいなくなる。そうなった時は今度こそ、朝陽が明月の跡取りにならなければならなくなるかもしれない。私のせいでまた家族と離れなくてはいけなくなるのだ。朝陽は「今更だよ。そんなの慣れてる」とでも言うのだろう。ええ、分かっていますとも。しかし私には分かるのです。朝陽は御両親のことが今でも大好きで、心の何処かでいつもお二人の愛情を求めている。お二人の姿を探している。私が御両親に褒められた時、そして大歓迎だと言われた時、朝陽が羨望の眼差しで見ていたことを私は知っている。あの目を私は見たことがある。宗治郎に構っていた時に他の弟妹達が宗治郎へ同じ眼差しを向けていた。だからこそ、弟妹がいる兄としても朝陽の友人としても、彼の幸せを望まずにはいられない。何のしがらみもなく、家族皆で幸せに暮らしてほしい。それを叶えるためには私が明月の跡取りでいることが必須だ。なれど私は帰りたい。父上、母上、どうか教えてください。私はどうしたら良いのでしょう。どうしたら、皆が幸せな結末を迎えられるのでしょうか。
「宗一郎!」
足音と共に朝陽がきた。その声に急いで御守りを鞄にしまう。
「なんか暗くない?どうかしたの?」
「朝陽…いえ、何でもありませんよ」
その日は結局、御守りを使うことはなかった。
 学校に初めて行った日。私の担任の先生はかつて朝陽の担任の先生でもあった方だった。教室に向かうまでの間で先生に朝陽の話を聞くと、朝陽はいつも明るくてくらすの中心にいたと笑いながら言っていた。少しやんちゃ?もしていたのだとか。自己紹介を終えた後、くらすにいた方達に質問攻めにされた。弟妹達を思い出して懐かしくなった。学校というものはとても楽しかった。私の世界でも寺子屋に行っていたが、こんなにもはしゃぐことはできなかった気がする。放課後まで本当にあっという間で、学校が終わった瞬間から明日が待ち遠しくて仕方がない。学校に行かせてくれた朝陽に感謝しなくては。天にも昇る心地で、頬がだらしなく弛む寸前だったがこればかりは、と何とか引き締める。そんな浮立つ気分は1つの連絡が来たことで一気に地へと堕とされた。通知音に気づいた私は近くにあった公園に入り、べんちに座ってすまほを開いた。豊殿からだった。
『2週間後の土曜日、午後1時に迎えに行く。逃げてもいいがその場合、近藤朝陽を迎えるので心しておくように。   明月』
これは豊殿ではなく、明月家からだ。お二人はまた本家に行ったのか。気の毒だと思うと同時に、朝陽と共に居られるのは後2週間なのかと思うと、鉛が腹の中にいるのではないかと思えるほどに重くなった。まだ共に居られると思っていた。せっかく学校に行き始めたのに、もう行けなくなるのか。友人になれそうな人もいたのに。もしも私が逃げたら、当初の予定通り朝陽が跡継ぎとなる。家族と仲直りする機会を失い、幸せに暮らせるであろうこれからの日々も失われる。明月殿に釘を刺されてしまったな。元からそんなつもりなど無かったが、余計に逃げ出せなくなってしまった。ああ、嫌だな。帰りたい。今すぐ家族に会いたい。今帰る方法を探しださなれば、今よりもっと帰ることが困難になるのだろう。だが今帰る方法が見つかったとして、私に恩人の幸せを犠牲にしてまで帰ることができるのか。朝陽を見捨てることが、できるのだろうか。
「できない、だろうな…」
どれくらいそうして考えていたのだろう。
「宗一郎!」
突然聞こえた朝陽の声に驚き顔を上げると、あたりはいつの間にか暗くなっていた。
「そんなところで1人で何してんだ?友達とかは?ほら、1人なら帰るぞ」
朝陽が周りを照らすような、明るく優しい笑顔を浮かべた。太陽が氷を溶かしていく。やはり、朝陽は私の太陽だ。あまりにも温かくて、泣きそうになる。
「朝陽…」
「何があったの?学校で何かされた?」
朝陽が心配そうに私を見ている。これは朝陽には言えないな。後から隠していたことに対して怒るかもしれない。でも朝陽のためなのだ。朝陽に吐き出そうとしている口を引き締め、朝陽に大丈夫だと微笑む。今私は、綺麗に微笑むことができているだろうか。
「学校はとても楽しかったです。良い人ばかりでした。何でもないですよ。少し疲れてしまっただけです。朝陽が心配するようなことは決してないです」
声は震えていないだろうか。朝陽が何かを堪えるような顔で私を見ている。なぜ、そのような顔で私を見るのですか。その後どのようにして朝陽の家まで帰ったのか、あまり覚えていない。
 その日の夜、私は寝る前に御守りを菅さんの言う通りに枕元に置いて寝た。
 気づいたら懐かしい部屋にいた。私の部屋だ。
「なぜ…?私は、帰ってこられたのか…?」
自室を出て家中を歩き回ったが誰もいない。これは夢なのだろうか。最後に父の部屋に向かう。
「父上。中にいらっしゃいますでしょうか?」
部屋の中から布が擦れる音がした。父上がいる!会えるのだ。
「その声は…宗一郎、か?」
久しぶりの父の声に目が潤む。父がこの襖の向こう側にいる。はやく、早く会いたい!
「そうです!宗一郎です!父上、中に入ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、良い。入りなさい」
逸る気持ちを抑えてゆっくりと襖を開く。中を見る前に床に手先をつき、頭を下げる。顔を上げ、瞑っていた目を開き中を見た。懐かしい、父上の部屋だ。いつも机に向かい、こちらに背を向けていた。中に入りそばに行くと、忙しいだろうにいつもその手を止めて私たちの相手をしてくれた。しかし今は違う。部屋の中心に布団が1つ敷かれていて、そこには少し頬がこけ、記憶にある姿よりも歳をとった父が横になっていた。そういえば、先ほどの声もいつもより弱々しかった気がする。
「ち、父上?」
父に駆け寄り、掛け布団からはみ出ていた手を握る。細い。私がいない数ヶ月の間に何があったというのだ。父の目が開き、私を捉えると目を見開いた。握られていない方の手をゆっくりと上げて私の頬へと当てる。父は目の端から涙を流し、優しい笑みを浮かべた。つられて私の目からも涙が零れ落ちる。
「ああ、ようやく、会えた…お前がいなくなってもう4年、2度と会えないのではないかと思っていたよ。無事だったのだな。本当に、良かった…」
「父上…」
4年…?朝陽と過ごしたこの2ヶ月の間に此方の世界では4年も経っていたというのか。しかしおかしいな。朝陽が夢見た時は私が消えて何日か前だったらしい。もうその時は既に1ヶ月経っていたというのに。つまり、私は何年か未来を見ているということなのだろうか。それならば私は明月家に行ったのだろう。4年経っても帰れなかったのか。それとも4年経って漸く帰れたところを、私が憑依している形なのか。どちらにしても、4年以上はかかるということだ。悲しくはあるものの、驚きはしなかった。ただでさえ世界を渡る方法を見つけることは困難なのに、行動が制限されるであろう明月家に行ったのなら、さらに厳しくなるだろうから。父が私の手をそっと開き、自身の手を抜く。そしてゆっくりと上半身を起こした。慌てて背中に手を添える。
「父上!起き上がって大丈夫なのですか?体調が優れないのでは…?」
「大丈夫だ。久方ぶりにお前に会えたのだ、ちゃんと話ぐらいさせてくれ」
「病、ですか?」
「ああ。…私は天寿を全うしたと思っている。お前にも会えたしな。もう心残りはない。いつ迎えがきても私は満足さ」
「そんな…。何をおっしゃるのですか」
父は静かな笑みを浮かべ、黙っている。
「父上!」
「…あと一月だそうだ」
頭が鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。その後何を話したのか、私は覚えていない。
「失礼、しました」
気づいたら父の部屋を出ていた。角笠を被り町を歩く。やはり四年も経つと町も様変わりしている。4年前と異なる所もあれば、変わらぬ所もある。懐かしいような、自分だけ取り残されているような。何となく物吉大社に向かった。山頂にある物吉大社は4年前とは変わらずにいた。それに少し安心して鳥居に手を置く。何か手触りに違和感を感じて手を離すとそこには物吉神社の鳥居についていたような星の印が刻まれていた。あの日見たものより新しいけれど、傷つけてから暫く時間が経ったであろう傷。この傷が4年前に朝陽がここに来たことを教えてくれている気がした。一礼をして境内に入り、物吉様へと挨拶をする。祈りも終わり、一礼して顔を上げた時、声をかけられた。
「おい、そこのわっぱ!そなた、あすまそーいちろーとかいうものではあらぬか!?」
声の方へと振り向くと、私を童と言ったことが信じられないほどの幼子がいた。
「確かに私が遊馬宗一郎ですが…。それにしても、私が童、ですかぁ」
「われからしたら、みなわっぱよ!…ん?…ああ、そうであった!われもわっぱのままであったな」
自慢げに胸に手を当てた子どもは、自分の手を見て合点がいった、とでも言うように頷くと、光がその子どもを包み込んだ。眩しくて思わず目を瞑る。
「そんなことより、其方に聞きたいことがある」
先程聞こえていた声とは違い、低い声が聞こえる。ゆっくり目を開く。そこにいたのは幼子ではなく、少し背の高めで見目が麗しく、私よりも年上であろう男性だった。驚きで声が出ない。もしやこの方人ではないのか。まさか、この御方は…!そんな私の様子に目の前の方は少し口の端を上げたが、すぐに真顔になり近づいてきた。
「其方、何故この世界に居る?其方のことは我がオモテへと送ったはず。もう戻ってこれぬよう開けた穴は塞ぎ、その他に綻びも無いよう調べたのに!何故…。お主、如何にして戻ってきた!」
その言葉で流石に察する。この御方が私を朝陽の世界へと送り込んだのだ、と。恐らく“オモテ”というのは朝陽の世界のことだろう。本来なら口答えなどしてはならぬ方だ。しかし「何故戻ってきた」と言われてしまっては、黙っていられない。
「家族と共にいたいと願うことはいけないことなのですか?昨日まで、つい先程まで一緒にいたはずの家族が消え、得体の知れない世界に落とされて、戻りたいと願うことはおかしなことなのでしょうか。何故、周りの者は許されているのに、私は家族と共にあることが許されないのでしょう?」
私の言葉に目の前にいる方から、尋常じゃないほどの圧が溢れ出てきた。これは怒気と言うべきか、神気というべきか。
「其方はこの世界の害となるのだ。将来、其方の作るものが原因で世界が争いに塗れ、終わる。我はそれを未然に防いだに過ぎん」
私が世界の害?私が作るものが世界を終わらせる?心当たりが何一つ無い。言いがかりだ。何故だか、ふと管さんにされた質問を思い出した。
『一つ君の意見を聞きたいことがある。例えばとんでもない天才が生まれたとする——』
そうか、管さんも人間ではなかったのだ。そしてこの“天才”は私なのだろう。そして2つ目の質問に出てきた“天才を排除した者”は目の前にいるこの御方なのだ。
「…かつてこの世界が産まれる前、この世界の元となる世界があった。その世界では小さな争いが絶えなかった。それ故に我は気がつくことができなかったのだ。世界を滅ぼすほどの大きな戦になっていたことに。我は己の全てを賭けて守ろうと努めた。だが手遅れだった。世界の管理者に見限られていたのだ。その世界は管理者によって壊された。我は残った僅かな世界を、消滅しないように守り続けた。管理者はなかなか消滅しない世界に興味を持ち、元の大きさに戻し、沢山の生命を落とした。しかし、また大きな争いは起きた。1つのものを巡ってな。管理者は何を思ったのか戦が起こる前と起こった後の世界を切り離し、また一つにした。そして世界にはオモテとウラができた。オモテは争い前の歴史が全て消えた世界。失われた歴史は、疑問に思った途端にその疑問ごと記憶を消す術をかけた。ウラは争いがおこる前の平和だった世界。このままだとオモテは良くとも、ウラの世界ではまた大きな争いが起きてしまう可能性がある。そこで我は、原因となるものを排除することにした」
流石にそこまで話されれば分かる。
「その原因は私、ですね」
「そうだ。そんな勝手なことをしたなら、我は管理者に排除されるだろう。ならば何故できたか。それは我が管理者に存在を悟られていなかったからだ。我はこの世界そのもの。世界なんぞに意志が宿るなど、管理者にも予測出来なかったはず。今は我の存在を感知しているものの面白そうだという余興のつもりで見ているのだろうが。…我は嫌なのだ。また滅びそうになるなど、あってたまるか。我は彼奴らの玩具ではない!もう分かっただろう?其方にここにいられては困るのだ」
私を射抜くように見つめる目の前の方は拳を握りしめて、その手を震わせていた。私とて、よく分かっている。朝陽のためにも朝陽の御両親のためにも、あちらの世界にいた方がいいなんてこと。しかし、帰る方法を諦めることなんてできないのだ。例え私が世界を滅ぼす原因に成り得るとしても。
「貴方様のお考えはよく分かりました。ですが私は、どうしても家族を諦めることは出来ませぬ。ですので家族と、両親と一度話をさせてくださいませ。今の私には両親の助けが必要なのです。勿論、世界に関することは話しません。どうか、ご慈悲を」
「…ふん、良かろう。但し夕刻までにはここに戻ってくるように」
今はまだ空も明るい。夕刻まではまだまだ時間がある。
「分かりました。ありがたく存じます」
跪き、最上級の礼をする。そして急いで家へと向かった。彼の方は物吉様なのだろうか。いや、恐らく違うのだろう。だが、神の類であることは間違い無いだろう。あの威圧感と神々しさ、そして人を他所の世界へと送ることのでるほどの尋常ではない力。あれを神と呼ばずして何と呼ぼう。私は神に危険視される程、世界を害すものを作り上げてしまうのだろうか。
 家に着くと急いで父の部屋に向かう。足音も気にせず、無作法ではあるが声もかけずに襖を開け放ち、中に一歩足を踏み入れる。
「父上!」
父は上半身を起こし誰かと話していた。冷静になり無作法だった自分を思い出し、血の気が引く。急いで畳に頭を擦り付けた。
「も、申し訳ございません!父上と早く話さねばと、つい礼儀を怠ってしまいました!」
「宗一郎、なのですか?」
返事を待っていると父上とは違う声が聞こえた。地にどっしりと腰を据えた大木のような父の声とは違い、森に漂う綺麗な空気のように澄んだ声。此方に体を傾けたことで顔が見える。
「母上…お久しゅうございます。宗一郎、只今戻りました」
母が父の元を離れて私の元へふらり、ふらりと近づいてくる。そして私の目の前まで来ると存在を確認するように私の顔を触れた後、抱きしめた。
「おかえりなさい、宗一郎。夢ではないのですよね?いきなり行方不明になったので心配したのですよ。ああ、漸く貴方を抱きしめることが、触れることが出来ました。よく無事に帰ってきましたね」
「母上…」
久しぶりの温かい母の温もりと優しい声。やはり安心する。この世界では私はもう成人だというのに、少しだけ甘えてしまった。
 暫くして母上から離れ、居住まいを正す。そうすると真剣な話が始まると察したのか、両親も姿勢を正した。
「父上、母上、ご相談したいことがございます」
「何だ、話してみなさい」
深く深呼吸をして口を開く。
「私が今日ここに戻ってこられたのは奇跡に近いのです。行き倒れていた私を医者に見せ、過ごす場所を提供して下さった方がいました。その方はとある事情により今、自由を奪われようとしています。私が戻れば救うことができるかもしれない。しかし一度戻ってしまえば、もう戻ってくることは出来ないかもしれません」
話し過ぎてもいけないので、端折りながら話した。分かりづらかったかもしれない。それでも両親は真剣に話を聞いてくれた。
「それで、お前は今後どうしたい?」
父が尋ねる。母は答えを促すように私を見ている。2人の表情は険しいものではなく、穏やかで優しいものだった。
「わたしは…。私は、彼に恩を返したい、です。しかし家族に会えないことは身を引き裂かれそうなほど、辛い。私には、分からんのです。私はどうしたいのか、どうするべきなのか」
両親が顔を見合わせた。
「本当にそう思っているのですか?」
母が言った。体がびくつく。
「何故、そう思うのです?」
そう言うと母は口元に手をやり、小さく笑った。
「気づいてないのですか?宗一郎の目は、もう答えは出ている、と言っていますよ。私たちと会えなくなることが辛いことも本当のことしょう。ですが…救いたいのでしょう?その方にはよほど良くしてもらったのですね」
「母上…」
頭に温かいモノがのった。手だ。幼子だった頃の記憶が蘇る。記憶にあるよりも弱々しく細い手だが、私には分かる。これは父の手だ。
「父上…」
顔を上げると父が目尻を下げ、穏やかに微笑んでいた。
「遊馬商社の商人ならば、受けた恩は必ず返さねばならない。大丈夫。お前の考えは間違っていないよ。好きにやりなさい。私たちなら大丈夫だ。今、大事な息子に会えたのだからな。それに独り立ちをしたら、どうせ会えなくなることの方が多くなるんだ。独り立ちする直前にお前は消えたが、本当なら自立している頃だろう。お前は無事、遠方で独立したのだと皆に話しておけば心配もかけんだろう。…間違っても私たちを言い訳に、その決意を揺るがすようなことはしてくれるなよ」
たしかに、私の答えは父に会う前からとっくに決まっていたのかもしれない。だが覚悟が決まりきらなかった。多分私は両親に背を押して欲しかったのだろう。だからあの御守りは2人の元へと連れてきた。この時期なのは彼の方に私を会わせたかった、ということなのかもしれない。それから多分、物吉様が父が最期を迎える前に会わせてくれたのだろう。両親から少し離れ、2人に向かって頭を深々と下げた。
「父上、母上、ありがとうございます。お陰で覚悟が決まりました。…私は沢山の人に救けてもらっている。本当に、幸せ者ですね」
改めて居住まいを正して両親に言う。
「父上。母上。私は恩返しをいたします!もう、戻ってこられぬかもしれません。ですが、それでも私は行きます。そして今ここに誓いましょう!遊馬宗一郎の名にかけて恩人を救い出し、最期の最後まで貴方たちの元へ帰る道を探し続けると!」
「遊馬宗一郎。お前の覚悟、この父が受け取った。必ず成し遂げてみせなさい。…待っているよ。宗一郎、お前には遊馬の全てを注ぎ込んである。恩人に害を為そうとしているものたちに遊馬の力を見せてやりなさい」
「はい!!」
 家を出て再び物吉大社へと向かう。山を登り、鳥居を潜れば社が見えてくる。その前には彼の方が仁王立ちをし、腕を組んで待っていた。
「おお、戻ったか!話は済んだか?」
「はい、十分に話はできました。お待たせ致しました」
「ああ、慈悲は与えてやったのだ。大人しくオモテに行ってくれるな?」
「はい」
彼の方が人差し指を此方に近づける。額に軽い衝撃が来た後、私の意識は遠のいた。
 あの夢から暫く経ち、私が朝陽の元を去るまでの日数も残り少なくなった。そんな日のこと。
「明後日の昼頃に行かなきゃいけない場所ができたから、お昼は先に食べてて欲しい」
学校から帰ってきて朝陽に言われた。「明後日の昼頃」という言葉に思わず身体が固まる。その日は、その時間は、私が明月家に行く日だ。ああ、なるほど、迎えに来るというのはこの家に、ということか。だから場所を指定されていなかったのだ。そして朝陽と遭遇するわけには行かないからその間だけこの家から追い出す、と。朝陽はまさか用事が終わり家に帰ってきたら私がいないなんて、しかも両親がいるなんて、夢にも思わないだろう。一緒に食べられる最後のご飯。そう思うと鼻がつんとして、目元が熱くなる。その姿を見られたくなくて、考えているふりをしながら、朝陽に背を向ける。
「…その日は少し遅く起きて朝餉と昼餉を一緒に食べるのはどうでしょう。そうだ、ご飯の前に少し周りを歩きませんか?」
声が震えそうになるのを必死で耐えながら、提案する。
「いいね、そうしよう」
優しく穏やかな声。この声が聞けるのも今日を合わせて三日間だけ。どうしても顔が見たくなったので溢れそうな涙を拭き、朝陽の顔を見て返事をする。朝陽はやっぱり笑っていて、その笑顔はやはり、眩しかった。朝陽との別れまで残り後少し。
 ついにこの日が来てしまった。いつも通りに起き、朝陽が起きていないことを確認してから部屋に戻り、便箋と練習用の紙を取り出す。最初は沢山書いていた。いざ書いてみると伝えたいことばかりでまとまらない。しかし直接言いたいと思っていたら、気づいたら手紙は出来上がっていた。
 学校に通い始めてからは減った朝陽との久しぶりの散歩は楽しかった。おかげでさらに覚悟が決まった。絶対にこの笑顔を陰らせてはいけないと強く感じたからだ。
「朝陽。貴方に手紙を書いたのです。必ず明日、読んでくださいね」
朝陽の目が水晶のようにまん丸になる。何を巧んでいるんだ、とでも言いたげな、探るような目で私を見ながら手紙を受け取ってくれた。思わずその表情を見て笑ってしまう。
「分かった。…今じゃダメなの?」
「だめです。明日にしてください」別れの暗く悲しい空気は苦手だから。きっと朝陽は黙っていたことに怒るけれど、それでいい。それでこそ朝陽だ。私は私の太陽を曇らせないように、頑張るだけだ。いつものようにふざけたやり取りをしながら、改めて決意を固めたのだった。
 「行ってらっしゃい」
朝陽が荷物を取りに行った。それを見送った後、部屋に行き支度をする。数十分するといんたぁほんが鳴り響いた。
「はい。…こんにちは」
扉を開けば全身黒の服を着た人が3人と、朝陽のご両親がいた。
「こんにちは。早速ですが荷物は纏まっていますか?」
「はい。部屋にあります」
「では、運ばせていただきますね」
ぞろぞろと部屋に3人が出入りする。数分もすれば部屋は私が過ごす前の状態に戻ってしまった。物はあんまり置いていたつもりはないが、今まで使っていた物が無くなると広く感じる。何故か分からないが、部屋が住人がいなくなったことを嘆いているように見えた。いよいよこの家を出るのだ。部屋を出る足が鉛のように重い。玄関を出る前に朝陽の御両親へと声をかける。
「少しの間でしたが、近藤姓に私を入れてくださりありがとうございました。朝陽にはまだ貴方方が必要です。今度こそ冷たい態度ではなく、ちゃんとした両親として接してあげてください。…あなたたちはもう、普通に愛していいのですよ」
「ありがとう…!!ああ、約束するよ」
「言質は取りましたからね。では、さようなら」
まんしょんから出ると黒い人のそばに黒い自動車が一台止まっていた。私がきたことに気がつくと、出迎えた人が扉を開けて「どうぞ」とでもいうように、手で中を指された。お礼を言って乗り込む。初めて自動車に乗った。窓から見える景色が次から次へと絶え間なく変わっていく。それだけ速いということなのだろう。しかも馬車や荷車とは違って座り心地が良い。この前明月殿に会った時は電車とかいう乗り物に乗ったが、それも乗り心地が良かった。でも景色が変わっていくのが速すぎた。自動車くらいが丁度いいと思う。
 「ようこそ、明月家へ。私たちは君を歓迎するよ」


 ——5年後。
コンコン
ノックの音に男は外を眺めていた視線をドアへと移し、手に持っていた物を机に置いた。
「明月様、お茶をお持ちいたしました」
「ああ、ありがとう。入りなさい」
許可を得て中に入る燕尾服を着た男を、「明月様」と呼ばれた男が一瞥する。
「また外食をしたのでしょう。せっかく作ったのに食べてくださらないと料理人が嘆いていましたよ」
“明月様”は明月財閥の当主だった。当主はその言葉を聞いて途端に顔を顰め、そっぽを向いた。
「高級料理よりもあいつらの言う“安っぽい料理”の方が私の舌には合うのでな」
その言葉に燕尾服の男は吹き出す。
「まあ、お前はそうだよなぁ!」
「おい!外に誰かいたら…」
「いねぇよ。確認してないわけがないだろ?お前も楽な口調にしろ。ずっとその状態はきついだろ、朝陽」
燕尾服の男が不敵に笑う。その顔を見て当主は呆れたように笑った。
「ま、それもそうだ。にしても主人にこんな態度取る執事、どこを探してもいないと思うぞ?…でもありがとうな、颯」
そう言って朝陽はお茶を飲み始めた。颯はそんな朝陽を見て大きなため息を吐き、笑った。
「大事な幼馴染に助けを求められちゃったら…な」
「颯?なんか言ったか?」
「何も?…なあ、前から気になってたんだけどさ、そのお守りに書いてある『物吉大社』って物吉神社のことか?あそこってお守り売ってたっけ?」
颯の視線の先には、先程朝陽が机の上に置いた御守りがあった。その御守りはかつて宗一郎が管から貰ったお守りであった。朝陽は颯に御守りを見せる。
「これはな、大事な弟分から貰った大切な物なんだ」
そう言いながら御守りを眩しそうに見る朝陽の笑みには、誇らしさと懐かしさが浮かんでいた。
「お前、弟いたっけ?」
「…いーや?いないよ」
不思議そうな顔をする颯に、朝陽はほんの少しの間寂しそうに顔を伏せた後、それを隠すように不敵な笑みを浮かべた。
 誰もいなくなった執務室で、朝陽は静かに手の中にある御守りを見ていた。
「なあ、宗一郎。覚えていないって、寂しいな」
窓から入り込んできた風が、御守りの紐の先についている硬貨を揺らした。その硬貨には「飛竜乗運」の字が彫られていた。


 静かな部屋にさらさらと筆が紙の上を滑る音が響き渡る。一度手を休ませようと筆を置き、凝り固まってきた肩を揉んでいると廊下の方から掛けてくる足音が聞こえてきた。
「父様!お仕事は終わりましたか?早くあさひと遊んでくださいまし!」
勢いよく襖が開き放たれ、6歳ほどのはっきりとした顔立ちの娘が遠慮なく入ってくる。父様と呼ばれた男はため息を吐き、娘の方を見る。
「朝日、もう静かに入りなさいと何度言えば良いのですか?いい加減もう少し落ち着きなさい。全く、朝日にも困ったものだね。もう少しで終わるから待っていなさい。ああ、そうだ、私が行くまで1人はつまらないでしょう。宗治郎の元に行ったらどうでしょう?」
朝日と呼ばれた少女は頬を膨らませた。
「父様は働きすぎだと思うのです!ねえ父様、休みましょう?そしてあさひと遊ぶのです!」
「ありがとう。だがね、朝日。貴方は遊びたいだけでしょう?直ぐに私も行くから、いい子で待っていなさい」
「はーい」
朝日はそれだけじゃないのに、と不満そうな顔で返事をし、父親の執務室を出ていく。部屋を出ていく娘の後ろ姿を“父様”は眩しそうに見つめた。
「朝陽のような子にと思い“朝日”と名付けましたが…少々元気に育ち過ぎてしまいました。大人になったらどんな子になるのでしょうね、朝陽」
口では呆れたように言っているが、その声色には嬉しさと懐かしさが滲んでいた。筆を手に取り紙に何かを書き込み始めたが、直ぐにその筆は置かれてしまった。
「名前のおかげでしょうか。朝陽と似て、太陽のように優しく温かい、とても良い子に育っているのですよ。自慢の娘です。貴方に会わせてあげたいくらい…」


2つの時空で2人の言葉が重なった。
「また、会えるかな」
「また、会えるでしょうか」

 
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