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「庭の手すり」は贅沢ですか?――行政の「合理的配慮」と、店員の「配慮」のあいだで

今日、妻と新しいお店に出かけた時のことです。

その店には、車椅子のための緩やかなスロープが設置されていました。 しかし、長距離を歩くのが辛い私は、杖をついて店舗入口の2段の階段を登ろうとしました。

すると、店員さんが慌てて飛んできてくれたのです。 「大丈夫ですか?何か手伝えることはありますか?」

この温かい声かけに、心がすっと軽くなりました。 自費でスロープを設置したお店の姿勢(環境の整備)と、目の前の人間にサッと手を差し伸べてくれた店員さんの気持ち(心)。これこそが、私が求めていた「配慮」でした。

一方、私にはもう一つ、日常の切実な問題があります。

自宅の庭に降りる場所にある、2段の階段です。 私は庭に出て、草をむしり、盆栽の手入れをし、元理科教員としての地質教材を設置して学び続けたい。しかし、杖でその階段を上り下りするのは過酷です。

そこで、庭に降りる手すりを設置するための福祉補助を市に申請しました。 しかし、返ってきた答えは「NO」でした。何度も撥ねつけられました。

理由を聞くと、「洗濯物を干すなど、最低限の日常的な家事でなければ補助はできない」と言うのです。

人間が人間らしく生きるための、趣味や生きがい、学びの場へ向かうための手すりは、行政にとっては「無駄な贅沢」であり、配慮の対象ではないというのです。予算に限りがあるから、どこかで線引きをしなければキリがないという彼らの論理も、頭では分かります。 結局、5万円ほどの手すりは自費でつけることにし、妻と「まあ、仕方がないね」と苦笑いして終わらせました。

しかし、心がモヤモヤして離れないのです。

健常者なら、何のリハビリも、苦痛もなしに気楽に降りられる庭。 そこに降りるためだけに、私は毎日、血の滲むような過酷なトレーニングを自分に課しています。

「病気になったのは、自分が悪いのか」 「あなたもいつか、こんな身体になるかもしれないよ」 「お前も脳梗塞になって、当事者になればわかるのに」

そんな恐ろしいことすら、心の中で祈ってしまうほど、追い詰められ、疲れ果てていました。そうでも思わなければ、やっていられなかったのです。

障害者になり、いつしか私は「やってられないよ」と諦めることが当たり前になってしまいました。 法律で「合理的配慮」が義務化されたとニュースで言っても、現場の冷たさは何も変わりません。差別的な視線に触れても、もう腹すら立たなくなりました。

でも、今日、あのお店で出会った店員さんの「手伝いましょうか」という一言を思い返します。

行政が作る「合理的配慮」という言葉は、チェックリストと予算の都合で固められた、冷たく薄っぺらいルールに過ぎません。 しかし、人間が人間として、目の前で困っている人に差し出す

「人としての配慮(善意)」


は、行政の何倍も先を進んでいます。ということは

「行政や教育は、人々や会社の姿勢に対して、とても遅れている」

と言わざるを得ません。

私は、もう行政の冷たさに怒るエネルギーすら使いたくありません。 ただ、制度という壁の向こう側で、手すり一本に怯え、生きがいを奪われそうになっている障害者がいること。そして、行政の「合理的配慮」よりも、街の店員さんの一言にこそ、人間としての救いがあるという現実を、ここに静かに書き遺しておきたいと思います。

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