【第一話】 「出世など御免である」と常々公言する私が、絶対不可避と思われた休日出勤を蹴ってまで息子のサッカー県大会へ向かった全記録。 〜課長のはしご外しと、部長との静かなる知恵比べ〜
「部長、折り入って、この度の防災訓練の儀についてご相談が……」
静寂に包まれた部長室。そこは、社内のあらゆる世俗的な欲動が、部長の放つ重厚かつ倦怠した空気によって中和される「真空地帯」である。私は努めて冷静を装い、喉元まで出かかった「怒濤の阿呆(あほう)」を飲み下した。
わが胸中には、燃え盛る大文字焼きのごとき情熱が渦巻いている。
私は誓ったのだ。この身を捧げるべきは、灰色のオフィスビルにおける無味乾燥な事務作業ではなく、緑のピッチを駆け抜ける「愛息の蹴球(さっかー)」であると。
わが息子は小学六年生。数ヶ月前、片道一時間を要するクラブチームへ移籍するという、謂わば「武者修行」に打って出た。彼にとって小学生最後のシーズン。その一試合、あるいは一分一秒の煌めきは、この会社で執り行われるいかなる不毛な会議よりも、私にとっては銀河系規模の価値を有している。
しかし、この「組織」という名の奇怪な巨大生物は、個人の抱く瑣末な幸福を容赦なく踏みつぶしにかかる。
毎年恒例、職員総出の「防災訓練」。私は1ヶ月も前から、課長という名の「事なかれ主義の化身」に相談を重ね、言質を取っていたはずであった。
ところが、決戦を明日に控えた今、彼は平然とした顔でこうのたまったのである。
「いやはや、僕の一存では何とも。部長に直談判したまえ」
なんたるはしごの外し方か! なんたる無責任の極みか!
「おのれ、この腐れ外道が! 前の言草(いいぐさ)を忘れたか!」
腹の底では、かつてない規模の憤怒が「偽電気ブラン」のように沸騰していた。
だが、ここで激昂し、部長の机に「ちゃぶ台返し」を決めれば、わが平穏なる会社員生活は木端微塵に砕け散る。
私は怒りを、深海よりも深い心の奥底へと封印した。
そして、世にも卑屈で、それでいて不可思議な説得力を持つ「詭弁と情熱の交渉術」を以て、鉄壁の守護神たる部長に挑んだのである。
これは、一介のサラリーマンが矜持をかなぐり捨て、父としての黄金時間を搦手(からめて)から奪還せんとした、泥臭くも愛おしい「孤軍奮闘の記録」である。
第二話へ続く
