見出し画像

第四十八章 軌跡の果て

第四十八章:軌跡の果て

帰り道、自転車のペダルが、やけに重たく感じた。
街灯がぽつぽつと点いているだけで、道はほとんど暗かった。
空を見上げると、星がいくつか滲んでいて、それがひどく遠く見えた。

胸の奥には、冷たい穴がぽっかりと空いていた。
どこを見ても、音のない景色みたいに、色がなかった。
夜風が頬を撫でていっても、俺の中には何ひとつ灯らなかった。

家に着いて、玄関を開けて、靴を脱いで、
そのまま布団に倒れ込んだ。

灯りもテレビもつけずに、天井を見つめる。
明かりのない部屋の中で、唯一鮮明だったのは、
彼女の最後の笑顔だった。

「今日で最後になります。1年8ヶ月、ありがとうございました」

俺は、「お疲れさまでした」としか言えなかった。
それだけ。
たったそれだけで、すべてが終わってしまった。

あまりにも、あっけなくて。
あまりにも、空っぽで。

このままじゃ、終われない気がして、
携帯を手に取った。

震える指で、何度も言葉を打ち直して、ようやく送った。

平野さん、1年8ヶ月お疲れさまでした。
平野さんと仕事できて、本当に楽しかったです。
またどこかでお会いできたら嬉しいです。
ありがとうございました。

送信。

胸の奥がざわざわと波打つ。
見えないものに触れてしまったような、落ち着かない痛み。
それでも、どこかで期待していた。
ほんの少しだけでも――俺にだけ、違う言葉が返ってこないかって。

少しして届いた彼女からの返信。

こちらこそ、ありがとう。
佐藤くんと1年8ヶ月仕事できて楽しかったです。
いろいろあったけど、またみんなで集まれたらいいね。

“みんなで”

その言葉が、すっと心の奥まで沈んでいった。

わかってたはずだった。
俺は、その「みんな」の中の、ただの一人。
彼女にとって、そういう存在だった。

でも、たったその一言で、
自分の立ち位置が、はっきりと見えてしまった。

特別なんかじゃなかった。
俺の想いは、最初からずっと、一方通行だった。

それでも――言いたかった。

実は、ずっと…好きでした。

でも、指は動かなかった。

通話ボタンに指をかけた。
声が聞きたくて、最後にちゃんと伝えたくて。

……けど、押せなかった。

「……無理だ」

喉の奥で、自分でも驚くほどかすれた声が漏れた。

言えるわけがない。
失恋したばかりの彼女に、
そんな言葉をぶつけるなんて。
それを受け止めさせる資格なんて、俺にはなかった。

また、逃げた。

泣いていた彼女に、何もできなかった。
声すらかけられなかった。

家庭環境。
いじられてきた過去。
ずっと縛られていた日々。

傷つくことを恐れて、
俺はまた、自分を守ることしかできなかった。

ふと、水野さんのことを思い出した。
あの人がバイトを辞める日の帰り際、ロッカーの前で言ってくれた言葉。

「佐藤くん、これからもいろいろ頑張ってね」

あのときの、少し寂しそうで、それでも優しい笑顔。
本当は、ちゃんと届いてた。
届いていたのに――俺は、頑張れなかった。

強くなれなかった。

平野さんにも、水野さんにも、
何ひとつ返せなかった。
そのことが、悔しくて、情けなくて、たまらなかった。

無意識に、コンポの電源を入れていた。
言葉じゃどうにもならない感情を、
誰かの歌に委ねたかったんだと思う。

流れてきたのは、GLAYの「軌跡の果て」。

イントロのギターが鳴った瞬間、
心の奥で張りつめていた何かが崩れた。

特に二人でどこかへ出かけたわけじゃない。
ただ、スーパーのなかで――
限られた空間と時間の中で、彼女と一緒に過ごした日々。

一緒に見た、ガラス越しの花火。
棚卸しの夜に交わした、くだらない冗談。
レジ袋をまとめながら話した、他愛ない会話。
名前を呼ばれたときの、あの高鳴り。

初めての携帯。
ぬいぐるみを渡した日。
髪を染めた日。
原付免許を取ったこと。

全部――彼女のためだった。

少しでも、近づきたくて。
少しでも、大人に見られたくて。
不器用なりに、必死だった。

そして、曲が静かにサビへ差しかかった。

「不器用に生きた 軌跡の果てに 大切な何かを なくしても」

その一節が、胸の奥に深く突き刺さった。
まるで、俺のことをそのまま歌ってくれているみたいで、
張り詰めていた感情が、一気に溢れ出した。

涙が止まらなかった。
喉の奥が熱くなって、息が苦しくなって、
どうしようもなく、嗚咽がこみ上げた。

俺は――泣いた。

誰にも見られない部屋で。
誰にも聞かれない深夜に。

悔しくて、情けなくて、
でもそれ以上に――彼女が、愛しかった。

彼女は、強かった。
ちゃんと恋をして、
ちゃんと泣いて、
ちゃんと前を向いて、自分の足で去っていった。

俺は、ただの臆病者だった。

本当は、もっと話したかった。
もっと近づきたかった。
ずっと、好きだった。

でも、それを言える強さは、
最後まで、俺にはなかった。

そして今、俺に残ったのは――

誰にも知られることのなかった恋と、
自分で壊してしまった優しさと、
不器用なまま、通り過ぎた青春だけだった。

いいなと思ったら応援しよう!