【園部城】残念すぎる日本の名城 第111回|高校生が毎日くぐる「日本最後の城」は、見えそうで見えない
はじめに
こんにちは!
「残念すぎる日本の名城」シリーズ第111回は、京都府南丹市にある園部城(そのべじょう)を取り上げます。
園部城は、一般に「日本最後の城」と呼ばれています。
その響きから、幕末の技術を集めた巨大な城や、明治の空を背負って立つ華やかな天守を想像する人もいるでしょう。
しかし、現地で最初に出会うのは、天守ではありません。
高校の正門です。
しかも、ただの正門ではありません。幕末維新期に建てられた園部城の櫓門が、今も京都府立園部高等学校の校門として使われています。

門の向こうには巽櫓が見える。もっと近くで見たい。反対側からも見たい。番所も確認したい。
けれど、そこは生徒たちが学ぶ学校です。
城好きの好奇心が一歩前へ出ようとすると、社会人としての理性が静かに袖を引きます。
さらに、石垣や堀を探して歩いても案内は少なく、城を模した立派な建物へ行けば、そこは復元天守ではなく国際交流会館。月曜日に訪れると、その国際交流会館も隣接する文化博物館も休館しています。
見どころは確かにある。
歴史も深い。
それなのに、肝心なところが見えそうで見えない。
園部城は、日本最後の城であると同時に、日本有数の「もどかしい城」なのです。
1.園部城の歴史
園部藩が成立したのは、元和5年(1619年)です。
但馬国出石藩から移された小出吉親(こいでよしちか)が園部に入り、元和7年(1621年)頃までに藩の拠点となる園部陣屋を築きました。
小出家は、その後約250年にわたり、国替えをすることなく10代続けて園部を治めました。
「陣屋」と聞くと、役所と御殿を塀で囲んだ程度の小さな施設を思い浮かべるかもしれません。
ところが、園部陣屋は普通の陣屋ではありませんでした。
復元された絵図などによれば、その範囲は南北約650メートル、東西約400メートル。小麦山の麓に本丸を置き、その周囲には内堀、中堀、外堀が巡らされていました。城下町を含めて守る、総構えに近い広がりを持っていたと考えられています。

名前は陣屋でも、姿はほとんど城でした。
初代吉親の時代から櫓を建てる計画もあったとされますが、幕府から正式な城としての建築を認められず、櫓門や櫓を持たない陣屋のまま長い年月が過ぎました。
転機が訪れたのは幕末です。
京都では政治的な対立が激しくなり、池田屋事件や禁門の変など、武力衝突が相次ぎました。京都に近い園部は、丹波方面から京都へ通じる要地でもあります。
第10代藩主の小出英尚(こいでふさなお)の時代、園部藩は元治元年(1864年)、幕府に櫓門3か所や櫓9基などの新築を願い出ました。
この願いはすぐには認められませんでしたが、交渉を続けた結果、慶応3年(1867年)にようやく内諾を得ます。
ところが、その直後に大政奉還が行われました。
長年交渉して、やっと幕府から許可を得られそうになった瞬間、その幕府が政治の表舞台から退いてしまったのです。
園部藩は諦めませんでした。
慶応4年(1868年)、今度は明治新政府に城郭整備を願い出ます。「帝都御守衛」、つまり京都を守るために必要な城であると訴えたことで工事が認められ、櫓門や巽櫓、小麦山の三重櫓などが建てられました。
そして明治2年(1869年)、園部陣屋はようやく園部城として完成します。
約250年間待ち続け、ついに手に入れた「城」の名でした。
しかし、そのわずか2年後の明治4年(1871年)、廃藩置県によって園部藩はなくなり、園部城も城としての役割を終えます。
城になりたくて250年。
城でいられたのは、わずか2年ほど。
園部城の歴史は、あまりにも長い助走と、あまりにも短い本番でできています。
2.残念すぎる園部城
2.1 いちばん見たい櫓と門が高校の敷地内にある
園部城最大の見どころは、幕末維新期から残る櫓門、巽櫓、番所です。
櫓門は現在も園部高校の正門として使われ、巽櫓はその脇に立っています。番所も茶室に改装されながら残されており、3棟はいずれも京都府の暫定登録文化財です。
ここまで聞けば、城好きなら胸が高鳴ります。
しかし、本丸跡は現役の学校です。

観光施設ではないため、通常は校門前から見学することになります。門の向こうに巽櫓が見えているだけに、どうしても中へ入って見たくなりますが、無断で立ち入ることはできません。
園部高校では、園部城祭りなどに合わせて巽櫓の内部が特別公開されることがあります。その際には、生徒が園部城を案内することもあります。
つまり、園部城を深く見たいなら、公開日を調べて訪れる必要があるのです。
普通の日に訪れると、歴史的建造物と自分との間にあるのは、敵兵を防ぐ堀ではなく「学校関係者以外は立入禁止」という、現代最強の防御線です。
2.2 石垣や堀を探しても、どこにあるのかわからない
園部城は、内堀、中堀、外堀を備えた大きな構えを持っていました。
ところが現在、その姿を現地で理解するのは簡単ではありません。
本丸跡は学校になり、周囲には園部公園、公共施設、道路、住宅地が広がっています。城内を歩くための統一された見学順路や、すべての遺構を結ぶ案内表示も十分とはいえません。
石垣はどこに残っているのか。
この段差は土塁なのか。
道路の曲がり方は堀の名残なのか。
歩いても確信が持てず、城を探しているのに、いつの間にか学校や公園の外周を散歩しているだけのような気分になります。
ただし、堀が見つからないのは、訪問者の観察力が足りないからとは限りません。
園部高校の校舎建設に伴う発掘調査では、本丸北側から幅約12メートル、深さ約1.3~1.8メートルの空堀が見つかっています。この空堀によって、江戸時代の本丸部分は南北二つの曲輪に分かれていたと考えられています。
ところが、その空堀は幕末の城郭整備の際に埋められたとみられ、現在の地表からはほとんどわかりません。
つまり、園部城の堀は「探せば見つかる堀」ではなく、「発掘報告書を読んで初めて地面の下に見えてくる堀」なのです。
2.3 月曜日は歴史を調べる場所まで閉まっている
園部城の隣には、天守のような外観を持つ南丹市国際交流会館があります。
さらに、その近くには南丹市立文化博物館があり、園部藩や小出家、地域の歴史に関する資料を見学できます。
園部城の遺構だけではわかりにくい部分を、展示や資料で補える大切な施設です。
ところが、国際交流会館と文化博物館は、原則として月曜日が休館日です。祝日や展示替えなどによる休館もあるため、訪問前の確認が欠かせません。

月曜日に訪れると、櫓門は学校の外から見るだけ。
国際交流会館には入れない。
文化博物館でも園部城の資料を確認できない。
石垣や堀の案内も少ない。
日本最後の城を訪ねたのに、歴史を知るための扉がそろって閉まっていることがあります。
園部城の訪問では、城攻めの戦略より先に、休館日の攻略が必要です。
2.4 立派な「天守」が見えるが、園部城の復元天守ではない
園部公園に入ると、石垣風の基壇の上に立つ、天守のような建物が目に入ります。
「これが園部城の再建天守か」
そう思って近づきたくなりますが、この建物は南丹市国際交流会館です。
園部城をイメージした外観ではあるものの、かつての天守や櫓を同じ位置、同じ形で復元したものではありません。

そもそも園部城に天守が存在した記録はありません。
小麦山の山頂には三重櫓が建てられましたが、現在の国際交流会館とは位置も役割も異なります。
現存する本物の櫓は高校の敷地内で近づきにくく、近づきやすい天守風建築は本物の復元ではない。
この配置は、初めて訪れる人を静かに混乱させます。
ただし、この国際交流会館が園部城への関心を引き寄せる目印になっていることも確かです。少し紛らわしいけれど、城の記憶を町の風景に残す役割を果たしています。
2.5 「日本最後の城」なのに名城スタンプの対象ではない
これほど印象的な歴史を持ちながら、園部城は「日本100名城」にも「続日本100名城」にも選ばれていません。
そのため、公式スタンプラリーを目的に全国の城を巡る人にとっては、訪問候補から外れやすい城です。
もちろん、100名城に選ばれていないことが、城の価値の低さを意味するわけではありません。
むしろ、明治に完成した現存城郭建築が残り、発掘調査によって大規模な縄張りも明らかになっている園部城は、十分に注目される価値があります。
「最後の城」という称号は持っているのに、名城スタンプ帳には席がない。
この少し寂しい立ち位置も、園部城らしい残念ポイントです。
3.それでも魅力的な園部城の見どころ
3.1 250年間の願いが、時代の終わりにかなった城
園部城の最大の魅力は、単に「最後に造られた」という年代の新しさではありません。
初代小出吉親の時代から、園部陣屋は城に近い規模を持ちながら、正式な城郭建築を認められませんでした。
それでも小出家は国替えをせず、10代にわたって園部を治め続けます。
そして幕末、京都を守るという役目を掲げることで、ようやく城郭化が実現しました。

ところが、完成した時には幕府はなく、武士の時代そのものが終わろうとしていました。
園部城は、新しい時代を迎えるために造られた城ではありません。
古い時代が最後にかなえた、長年の願いでした。
その歴史を知ると、櫓門の姿が単なる古い校門ではなく、250年分の思いを背負った門に見えてきます。
3.2 幕末維新期の櫓門・巽櫓・番所が現存する
園部城には、櫓門、巽櫓、番所という3棟の城郭建築が残っています。
明治になってから完成した近世城郭の建物が、同じ場所で使われ続けていることは貴重です。
中でも巽櫓は、園部城の南東、辰巳の方角を守った隅櫓です。大きな天守のような迫力はありませんが、白壁と瓦屋根の端正な姿には、幕末に生まれた小城らしい品があります。

櫓門と番所も、展示用に置かれた飾りではありません。
門は今も学校の入口として働き、番所は茶室として活用されています。
建物が残っただけではなく、役割を変えながら現代の暮らしの中で生きているのです。
3.3 毎朝、高校生が本物の城門をくぐって登校する
園部城で最も印象に残るのは、歴史と日常が重なる風景です。
生徒たちは、幕末の櫓門をくぐって学校へ向かいます。
門の横には巽櫓があり、その奥には校舎があります。
城跡を公園や博物館として保存する例は多くありますが、現存する城門を学校の正門として使い続ける例は珍しいでしょう。
かつて武士や藩士が通った門を、今は制服姿の生徒が通る。
園部城では、歴史がガラスケースの中に閉じ込められていません。
毎朝、門が開き、若い人たちを迎えています。
園部城は城としての役割を失いましたが、人を迎える門としては、150年以上たった今も現役なのです。
3.4 地下に眠る空堀が、本当の大きさを教えてくれる
現在の園部城は、櫓門と巽櫓の周辺だけを見ると、小さな城跡に見えます。
しかし、発掘調査や古絵図を重ねると、その印象は変わります。
園部城は本丸だけで完結する城ではなく、小麦山、大手門、内堀、中堀、外堀、城下町を組み合わせた広い防御空間を持っていました。
発掘された幅約12メートルの空堀は、その規模を具体的に示す証拠です。
この空堀は、江戸時代には本丸を南北二つの曲輪に分けていました。現在は同じ高さの平地に見える場所にも、かつては大きな切れ目が走っていたのです。

と探すのも楽しい
何もない地面の下に、深い堀が眠っている。
園部城の魅力は、目に見える建物だけではありません。
見えないものを想像した瞬間、学校や公園に分かれていた風景が、一つの城郭としてつながり始めます。
4.残念ポイントを逆手に取った楽しみ方
4.1 校門の外から「城と学校の共存」を味わう
通常日に訪れる場合は、無理に校内へ入ろうとせず、校門前から櫓門と巽櫓の位置関係を観察しましょう。
門として現役で使われているからこそ、園部城には独特の生活感があります。
登下校の時間帯は学校活動の妨げにならないよう配慮し、生徒や校内に向けた撮影にも注意が必要です。
自由に入れないことは残念ですが、城が学校として生き続けている姿を尊重することも、園部城見学の一部です。
内部を見たい場合は、園部高校や園部城祭りなどの公式情報を確認し、一般公開日に合わせて訪れるのが最良です。
4.2 古地図を片手に「見えない堀」を歩く
園部城は、現地の景色だけで縄張りを理解するのが難しい城です。
そこで役立つのが、園部陣屋の復元図や古地図です。
本丸、内堀、中堀、外堀、大手門、小麦山などの位置を確認してから歩くと、現在の道路や敷地の形に、かつての城の輪郭が浮かんできます。

(違うようです)
堀そのものが残っていなくても、不自然に曲がる道や敷地の境界、わずかな高低差が手がかりになります。
何も知らずに歩けば普通の町。
古地図を重ねれば、そこは巨大な城郭。
園部城は、現地と資料を往復することで完成する城です。
4.3 月曜日を避け、文化博物館から歩き始める
園部城を理解するなら、最初に南丹市立文化博物館を訪れるのがおすすめです。
園部藩や小出家、園部地域の歴史を確認してから城跡を歩けば、櫓門や小麦山の意味がわかりやすくなります。
続いて国際交流会館の周辺から園部公園を歩き、園部高校の櫓門と巽櫓を見学します。
時間に余裕があれば、小麦山や城下町にも足を延ばし、南丹市八木町の安楽寺に移築されたと伝わる太鼓櫓を訪ねるのもよいでしょう。
ただし、文化博物館と国際交流会館は月曜日や祝日などに休館することがあります。特別公開の有無も含め、公式サイトで最新情報を確認してから訪れてください。
園部城は、下調べをした人にだけ、少しずつ門を開いてくれる城なのです。
まとめ
園部城は「日本最後の城」と呼ばれています。
しかし、その魅力は最後という順位だけでは語れません。
城同然の規模を持ちながら、約250年間も陣屋と呼ばれ続けたこと。
幕府から許可を得ようとした矢先に、大政奉還が行われたこと。
明治新政府から築城を認められ、ようやく城になったこと。
そして、そのわずか2年後に城としての役目を終えたこと。
園部城の歴史には、時代に追いつこうとした小さな藩と、あまりにも速く変わっていった日本の姿が映っています。
現在、櫓門は高校の正門となり、巽櫓と番所も学校の中で守られています。
最も見たい場所へ自由に入れず、石垣や堀の位置もわかりにくい。月曜日には資料を調べる施設まで閉まってしまう。
確かに、残念です。
けれども、高校生が毎日くぐる城門ほど、過去と現在が自然につながった城門もありません。
城は失われたのではなく、学校へ姿を変えた。
堀は消えたのではなく、地面の下で歴史を抱えている。
園部城は、見えるものより、見えないものの方が大きな城です。
門前で立ち止まり、その向こうにある250年の願いへ思いを巡らせる。
そんな静かな城めぐりが似合う、日本最後の城でした。
参考資料
・公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター
「園部城跡第8次発掘調査報告」『京都府遺跡調査報告集 第152冊』
https://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/2012/G152/G152-2.pdf
・京都府立園部高等学校
「園部城跡(巽櫓)一般公開」
https://www.kyoto-be.ne.jp/sonobe-hs/cms/?p=3302
・南丹市立文化博物館
「利用案内」
https://nantan-museum.jp/wp/information/
・南丹市国際交流協会
「南丹市国際交流会館 会館のご案内」
https://nantania.jp/pages/28/
・一般社団法人園部文化観光協会、南丹市立文化博物館編集協力
「古地図の園部城下まち歩きマップ」
https://ambula.jp/map/kyoto/308/
・Wikipedia
「園部城」
https://ja.wikipedia.org/wiki/園部城
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