【番外編】ミッドウェイの戦いと長篠の戦いの共通点——敵の「企図」を読み解く戦術眼
こんにちは。
今回は、本編から少し離れて、歴史における「戦い(作戦)の本質」について、ちょっと面白い共通点をご紹介したいと思います。
テーマは、昭和の太平洋戦争における「ミッドウェイ海戦」と、戦国時代の「長篠の戦い」です。
一見、時代も兵器も全く異なる二つの戦いですが、元自衛官である私の目から見ると、その「作戦目的」には驚くほどの共通点があるように思えるのです。
1. 2つの戦いにおける「真の目的」とは?
まずは、それぞれの戦いの作戦目的を、戦術的な視点から並べてみましょう。
ミッドウェイの戦いの目的:
最大の狙いは、米軍の「敵機動部隊(空母)」を撃滅すること。そのために、米軍にとって重要拠点である「ミッドウェイ島」を攻撃し、付近に敵空母を誘い出す必要があった。
長篠の戦いの目的:
最大の狙いは、織田・徳川連合軍、特に「織田信長」を戦場に引きずり出して討ち果たすこと。そのために、徳川の「長篠城」を包囲して救援要請を出させ、信長を誘い出す必要があった。
ミッドウェイの方は、日本海軍の山本五十六長官の意図として広く知られているので、疑問に思う方は少ないでしょう。
しかし、問題は「長篠の戦い」の方です。
「何で勝頼の目的が信長の誘い出しだと言い切れるんだ?」「そんなこと、どの文献に書いてあるんだ?」という疑問を持たれる方も多いと思います。
確かに、当時の文献に直接そう書かれているわけではありません。しかし、私はここに戦いの本質があると考えています。
2. 「文献の正誤」ではなく「指揮官の意思」を読む
最近、実家に帰った際に昔読んだ「長篠の戦い」関連の本をパラパラと読み返してみました。そこで改めて思ったのは、日本の歴史研究や解説本の多くが、文献資料を突き合わせて「これは合っている」「これは間違っている」という、過去の発表に対する肯定や否定の議論に終始している、ということです。
もちろん学術的には大切なことですが、私の関心は少し違います。
「この指揮官は、何の意図(企図)を持ってこの作戦を行っているのか?」
「この行動には、戦術的にどんな意味があるのか?」
こうした「指揮官の意思」を、ストレートに解説してくれる本はなかなかありませんでした。
私がこうした「意思の読み合い」を理解する上で、とても参考になった本があります。『ローマ人の物語〈2〉ハンニバル戦記』(塩野七生著 / 新潮文庫)です。
この本では、カルタゴの英雄ハンニバルと、ローマの執政官スキピオの激しい戦いが描かれています。面白いのは、この2人の「相手の意思の読み合い(心理戦)」です。結局、スキピオは徹底した情報収集によってハンニバルの意思(企図)を見破り、最終的な勝利を収めます。
また、『ローマ人の物語〈10〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(下)』(塩野七生著 / 新潮文庫)ユリウス・カエサルの後半期、カエサルとポンペイウスの戦いでも同様です。強力な騎兵を奪われたカエサルが「いかにして戦うか」について、ポンペイウスは「カエサルのことだから何かあるはずだ」と警戒しながらも、最後までその意図を見破ることができずに敗北してしまいます。
同じく塩野氏の著書『マキャベリ語録』には、次のようなマキャベリの言葉が紹介されています。
「優れた指揮官ならば、次のことを実行しなければならない。
第一は、敵方が想像すらもできないような新手の策を考え出すこと。
第二は、敵将が考えるであろう策に対して、それを見破り、それが無駄に終わるように備えを完了しておくこと、である。」
戦いの最も重要な本質とは、まさにこの「敵の企図を読むこと」にあります。
攻撃側の目的は「我が企図(こちらのやりたいこと)の強要」であり、防御側の目的は「敵の企図(相手のやりたいこと)の破砕」です。お互いが「相手はどうしたいのか、どう動くつもりなのか」を、極限状態で考え抜いているのです。
3. 武田勝頼が置かれていた過酷な状況
では、長篠の戦いの当時、武田勝頼はどういう状況に置かれていたでしょうか。
時間の経過とともに、織田家と武田家の「石高数(国力)」の差はどんどん開いていました。このままだと差がますます広がり、いずれ太刀打ちできなくなることは目に見えています。
もし、皆さんが勝頼の立場なら、どうしたでしょうか。
戦術的な選択肢(行動方針)は、大きく分けて次の3つがあったと思います。
行動方針その1: 信長の領土拡張スピードを超えるペースで他国へ侵攻し、国力差を逆転する。
行動方針その2: 織田家の拡張速度の根源である「頭(信長本人)」を、戦場で直接討ち取る。
行動方針その3: 他国(上杉や本願寺など)と協力(同盟)して包囲網を形成し、信長の弱体化をはかる。
これまでの現状や戦力比から考えて、「行動方針その1(自力での国力逆転)」は現実的に無理だと勝頼も考えていたでしょう。
となると、現実的な解は「行動方針その2(信長の討伐)」と「行動方針その3(他国との連携)」の併案だったはずです。
しかし、利害関係の異なる他国と完全に足並みを揃えて信長と対峙するのは、非常に難しいことも理解していたと思います。
だからこそ勝頼は、信長が油断して、あるいは徳川を助けるために出てこざるを得ない状況(長篠城包囲)を作り出し、野戦で直接信長を叩くという「決戦」を企図したのではないでしょうか。
なかなか出てこない信長をおびき出すために一部の戦力を甲府においてきた可能性があるとも思っています。(勝てると思わせる必要がある。)
4. 信長は見抜いていた
そして、敵である織田信長もまた、超一流の指揮官でした。
信長は「勝頼が決戦を求めて、自分を引きずり出そうとしている(企図)」ことを、完全に「お見通し」だったと思います。
包囲された長篠城を救うためにわざわざ遠征してきたにもかかわらず、信長は長篠城の包囲を直接解きに行きませんでした。城の手前数キロ後ろ(設楽原)に陣を敷き、そこに頑丈な三重の柵を築いて待ち構えたのです。
これは、「攻めてくる勝頼を迎え撃つ準備(敵企図の破砕)」を徹底的に整えていた何よりの証拠だと思います。
敵が何をしようとしているのか(企図)を予想し、それを敵の実際の行動や、後世の書物の行間から確認していくこと。
それこそが、戦いの真の姿を理解する、もっとも面白い見方ではないかな、と思います。
城の遺構を見るときも同じです。「ここにこの堀があるということは、敵にこう動いてほしかったんだろうな」という、当時の指揮官の「意思(企図)」が透けて見えてくる瞬間が、たまらなく楽しいのです。
みなさんは、この2つの戦いの共通点、どう思われますか?
