タイパ・時短の時代にエンタメはどうなっていくか~日々是私小説(26)
時代に合わせた創作。ならば『今という時代』とは?
🤔めんどくせぇテーマを思いついてしまった
Xのポストで見かけた中に、ご時世的に今の若い世代だと、いわゆる”タイパ”重視の姿勢によって、時間を掛けないエンタメ消費の傾向があるという話があった。じっくり読まずに流したら再発見できなかった。「おすすめ」フィードで見ているとこういうことがあるんだよなぁ。
まぁ「じっくり読まずに流した」というくらいで、個人的にはそれは新しい発見ではない。実感的に思っていたことだ。
この源流がどこにあるかといえば、メールやショートメッセージ(LINE含む)や、Webでの掲示板やSNSという「短い文にフォーカスした送受信」がコミュニケーションの中心になった辺りだろう。言ってしまえば「ガラケーがiモードを手に入れた時」にはもう始まっていたんじゃないかと思う。
50や60文字のテキストで「長文失礼します」とかな。「コミュニケーションで長文を人に読ませるものではない」的な価値観は静かに深く醸成されていたんじゃないかと思う。
Web小説もたぶんこの影響の範疇にはあって、一話2000字を毎日更新していく連載スタイルなんかがそうだと思っている。これは新聞小説くらいの文字数だろうかね。全体で大長編になっていても、一つの区切りは短い、という形式は確かにある。(もちろん異なるスタイルも多いが、それは今回思考の題材ではない)
ショート動画も増えた。
Xを見ているとイラスト・漫画でも、「○○○○の話(1/2)」みたいな風に、ヒキになる最初の絵のポスト、オチになる二枚目の絵のポスト、という構成で「2コマ漫画」になっている芸風(?)が増えてきた。
キャラクター性が商品性の中心にあると、この程度のごく短いストーリー・ナラティブがあれば受け手は許容してくれる。
極小化していく"文芸的"ナラティブ
消費されるコンテンツに必要なナラティブがどんどん減ってきている、というのが俺なりの言語化だな。
ここで言っているコンテンツは、消費者が身体を動かして直接体験するものではなく、主として視覚から得る情報を処理するタイプのコンテンツだと思ってもらいたい。能動・体験型と、受動・想像型という風に個人的には切り分けている。今、題材にしているコンテンツは後者の受動・想像型だ。小説、漫画、アニメ、映画、といったあたり。ゲームは今のところこっち。
その中でも、「ナラティブを必要としないコンテンツ」の消費に、消費の軸足が移りつつある、ということかなと思う。特に若年層、10代半ばあたりのそれはもう、かなりのところまで行ってるんじゃなかろうか。
俺が特に気になっているのは、そういう傾向からコンテンツ消費に入った若者は、十年後二十年後にどんな消費傾向になるのか、というところ。
あんまり変わらず、じゃないだろうか。短いコンテンツを短い時間のうちに大量に回転させるという消費傾向のままになるのではないかと。
これが、我ながら恐ろしい未来予想なんだよな、そうではない、しっかりとした重量級ナラティブを好む人はもちろんいるだろうし、その傾向もまた変わらないだろう。ただ市場としてはどんどん少数派になっていってしまうのでは……という気がする。
ショート、短い、小さい方が、消費するにも楽だからだ。コストがかからないからだ。これは時間だけではない。「解釈する知的コスト」もかからないという意味だ。
人間は易きに流れるからねぇ。
現在のことに話を戻そう。
違う種類のナラティブが娯楽コンテンツの要素として使われるようになってきた、ということもあるかもしれない。これは「個人そのもの」のことだ。
専門職のストーリーテラーが作った物語、ストーリー、ナラティブではなく、その辺の個人が背負っているバックボーン。それが消費されるナラティブの対象に入ってきた。そういう時代性。そのことを強く感じるのが、Twitter・XではなくInstagramやBeRealといった写真SNSの台頭。BeRealは、最近でこそ西日本シティ銀行不祥事で有名になったが、数年前からちらちらと似たようなことは言われてたんだよな。こいつは写真SNSというだけじゃない問題を持っているけども。
実は最近の、モキュメンタリー型ホラー・サスペンスの台頭は、「個人」のコンテンツ化のひとつなのかなと思っていたり。
今のそういった商業作品は、それを専門職のストーリーテラーが作っているわけだが。消費コンテンツが商業作品に限られないご時世だ。非商業のテリトリーではそういった流れで「新作」が生まれていくのではないか。
そんな具合で、『今という時代』を消費されるコンテンツという側面から見ようとするなら、その答えの一つは「ナラティブを必要としない個人のプライバシー」という身も蓋もないゴシップ誌みたいなところに落ち着くんじゃないかと、恐ろしい予感がしているのだった。
文芸はどう時代に併走すべきか?
まぁ出来ないことはない。 端的に言えば「ショートショート集」だ。
Twitter・Xでも140字小説とかあるしね。たまにおすすめフィードに流れてくる。やり続け得ている人もいるんだろう。小説としてまったく無価値だなってくらい酷い内容のものが多いけど、たまに光るものもあって、そういうのに当たると嬉しくなる。
ラノベ界でたとえていえば、初期ファンタジア文庫の「スピンオフ短編集」戦略よな。あちらでは「原作」となる長編があったが、もしかすると、「原作のないスピンオフ」という意味不明な概念を新たに産み落とせたら、それが最適解なんじゃないか、という気はする。俺はぼんやりとそこに、形のようなものが見えている気がする、すでに。謎の新概念がどんな形をしているのか。でもぼんやり過ぎてこういう場所で書き残すことはまだ出来ない。待て次号(いつよ)。
ともあれ、これからのご時世「より短いページ数」の作品出版もあるのではないかな。原材料高騰の折、ページ数削減は業界的な要請だし。
物語として取り扱う題材、テーマが難しいと思うけどねー。恋愛なのかホラーなのか。
日本版ハーレクインみたいなのがいいのかな……という気はする。ある意味スターツ出版路線というか。名前出してすいません。
自分を照らして
個人的に、何年も前に書いたものが、ちょうどこんな感じのものになっている。それを書いたのはただの偶然なのだが。
みひらき物語 ~ 1400字掌編集(久保田弥代) - カクヨム
みひらき、の名の通り、文庫本見開きで始まって終わるショート小説集だ。
こういうもの、がちょうどこれからの時代には合うんじゃないかな。この作品集がではなく、こういうコンセプトが、だ。
実はこの感覚は一昨年くらいからうっすらと持っていて、昨年にnote内個人文芸賞に応募してみたりしたのも、その感覚があって「800文字以内」という短さにかえって惹かれたからだった。その文芸賞がこちら。
幸いにも面目躍如、最優秀をいただけた作品は以下。
これを主催されている花澤薫氏自身が、ショート小説、掌編短編を多数ものしていて、それをまとめた著作も出されている。
タイトルの、すべて失われ「る」というチョイスが痺れる。
この短編集も、32編もの小説を集めたショート集。2000字くらいの作品が多いのだろうか。もの凄い圧縮力で、人生を短編サイズに収めている。随所に引用される楽曲が、プルースト効果のように、過去の体験や記憶を読者の中に呼び起こす。それが作品と結びついた時、読者と作品は溶け合い、共犯関係となって作中の”喪失”を見届ける。読書体験を、読者自身の積み重ねてきた記憶と結びつける優れた手法だ。
こんな短編集、ショートストーリー集が求められるようになる時代かもしれない、と思うのである。
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チップ!? え、そんなことあるの? マジで?