南京事件考11): ヴォートリンが見た「12月以前」と日本大使館の“黙殺”
序章:検証の焦点
南京事件を巡る議論において、否定派はミニー・ヴォートリンの日記(『南京事件の日々』)の記述に偏りがあると主張する。具体的には、「十二月以前の中国軍による悪行」が意図的に伏せられているという点、および「日本軍の暴行とされるものは中国兵による工作である」という点だ。
しかし、彼女の日記を精読すれば、当時の状況はより複雑かつ悲劇的な重層性を持っていたことが明らかになる。本稿では、“日本軍入城以前の状況”と、“日本軍による具体的な殺害・略奪の実態”、そして“日本大使館による黙殺”の構造について、ヴォートリンの日記でどう伝えられてかを詳述する。
第1章:十二月以前の中国軍の行動と実態
否定派の論客は、ヴォートリンが中国軍の過失を隠蔽したと批判するが、実際の日記には入城前の混乱が克明に記録されている。
焦土作戦と火災: 中国軍は日本軍の進撃を阻むため、南京城外の建物を焼き払う「堅壁清野」作戦を断行した。日記には12月初旬から、空を焦がす火柱や、住処を失い城内へなだれ込む避難民の惨状が記されている。中国兵による放火の事実は、彼女によって隠されることなく記録されている。
堅壁清野(けんぺきせいや)は、焦土作戦の一種。清野作戦ともいう[1]。城壁に囲まれた市街地内に人員を集中させ(堅壁)、城外は徹底して焦土化する(清野)ことで、進攻してきた敵軍は何も接収できないようにして[2]疲弊させ、持久戦を有利に運ぶ狙いで行われる。
統制の崩壊と「漢奸狩り」: 日本軍入城直前の12月11日から12日にかけて、統制を失った中国兵が市民の衣服を奪って逃亡を図り、食料を求めて略奪を行う様子をヴォートリンは目撃している。また、スパイを摘発する「漢奸狩り」の名の下に、民間人に対する私刑が行われていたことも当時の外国人社会では共有された事実であった。
日中戦争中の「漢奸狩り」
国民政府側の指導者である蔣介石は自軍が日本軍の前に敗走を重ねる原因を「日本軍に通じる漢奸」の存在によるものとして陳立夫を責任者として取締りの強化を指示し、「ソビエト連邦のGPUによる殺戮政治の如き」「漢奸狩り」を開始した[13]。
国民政府は徴発に反抗する者、軍への労働奉仕に徴集されることを恐れて逃走する者、日本に長期間移住した者[注釈 3]などは、スパイ、漢奸と見なし白昼の公開処刑の場において銃殺したが、その被害者は日中の全面戦争となってから二週間で数千名に達し、国民政府が対民衆に用いたテロの効果を意図した新聞紙上における漢奸の処刑記事はかえって中国民衆に極度の不安をもたらしていた[15][16]。また、中国軍兵士の掠奪に異議を唱えた嘉定県長郭某が中国兵の略奪に不満の意を漏らした廉で売国奴の名を冠せられて火焙りの刑に処せられた、との報道があった[17]。1937年9月の広東空襲に対しては誰かが赤と緑の明かりを点滅させて空爆の為の指示を出したとして、その「スパイ」を執拗に追及するという理解に苦しむことも行われ、一週間で百人以上のスパイが処刑された[18]。
上海南市にある老西門の広場では第二次上海事変勃発後、毎日数十人が漢奸として処刑され、その総数は4,000人に達し、中には政府の官吏も300名以上含まれていた[20]。処刑された者の首は格子のついた箱に入れられ電柱にぶらさげて晒しものにされた[20]。
上海南陶では1人の目撃者によって確認されただけでも100名以上が斬首刑によって処刑された。罪状は井戸、茶壺や食糧に毒を混入するように買収されたということや毒を所持していたというものである。その首は警察官によって裏切り者に対する警告のための晒しものとされた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに公開処刑された[21]。
南京における「漢奸狩り」
日中戦争初期に日本で発行された『画報躍進之日本』の中で、陥落前の南京における「漢奸狩り」が報告されている[10]ほか、『東京朝日新聞』、『読売新聞』、『東京日日新聞』、『ニューヨーク・タイムズ』も「漢奸狩り」について報道をおこなっている。(下記参照)
戦争が始まると漢奸の名目で銃殺される者は南京では連日80人にも及び[22]、その後は数が減ったものの1937年(昭和12年)11月までに約2,000名に達し、多くは日本留学生であった[10](当時南京にいた外国人からも日本留学生だった歯科医が漢奸の疑いで殺された具体例が報告されている[23])。
『画報躍進之日本』では「これは何らかの意図をもって特定の者にどさくさを利用して漢奸というレッテルを付けて葬るという中国一流の愚劣さから出ていた」との見方を示し、さらに「南京で颯爽と歩く若者は全部共産党系であり、彼らによってスパイ狩りが行われるため要人たちは姿を隠して滅多に表に出ることがなかった」と報告している[10]。
南京では軍事情報の日本側への伝達、日本の航空機に対する信号発信や国民政府が日本の軍艦の運航を妨げるために揚子江封鎖を行うとした決定を漏洩したことを理由とするにとどまらず[24]、親日派をはじめ、日本人と交際していた中国人や少しでも日本のことを知るように話したり、「日本軍は強い」などと言うことを根拠として直ちにスパイと断定され処刑された[10]。外国人も例えば日本の書籍や日本人の写っている写真を持っているだけでスパイの嫌疑を受け拘引されたことから、南京を脱出する外国人も出ていた[23]。
1937年12月8日、中国軍は市民の暴動を恐れて少しでも怪しいところがあれば銃殺し、処刑されたものは100名を超えたと中国紙が報じた[25]。
南京戦直前(1937年(昭和12年)12月初め)の南京城内では毎日、漢奸狩りで捕えられ銃殺される者は数知れず、電柱や街角に鮮血を帯びた晒し首が目につかない場所はなかった[26]。南京攻略戦後には、日本軍に好意を持つものは漢奸として処分されることを示したポスターが南京市内いたるところで確認された[1]。
中国軍の南京周辺の焼き払いによって焼け出された市民が難民となって城内に流入し、食料難と暴動が市内で発生し、中国軍は治安維持と称して漢奸として少しでも怪しいものは手当たり次第に100名が銃殺された[27]。なお11月までの「漢奸狩り」で嫌疑をかけられた市民2,000名、12月初旬には連日殺害された[28]。

第2章:具体的な残虐行為の実態──殺害と略奪の現場
日本軍入城後、状況は「混乱」から「組織的・日常的な暴力」へと変質したとヴォートリンは見た。(⇒この見方が変わった状況認識の変化を銘記しておいてほしい。) 彼女の日記には、彼女自身が直接、あるいは信頼できる近親者から聞き取った具体的な殺害と略奪の事例が数多く残されている。
2.1 民間人の殺害事例
日本軍による殺害は、敗残兵の掃討という名目を大きく逸脱し、無抵抗の老若男女に及んだ。
老人の殺害(12月21日): 「わたしたちは、道路の中央に老人が倒れているのを見つけた。(中略)老人は、危害をこうむることは絶対にないと言い張って、大使館で保護してもらうことを拒んでいた(P71)」 この七十五歳の老人は、単にそこにいたという理由だけで射殺された。
使用人の射殺(12月21日):
「ジェンキンズ氏が信頼していた使用人は車庫で射殺されていた。彼は雇い主の家を出て大使館に避難することを拒んでいた(P72)」 アメリカ国旗を掲げた建物内であっても、日本軍の殺戮から逃れることはできなかった。
2.2 執拗な略奪事例
略奪は単なる食料調達に留まらず、家財道具一式を奪い、家屋を破壊し尽くす「徹底的な略奪」であった。
アメリカ人宅の蹂躙: 三牌楼にあるジェンキンズ氏宅は、アメリカ国旗を掲揚し、日本文の布告によって保護されていたにもかかわらず、「徹底的な略奪をこうむった(P72)」。
大学構内での略奪: ヴォートリンが守る金陵女子大学においてさえ、日本兵は壁をよじ登り、使用人の衣服や私物を奪い去った。彼女は、日本兵が掠奪品を抱えて塀を越えていく姿を何度も目撃している。(⇒衣服を奪い去った!?)
第3章:慰安所の設置──制度化された性暴力
1937年12月24日前後の記述は、日本軍が南京占領後、極めて迅速に「慰安所」の設置に着手したことを示している。これは兵士による無差別な強姦を、軍の管理下に置くことで抑制しようとした「制度化」の過程であった。
女性の差し出し要求: 日本軍は「百人の売春婦」を要求し、「集まらなければ良家の女性を連れて行く」と脅迫した。ヴォートリンは、避難民全体の安全を守るため、元売春婦たちが自ら名乗り出るのを断腸の思いで見守るしかなかった。
人道上の絶望: 彼女にとって慰安所の設置は、強姦を止めるための解決策などではなく、軍が公然と女性を略奪することを正当化する「制度化された暴力」の極みであった。(⇒この彼女の認識に関して別稿で考察する。)
第4章:日本大使館による報告の“黙殺”と責任転嫁
安全区国際委員会のメンバーは、連日目撃した暴行事件を文書化し、日本大使館へ提出し続けた。しかし、その処理プロセスは極めて形式的なものであった。
形式的受理と無策: 福井淳領事ら大使館員は、報告に対し「調査する」との回答を繰り返したが、現場の暴走を止める機能は果たさなかった。
「中国兵犯人説」の源流: 大使館の担当者がヴォートリンらに対し、暴行は「中国兵の仕業」であると弁明していた形跡がある。しかし、ヴォートリンの認識では、目撃したのは、軍服を着、軍馬を操り、軍の支給品を持つ紛れもない“日本兵”による犯行であった。
証明書の無力化: ヴォートリンが掲げた「安全保証の証明書」を日本兵が破り捨てる行為は、日本軍の統制崩壊と、大使館の権威が最初から軍に軽視されていたことを物語っていると彼女は思った。(⇒破り捨てたのが日本人兵士を装った者であったとしたら…!? 現に偽装していたことを告白した者がいる。)
結論
これまでの考察から、ヴォートリンの日記は、特定の陣営を擁護するためのプロパガンダではない。そこにあるのは、中国軍による破壊と、その後に続いた日本軍による組織的蹂躙の双方を目撃した一人の教育者の、命を削った記録」であり、ヴォートリン自身は、まごうことなく人道を重んじる「善意の人」であったことに疑いはない…のだが…。
