和泉雅子さんを偲んで「非行少女」(1963)
監督 浦山桐郎
脚本 石堂淑朗 浦山桐郎
原作 森山啓 『三郎と若枝』(『青い靴』)
出演者 和泉雅子
音楽 黛敏郎
撮影 高村倉太郎
編集 丹治睦夫
製作会社 日活
配給 日活公開

受賞歴
1963年 第3回モスクワ国際映画祭
金賞 『非行少女』(浦山桐郎監督)
1963年度 第37回キネマ旬報賞
日本映画ベスト・テン10位 『非行少女』(浦山桐郎監督)
1963年 第18回毎日映画コンクール
昭和37年10月のことだった。日活に入社して1年と3か月。15歳になっていた。
ある日、演技事務室に呼ばれた。ここは俳優さんに台本を渡したり、毎日の撮影のスケジュールを調整し、明日は9時開始でこの場面を撮影するよ、と教えてくれる係。この部屋にちょこっと仕切りがあり、そこに呼ばれた。「マー坊、次の映画は、これだよ」渡された台本を見て、びっくり。青い表紙に太い黒い文字で『非行少女』と書いてある。「えっ、不良の役。無理、むり、出来ない」学校さぼりたくて女優さんになったけど、無理。断ろうとした途端「マー坊、小百合ちゃんも浦山桐郎監督の『キューポラのある街』で、女優さんとして成長したんだよ。マー坊も15歳になったんだから、この作品で成長しようね」えっ、サー姉ちゃん(吉永小百合さん)の柳の下の二匹目のどじょう。うれしい。サー姉ちゃんの二匹目のどじょうになれるなら、やっちゃおう。と引き受けてしまった。
浦さん(浦山監督)とご対面の日。監督室に入る。初めて見る浦さんは、細っこくて厳しい顔つき、人生のすべてが文学一辺倒に見えた。きっと笑ったことがないんだろう、と勝手な想像を巡らせた。けれど、この日は運が悪い。少年サンデー・マガジンの発売日。まず読まなければ、せりふも覚えられない。演技もできない。いきなり打ち合わせ中にマンガを読みだした。浦さん、絶句・唖然・絶望。「この子、字が読めるのか」と叫んだ。「うん、難しい漢字以外は、読めるよ」これが『非行少女』のスタートだった。
10月・11月は金沢ロケ。浦さんの言うとおりに演技をするが、ダメ。何回やっても、ダメ。何時間やっても、ダメ。幸せな娘さんに見えると言う。
いよいよ、ラストシーンの撮影。浜やん(浜田光夫さん)に励まされ、更生して大阪の縫製工場に向かう、駅のホームのお別れのシーン。まずい。駅に売店がある。今日は少年サンデーとマガジンの発売日。思わず浦さんに「ねえ、40円貸してえ」「何買うんだ」「今日、発売日なの」浦さんの髪の毛が逆立ったのが見えた。後に、浦さん曰く「あの時は本当にショックで、台本をホームに叩き付けてこの作品をやめようと思った」
そうか。それで髪の毛が逆立ったんだ。長い間の謎が解けた。気がした。
11月末、金沢ロケは終了した。12月・翌年1月は、私が3本の映画を撮るため、浦山組はお休み。
実は浦さん『非行少女』は自分が見出した女優さんで撮りたかった。スタッフ一同「浦さん、今なら間に合う。その子で撮り直そう」「いいや、僕はマー坊で撮ることにした。きっと大丈夫。いける」と浦さん。
そんなこととは露知らず、正月映画の『海の鷹』、サー姉ちゃん主演の『泥だらけの純情』、初めての海外ロケ『空の下遠い夢』ではなんと横浜港から世界一周のイギリスの貨客船・チトラル号で、香港、シンガポールへ。初のパスポートを取得して、予防注射をして、出発。帰りはなんと、シンガポールの国際線の飛行機で羽田に帰国。バタバタの2か月間だった。
2月・3月は再び浦山組。撮影再開だ。ところが不思議。浦さん、私がどんな演技をしても褒めてくれる。おかしいなあ、と思いながら、ついついお調子者の私。きっと主人公の「若枝ちゃん」が乗り移って不良に見えるんだ、などと勝手に思い込み、悦に入っていた。
4か月かかった撮影は、無事にクランク・アップ。すぐに『川っ風野郎たち』『交換日記』と撮影。
『男の紋章』の撮影中、知らせが届いた。世界55カ国が参加する第3回モスクワ国際映画祭で『非行少女』が金賞を獲った、と言う。審査員のジャン・ギャバンさんが「この少女は、将来凄くなる」とお褒めのお言葉。ヤッター。これで完璧に学校が休める、と大喜び。
でも、まさか、『非行少女』が私の代表作となるとも知らず、実に呑気な私。ごめんね浦さん。これが私なの。自然体の私なの。じゃあ、またね。
