反グロ論:軍事ケインズ主義としての"太平洋戦争"
大東亜戦争から太平洋戦争へ
このYouTubeの動画は、大東亜戦争をめぐる歴史認識について詳細に解説している。動画では、この戦争が自存自衛のため、そして欧米によるアジアの植民地支配からの解放を目指したものであったと主張し、戦後のGHQによる歴史観の操作によって「太平洋戦争」という呼称が広まり、自虐史観が定着したと分析している。また、デフレ経済が戦争勃発の一因となった可能性や、日本の供給能力と米国のデフレによる余剰生産能力が戦況に与えた影響についても論じている。さらに、情報戦の重要性と、戦後の検閲が日本人から自国の歴史認識を奪ったと指摘し、これらの要因が現在の日本を取り巻く国際関係にも影響を与えていることを示唆している。
「大東亜戦争」と「太平洋戦争」という呼称の変遷は、戦後の日本社会に多大な影響を与えた。
呼称の変遷
•戦時中の呼称:大東亜戦争
◦第二次世界対戦中、日本国民はあの戦争を「大東亜戦争」と呼んでいた。◦1941年(昭和16年)12月12日、東条英機内閣は、アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアなどを相手にした戦争と、蔣介石の重慶政府との戦いを含めて「大東亜戦争」と閣議決定した。
◦この呼称には、欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、大東亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指すという理念と構想が込められていた。
◦日本政府がハワイ、マリアナ諸島、シナ大陸、ビルマなどの広大な範囲で繰り広げた戦争の呼び名として、「大東亜戦争」を正式に認めていた。
•戦後の呼称:太平洋戦争
◦日本の敗戦後、GHQ(連合国軍総司令部)が日本に「太平洋戦争」という言葉を「おしつけた」とされる。
◦戦後、GHQによって「大東亜戦争」という語の使用が禁止され、代わりに「太平洋戦争」が用いられたと言われている。
GHQによる呼称変更の理由と社会への影響
この呼称の変更は、GHQの日本弱体化政策の一環であり、戦後の日本の歴史認識や国民意識に深く影響を及ぼした。
1) 戦争目的の解釈と都合の悪さ
•「大東亜戦争」という呼称は、アジアの植民地の宗主国が中心となって構成された連合国側にとって都合が悪かったとされている。なぜなら、この呼称は「欧米によるアジアの植民地を解放し、大東亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す」という日本の理念を反映していたからである。
◦「太平洋戦争」という呼称が用いられるようになったことで、戦争の範囲や目的が太平洋地域に限定され、日本の戦争が「アジア解放」という側面を持っていたことが見えにくくなった。
2) 情報統制と「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」
◦GHQは、日本人に「戦争は罪である」という意識を持たせるための「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」を実施した。
◦その中で、教育、特に歴史教育において「大東亜戦争期の日本は悪であり、日本が悪かったからアメリカと戦争になり、負けた。日本が悪かったから原爆も落とされた」という考え方が植え付けられた。
◦このプログラムの一環として、「大東亜戦争」という言葉の使用が禁止され、「太平洋戦争」と呼ぶよう指示された。また、「満州事変から繋がっている15年戦争」という表現も導入された。
◦さらに、仮名遣いや漢字の変更も行われ、戦前の文化との断絶が図られた。
◦GHQは日本の新聞やラジオなどのメディアに対して検閲を行い、当初は事前検閲、後に事後検閲を実施した。これにより、メディアはGHQに回収を命じられないよう自主的に検閲を行う「自己検閲」を始めるようになった。
◦このGHQの検閲方法は、国民が「検閲されていること」に気づかないように行われた。戦時中の日本政府の検閲では問題箇所が墨で塗りつぶされ、国民にも検閲の事実が分かったのとは対照的である。
3) 歴史認識と「自虐史観」の形成
◦GHQの検閲とそれに伴う自己検閲の結果、国民は「大東亜戦争に至るまでの歴史」や「当時の世界情勢」、「通州事件」や「第二次上海事件」のような戦争に至った経緯や関連性について学ぶことができなくなった。
◦これにより、日本人としての思考回路や歴史観が「目隠しされ」「奪われてしまった」。
◦これが「自虐教育」あるいは「自虐史観」の始まりとなり、「日本が悪いことをした」という意識を日本人に持たせ続けることを目的としたアメリカの国家戦略に基づいていたと論じられている。
◦日本は「軍の暴走によって、勝ち目もないのに中国を侵略した悪い国」であり、「原爆を落とされてやっとまともな民主国家になった」といった「完全な自虐主義」的な見方が広まった。
4) 国家戦略としての日本弱体化と依存構造の構築
◦アメリカは、日本が「海洋大国としてライバルになる国」だと認識しており、二度とアメリカを脅かす存在にしないことを戦後の戦争目的としていた.。
◦GHQは当初、日本を農業国家にしようとし、重工業などを潰すことで、航空母艦などを製造する能力を奪う方針であった。財閥解体などにもその傾向が現れていた。
◦GHQは、日本の憲法を全面的に改正させるなど、国際法であるハーグ陸戦条約に違反する要求を日本に課した。
◦最終的には、日本が自国の軍事安全保障を維持するためにアメリカから武器を買い続ける、シーレーンもアメリカに依存する国であり続けることが、アメリカの国益にとって重要であるという認識が背景にある。
ニューディール政策
ニューディール政策とは?世界恐慌を乗り越えたアメリカの大転換
ニューディール政策は、1930年代にアメリカ合衆国を襲った世界恐慌(Great Depression)を克服するため、当時のフランクリン・ルーズベルト大統領が推進した一連の大規模な経済政策のことである。それまでの政府は市場への介入を最小限に抑える「自由放任主義」が主流で改めてたが、この政策によって政府が経済に積極的に関与する「国家資本主義」へと大きく舵を切った点が、歴史的な転換点であったと見なされている。
1. 政策の目的
ルーズベルト大統領が就任する前のラジオ演説で「大統領になったら、1年以内に恐慌前の物価水準に戻す」と宣言した通り、ニューディール政策の主な目的は以下の2つであった。
恐慌からの回復: 経済を立て直し、物価を安定させること。
雇用の確保: 大量に発生した失業者を救済し、仕事を提供すること。
2. 政策の内容(「最初の100日間」とその後)
ルーズベルト大統領は、就任直後の1933年3月4日から「最初の100日間」で次々と画期的な政策を打ち出した。
【就任初期の主な政策】
金融緩和と銀行救済: 銀行の取り付け騒ぎ(預金者が一斉に預金を引き出そうとすること)を収束させるため、大胆な金融緩和を行い、緊急銀行救済法を制定した。これにより、金融システムを安定させ、国民の信頼を取り戻そうとした。
大規模公共事業:
TVA(テネシー川流域開発公社): テネシー川流域の広範囲にわたる電力供給、治水、土壌保全などを目的とした一大公共事業で、多くの雇用を生み出した。
CCC(市民保全部隊): 若年失業者を対象に、森林保護や公園整備などの環境関連の公共事業に従事させ、大規模な雇用を創出した。
産業と農業の調整:
NIRA(全国産業復興法): 労働時間の短縮や最低賃金の設定を義務付け、企業の競争を制限することで、過剰生産を抑制し、労働者の生活安定を図った。
AAA(農業調整法): 農産物の過剰生産による価格暴落を防ぐため、作付け面積の削減を奨励し、農家への補助金を支給した。
労働者の権利保護:
ワグナー法(全国労働関係法): 労働組合の結成や団体交渉の権利を保障し、労働者の地位向上を目指した。
【第二次ニューディール(1935年以降)】
WPA(公共事業促進局): 失業者への手当給付から、さらに積極的に雇用を創出する公共事業(道路建設、学校、病院の建設など)を全国規模で展開した。
社会保障法の制定: 失業保険、老齢年金、障害者支援など、現代の社会保障制度の基礎となる制度を確立した。これは、政府が国民の生活保障に責任を持つという、大きな変化であった。
【対外経済政策】
自由貿易への転換: 保護貿易から自由貿易へと方針を転換し、大統領権限による関税率の変更や、各国との互恵通商協定の締結を進めた。
3. 政策の効果と批判
ニューディール政策によって、アメリカ経済は1933年を底に回復傾向を示した。名目GDPは1941年に、実質GDPは1936年には恐慌前の水準を上回った。しかし、失業率は1943年まで恐慌前の水準に戻らず、完全な景気回復は第二次世界大戦による軍事支出の増大によってもたらされたという見方もある。
ニューディール政策に対する評価は、現在でも経済学者や歴史家の間で分かれている。
批判的な見方:
一部の政策(NIRAやAAA)は、連邦最高裁判所で「違憲」と判断され、ルーズベルト大統領は最高裁判所の構成を変えようとする動きを見せるなど、強い抵抗に直面した。
ミルトン・フリードマンなどの経済学者は、大恐慌を終わらせたのはニューディール政策ではなく、連邦準備制度(FRB)による金融政策の失敗からの回復と第二次世界大戦による軍事支出の増加だと指摘している。
積極財政によるインフレ傾向や政府債務の増大を懸念し、財政・金融政策を引き締めた結果、1937年〜1938年には一時的に失業率が再上昇する「ルーズベルト不況」と呼ばれる現象も起きた。
肯定的な見方:
多くの研究では、金融政策と財政政策を組み合わせた「ポリシーミックス」が経済回復に効果があったと評価されている。
特に、社会保障制度の確立や公共事業による雇用の創出は、国民の生活を安定させ、資本主義のあり方を大きく変えたとされている。
4. 歴史的意義
ニューディール政策は、アメリカ社会に計り知れない影響を与え、その後の世界の経済政策にも大きな影響を与えた。
政府の役割の拡大: 連邦政府の歳出が大幅に増え、GDPに占める割合も増大した。これにより、連邦政府が強力な権限を持ち、全米規模で公共事業や雇用政策を推進するようになった。
社会保障制度の普及: 社会保障法の制定は、政府が国民の生活保障に責任を持つという考え方を定着させ、後の福祉国家の発展に影響を与えた。
「100日ルール」の起源: 新たな大統領が就任後「最初の100日間で何をするか」という公約が重要視されるようになったのは、ルーズベルト大統領のこの期間の精力的な活動が由来とされている。
ニューディール政策は、大恐慌という未曾有の危機に対し、政府が市場経済に積極的に介入し、国民の生活を安定させるという新たなモデルを提示した。その効果や評価は様々だが、現代の経済政策や社会保障制度の基盤を築いた、極めて重要な歴史的転換点であったことは間違いない。
詳細については、Wikipedia「ニューディール政策」も参照。
太平洋戦争:ルーズベルト大統領の「公共事業」としての戦争
第二次世界大戦、特に太平洋戦争は、多くの人にとって純粋な軍事衝突として認識されている。しかし、当時のフランクリン・ルーズベルト大統領にとっては、世界恐慌からの脱却を目指した「ニューディール政策」の延長線上にある、巨大な「公共事業」という側面も持ち合わせていたという見方がある。
1) ニューディール政策の限界と残された課題
ルーズベルト大統領は、1930年代にアメリカを襲った未曾有の世界恐慌に対し、政府が経済に積極的に介入する「ニューディール政策」を推し進めた。金融システム改革、大規模な公共事業(テネシー川流域開発公社など)、農業・産業の統制、社会保障制度の導入など、多岐にわたる施策を実施し、ある程度の経済回復と社会安定をもたらした。
しかし、これらの政策をもってしても、恐慌前の水準にまで経済を完全に回復させ、特に深刻な失業問題を完全に解決するには至らなかった。公共事業は多くの雇用を生み出したが、その規模には限界があり、数百万人に上る失業者の完全な吸収には至らなかったのである。1937年には一時的な景気後退(ルーズベルト不況)も経験し、ニューディール政策だけでは根本的な解決が難しいという認識がルーズベルト大統領の中にあったとされる。
2) 戦争がもたらす経済効果
戦争は、その悲惨な側面とは裏腹に、経済活動を爆発的に活性化させるという側面を持つ。これは、軍需品の生産、兵士の徴兵、それに伴う労働力の需要増大など、巨大な国家プロジェクトが動くためである。
大量の雇用創出: 兵器、弾薬、軍服、食料、輸送手段など、戦争に必要なあらゆる物資の生産が急増し、工場はフル稼働し、大量の労働者が必要になる。徴兵によって失業者の一部が兵士となり、残された労働力は軍需産業に吸収されていく。これは、ニューディール政策の公共事業が目指した雇用創出を、はるかに上回る規模で実現する可能性を秘めていた。
産業の活性化: 戦争は、航空機、艦船、戦車といった高価な兵器の開発・生産を促進し、関連する鉄鋼、機械、化学などの重工業を飛躍的に成長させる。また、最新技術の研究開発も加速され、戦後の技術革新の土台となることもある。
財政出動の正当化: 平時には反対されがちな巨額の財政出動も、戦争という非常時には「国防のため」という大義名分のもとで容易に実行可能となる。これにより、政府は大規模な資金を投入し、経済を動かすことができる。
3) 太平洋戦争は「最大にして最後の公共事業」だった?
このような背景から、ルーズベルト大統領にとって、第二次世界大戦、特に日本との太平洋戦争は、世界恐慌によって疲弊したアメリカ経済を完全に回復させるための「最大にして最後の公共事業」として認識されていたという見方が強まっていく。
ルーズベルト大統領が戦争を避けられないものとして捉えつつも、それを経済回復の手段として利用した可能性が推察される。平時の公共事業では解決しきれなかった失業問題や生産能力の過剰を、戦争という形で解消し、国家総動員体制のもとで経済を再生させようとした、という考え方である。
実際に、アメリカが第二次世界大戦に参戦した後、軍需生産が急増し、失業率は劇的に低下した。経済は完全に回復し、アメリカは戦後世界の経済大国としての地位を確立した。この事実は、戦争が結果的にアメリカ経済の完全な復活を促したという見方を補強する。
まとめ
ニューディール政策は、政府が経済に介入する道を開き、社会保障の基礎を築いた。しかし、その限界に直面したルーズベルト大統領は、太平洋戦争を、未解決の経済問題を解決し、アメリカ経済を完全に立て直すための、いわば国家を挙げての巨大な「公共事業」と捉えていた可能性がある。これは、戦争という悲劇の裏に隠された、もう一つの歴史の側面と言えるだろう。
ルーズベルト大統領の戦略的意図:奇襲という物語
米国の経済状況とニューディール政策の限界
日本が第二次世界大戦へと向かっていた当時、アメリカは深刻な経済問題を抱えていた。
•世界恐慌と超デフレ: 1929年のニューヨーク株式市場の暴落に端を発した世界大恐慌により、世界は超デフレーションに陥り、各国経済は疲弊した。
•高い失業率: アメリカでは、1933年時点で失業率が24.9%に達し、多くの工場が稼働しておらず、大量の失業者が存在していた。
•デフレスパイラル: デフレ下では、モノが売れないために企業は従業員を解雇し、解雇された人々やその家族が買い物を控えるため、さらにモノが売れなくなるという悪循環(デフレスパイラル)が生じ、国力が衰退していく状態であった。
•ニューディール政策の導入と限界: この状況に対し、1932年の大統領選挙で当選したフランクリン・ルーズベルトは、ケインズ理論に基づいた「ニューディール政策」というデフレ対策を実施した。この政策は一時的に景気を好転させ、失業率も低下させたが、景気が少し良くなるとすぐに緊縮財政へと舵を切り出す傾向があった。結果として、1937年には失業率が14.3%まで下がったものの、再び上昇に転じた。アメリカのデフレは、日本との開戦まで根本的に解決されなかった。1940年時点でも、アメリカの失業率は約15%と高い水準にあった。
戦争による需要創出と経済回復
デフレが需要不足の問題であるならば、戦争は巨大な需要を生み出す最善の方法となり得る。
•供給能力の活用: デフレの国は、失業者が多く、稼働していない工場が多いため、戦争になっても供給能力の不足が起きにくく、生産拡大が容易であるという特性がある。
•日米の状況の対比:
◦1941年当時、日本はすでにデフレから脱却しインフレ状態にあり、供給能力をほぼ使い切っていた。そのため、それ以上の生産拡大は困難であった。例えば、日本の軍事生産のGNP比率は1941年の23.1%から1942年には30.5%へ7%増加したが、これは根性で振り絞った結果であった。また、人手不足が深刻で、女子挺身隊を軍需工場に動員するほどであった。
◦一方、デフレにあったアメリカは、生産能力が余りまくっており、失業者が多数存在していた。これにより、アメリカは軍事生産を飛躍的に拡大することが可能であった。1941年のアメリカの軍事生産のGNP比率は11.2%であったが、1942年には33.5%にまで急増し、わずか1年間で22.3%もの増加を達成した。
•民需から軍需への転換: アメリカでは、クライスラー、フォード、GMなどの自動車工場が戦闘機を生産するなど、民需生産が軍需生産に転用され、アメリカ中の工場がフル稼働を始めた。これにより、失業者も次々と雇用され、デフレギャップ(需要不足)を埋める形で軍事生産が増加していった。
•終戦時の完全雇用: 結果として、アメリカは1945年の終戦時までに完全雇用を達成した。これは、戦争がアメリカのデフレと失業問題の解決に大きく貢献したことを示唆している。
ルーズベルト大統領の戦略的意図
以上の経済状況と生産能力の変遷を踏まえると、太平洋戦争がルーズベルト大統領にとってニューディール政策の延長線上、あるいはその限界を打破する手段として位置づけられていた可能性が推察される。
•戦争回避を望まない世論: 当時のアメリカ国民の大半は戦争に反対しており、ルーズベルトは「戦争に絶対に参加しない」という公約で当選していた。
•「奇襲」の必要性: 戦争を始めるためには、国民を納得させる「物語」が必要であった。そのため、「日本が真珠湾を奇襲した」というプロパガンダが流布された。実際には、アメリカは1940年夏には日本の暗号を解読しており、真珠湾攻撃の計画を事前に把握していたにもかかわらず、司令部に伝達しなかったという事実が後にアメリカ側によって公開されている。これは、アメリカが日本を挑発し、戦争に引き込む意図があったことを強く示唆している。
•ハル・ノートの役割: ハル・ノートは、日本が受け入れがたい満州からの撤兵などの要求を含んでおり、日本がこれを拒否せざるを得ない状況を作り出し、結果的に戦争へと追い込む役割を果たした。経済封鎖は国際法上、宣戦布告と同じ意味を持つとされ、すでに日本はアメリカ、イギリス、中国、オランダによる経済封鎖によって窮地に追い込まれていた。
まとめ
これらの状況から、太平洋戦争は、単なる地政学的な対立やイデオロギーの衝突だけでなく、アメリカが抱えるデフレと大量の失業という経済問題を解決するための、ルーズベルト政権の事実上のニューディール政策の一環であったと推察できる。戦争による巨大な需要の創出と、それに伴う生産能力のフル稼働、そして失業者の雇用は、ニューディール政策では達成しきれなかったアメリカ経済の完全回復を現実のものとなった。
「軍事ケインズ主義」とスケープゴートとしての日本
挫折したニューディール政策とスケープゴートに選ばれた日本:永井俊哉
フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策は、世界恐慌からの脱却を目指した画期的な経済政策であった。しかし、この政策の延長線上に「軍事ケインズ主義」という概念、そして第二次世界大戦における日本が「スケープゴート(生贄)」とされたという、複雑な視点が存在する。
フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策は、世界恐慌からの脱却を目指した画期的な経済政策であった。しかし、この政策の延長線上に「軍事ケインズ主義」という概念、そして第二次世界大戦における日本が「スケープゴート(生贄)」とされたという、複雑な視点が存在する。
1) ニューディール政策の限界と「軍事ケインズ主義」への道
ニューディール政策は、公共事業の拡大、金融改革、社会保障制度の導入などにより、一時的に経済を安定させ、失業者を救済した。しかし、それだけではアメリカ経済を恐慌前の活況に戻すには不十分であった。特に、莫大な数の失業者の完全な解消は困難であり、大統領は政策の行き詰まりを感じていた。
ここで登場するのが「軍事ケインズ主義」という考え方である。 「ケインズ主義」とは、経済学者のジョン・メイナード・ケインズが提唱した理論で、不況期には政府が公共投資などを通じて積極的に需要を創出し、経済を活性化させるべきだというものである。 「軍事ケインズ主義」は、この考え方を軍事支出に応用したものだ。つまり、軍事費を増やすことで、巨大な需要と雇用を生み出し、経済全体を回復させようとする政策を指す。
ルーズベルト大統領にとって、ニューディール政策だけでは克服できなかった経済の停滞を打ち破るために、軍事支出の拡大が有効な手段として浮上した可能性がある。大規模な軍備増強は、工場をフル稼働させ、兵器や物資の生産を加速させ、結果として大量の失業者に仕事を与える「究極の公共事業」になり得たのである。
2) スケープゴートとしての日本
しかし、平時に大規模な軍事支出を正当化するには、強力な「敵」の存在が必要となる。その「敵」として日本が「スケープゴート(生贄)」にされた。
経済的苦境の出口としての戦争: ルーズベルト政権は、ニューディール政策で失業問題が完全に解決できない中、戦争を経済再生の手段として認識し始めた可能性がある。
「敵」の必要性: 大規模な軍事動員や支出には、国民の支持を得るための明確な「脅威」が必要だった。
日本への経済的圧力: アメリカは、中国市場への進出を巡る利害対立や資源禁輸(特に石油)によって、日本を経済的に追い詰めた。これは、日本に選択肢を与えず、戦争への道を歩ませるための意図的な圧力だった。
真珠湾攻撃への誘導: 最終的に、日本を真珠湾攻撃へと「追い込んだ」。日本が攻撃することで、アメリカは「宣戦布告なき奇襲攻撃を受けた被害者」という立場を確立し、国民の戦争への支持を一気に高めることができた。
戦争目的のすり替え: 本来の目的が経済回復にあったとしても、国民には「民主主義を守るための正義の戦争」として提示され、ルーズベルトは「戦時大統領」として国民の圧倒的な支持を得た。
つまり、ルーズベルト大統領はアメリカ経済を立て直すために、大規模な軍事支出を伴う「軍事ケインズ主義」を推進しようとした。そのために、意図的に日本を追い込み、真珠湾攻撃を誘発することで、アメリカが戦争に突入する大義名分を作り出し、日本を「スケープゴート」として利用したのだ。
まとめ
この視点から見ると、第二次世界大戦、特に太平洋戦争は、単なる国際紛争としてだけでなく、アメリカ国内の経済問題を解決するためのルーズベルト政権の戦略的な選択という側面があったと考えることができる。そして、その過程で、日本が「敵役」として意図的に仕立て上げられ、真珠湾攻撃という形で戦争に引きずり込まれる「スケープゴート」とされた、という解釈も成り立つ。
参考文献
amzonレビュー
真実心理 ★★★★★
日本を開戦に追い込んだ米国外交の米国による批判が分かる
この本は、米国の国防政策専門家のジェフリー・レコードが開戦に至る原因を分析してまとめ上げた米国陸軍戦略研究所レポートの訳本である。この本は、決して、日本の行動を擁護してはいないし、満州、中国における事情や日本の真意を理解していないし、日本や日本人に対する多大な誤解や蔑視があるが、日本が勝ち目のない戦争を米国に挑まざるを得なかった原因と理由を、米国の観点から分析している。
結論は、「1941年に日本がアメリカとの戦いを決意した動機は、一つには日本の誇りの問題であり、もう一つは、アメリカによってもたらされた日本経済の破綻であった」としている。米国は日本経済に強い圧力をかけることで日本の東南アジアへの進出を牽制し、インドシナ及び中国からの撤退を要求した。つまり日本という国家の権利の放棄と、米国との交易再開を天秤にかけさせることになった。これは、日本が、国際関係において、唯々諾々と米国の主張を受け入れる国になることを宣言することを意味する。どのような国であれ、このような屈辱的な条件を呑み、国家としての面子をつぶされる事態を甘んじて受けることはない。日本という国家なら、なおさらである、とある。
事実、日本は、領土の支配欲はなく、蒋介石との間で和平を結び治安を維持し平和で安定した中国の建設を望んでいたのであるが、英米が中立法に違反して軍事物資、資金、人材(兵)の提供をしていたために、講和が図られず、治安が維持されないため中国から撤兵ができないでいた。この事情を無視して、米国は自らが蒋介石を支援して和平を妨害しておきながら、即時撤兵を要求した。米国は、1939年7月に日本に対して一方的に通商条約破棄を申し渡し、1940年1月から1941年7月に掛けて、航空燃料、鉄鋼製品、潤滑油、屑鉄、工作機械、銅、真鍮などの日本の工業に必要不可欠な資材の輸出制限及び全面禁止に至り、遂に、1941年7月26日に日本の在米資産を凍結し(すなわち、日本の米国から輸入を不可能にした)、8月1日全面的に石油の輸出を禁止し、日本の生殺与奪権を握ったのである。また、英米は、ゴム、錫などの天然資源のマレーシア、インドネシアから買い占めを行い日本に資源を回さないようにしている。米国が日本の南部仏印進駐を排斥する目的は、アジアを植民地化していた英国の弱体化を防止するためであった。
1941年8月末には、米国の対日経済戦争は最高潮に達し、日本は、東南アジア地域を占領するか、米国の要求に屈伏して経済的に窮乏し無力化に向かうかの二者択一を迫られた。米国の要求に屈伏することは、満州、朝鮮、台湾からの撤退を意味し、これまでの日本の大国としてのステータスを失い、国家目標を喪失することを意味した。日本は、国家の生存を米国の寛容さに依存しなければならず、米国の要求は、日本としては到底、容認できるものではなかった。
日本は、米国との戦いを決意しようが、米国の要求に屈しようが、どちらの選択をしても国家的破滅となることは避けようがなかった。日本は戦うしか道がなかったのである。戦わずして降伏することは、日本が物理的に破滅するだけでなく精神的にも崩壊することを意味したとある。
米国が中国からの無条件即時撤兵を要求したことが、日本に交渉の継続を断念させたとある。逆に言えば、米国は東アジアをめぐって日本と戦ったのではなく、中国をめぐって日本と戦ったのである。日本が米国領のハワイではなく、英国、オランダの植民地だけを攻撃していたならば、ルーズベルトは米国議会での宣戦布告の承認と国民の賛成を得られなかったであろうという。
苛酷な経済制裁(パリ不戦条約によると、経済制裁は戦争の先制攻撃とされている)による恫喝により、ルーズベルトらの米国政府は、要求通り、日本が中国から即時撤兵をすると考えていたのであろうか。米国は、外交の稚拙さにより、しなくとも良い日本との戦争を起こし、戦争責任の半分は、フランクリンルーズベルト政権にあったとしている。
最後に、1941年11月26日に野村駐米大使に手渡された、米国の宣戦布告とも言うべき、いわゆるハルノートについて、本書訳者の渡辺惣樹氏が解説している。このハルノートは米国議会はもとより国民にも知らされていなかった。下院議員ハミルトン・フィッシュは、ハルノートを知らずして、参戦賛成演説をしたことを、後日、恥ている。フィッシュは、ハルノートは、戦争になることが分かりきった明らかな最後通牒であるとしている。ルーズベルトが対日宣戦布告の同意を求めるために議会でなした「恥辱の日」演説には、開戦僅か16時間前に天皇へメッセージを送達したことに触れて交渉継続中であったと偽装しているが、最後通牒(ハルノート)の言及は一切なく、その後もこれを隠し続けて、ルーズベルトは民主党議員も共和党議員も国民も欺いたと、フィッシュは述べている。
本書のレコードレポートは、決して、日本の真意を理解している訳ではないが、ルーズベルトの経済制裁を主とする外交の拙劣さを厳しく批判している。その意味で、極めて良書である。戦後、日本は一方的に侵略戦争を仕掛けて、アジアに迷惑を掛けてきたと教育され、それを疑わないできた日本人、特に、政治家、役人、学者、マスコミ人が、是非とも読むべき本である。
多くの人が、是非とも読まれることを薦める。
