「家族」が書けなかった私の、10年の空白
「家族について、書いてください」
穏やかな声が、講義室に響く。春特有のやわらかな陽気が、窓越しに感じられて心地良い。内心焦ってさえいなければ、最高に気持ちの良い日だった。
20代の頃、ある高名な作家さんの授業を受ける機会があった。本を読まない人でも知っている有名な賞で、受賞候補に挙がっていたような方だ。
課題は「家族」。どうしても書けない場合は、創作や独自のテーマでも良いとのこと。親子の絆、反抗期、日常の面白エピソード、泣ける話……?
結論から言うと、私はどれも書けなかった。
家族仲が悪いわけではない。
ただ、母と喧嘩することは、妹に比べると圧倒的に多かったと思う。いつも母と仲が良い妹にコンプレックスを感じていた私は、いつも二人を外から眺めているような気がしていた。友達で三人組を作ったら、いつの間にか一人だけあぶれている、アレだ。
「いっそ一人にしてくれよぉ」
とでも言いたくなる、アレである。
私だけわずかに楕円形でいるような感覚とでも言おうか。母や妹は丸い形なのに、そこに混じると私がすこーしだけ違うのがわかる。決して重なれない。
ありていに言えば、私にとって実家は、少々居心地が悪かったのだ。
同じように、母と離婚した父との距離感に悩んでいたのもこの頃。一般的な男性は、たとえ夫婦喧嘩をしても手当たり次第に物を投げつけない。幼いころは生粋のお父さんっ子だった私だが、そう分別が付くようになった瞬間、記憶のすべてに疑問を持つようになった。私が好きだったお父さんは、本当にその通りの人だったのかと。
投げられて空中を通過していった、組み立て式プラスチックワゴンの支柱。壊れたままのそれに、そのあと父も母も触れない。そうして過ごしていくうちに、私もいつの間にか見て見ぬふりをして過ごすようになった。
「家族」と聞くと、反射的にそういった記憶が頭を駆け抜ける。
誤解なきように重ねて言うが、母と妹との仲は悪くない。私のことを可愛がってくれていた父とも、就職する前までは連絡を取っていた。
それでも、日ごろ触れられないように隠していた部分に光を当てられると、どうしようもなく全身がざわつく。
はっと、白昼夢から覚めたような心地で、自宅のローテーブルの上に載った液晶画面に目を戻す。
そうだ、今は一人暮らしをしている。ここは、私だけの空間だ。
書こうとするたびに、キーボードをたたく手が、ピクリとも動かなくなる。
無理に言葉を捻り出そうとすると、鼓動が少し早くなった。明け方に外から聞こえてくるスクーターの音だけが、妙に響く。
それでも、心の奥底に沈んだ澱のようなものをかき集めながら、ひとつずつ文字を重ねていった。
――そうして書き上げたのは、かなり反抗的な作品だった。
イメージは、安部公房の『赤い繭』。帰る場所をなくした男性が、自分自身をほどいて繭になってしまう、あの話だ。
今思うと、とてつもなく背伸びしていた。
制服で参加すべき入学式に、格式高い古典柄の着物で殴り込みをかけたようなものである。本当によくもまあ、あんな作品を提出したものだと、今では思う。
提出した作品は、講義の時間に自分で読み上げることになっていた。自分の番が巡り、わずかに声が震える。
先生は、読み終えて最初に一言、
「これは、文章を書き慣れている人の作品ね」
とだけ言った。
シンと静まりかえった教室。軽やかだった空気が、水を含んだように重たくなったような気がした。決して褒められてはいないということを、困ったような先生の表情から悟り、内心冷や汗が流れる。
次の一言が出るまでのわずかな沈黙が、長く感じられた。
「人を、もう少し描いてみて」
瞬間、鼓動がはねる。
恥ずかしさや悔しさ、悲しさが洪水のように流れ込み、頭がクラクラした。
この上なく的確な指摘だった。
共感されたかったわけでもなく、理解されたかったわけでもない。ただただ、“家族を書くこと”だけは、できなかった。
私が提出したものが、“家族を書かないための小説”だったことを見透かされたのだ。先生の言葉が、杭で打ったように私の中に突き刺さる。
講義が終わってからも、ずっと手が震えていた。書けない自分を突き付けられて、めまいが止まない。
一部の人間にとって、なんて残酷なテーマなのだろう。
何度も、そう思った。
この一件からエッセイというものが苦手分野になり、3期あった講義の受講を2期まででやめてしまう。
ほかの受講生の作品は、少なくとも私から見てきちんと“評価”されていた。だから、“正しく”家族を書けない自分には、才能が無いとも思った。
なぜあんな風に、穏やかに綴れるのか。私はこの教室でも、楕円形にしかなれなかったというのに。
そんな私が最近少しずつ書き出したのは、苦手だったエッセイ。
今まで避けてきた分野だから四苦八苦しているが、まったく書けないことはないという手応え。意外に書けるではないかと拍子抜けしてしまう。
今振り返ってみると、授業を受けていた当時も、私は決して書けないわけではなかったのだと思う。
ただ、自分を俯瞰して見るには、あまりに当事者である部分が大きかったのだろう。複雑な気持ちが“書けない”という事実と重なって苦手意識につながり、36歳の今日まで来た。
一行書いては、消し。
一行書いては、消し。
ようやく二行目に入ったと思ったら、また言葉が出てこなくなる。そんな状態が、あの講義を受けた日から約10年ほど続いた。
長い間、書くことから逃げてしまったことに、ずっと罪悪感があった。
しかし、今振り返ってみても、不思議と後悔はしていない。一旦離れたことが「当時の私にとって最良の選択だった」と、10年を経てようやく腹落ちしたからだ。
「もう少し人を描いてみて」
先生の言葉が刺さったあの瞬間、私は本当の意味で“書くこと”を始めたのだ。小学生のころから文章を書き続けてきたというのに、このとき初めて、書けない自分と向き合ったのである。
構成を練るとき、執筆するとき、公開ボタンを押すとき――この胸の痛みが、今でも私を原点へと引き戻してくれる。
(本文:2,519 文字)
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