ステルス 9
これまでのお話は
ついに上層へと広がったウイルス。しかし、それを止める前に橋谷が捕えられてしまいました。
コハルは上層の一部の人間にウイルスが寄りつかないことに気が付きます。しかし、槇からは戻って待機しろと言われてしまいます。
倉庫を出て、何となく皆が去っていった方へ足を向ける。コハルの頭の中では、槇に言われたことがぐるぐると繰り返されていた。
(黙ってれば……仕事に戻れる)
でもそれは、今の状況を切り捨てることだ。本当に、自分にしか見えないものがあるのなら、言われた通りに待っていて、よいものだろうか。
立ち止まって息をついて、辺りを見回したコハルは、それ以前の問題に気がついた。
(どこ、ここ……)
官舎へ帰ろうにも、鍵をもらおうにも、今いるのは、全く知らない区画だ。槇や相原は普通に去っていったし、ここへ連れてきた橋谷も迷うことなく向かっていたから、皆は知っている場所なのだろう。
その上、周りには誰も歩いていなかった。
もしかしたら、普段は使われていない区画なのかもしれない。緊急事態の割に、静かすぎて怖いくらいだった。
通信機器もない今では、連絡の取りようもない。もとより使いこなせてはいなかったのだが。
あるのは、渡された電気銃とカートリッジだけだ。そのまま持ってきてしまったのだが、よかったのだろうか。なんとなく——橋谷は不正に持ち出していたような気がする。
(なのに……?)
あのとき、誰もそのことを咎めなかった。それを言うなら、本来いるはずのない、コハルの存在すら黙殺された。
(なんで……?)
そこでコハルは、橋谷の上着を着たままだったことにようやく思い至った。ポケットに何か、使えるものがあるかもしれない、とあちこちを探る。
そうしながら、これを着せられたときのことを思い出して、再び彼女は首を傾げた。
(……なんで……)
よく考えてみれば、あれは、ほんの少し前のことだ。ゲートの爆破で捕まるにはいくらなんでも早すぎる。
それに、とコハルはもっと重要なことに気がついて、手を止めた。
(薬なんか、あるわけないんだ……)
今になって、相原があれほど憤り、槇が必死でそれを止めていた意味が分かった。
他の人の目には、見えないはずなのだ。繭も、虫も、もちろんウイルスも。
コハルが気がついて、松葉に連絡を取ったのだ。
あのとき。
松葉はどんな様子だっただろうか。
彼女は自分が説明することに必死で、相手の態度まで気にする余裕はなかった。いつもの通り、コハルの話を聞いてくれていた、そう思っていたのだが。
(そうじゃなかったら……)
橋谷が連れて行かれたのが、決まっていたことだったのか、誰でもよかったのかはわからない。
どちらにしても、彼はその前に言っていなかったか。これは仕組まれたことなのだ、と。誰かが計画的に起こしたことだと。
コハルはあのとき、爆破そのもののことを言っているのかと思っていた。だが、これそのものが誰かの仕組んだことなら。
主任が死んだ、と言った勇鈴の声を思い出す。
彼はあんなに怖がっていた。
下層の誰もがそうだった。コハルを無理やり捕まえて、皆で吊し上げなくては、気持ちが落ち着かないほどに。
いつ自分が、大切な誰かが死ぬかもしれないと思って。
あのとき、橋谷たちが来てくれなかったら、自分はどうなっていただろう。
(まず……課長を、助けて……違う……)
コハルが助けに行っても、彼は少しも喜ばないだろう。どころか、怒鳴り飛ばされるところが容易に想像できる。
理由はよく分からないが、そこだけは間違いがない気がした。
コハルのいる通路の明かりが、一瞬途切れた。
橋谷はここが繭になるはずだと言っていたが、まだウイルスは動いている。心なしか、数が増えているように見えた。
再び、どこかがスパークしたのが見えて、警報音が鳴る。
もし、このウイルスを全て電気系統に導くことができれば、事態は収束できるのではないだろうか。確か、電気がありすぎても、なさすぎてもだめだという話になっていた。
警報が鳴ったからだろうか、遠くから人がやってくる。何をどうすればいいのかは分からないが、あちらへ向かうのが正しいようだと彼女は歩き出した。
しばらくして、防衛局の制服を着た一団とすれ違った。彼らは緊迫した様子で言葉を交わしながら走ってきたが、コハルには目もくれない。
その間にも、また明かりが消え、別の場所から警報が鳴り始めた。
徐々に通路に人が増える。
何となく、人がいれば安心だと思っていたが、よく考えてみれば、助けを求めるわけにはいかない。
さらにはそのせいで、これまで静かだった通路は、一気に騒がしくなった。
人がやってくる先を辿ればいい、と思っていたが、角を曲がるうちにますます自分がどこにいるのか分からなくなる。
指示が来ているせいなのか、一定の期間で彼らの端末には一度に通信がくる。そのせいで、コハルの視界は悪かった。眩しすぎて目が痛い。
ウイルスも一気に増えていた。
コハルが見ている前で、壁の向こうに吸い込まれる。その度に明かりが消え、どこかから音が鳴り始める。
もちろん、誰もウイルスの動きなど見てはいなかった。彼らは単にあちこちの電源が落ち、通信が途絶え、警報が鳴っていることに対処しているようだ。
上層であっても、彼らには何も知らされていないのだ。すぐそばを褐色の靄が漂っているのに。下手をすれば、死んでしまうかもしれないのに。
ふと名前を呼ばれた気がして、コハルは立ち止まった。見ると、誰かが小走りで近付いてくるところだった。
しばらく考えてから、それが先ほど槇に怒られて帰された相原だと気がついた。こんなところで何をしているのだろう。
戸惑うコハルに彼はちょうどよかった、と声を潜めながら言った。
「お前も課長のところに行くんだろ」
「え、えっと……相原、さん、は、官舎へ……」
「じゃあ、お前は何してんだよ?」
尖った声で返されて、コハルは一歩身を引いた。
「あ、えっと……」
何かできないかと考えていたのは本当だが、実際のところは迷子である。
「なあ……お前って何まで見えてんの?」
「何……え、ええと……」
「さっき、人とかエッグが来るのを当てただろ。そういうのも見えんの」
ああ、とコハルは皆が何か引きつった顔で自分を見ていたことを思い出した。どうやら、それも普通の人には見えないものらしい。
「えっと……エッグは、通信? をしているので、それが来ると、エッグが来たって分かります。
あ、あと、人も、通信していれば、分かる……」
「通信って、通信?」
相原は自分の腕にある端末を反対の手でコツコツと叩いてみせた。コハルは頷く。
「通信の中身も見えんの?」
「え、中身……?」
コハルに見えているのは、飛び交う光の粒だけだ。そう答えると彼は眉をひそめた。
「そこにいるのが誰かまでは分かんないってこと? あ、通信してないと駄目なのか……」
「ええと……」
「課長がどこにいるか、探せるんじゃないかと思ったんだけど」
かなり真剣に言われて、コハルは押し黙った。そんなふうに使ったことはなかったから分からない。
「えと……誰か……は、……分かります……」
え、と彼は少し仰け反った。が、すぐに顔を引き締める。
「だったら、案内してくれ、一緒に課長を助け出そう」
「でも……そ、そんなこと、しちゃいけない……んじゃ……」
じゃあ何か、と相原は怒りを含んだ声で言った。
「このまま、放っておけって、お前も思うのか?
お前、課長があんとき、下層に行かなかったらどうなってたよ? それでも放っておけんのか?」
でも、とコハルは説明のしようがなくて、ただ手だけを動かした。
「いいか、俺だって分かってる。これは関わっちゃいけないことだ。
けど、課長は……ええと、そう、誤認逮捕だ、課長は何もしてない、そうだろ?」
「で、でも、ですが……ま、まずは、ウイルス……」
「それ、どうしたらいいか分かるのか?」
コハルが押し黙ると、相原は満足げに頷いた。
「そうだろ、俺にもその辺の難……その辺のことは……詳しくない。
補佐は説得できそうにないから、だから、課長に会いに行かないと」
果たしてそうだろうか、とコハルはいよいよもって首を傾げる。しかし、彼はコハルの肩に馴れ馴れしくも手を置いた。
「分かっただろ、そういうわけだ。ほら、お前の目が頼りなんだ」
コハルはどっと疲れて目を覆って息を吐いた。
一番の問題は、正しいか否かではない。
どこかに橋谷がいるのは分かる。見えているものの中から、それを見つけるのが大変なのだ。
「何だよ、どうしたんだよ」
「……待ってください……」
目を開けて、辺りをよく見る。その間にも通信の光が流れて、さらには通路の明かりが点滅する。あちこちに散らばる人の気配が邪魔をする。
「……あっちです」
ようやくコハルが口を開くと、相原は頷いた。
「よし、行こう」
角を曲がって、エッグを乗り継いで、到着した先は静かだった。
先ほどよりも上にあがったせいか、ウイルスの数も少ない。ようやく視界が静かになって、コハルはほっと息をついた。
こんなに目を酷使したのは倉庫作業をして以来だ。
相原は、通路に掲げられているプレートを見て、強張った顔をした。
「ホントにこの先なのか?」
と、困惑した声で尋ねられる。コハルは頷きながら、これまでと同じに通路の先を示した。
「あの奥、なんですが……」
そうか、と何かを吹っ切るように相原が歩き出す。ついて行こうとしたコハルは、その向こうに見えるものに気がついて動きを止めた。
「あ……」
何だよ、と相原が振り返る。
どう説明したものか、コハルは困ってとりあえず彼の制服を引っ張った。
一つ先の角の向こうから松葉が来る。角の先は行き止まりだから、彼はこちらへ曲がってくるか、もしくは奥、橋谷のいる方へ行くだろう。
いずれにしろ、ここで鉢合わせるのはまずい気がする。しかし、周囲に隠れる場所はなかった。
「何だって聞いてんだよ、口で説明しろ」
雰囲気を察してくれたのか、相原は押し殺した声で言った。コハルは、身振りで奥を示した。
「松葉さんが……」
え、と焦った相原は焦ったように辺りを見回した。逃げようにも隠れようにも、松葉はすぐそこまで来ている。
「なんで人が来るって先に言わないんだよ」
そんなこと言われても、困る。橋谷を見つけるように言われたから、彼のことしか見ていなかったのだ。
角の向こうに松葉が現れる。
そのまま向こうへ行ってくれればよかったのに、なぜか彼は通路から出る前に辺りを伺った。いつも堂々としている彼にはそぐわない動きだった。
彼はこちらを向いて、ほんの僅かに顔を強張らせたが、すぐにコハルに気がついたらしい。いつものあの歩き方で彼女の方へと足を向けた。
「白岡さん、こんなところで何をしているの?」
松葉の笑顔も、コハルにかけられた声も、いつもと変わらなかった。思わず頼ってしまいそうになるような。
もし、彼が手に持っているものが見えなかったら、いつものようにそうしていたかもしれない。
彼は、大きな鳥籠のようなものを持っていた。周りには薄い膜が貼られている。中には濃い色の靄が見えた。
ああ、と松葉はコハルの視線に気がついて、にっこり微笑む。
「橋谷に会いに来たんだね……褒められた行為ではないけれど。
君も橋谷のところの子かな? 槇あたりに止められてそうなものだけど。独断か」
最後の一言をつぶやくように言って、松葉は鼻で笑った。
「白岡さんには、もう関わらないようにって言ったはずなんだけどな。でも仕方ないか。見えてしまうものは」
知っていたんですか、という質問は声にはならなかった。コハルは口をぎゅっと引き結んだ。そうしないと、泣き出してしまいそうだった。
泣くのは早いよ、と松葉はなぜか少し楽しげに言って、橋谷がいるらしいボックスの扉を示した。
「最後に会っていかないと」
彼は大股に扉に近づくと、あの長くきれいな指でボックスの入り口を操作した。なぜ、自分の端末を使わないのだろう。
すぐに聞いたことのない音がして、扉が開いた。
松葉はコハルと相原に手招きをしながら中に向かって声をかける。
「やあ、橋谷。久しぶりだね」
ちゃんと続きます

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